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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2000.10
- 出版社: 筑摩書房
- サイズ:19cm/221p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-480-80358-0
紙の本
裏ヴァージョン
著者 松浦 理英子 (著)
物語が語られる。それに誰かのコメントが。これはいったい誰と誰のやりとりなのか? 読み進むうちに物語は奇妙な形で現実を映し始め…。【「TRC MARC」の商品解説】
裏ヴァージョン
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著者紹介
松浦 理英子
- 略歴
- 〈松浦理英子〉1958年愛媛県生まれ。青山学院大学文学部仏文科卒業。「親指Pの修業時代」で女流文学賞受賞。他の著書に「葬儀の日」「セバスチャン」、エッセイ集に「優しい去勢のために」などがある。
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紙の本
読書とは戦いなのだ!
2000/11/29 16:32
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:青月にじむ - この投稿者のレビュー一覧を見る
実に7年ぶりの新作。一筋縄でくる訳がないでしょう。
読みはじめでまず驚く。いつもの松浦理英子じゃない!だって、男性が主人公のホラーの短編小説なのだ。拾ってきたオコジョに恩を仇で返される話。想像すると、ちょっと恐い。その後はまた全く違った作風の短編が続き、はて、一体これはどうしたことだろうと読者は悩む。唯一の手がかかりである作品ごとに添えられているコメントは、かなり痛烈だ。そんな「?」が最大限に膨らんだときに、質問状という形で二人の応酬があり、この、小説の書き手と評者の関係が明かされる。なーるほど、この中の短編というのは、劇中劇みたいなものね。
40になる独身の女性同士。評者は、かつて売れない小説家であった高校時代の親友を居候させてる訳だ。家賃代わりに毎月の小説。それは、フロッピーに入れられ、二人の間を行き来する。フロッピーを介しての友情という訳だ。この、必ずモノを介して接触するというのがもどかしく、そして絶妙の効果をあげている。
と、そこで分かった気になるなかれ。この二人の会話(?)の中で、評者は作品は勿論だがその執筆者にまでケチをつけ始める。親友という間柄と居候という立場の弱さからかそれをのらりくらりとかわすのだけれど、我慢にも限界がある。今までは、媒体を介してのタイムラグを持ったコンタクトだったのが、ある日、直接対決になるのだ!
さて、その後どうなるのか。スリリングな友情の鞘当て(こんな表現があるのか?)とお互いの隠れた胸の内を想像しながら楽しみたいものだ。
勿論、俎上に上がるのは作品であり、その作品ひとつひとつも「習作、実験小説」の形を借りながらも、完成度の高い、独立した作品になっている。何重にも仕掛けられた物語の構造を見るだけでも十分に楽しめる。作品についても二人の関係についてもそこに書かれているだけのことから想像せざるを得ず(でも、女同士の友情ってこんなんだよなー、なんて甘酸っぱい気持ちになっちゃう)、それだけの懐を持つだけに、見方により、色々な解釈ができるのだ。読者の反応さえもが作品のスパイスになる。さながら、万華鏡のように、その姿をくるくると姿を変え、気がつくと読者はその筒の中へ取り込まれてしまっているのだ。
読後は、作者にもてあそばされてしまった自分に気付きいて非常に悔しくなるが、同時に完敗した、というすっきり感もある。よし、次はどう来るんだ、受けて立ってやる、と戦闘意欲を掻き立てられる、見事な一冊だった。また私たちをやきもきさせるのだろうけれど。
ああ、連載で読みたかったよ!彼らはどれだけ翻弄されたことだろうか。羨ましくてならない。
紙の本
裏の裏は、やっぱり裏
2001/08/19 00:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:松谷嘉平 - この投稿者のレビュー一覧を見る
こういう小説は、自分では語りにくいのです。ということで、だいぶ前に読み終わっていた友人、naubooクンに助けを求めました。以前もらっていたメールをそのまま使ってしまいます。
私がここに書いている読書感想を自分のサイトで無断で使っているので、みかえりに。まあ本を貸してもらったりしてるんだけど。
