紙の本
つげ氏の苦悩と我等の苦悩
2001/07/25 16:29
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投稿者:江湖之処士 - この投稿者のレビュー一覧を見る
つげ義春氏の作品に、前進、進歩といった現代社会に称揚されている思想への絶対的信頼を見ることはない。つげ氏の作品の中で人物たちは、一種運命に流されるようにして日々を送っている。彼らに、前進、進歩への憧れはあっても、どうしてもその価値観を懐疑してしまう。彼らは全体は、「日々の生活を生きるよりない」という考えをもたされた運命共同体の仲間である。しかし彼ら全体は社会からはみ出した存在に見える。そうした作品を描く作者の旅行記が、名所旧跡を社会に紹介するが如き物になろうはずもない。
たとえばこの旅行記の作者は、「伊豆の踊り子」の一高生、「雪国」の島村の正統的継承者であるといえなくもない。社会との間に懸隔が生じた時に、そこから逃げ出し自分自身を受け入れてくれる土地を探すのでもなく、自分を疎外しつつある社会に猛然と挑みかかるのでもない。自分を前進させようとか進歩させようとは思わないのだ。そうではなくて旅に出て逃げてみながら、心の奥には常に、逃げてきた社会東京を思い浮かべている。この旅行記は自分の内面を旅する本なのである。
したがって作者の旅する土地はたとえば福岡や山梨であったりするのだけれど、それらの土地々々が福岡、山梨であることよりも「東京でないこと」のほうが重要なので、この本の中ではあらゆる土地がその固有の土地の名を捨象されているように感じる。我々はこの本中のつげ氏の旅に立ち会うことで、一人の人間の精神的回復に立ち会うことになるのではないだろうか。私は題名の「貧困」を、読了後、精神的未回復という意味で捉えた。
この旅の記録はいささか古く、今これと同様の旅をしようにもどうにもかなわない。かつての畦道はアスファルトの道路となり、鄙びた旅籠はビジネスホテルになっていることだろう。しかしこの旅があくまで精神的なものであると思えば、我々に追体験の出来ぬはずはない。作者の抱く社会からの疎外感を感じる私は、この本を読みとても勇気付けられた。一人でも多くの人に読んでみてもらいたい本の一冊である。
紙の本
永遠の旅人
2005/05/18 23:26
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投稿者:ヨンゴリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
山奥の寂れた集落や貧しいボロ宿に惹かれるのはなぜだろう?
つげ氏はこう答える。
貧しい宿でせんべい布団に独りくるまっていると、自分が零落したどうしようもなくダメな人間に思えて、言いようのない安心感に包まれる。このような全面的な自己否定は、とりもなおさず自己からの開放であり、絶対的な自由以外のないものでもないと。
しかし氏は、閉ざされた山村の閉塞した生活を受け入れる覚悟が乏しいことは認めている。隠棲的な暮らしに憧憬しつつも、凄惨なほどに貧しい生活に恐れを覚える程度には、通俗的な人間であることを自覚している。
人間はいやでも食べて生きていかねばならない。うら寂れた集落や宿場町を訪ね歩いて感慨に浸るとき、それは生活者の感慨ではなく、あくまでも旅人のそれである。旅人にとっていかに詩的であっても、生活者にとっては極めて散文的なのだ。
そのことを氏が自覚しているのかどうかは、本書に収められた文章からだけではうかがい知れないが、旅という行為そのものが日常からの逸脱であり、それは俗世に縛られた自己からの逸脱でもあることを意識しているあたり、氏には永遠の旅人願望があるのだろう。
日常からの逃避と、生きるための日常。
つげ氏の抱え込んでいる様々な不安の根源は、そのどちらにも腰を据えることを永遠に拒否しているところにあるのかもしれない。
紙の本
風に舞うチリのように
2002/05/24 11:11
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投稿者:白井道也 - この投稿者のレビュー一覧を見る
風に舞うチリのように、つげは放浪する。この舞い方は凄い。
