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たぶん原書にあたった方がいい。ナチの中心人物の一人、アイヒマンの裁判についての、アレントによる取材報告。
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サブタイトルが全て。
人類史上最悪の犯罪が、チープな脳みそから生じる喜劇の話。
アイヒマンのラストのシーンはうそ寒い。
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ブラジルでイェルサレム当局により強制逮捕されたアイヒマンの裁判をアレントが雑誌(ニューヨーカー)で連載した記事です。
アレントはアイヒマンを見て「根源的な悪という概念が打ち砕かれ、なおも残ったものは「凡庸な悪 banality of evil」」であると述べています。根源的な悪というのはアレントが「全体主義の起源」で想定していた絶対的な悪のことですね。
そして「凡庸な悪」というのは今後アレントの中で念頭に置かれることになります。
「凡庸な悪」というのは、端的に言うと、「知識や教養も備えているのだが、当の人間が判断能力を停止しているため何も考えずに行動に従事する」となります。アイヒマン自身は、カントの格律をもすらすら言えて行動出来ていたものの、繰り返し官僚言語で応答を繰り返すというえらく「凡庸な」態度を露呈しました。
アレントはその一連の過程を見て、このような分析結果を残しました。
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アイヒマン裁判を生で見たい方は映画「スペシャリスト」を御覧になるといいでしょう。この作品はアイヒマン裁判のみならず、その構成はアレントのこの書籍を元にされています。
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ホロコーストの実行者としてアルゼンチンで拘束されイスラエルの首都エルサレムで裁かれたアイヒマン。組織の歯車として命令を忠実に遂行しただけであり、とわれている罪に対し無罪を主張した彼の反論は支持できないのですが、自分がもし歯車に組込まれた場合に、命おしさに同じ言い分をするかもしれない気がして恐ろしものを感じました。
ヒットラーなどの筋金入りの反ユダヤ主義者とは異なり、また老獪さに欠け、ごく平凡な人物であるとこからも、副題にある ”悪の陳腐” が際立つのだとの印象です。
ナチスに支配されたヨーロッパの国々の中でもホロコーストへの対応が異なることは、意外でした。キリスト教圏の一部に在るアンチアンチセミテイズムは、人種論的な反ユダヤ主義に引き継がれ、ナチス占領下のすべての国々でほぼ抵抗なく受け入れたものと勘違いしていたものですから。
逮捕の過程や裁判の位置づけ、ユダヤ人評議員会の位置づけなどは、改めて勉強になりました。(裁判については東京裁判のことを思い出しましたが)いろいろあるにせよ、この裁判の経緯を歴史として受け止めるのかなと感じです。
アイヒマンのホロコーストにおける役割を理解するのに大変参考になりました。
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アイヒマン裁判についての記録です。
アレントは、この裁判について、比較的フラットな視点から記述しています。
アイヒマン(ナツィのユダヤ人問題専門家)は、絶対悪などというものではなく、どこにでもいるような平凡な人間として描かれています。それが、サブタイトルにもある悪の凡庸さということですが、この作品中では、そのテーマについて深く掘り下げているわけではありません。
ただ、アレントは、このあと、このテーマについて考察を深めていくことになります。アレントの思想の転換点にもなった作品です。
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読むのに時間がかかりましたが、それだけの値打ちがありました。「机上の虐殺者」と言われているので、どんな人かと思ったら普通の人でした。職務に忠実な官僚、と言った感じです。
イスラエルは判決確定後、あっと言う間に執行してしまいました。もっとこのような状況に至った経緯を、本人に語らせるべきではなかったのか、と思いました。