-------
naubooです。
松浦理英子の『裏ヴァージョン』は、まだ読んでないみたいだね。
長篇?、それとも連作短編集…何とも形容しにくい作品なんだけど、冒頭から短編と、それに対する読者の寸評が続く形式で進んでいく、最初の一編はホラー・タッチなんてところは、ぼく(そして恐らくは君)のような以前からの読者は、ちょっと吃驚しながらも、続く数編ではレズビアニズムやSMが取り上げられるようになると「いかにも」という感じになってくるんだ、と言っても、これまた舞台がUSAだっていうのは、ちょっと「裏芸」と言えば、そうかな。
裏芸、裏ビデオ、『裏窓』(ピーピングの話だね)などなど、「裏」というと、ちょっと隠微な感じがするけども、本作には、そういうところはなくて、やっぱり松浦って作家は、性を主題に取り上げても、そういう扇情的なことは意図しない、「上品」な作家なんだな、などと印象を新たにする一方で、けれども、やっぱり「裏ヴァージョン」なんだ。
しかも「表のない裏」、裏声が西欧音楽的な歌唱法では、全くの「表芸」であるあるように…なんて例えで納得してくれるかい?——そういうば裏声の反対は「オモテ声」じゃなくて、「地声」だね——、違う言い方をすれば、上下とか、二項対立っていうのは、どちらかを基準にして他方を上または下というわけだけど、その時には、必ず第三項というのが仮定されている、対して「裏表」というのは、ウラとオモテそれぞれだけで、もっと曖昧なんだ、つまり直ぐに引っくり返ってしまう、ってこと、これは作中にあるように、「虚実、皮膜の間」というのと同じだね。
でも虚構は虚構なんだよ、と言うか、「書かれているもの」は全て虚構なんだな、「語ることは騙ること」、なんて駄洒落みたいだけど、本来的に「全てを語ることはできない」んだから、この小説でも途中から「書き手」が自分を「挫折した作家」と認めるようになって、私小説めいてくるんだけれども、私小説も、やっぱりフィクションなんだ、読者が登場人物の「私」を作家だと思っても(そう思うように書かれていても)、それは作者そのものではないし。
とにもかくにも、小説と言うのは「表のない裏」だってことで、本作が「裏」だとすると、『ナチュラル・ウーマン』の裏ってことかな、肉体的な関係を持たない作中の「書き手」と「読み手」は、過去の作品の中の二人の女性の「裏ヴァージョン」、でも、この場合、「裏の裏」は表じゃなくて、やっぱり裏なんだ。
別タイトルをつければ『君の友だちYou've Got A Friend』、という感じかな。
nauboo
PS.断りなしに、ぼくのメールでの読書感想をbk1に投稿してるだろう。一応、親しきなかにも礼儀あり、だと思うぞ。
まあ、君から貸してもらった本ばかりだけど。
紙の本
労働と性と創作
2002/07/03 05:07
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あおい - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕が個人的に面白いと前から思っているのは、松浦氏がつねに作品においてフィクションを労働にすることにこだわっていることである。『ナチュラル・ウーマン』では「漫画」がそうで、『親指P』ではフリークスの見せ物小屋、『葬儀の日』とか「泣き屋」とかも一種のパフォーマンスだからフィクションの延長だし、この小説も、小説を家賃代わりにするというのが物語を支える推進力になっている。
労働と性と創作という三つの概念がつねに関係し小説が展開すること。
おそらく枠組みや関係がとても観念的であるにもかかわらず彼女の作品がリアリティー、あるいはアクチュアリティーを失わない要因になっているのだと思う。金が媒介しないような関係はない、というか、そもそも金銭と言語の構造的な類似性に松浦氏はとても敏感なのだ。
「わたしは**です」とう私自身の<わたし>に関する認識は、いわば売り手の言い値だ。それに対して、他人が「あなたは**よね」というのは、買い手の反応であるといえる。あるいは、「そういうことで売ってくれ」というアプローチとも。
