紙の本
本物の自由と深い人間理解
2004/03/16 21:36
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投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
荘子は、紀元前4世紀の人物である。今から2300年前の思想。しかし、その思想は現代でも充分に通用する人類普遍のテーマである。という事は、人間、本質的には、あまり進歩していないのではないか? いや、疑問符ではなく、私は確実にそう思った。科学技術の進歩は目覚しい。しかし、「生きる」という意味において、人類の進歩は、寂しいものがある。
荘子の掲げるテーマは、本物の「自由」である。その為には、何をどう為し、どう考えるべきか? 本書は、それを分かり易く解説していた。本書の根幹を為す言葉「ながき生命を善しとし、短き生命を善しとする。愚かなる己を善しとし、醜き己を善しとし、貧しき己を善しとし、病多き己を善しとする。自己に与えられた一切の必然を「善し」として肯定する者は、一切に対して囚われることのない自己をもつ。一切に対して囚われることのないのが至人の自由である。至人はただ与えられた自己の現在を自己の現在として生きていく」。
本書は序説から人間の本質を突く。すなわち、人間とは、死地に追いこまれると、蒼ざめた恐怖の中で生命さえ助かればと思う。飢餓に苦しめられると、無気力な喘ぎの中で食物さえ得られたらと思う。生命の安全がいちおう保障され、三度の食事に事欠かなくなると、衣食の豊かさに心ひかれ、衣食の豊かさがある程度あたえられると富や名声が、さらには権勢や長寿が欲しくなる。すなわち、人間とは欲望そのものなのである。「生きる」という事をその欲望を満足させる事と理解したとたん、「幸福」はその人から遠のいてしまう。欲望を満たす事を追うのでは無く、今置かれた自分の立場に満足し、自分にあるものを最大限に伸ばそうと努力する人、そういう人には、「幸福」は、自ずと近づいて来る。
荘子は、神を否定するが、ニーチェの「神は死んだ」とは、違った立場を取る。荘子は、「君たちは神は死んだと騒ぎたてるけれども、我々は初めから神を持たなかった。もし人間の孤独が神の死を意味するならば、我々は初めから孤独であり、絶望が神の存在しないことを意味するならば、我々は初めから絶望の中におかれている。」という立場を取る。ニヒリズムと呼ばれるニーチェよりも進んだニヒリズムを持っている。私は、神の実在を確信し、荘子の立場は取らない。そこは、荘子と立場を異する。
次の言葉も深い人間理解である。「たしかに人間の心ほど不可解なものはない。強いといえばこれほど強いものはなく、弱いといえばこれほど弱いものはない。温かいといえばこれほど温かいものはなく、冷たいといえばこれほど冷たいものはない。しかも強さと弱さが定めなく入れ替わり、温かさと冷たさが気まぐれに変化する。それは神のごとき慈愛に微笑むかと見れば悪魔の如き残忍さに狂いたち、天空の高みに飛翔するかとみれば地底の深みに沈淪する。正しく、私の体験そのものである。人間とは、摩訶不思議な生物である。
「愛」についても述べる。「人が愛するという意識をもつとき、そこでもはや愛の純粋性は失われている。真に相愛するもの同士は愛しているという意識さえもたないのである。愛するもの同士の愛情に不安が影を落とし、破綻が未来を脅かすとき、人は愛を強く意識する。愛とは愛の喪失に対する防衛の意識であるといえよう。」熟練の夫婦がお互いを空気のように感じる事があるという。本物の愛とはそういうものを言うのであろう。
まだまだ本書にはdog earを付けた箇所が沢山あるが、この辺で止めておく。本書は、昼休みを利用して読破したものだが、深い人間理解と自由理解を与えてくれた良書と言える。
紙の本
福永氏の一つの荘子像
2002/07/30 06:50
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投稿者:影山 師史 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書からは戦争を経験した福永氏のその体験を踏まえた荘子の深い読みを伺うことができる。その中では、荘子はどうしようもない戦国の世の過酷な現実を見据え、それを乗り越えようと考えた一人の実存主義者として、その時代の背景事情などを考慮に入れながら、見事に一つの荘子像を描き出している。その荘子像はただ、『荘子』を読むだけでは見られないような独特な現実感をもって私たちの眼前に現れる。そして、彼は現代社会にある種の閉塞感を抱いている私達に真実在の世界を見せてくれる案内人になるかも知れない。
紙の本
中国古典哲学
2018/07/08 06:26