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「罪」というものの二つの次元、人類誰でもが犯しうる―とくに近代の官僚制的システムでは―次元と、実際にそれをやってしまった次元をごっちゃにせず、どちらか一方になることもせず裁くことの難しさが書かれています。
それにしても、アイヒマンが他人とは思えません。怖い。
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<真に怖ろしいのは、強固で邪な悪ではなく、「陳腐な」悪である >
原題:Eichmann in Jerusalem A Report on the Banality of Evil
著者・ハンナ・アーレントは、ユダヤ系ドイツ人の思想家・哲学者・活動家である。1906年、ハノーヴァーで生まれた彼女は、マールブルグ大学・ハイデルベルグ大学・フライブルグ大学で学び、「アウグスティヌスにおける愛の概念」というテーマで学位を得ている。1933年にパリに亡命。1940年まで、ユダヤ人少年少女のパレスティナ移住を助ける運動に従事し、1941年、さらにアメリカに亡命。1951年にアメリカ市民権を得て、その後、いくつかの大学の教授を歴任した。1975年、69歳で死去。
本書は、アーレントが1963年にイェルサレムで行われたアイヒマン裁判を取材した報告である。この中で、アーレントは、裁判自体の記録だけでなく、アイヒマンがユダヤ人問題においてどのような役割を果たしたか、さらには、各地のユダヤ人がどのような運命を辿ったかを(アイヒマンの役割に限定せずに)詳細に綿密に記載・考察している。元々はThe New Yorker誌に連載されたもので、加筆・改訂して出版されたのが本書となる。
副題が示唆するように、アイヒマンが小市民的で職務に忠実であっただけだとする論点がよく知られる。アイヒマンは粛々とユダヤ人移送に関わっただけだ。彼は別に極端に残酷だったわけでも愚かであったわけでもない。ただ優秀な官僚として、役目を遂行したに過ぎない。
そうした点ももちろん詳細に述べられているのだが、ホロコーストにおいて、ユダヤ人自身が果たした(あるいは果たしてしまった)役割、またイェルサレムの法廷にアイヒマンを立たせることの「正しさ」にかなりのページが割かれている。
ユダヤ人が仲間の名簿を作り、また実際に手を下す際に協力することなくして、この大規模な殺戮は本当に可能だったのか。
潜伏先のアイヒマンを誘拐してまでイェルサレムに連れてきた行為は許されるのか。
人類が予想だにしていなかったほどの、人道に対する大きな罪を裁ける法廷はいったいどこなのか。
判決が下りてから処刑までが極端に早かったことに、正当な理由はあるのか。
そういった論点を見ていくと、アーレントはアイヒマン自体を糾弾したかったのではなく、もっと広く、悪を止めることのできる正義について考察しているようにも思えてくる。
発表時に非常に物議を醸したという。
1つは、アイヒマンが人を殺したいともユダヤ人が憎いとも思っていなかったという主張から、アイヒマンの罪を軽んじているのではないかという非難。
1つは、ユダヤ人の協力に触れた点。
だが、彼女がここでしようとしているのは、いずれかの立場に寄り掛かり、別の立場にあるものを指して声高に非難することではないように思える。
彼女がユダヤ系でなければこの本は生まれなかったのだろうが、しかし、この本の論点には、もはや出自も関係ないのではないか。
邪悪で強大な悪ならば、糾弾し、闘うことも可能だ(そう、困難ではあるとしても、それに対して拳を振り上げ��ことは可能だ)。
だが、悪が「陳腐」であるならば、「使い古されて」「ありふれた」「月並みな」ものであるならば、どこに対して、何に対して、拳を上げて闘えばよいのか。
忍び寄ってくる悪に呑み込まれない術はあるのか。
エピローグの最後の段落に、震撼し、そして背筋を正す。
アイヒマンがなぜ死刑に処されねばならないのか。架空の判事の口を借り、アーレントは述べる。
ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む(中略)政治を君(*引用者注:アイヒマン)が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。
この本を十全に理解し、咀嚼できたかと問われればいささか心許ないが、1つ一里塚を置き、また戻ってくるしるべとしたい。
*さほど厚い本ではないが、二段組で活字も細かく、ページ数を聞いて思い浮かべるより二倍以上のボリュームがある。引用部分から知れるように、訳も読みやすいという部類ではない。