しかし実際の売買行為は、貨幣(言葉)の信用制度に基づいてはいるものの、本当に「売られるとき(=買われるとき)」には、ある絶対的な飛躍がある。労働者は労働力を売るのだ、というのが近代経済学の考えだが、実はこれはかなり奇妙で、本当は、ある一定の時間だけ相手を拘束する権利を買っているのに過ぎない。その時間内にどれだけ働くかを一般的に規定できないのだから、労働力は実は売買の対象となるようなモノに対する<所有>の観念から考えると非常に不条理な商品であり、そして、それは愛についても同じことが云えるのだ。しかも、いくら論理的に危うく、不条理であっても、商取引はつねにそこかしこで成立し、愛は成就する。そして一旦成立した<取引>は、起源のいかがわしさを、忘却させるような装置、すなわち「貨幣(=言葉)」によって、次の交換への欲動を誘う。そこで、「愛しているといってくれ」「必要だといってくれ」と無限に続く神経症的な世界があらわれてくる。
これはひとつの地獄なのだ。なんせキリがないわけだから。
最近流行っている作家なんかだと、そういう煉獄をアイロニーに逃げて解消してしまうことが多い。「どうせ世界はこんなもの」というか、「地球の長い歴史に較べれば私の悩みなんてちっぽけなものだ」とか「いまわたしがこう思っているその実感は私にとっては真実なの」とかそういう寝言みたいな幼児退行というか問題のすり替えが、安易に行われていて、松浦理英子は、関係の一番ヘヴィーなところで立ち止まって根底的に考える、がんばるやりかたみたいなものを模索しているように見える。そしてそのための武器が「快楽」なのだと思う。だから彼女の小説に出てくる身体にまつろう快楽は、単に性的なことだけにとどまらず一杯のコップの水を飲むことですら、どこか危うくて、瑞々しい細部になっているのだ。
紙の本
女二人の不思議な小説のやりとり
2001/06/24 22:29
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る
スティーブン・キングまがいの短編ホラーから物語は始まる。変わっているのは、その短編の後に辛辣な評が付いていること。その後も短編は続き、評はどんどん辛辣になっていく。
評を付けているのが<家主>で、短編小説を書いているのがその家の一間を借りている<居候>ということがだんだん分かってくる。<居候>は家賃代わりに20枚の短編小説を毎月書いているのだ。2人の女性は高校時代の友人同士で、今はお互い40代で独身である。小説のやりとりはフロッピーディスクで行われ、2人は同じ一軒家に住みながら、なぜかほとんど顔を合わさない。
後半の短編は<居候>の私小説風になってきて、高校時代からの2人の関係がだんだん明らかになってくる。但し、その小説を本当にその<居候>が書いているのかが怪しくなってきて、“メタ小説”の様相を帯びてくる。
途中に入ってくる<家主>の質問状や<居候>の詰問状も面白い。ラストにもう少しヒネリが欲しかった気もするが、なかなか面白く読めた。
紙の本
著者はなぜかくも込み入った構成を設えたのか、そしてその「企み」が成功しているとなぜ私は思うのか
2000/12/29 21:53
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
読み始めたら止められなくなった。ソレルスの『黄金の百合』を思わせる作品の趣向、というか仕掛けについては、いくつかの書評を読んで承知していたので、いきなり「ステーヴン・キングまがいのホラー」や「アメリカのレスビアンSMを描いた」短編群に接してもうろたえなかったのだが、家主の磯子こと鈴子(読者)の「質問状」と居候の昌子(作者)の応答を屈折点として「ホモセクシャル・ファンタジーを愛する日本の女」たちの物語、そして「詰問状」と「果たし状」をはさんで「本格的な私小説、さもなきゃ自伝小説」やら実録議論(喧嘩)小説と、読者と作者が変形されたかたちで登場する連作風の短編群が変幻自在に繰り出される後半部を読み進めていくうち、語りのうまさに舌を巻きながらも、なぜ著者はかくも込み入った構成を設えなければこの作品を仕上げることができなかったのか、そしてその構成、というより構造がどうして成功していると私は思うのか、そのあたりのことが気になって仕方がなかった。
ただ一人の読み手との小説契約にもとづいて書かれた物語群とそれをめぐる作者と読者(批評家)の交わり(時として役割交代)が同じ空間のうちに繰り込まれたメタフィクション、そしてフィクションとメタフィクションを区画する関係の枠組みそのものに言及し変換しつつそこに不変の構造を痕跡のように残していく、そのような複雑な組み立てをもってしてはじめて「性」をめぐる語りの場が設えられていく。いまのところ私はまだ、そんな借り物の言葉を使った生硬で難解な言い方しかできない。《ここにいるわれわれはすでに空に書かれたテクストの中にいる。かれ[作者]がもはや書かなくてもいいところ。》——この第十四話の冒頭に引用されたウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』(山形浩生訳)からの一文がヒントになるのだろうが、それもまた作者の仕掛けた罠なのかもしれない。