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投稿者:七無齋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
無為の世界をわかりやすく解説した本。荘子の実像にも迫る。実態は分からないことだらけだがその意図するエッセンスは理解が進む。
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中国古代の思想家として知られる荘子の思想を「実存」の観点から解き明かした本。
荘子は春秋戦国時代の政治闘争が人を狂わせることを激しく認識していた。生者の世界は絶望、不自由、侵略、飢餓に満ちているのだ、と。彼の哲学はそんな悲惨な時代に「それでも生きていかなければならない」ということを前提に成り立っている。
だから、孔子など儒家とは異なり、相手が凡愚、小人であっても彼らが有意義に生きることを肯定し、人間のありのままを捉えようとした。
そんな彼が理想としたのは「真人」、「至人」という存在。何ものにも囚われない知恵は「真知」であり、それを会得した人間のこと。
自分が、相手がどうであれ現状をありのままの形で受け止めて確信を持つ。他人と共にありながらも、他人に流されず、一切を受け容れる。まさにニーチェの「超人」思想の先駆けと言える思想である。
他にも、
・道徳は人間存在の実存に立脚し、機微を洞察していかなければ形骸化し、偽りとごまかしを強要するようになる。
・「世俗の人はみな己に同じきを喜び、人の己に異なるを悪(にく)む」=世間の人は、人と同じであることを喜んで、違うことを嫌う。だからこそ異なる者同士の対立と闘争がやまない。
・「兵を偃(や)めんとするは、兵を造(おこ)すの本(もと)なり」=戦争否定の議論は裏返された戦争肯定である。こういう「好戦的な平和主義」という矛盾した思想が生まれるのは、結局妄想である。
ここまで世界と、人間と真摯に向き合った思想家も史上稀有ではないだろうか。このような素晴らしい、一生をかけて体現したい思想に出会えたことに感謝する。
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ヘーゲルが自由なき生活と決めつけた古代中国の専制支配のまっただ中に生きて、泥まみれの現実と苦闘しながら、自由なき生活の中の自由、不自由の自由を必死に追求したところに荘子の自由の独自性があるのである。
自由とは荘子にとって、それぞれの自己がそれぞれの自己として、それぞれの自己の直面する極限状態の中で、なおかつ生きてゆくことであった。古代アジア的専制支配下の最も不自由な歴史的現実、人間の現実的な在り方の極限状況の中から追及された自由であるところに、荘子の哲学の特異性が考えられるのである。
「わたしの哲学が実存主義であろうとなかろうと、それはわたしの知ったことではない。実存主義であるというのであれば、それもまた結構だ。実存主義でないというのであれば、それもまた結構である。要するに、それは大した問題ではなく、問題であるのは、このわたし自身が生きるということである」
どこかが狂っているのだ、と彼は考える。そして、何が彼らを狂わしたのか、とひそかに自問してみる。要するに、彼らが権力の世界に身を置いたからではないか。権力が彼らの血を狂いたたせ、彼らの行為を凶暴化し、彼らを救いようのない惑溺の中で破滅させたのだ、と彼は自答する。
正義を求めることに情熱的であり急進的である人間ほど、正義に対して背を向けやすく、それを無造作にふみにじりやすい
なるほど、人間は第三者的な立場に立つばあいは理性的にふるまいうる。あるいは傍観的な一般者として発言するばあいにはきわめて理性的である。しかし、自己がその渦中におかれ、己れ自身が決断を迫られるばあいには、人間は必ずしも理性的ではない。理性的でないばかりか、しばしば恐れとためらいとに心ひるみ、無暴と短気とに思慮を失う。差恥と悔恨とがそのあとにつづき、自責と自己嫌悪とが理性へのあこがれを嘲笑する。
自分が優等生だからといって現実の人間をみな自分と同じ秀才に仕立てようとするのであれば、それは聡明なるがゆえの無知というものである。彼には鈍才凡愚の世界がよく分かっていないのではないかと荘子は疑いたくなる。
それは人間の幸福が何であるかという問題とも関連する。人生の幸福を富貴に求める者は心安らかな貧窮者を軽蔑する。しかし、人生の幸福を満ち足りた精神の喜びに求める者は心おちつかぬ富者貴者を憐れに思う。問題は何を自己の人生の究極的な幸福とするかである。
己れ独りを善しとして己れを他と区別することのみ汲々とし、他人の立場を公平に理解する謙虚さ、他人の主張に己れを虚しくして耳を傾ける寛容さなど少しも持ちあわせない。そのくせ、己れの意見に逆らうものは不倶戴天の仇敵視し、己れの主張に同調するものは百年の知己よばわりする。
彼らは何か事あれかしと待ち構え、無理にでも仕事をでっちあげ、刹那的な刺激と目さきの変化と露骨な自己の誇示とを求めて、たえず他人を気にし、あくせくと世間を追いかけている。