個人的に、ハンナ・アーレントにはいずれ挑戦しようかと思っていたが、今回、本書を手にしたのは、映画(「ハンナ・アーレント」)が話題になっていたため(映画は未見であるし、見に行くかどうかは決めていないのだが)。
門外漢としては、入門書を先に手にするのが妥当だったかもしれないが、そこはページ数で少々軽く見てしまった、というところだ。
*まったくの余談だが、図書館で借りた本は寄贈本で、寄贈者による多くの書き込み・傍線が記されていた。アーレント、訳者、寄贈者のそれぞれの声を聞きながら読んでいるような、いささか不思議な読書体験だった。
*それにしてもつくづく、この問題は大きい。自分は本当に碌に知らないんだなぁと思わされもする。
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二千年余り国を失つた放浪の時を経て、漸くユダヤによる「国民国家」となる「約束の地」へ「帰還」したイスラエルが、ナツィの元SS中佐であり、RSHA(Reichssicherheitshauptamt=国家公安本部)ⅣB4課長であつたオットー・アードルフ・アイヒマンを然るべき組織の手で、逃亡先の主権国家であるアルゼンチンに於て逮捕・連行し、イェルサレム地方裁判所で十五項からなる起訴理由を以て裁判した、その一部始終の記録と処刑までの報告をしてゐるのが、この本のすべてです。あくまでも報告であつて、それ以上でも以下でもありません。
然れども、その報告内容には、「移住計画」から「最終的解決」へ至るまでの不都合な事実(「ユーデンラート」の存在と遣方)や、ナツィの其れ以前の「ポグローム」までにも著されてをり、「国家」に依る「悪」といふ紋切型の「イメージ」を固定乃至観念化してしまつた「視聴者」からすれば、それはそれは認むべからざる由々しき事態ぢやつたやうです。
もうかうなると冷静且客観的な思考は停止し、著者への罵詈雑言で鬱憤を晴らし、自らの無思慮乃至無見識は、贖罪羔(スケープ・ゴート)へと転換させ、己を誤魔化し現実逃避するのですね。
かういふ一面的で分別の能はぬ頑な人は、いつの世の中にもをられますね。
まさに「ポンテオ・ピラト」の前に群がる衆愚の姿そのものでもあり、さういふヒトビトの中にこそ、この本の副題である悪の陳腐さが見え隠れするを覚えます。
人が人を審くとは何なのか。法とは何か。罪とは何か。悪とは何か。国家・組織とは何か。個人とは何か。責任とは何か。
とまれ何れにあつても、この本では徹頭徹尾に客観的であり、何某から誹謗中傷されやうとも、一切阿る事なく在るが儘を著し尽しています。筆者による「あとがき」は清々しくもあり圧巻。
拡く深く思考させられ、度々唸るくらゐ途轍もなき本です。
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「悪の陳腐さについての報告」と副題が付いているが、著者自身がユダヤ人であるにもかかわらず、些かの感傷的態度もなく、アイヒマン裁判の一部始終を極めて冷徹に「報告」した著作である。
それにしても、ショアーという前代未聞の組織的犯罪が、どうして出来したのかという些細な素朴な疑問がいつまでも頭から離れない。その背景には、特にヨーロッパにおいて長きにわたる反ユダヤ人主義があったということは想像に難くない。
それにしても、なぜ?という疑問は消えない。どうして、人間が人間をかくも組織的に抹殺していくことができたのかという疑問が残るのである。
著者は、その組織的犯罪の素因として、「無思想性」を挙げている。わかりやすいプロパガンダに流されず、自らの思想を鍛え上げることが必要だ。
ナチスドイツによるショアーの悲劇は、これからも形を変えて出現してくる可能性がある。そんな徴候を見逃さない人間でありたい。
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ユダヤ人絶滅を目的としたナチスによるホロコーストの主担い手と目され、潜伏していたアルゼンチンよりイスラエルによって誘拐され裁判にかけられたオットー・アードルフ・アイヒマン元SS中佐に対する、あまりにも有名なハンナ・アーレントの公判レポートである。
最初は極悪人、人非人な悪魔とみられたアイヒマンであったが、被告席に立った彼は、虚言癖があり、話しも下手で、SS(親衛隊)で出世を願いながら挫折し、逃亡先で哀れな生活を送ってきた小人物に過ぎなかった!