第2話に出てくるマグノリアが、「一般的な夫とか恋人よりもずっと近しい存在」で「何ていったらいいのかずっとわからなかった」エディ——十六歳のときマグノリアの母親殺しの計画を一緒に立てた(その計画は後に実現する)——のことを「共犯者」と呼んでいた。もしかしたら、この共犯者という言葉が鍵なのかもしれない。
二人で一人だった藤子不二夫やドゥルーズ/ガタリのこと、あるいは『トマスによる福音書』(荒井献訳)に出てくる次の記述を想起せよ。「あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、…一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、[天国に]入るであろう。」
そして、ドゥルーズ『ミシェル・トゥルニエと他者なき世界』(丹生谷貴志訳)のいくつかの断片。「倒錯者において性差が無効なものとなり、分身からなる両性具有的世界が形成される、そのプロセスを重視すること。」「サディストは他者を犠牲者あるいは共犯者として捉えるのであって、またそれ故に犠牲者も共犯者も他者として理解されはせず、常にその逆、〈他者〉とは別の《他者》として捉えられている。」「分身─犠牲、あるいは共犯者─分身、共犯者─元素」等々(こんな借り物の言葉ばかり収集せずとも、とにかく『裏ヴァージョン』は読み物としてとても面白かったのだからそれでいいじゃないかとも思う。でもやはり、どうしてこんなに面白かったのだろうと考えてしまう)。
紙の本
良い感じになってくると著者が手を下し制裁を加えてくる。読者であることを拒絶され、それでも読みたい小説
2000/12/26 21:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:片岡直子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説がうまく運ぶということを拒絶している。
読者がはまってくると、それを足蹴にして、書き手自らが読者に対して制裁を加えてくる。読者であることを拒絶される。でも好きだから読む。
河出文庫『セバスチャン』の対談の中に、「難しいことをやって失敗したいんです」という言葉があって、書く内容だけではなく、小説の成果としても、滅んでゆく方向を選ぶのが、心底松浦さんらしいのかもと思ったりする。
彼女の小説を読んでいると、登場人物たちと同じように、読者の私の言動までが、つっけんどんになり、歪む。悪戯に歪んでばかりの魅力の無い人物が描かれていたら、そんな風にはならない。ただ本を放り投げてしまうだけだ。何故か、ひきこまれる魅力的な人たちが、性格や身体の歪みもそのままに、踊るので、安心して身をまかせてしまう。
『優しい去勢のために』の最初のページに、「久々どーしてるの?」と書いてある。発行されてすぐ購入して読み、4年後に書棚から取り出して、書き込んだ鉛筆書き。読者は、そんな風に、好きな作家に、一方的に話しかけながら読んでいる。
初期の小説作品は、時代より随分早すぎて、きっと、沢山の読者が追いつけずにいた。
『ポケット・フェィッシュ』の「Aの至福」にしても、Pさえも便の代用物という凄さ。
本作もまた、屈折しているけれど、歪みが魅力的で、すいすい読める。そうして読んでいるうちに、いつものようにこちらに、屈折が感染してくる。気持ち良いのに「悪い」曲がり方。
けれど、本書のポイントは、読者の不快の快楽を頂点に、いかせまいとする書き手の制裁の、あるいは抑止の、あるいは足蹴の力かもしれない。
擦過傷のもつ熱。つきあげられるいらだち。「シリアスな」感じ。こもる熱。
第5章の、グラディスとトリスティーンのレズビアンのSMシーンなんか本当に感動してしまうし、17章の鈴子と「わたし」の「むしろ、わたしたちの間には何かが起こらなかったのではないか、と問うべきだろうか」なども、物凄くうならせるのだけれど、それで、もっと入っていこうとすると、小説は打ち切られ、読者だった私は読者じゃなかったことにされ、握り拳と共に置き去りにされる。その憤激やるかたない快感。
本が柔らかくて気持ちいい。しわしわに折り曲げて読んだ。
「ジュンタカ」って名前に、私もどこかで出会ったことがある。
男の子のあだ名だったかは忘れたけれど。
ミルキィ・イソベさんの装丁にも心ひかれる。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人・エッセイスト 2000.12.27)