昭和43年初秋、行先は九州。マンガのファンであり何度か文通した看護婦と結婚しようと旅立つ。女性と面識はない。大阪でさすがにためらいながらも九州へ。若い女性と列車で同席し、「この女性に付いて行って彼女と結婚しようかと考えた。相手は誰だっていいのだ。小倉にいる看護婦さんはまだ見たこともない人だが、こっちの彼女はもうだいたい人柄も分かり悪くない感じだ」。
と、終始こんな感じ。どうしようもないぐらい勝手気ままでフラフラしてるけど、このどうしようもない感じがすごく好き。つげの作品を読むと、何かを所有するということがとても虚しく感じるときがある。
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昭和の香り
2019/06/21 14:01
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投稿者:ら君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
商人宿、国民宿舎に泊まる。
観光地化していない土地を訪れる。
静かな語り口です。
名所の温泉旅館に泊まる華やかな旅行記とは違う魅力がありました。
昭和の昔には、そんなひなびた土地もあったのだろうなあ。
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淡々とした良い文章で、ほのぼの。金銭的には「貧困」でも時間的にはとっても「贅沢」!電車に揺られながら読みたい一冊。
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のっけから蒸発話で筆者は九州へファンの女性を頼り現実逃避の旅の始まり。かと思えばそんな話は最初だけで家族や友人を連れ立って鄙びた趣ある宿を泊まり歩くエピソードが主。
旅先で夢想に耽り、ゆく土地で鉱泉宿でも開こうかと現実味のない計画を思いつく。筆者のふわふわした落ち着かない浮遊感が読んでいて心地良い。
今では失われつつある日本の旅情豊かな景色を朴訥とした文章で書いてあるので肩肘張らずに読みやすい。
自分も腰を据えて旅行記モノが読める歳になったかと思うと複雑な思いでもある。
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つげ氏のプライベートや思考の過程,ちょっとした嗜好や趣味に触れるという意味では,漫画より雄弁かもしれない.漫画ほどアナーキーな世界観は押し出していない.写真も多く,気軽に楽しめます.
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できごとやその場の感想を並べていったような淡々とした文体で、行間に意外性があっておもしろい。実際の旅とはそういうものだろう。
「猫町紀行」に書かれてあるような、迷ってみたい感覚、異世界に来てみたい感覚に共感した。
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古い写真を見ると、古い時代に出会いたくなる。
古いことは好い事だ、と、ぼくは今を否定したくなる。
非日常であること、それが快楽だった。
つげ義春の、そのどうしようもない放浪癖。
漫画で見せる特有の世界感は、ダメ男の世界に
いやおうなしに、ぼくを引きずり込んで行く。
ダラダラと、鄙びた物憂げな風景を、意味もでたらめに
カメラ片手いつまでも歩いてゆきたい、と。
彼は鉱泉宿を求める。陰鬱な空気に辟易しながらも
やがて快楽と妄想の世界に飲まれて行く。
振り返れば、それは喜びだった。
そうして彼の作品は作られて行く。
本当の、そして最高のサブカル的リアリズム。
貧困旅行・・・いいなぁ。
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ちょうどインドのラダックを真冬に旅している時に読んでいた本。寒さと貧困さが身に沁みてなかなか読み進まなかったが、ネパールでまったり過ごしていた時に読んだらとても痛快だった。なによりも昭和のしなびた温泉街の写真が貴重だった。原風景は、今やほとんど残ってない。
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数ヶ月ぶりに出会う良本!すごいおもしろい!