彼らは己れの小ささを恥じるかわりにすべての偉大なるものをせせら笑い、己れの陋さを反省するかわりに高く天翔けるものをけなしつける。あたかも灌���雑草の間に低迷する蜩や学鳩が、九万里の上空に図南の翼を張る大鵬の雄姿をあざ笑うように。彼らは地上をいざりながら、弱々しいつぶやきを遥かなる大空のかなたに向かってなげかける。
今という時間を精一杯生きることこそが己れが生きることのすべてであり、これを離れて個物(人間)の真実なる生き方が別個にあるのではない。
およそ真の勇気をもつもの、真に偉大なる力をもつものは、むやみに凄んだり、無理に虚勢を張ったりすることがない。
人間は一瞬一瞬に断絶の深淵の上をふまえながら、その断絶を一つの連続として自己の一生を生きてゆく。絶えず死の前に立たされているのが人間の生である。
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ここに書かれていることは、
すごく親近感が湧くことでしょう。
古代に、このような思想を持ち、
混乱の世を嘆くものがいるとは…
特に出てくる内容、
古代だろうが、現代だろうが、
問題の根本はぜんぜん変わらないものですね。
言っていることは簡単で「流されない」ということ。
だけれども、流されやすいのも
また人間であるということ。
もしも、本当に平和を望むのならば
人を思いやる気持ちがなければ
けっしてありえないということ。
特に「流されない」部分は
ああ、と思いましたね。
なんと自分もそうですが、そういうことが多きことか。
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20150514読了せず
今月の「100分de名著」に荘子が取り上げられており、なかなかおもしろいので借りてみた。が、詳しすぎて飽きた。もっとライトなもののほうが取っ掛かりとしてはありがたい。素直に「100分~」のテキストを買うか・・・玄侑宗久さんの荘子に関する書籍を探すか・・・。
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福永光司さんの『荘子』読了。荘子を想う著者の熱量を感じる著作。同著者の朝日新聞社の中国古典選の『老子』・『荘子』を読みたくなった。
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最近は、自分の内面を批評的な目で見て、勝手に傷つくことの多い日々でした。そんな中、精神科医にこちらの本を紹介して頂きました。
欧米の思想家の机上の哲学とは違い、荘子の思想・哲学は具体的で実践的であるため、大変取り入れやすく感じます。
人間は非合理的な存在であるため、合理的・分析的な思考は人間の精神を抉ると述べられています。
人間は渾沌な存在で定まった形をとらないことを認めると、自分自身を人の目や規範に合わせた形に成型する必要はないと改めて感じ、救われました。
生命なき秩序より、生命ある無秩序を愛していきたい。
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あとがきを読んで、荘子よりも作者の人となりに興味が湧いた。
荘子の哲学は面白いし、共感したり、なるほどと膝をうつところも少なくないが、ぶっちゃけ現実的ではない。宮本武蔵に似たようなぶっとんだところがあると思う、ある意味で。
この直前に加地伸行の儒教の本(やはり中公新書)も読んだが、二人の著者の性格が真逆すぎておもしろかった(書籍の質としては荘子がよかった)。
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荘子の思想の解説書です。
「あとがき」には、「私としてはただ現在の私が理解する私の『荘子』を、私なりの表現で説明する以外にいかなる方法もなかった」と述べているように、『荘子』のテクストの内容を読み解き、著者自身の観点からその内容についてわかりやすい解説がなされています。
従来の解釈では、『荘子』の「内篇」が比較的古い部分であり、荘子そのひとのほんらいの思想に近いとみなされてきたと著者は説明し、そうした理解を基本的には正しいものとして受け入れつつも、「最近の私はむしろ内・外・雑篇の形式的な区別を重視することよりも、その枠をはずした全体の中で荘子的な哲学の本質のようなものを選択してゆくことにより大きな関心を抱いている」と述べています。本書はそうした観点から、荘子の思想のもつ意義について考察が展開されています。
このような議論を展開するにあたって著者が設定したのが、荘子の思想を「古代中国の実存主義」とみなすという視点です。すなわち、「万物斉同」という立場から、この世の人間がとらわれているあらゆるしがらみを放擲し、人間の自由を追求する思想として、荘子を解釈するという試みがなされています。