ホロコーストにおける彼の立場も、決して指導的な役割ではなく、ユダヤ人大量移送を行う部署の課長に過ぎず、本人は自分では一人もユダヤ人を殺したことはないと言い、移送されたユダヤ人たちの結末は知っていたが、上からの命令に従い移送しただけだと主張するのである。
当初はユダヤ人問題(!)の専門家として、ユダヤ人自身による移住組織を編成させ、彼らとともに強制移住(=追放)そして強制収容にかかわってきたアイヒマンであったが、ヒトラーがユダヤ人問題の「最終解決」(=殺戮)を指示するや、ユダヤ人問題専門家である自分とは関係なく大量虐殺が始まった。本人も「最終解決」には当初は抵抗感を感じたというが、「忠誠こそわが名誉」という親衛隊にあっては悪を識別する能力(=良心)をいとも簡単に放棄させてしまうことになる。しかも、ガス殺は総統の慈悲であるという論理に転化して・・・。
正当な法律に従って選ばれた国家の指導者が、ユダヤ人絶滅を国家の方針とし、これに逆らえないような法律を定めた時、これに反することは可能なのか?犯罪国家のもとでは、命令に反して軍事裁判にて処刑されるか、敗戦の場合は戦犯として処刑されるか、という選択肢しか残されていない中で人はどう行動できるのか?まさにアイヒマンの状況がこれにあたるというのである。
だが、裁判過程で明らかになる数々の聞くもおぞましい状況が確認された上でアーレントはいう。例え戦勝国による裁きやイスラエルによる裁きに正当性や公正さに疑問符が付けられようと、これは「平和に対する罪」や「人道に対する罪」ではなく、「人類に対する罪」であり、いかに酌量の余地があろうとも、人類が今後ともに彼と生きることを許さないだけの行為であったことは明らかであるが故に、これは極刑が相応しいと。そしてそれが、取るに足らない小人物によって成された主体性のない「陳腐な悪」であったとしても。
また、アーレントの冷徹な眼差しは、アイヒマンの裁判を通じて得られたホロコーストに関与したあらゆる人間・組織の様々なレベルの行為にも向けられている。
追放→強制収容→大量虐殺といった段階過程やナチスドイツ帝国の国内事情、さらにはヨーロッパ国々での関与の仕方を曝け出し、そこから彼らの成した罪状の数々をきわめて論理的・網羅的に暴きだしていくのである。
ユダヤ人虐殺に加担したユダヤ人組織、ナチスドイツ下でむしろ積極的に相争うように「最終解決」を推進した各庁の官僚たち、大量虐殺を推進した前線の指揮官たち、ルーマニアなどナチスドイツ以上に積極的だった国、戦争終盤には自らの政治��保身のためヒトラーに逆らい虐殺中止命令を出していたヒムラーSS長官、そして、なおドイツ国内で軽微な刑罰しか受けずにのうのうと公的役職に就いている者などなど・・・。
ユダヤ人追放も含めて、その関与の広さから「ユダヤ人問題」がこれほどヨーロッパに根深いものであったとは驚きであるが、惨たらしさと嫌悪感が充満するこの著述の中で、デンマークやブルガリア、イタリアなど、ナチスの「最終解決」圧力を無視あるいは抵抗した国があったのはわずかな救いと言うほかはない。
さらに本著作で大きな議論となった一つとして、ユダヤ人自身の行動が挙げられる。ユダヤ人自身の支援組織(追放から虐殺まで)、収容施設内での自治管理組織および虐殺およびその隠ぺい工作の担い手として、そして集団移送から収容施設にいたるまで圧倒的大多数はむしろユダヤ人側だったにもかかわらず大きな抵抗が無かったこと(ゲットー心理とか自治組織の存在、ナチスの巧みな隠ぺいや甘言などによるものか)など、本書は不都合な事実も数多く含まれていたため、裁判後のユダヤ社会においても批判の対象になったとのことである。
この著作はアイヒマン裁判のレポートということにしてあるが、あの当時を生きた同じユダヤ人として(最終的にアメリカへ亡命した)、また真実を探求する哲学者として、この裁判の行く末を見届けることで、あの惨禍を単なる過去としてではなく人類への警句として残そうとするアーレントの強い情熱と冷徹な洞察や分析が入り混じった、気迫のこもった著述であったといえるだろう。
やたら挿入文が多いのと、2重否定以上の文章の多用、それにシニカルな表現も多いためか、日本語訳としてはひどく読みずらかったが、アーレントの思考のほとばしりを感じることができて、これはこれで良かったかもしれない。
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この種の犯罪は犯罪的な法律のもとに犯罪的な国家によって行われたのであり、そしてこれ以外行われ得なかったという問題。(本質的な悪とはあり得るのか?)