マンガ家が書いたエッセイなのに、つげ義春なのに、こんなにおもしろいとは予想できなかった。
殿堂入りです。
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「この本、すっごく面白いですよ…」
とマスター云われて読んでいたのが左の書籍。図らずもつげ義春さんの本のレビューを続けることになってしまった。行きつけの居酒屋のマスターはつげ義春のファンであり、店内の書棚には何冊かつげさんの本が陳列されている。先日はその中から「貧困旅行記」(晶文社刊)なる一冊をお借りして読み終わったところである。
確かに面白い。「蒸発旅日記」という第1章の書き出しでは、九州に旅行したときのことを記しているのだが、一面識も無かった九州の女性と結婚して九州に住み着くつもりであるということが書かれていて、緩くだが驚かされる。嘘か冗談かと思いつつも、つげさんの旅日記の記述には気負うところなど無く淡々と進められていくために、いつの間にか「それもあるかな…」というつげ世界の住人にされてしまうのである。緩い衝撃の後には、ストリップ小屋でのあれこれやら見込み結婚相手の女性との関係やらが綴られていき、結局は日常生活にあっけなく戻ってきてしまう。ただその戻り方は、旅というものを通り過ぎた後だけに、それまでの日常とは異質な世界となって立ちはだかってしまうのだ。
第2章からは、漫画家として名をなし所帯を持った生活者としての旅行記が綴られていくが、前作の「つげ義春とぼく」に示されていた若き頃の旅とは異なり、房総、奥多摩、甲州、箱根、伊豆など、近場の旅行記が中心となっている。妻子という同伴者が居れば無頼の旅を続けるのは不可能ということなのだろう。ただ、いつかは鄙びた鉱泉(温泉ではなく)を買って老後を鉱泉の親父として過ごしたいという願望を胸に、近場の鉱泉宿を訪ね歩く姿はジーンとさせるものがある。彼は今では叶わぬ夢として老後を送っているのかと思うとやるせなくなってくる。
「貧困旅行記」とは云いながらも、鎌倉の骨董屋で6万7000円もする千手観音像を買ったり、1万円以上の名旅館に宿泊したりと、おいらから見ればとても「貧困旅行」には見えねえやと呟きたくなるのは、果たしておいらのひがみなのか。
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つげ義春がわざわざさびれた村のボロい宿に泊る旅を綴った旅行記。
なんとも後ろ向きな性格と勝手な空想がニヤリと楽しい。。
比較的近場が多く,ちょっとだけ実際に行ってみたくなる。
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文章に雰囲気がある。エッセイなのに小説を読んでいるような不思議な感覚。
日常と非日常の境目。虚実の境目。
もしかしたらその境目を辿る違和感がつげ作品の魅力なのかな。
地元の知った土地も登場したので面白く読めた。
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全編、何ともまったりとした侘びしさ。いや、でも暗くはないのだ。
それは著者が、自分で自分を面白がってしまうようなユーモア性を隠し持ち、淡々としながらもどこか魅力的な文章を書くせいなのかもしれない。
知る人ぞ知る山奥の鉱泉で出会う不便で粗末な作りの宿屋や、陰々滅々として絶望的な景色の中にこそ、著者は心の底から幸福感を得るようだ。
大自然を目の前にして、自分自身がケシつぶのようなちっぽけな存在であることを実感する旅。自由とは自分からの自由にほかならない。
つげ義春の旅は、まさに”自分なくしの旅”なのだろう。
また奥さんや子供と一緒に、所謂名所や観光地などにも出かけている。(鎌倉随歩)
中でも、鎌倉の長谷寺で十一面観音に会った時の文章に激しく共感する。
── 薄暗い本堂の正面には、そこだけライトに照らされて、金色に輝く巨大な観音像が立っていた。私は子どもと冗談を云ったりしながらそこへ入っていきなり出会って虚(きょ)を衝(つ)かれ、思わず息をのんだ。その観音像が生身の生きた仏像がそこにいるのかと錯覚を起こしそうになったのだった。ふつう神や仏は目に見えないもので、だからそんなものは存在しないと頭から否定したり、半信半疑だったりするわけだが、そこにある高さ九メートルの見上げるばかりの彫像は、物凄いリアリティで仏の存在をしめしているかのようであった。私は何故かしらうろたえてしまった。 ──
ありがとう。こんな紀行文に出会えて、よかったです。