領土とは一定の土地というよりも、一つの集団に属する個々人の間の空間。そしてそれらの個人相互は、共通の言語、宗教、歴史、慣習、法律に基づく各種の関係によって結ばれていると同時に隔たれて、守られている。一つの集団に属する各個人がその中で互いに関係を結び交渉を持つ空間をそれらの関係自体が作り出す時には、それらの関係は空間的にも明確な形をとる。ユダヤ民族がその幾世紀にもわたる離散の歳月を通して、つまり彼らの古い国土を我がものとする以前から、彼ら自身の固有の羌族空間(in-between space)を生み出し、維持してこなかったとすれば、イスラエルなどは決して存在しなかっただろう。
どこの法律で裁くか?国際法?イスラエル法?イスラエルはイスラエル建国以前にはアインヒマンを裁く法や権威を持っていなかったのに。。犯罪が起こった後に出来上がった法律。そしてアインヒマンが事実上無国籍であったからこそ「解決」がなされた。
追放とジェノサイドは二つとも国際的罪ではあるが、区別されなければならない。前者が隣国の国民に対する罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには<人類>もしくは<人間性>という言葉そのものが意味を失うような<人間の特徴の地位>に関する攻撃。
人種差別ー追放ージェノサイド、の間に明確な区別が必要。
イスラエルにとってこの裁判の持つ特徴は、ここにおいて初めてユダヤ人は自分の民族に対して行われる罪を裁くことができるようになったということ、ここにはじめてユダヤ人は保護や裁きを他者に求めたり、人権などというあてにならない美辞麗句に頼ったりしなくて済むようになった。
例えばイギリス人は自分がイギリス人だとしてその権利を守り、その法律を押し通すが、それだけの力のない民族のみがこの人権なるものを盾にとるのだ、ということをユダヤ人以上によく知っているものはいなかった。
ジェノサイドの特質は全く別の秩序を破壊し、全く別の共同社会を侵害することにある。
hostis generis humani : 新しい形の犯罪。事実上、悪いことをしていると知る、もしくは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味している。
アインヒマン裁判の最大の問題点:悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという近代の法体系に共通する仮説。(悪意というものは実在するのか?)
ほとんどすべての人間が有罪である時に有罪なものは一人もいない。
どんな内外の事情に促されて君が犯罪者になってしまったとしても、君がしたことの現実性と他の人々がしたかもしれぬことの潜在性とのあいだには決定的な相違がある。内的動機や周囲ではなく、君がしたことに興味がある。
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今の世でもひとはアイヒマンになってしまう可能性はあると思う。民族の殲滅に加担することはないだろうが、自分が属する組織を守るためにねつ造や偽装を繰り返し、人の命や財産を毀損させることが一向に後を絶たない現実を見ても、そのことを実証しているだろう。女史は「上からの命令」という事実は、人間の良心の正常な働きをいちじるしく阻害するということを認めるほかないというのが真相なのである、と語っています。人間はどのようにも変わるし、また変えられてしまう恐ろしさを抱えているのだと感じました。
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特集展示作成のため流し読みにて。
(あとがき より)
私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかった或る不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。しかも<悪人になって見せよう>というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。…彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。
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600万人が犠牲になったと言われるナチスユダヤ人虐殺の責任を問われた、輸送部隊の責任者アイヒマン。
アルゼンチンに亡命したところをイスラエルのモサドに誘拐され裁かれた裁判の様子を哲学者のアーレントが考察した一冊。
アイヒマンが、例えば検事が裁判において主張したような獣、つまり絶対的な悪の素質を備えた個人ではなく、ただ卑怯なありふれた一人の小市民であった様子を提起した。
(アーレントはアイヒマンを決して擁護しているわけではないが、同時に、この裁判が「勝利の裁判」であった側面も描かれている。)
正直、わたしも同じ状況に置かれたか何をするのかわからないなあと思った。自分に言い訳なんていくらでもできてしまうもの。アイヒマンが、家族にとっては良い夫で父親だっ
た傍らでユダヤ人を収容所に送り続けたのと同じように。
昨日テレビで吉永春子さんの「魔の731部隊」が追悼放送されていたけど、彼らの返答はアイヒマンの証言にどこか通ずるものがあるな…なんて思ってしまった。
ホロコーストを扱うなら、「夜と霧」と同様読んでおくべき一冊。
「政治においては服従と支持は同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民達とともにこの地球上に生きる事を拒む —あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んでは成らないかを決定する権利を持っているかのように— 政治を君が支持し決定したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願う事は期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されなければならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」