紙の本
本読みの轍
2005/06/28 00:03
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Tabby - この投稿者のレビュー一覧を見る
この書評はいったいどこに向かっているのだろう、須賀敦子の書評の冒頭を読むと
そういう感覚に襲われてしまう。(という書き出しそのものが須賀敦子の書評の特徴!)
イタリア滞在時の話であったり、はたまた戦時中の話であったり、
ごくごく身近な話題から書評が始まってゆくことが非常に多い。
だから、触れられる書物も彼女のエッセイの「つま」でしかないのかといぶかしく
思いたくもなる。本の話をするつもりでいて、実は「自分語り」が目的なのではないかと。
が、そんな思いはものの見事に裏切られてしまう。
読み進むにつれて、文章はなめらかな曲線を描きながら
題目の書物との距離をしだいに詰めていく。
その距離の詰め方にこそ、須賀敦子と書物の関係が如実に表れているのだ。
過去に一度読んだもののその真価がやっと分かった本、
最近読んだ本と関係が深いから手にとって見た本、
その作者に取りつかれて読み続けずにはいられない本、
大切な人を思い起こさせる本、
などなど、本はそれ自身として決して存在してはいない。
何者・何者かとの関係によってしか規定されえないものなのだ。
そういう、須賀敦子の読書の軌跡を『本に読まれて』に「読まれる」ことによって
味わうことができる。
本は「読む」のではなく「読まれる」もの。
すなわち、本は一見主体的に読んでいるようでいて、実のところ、
現在の自分の精神状態や周りの環境によって必然的に選ばれている、
それが「読まれる」の意味にはこめられているのかもしれない。
自らの人生を豊かにしてくれる本に、しかるべき時に出会うことにこそ
読書の真の悦びがあるのだと。
志なかばにしてこの世を去った須賀敦子の軌跡を大切にしながら、
ここに語られた本に一つずつ丁寧に「読まれて」いきたいと思う。
紙の本
須賀敦子氏による本をこよなく愛したが故に最後に書かれた読書日記です!
2020/11/05 09:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』、『ヴェネツィアの宿』、『トリエステの坂道』、『ユルスナールの靴』などのイタリアを描いた著作で知られるイタリア文学者であり、随筆家の須賀敦子氏の作品です。同書で著者は、「言葉がほとんど絵画のような種類の慰めを持ってきてくれる、画家がくれるような休息を書物からもらうことがある」と書かれており、本をこよなく愛した著者が、最後に遺した読書日記でもあります。バロウズ氏、タブッキ氏、ブローデル氏、ヴェイユ氏、池沢夏樹氏など読む歓びを教えてくれる極上の本とめぐりあえる一冊です。
紙の本
女学生の瑞々しさで
2002/07/17 05:03
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ダーナ - この投稿者のレビュー一覧を見る
識者評にもある日経新聞の書評を読み、その「芸」がどんなものか、ぜひとも手にとってみたくなった。翻訳のされ方、という点についても著者のことばは随所に独特の光を放ち、本と本にかかわるものごと、人のすべてにたいする愛情、愛着、熱情が伝わってくる。カバー裏に印刷された顔写真は、銀髪を頂いた知性と寛容を感じさせる女性なのだが、そのことばはまるで一昔前の「女学生」のよう。一途さと素直な感動と表現することへの情熱で、美しい鈴を鳴らすようにつねに震えている。わたしなぞは、大島弓子世界の少女たち、また晩年の著作からも同様の瑞々しさを感じさせる神谷美恵子を思い起こす。
著者の心を動かす作家たちへ、その賛辞は惜しみなく、特に繰り返しあがめられる池澤夏樹については、一日本人として必ず読まなければ、という気にさせられる。
それぞれの本に寄り添うように、ページをめくる著者の指先のあたたかさが感じられる文章に満ちている。情感あふれる書評を読みたい方に、ぜひおすすめしたい。
紙の本
2002/01/27朝刊
2002/01/31 18:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る
翻訳家、エッセイストとして知られ、九八年に亡くなった著者による書評集。デュラス、タブッキといった海外文学から、歴史書、さらにダンテや世阿弥などの古典まで取り上げる対象は幅広い。読書から得る「世界はいつも、じぶんの知らないところでつながっているようだ」といった実感は、長く欧州に暮らした人だけに説得力に富む。書評の名を借りた鋭敏な時評は、芸の域に達している。
(C) 日本経済新聞社 1997-2001
投稿元:
レビューを見る
やはり好きな作家について書かれているとうれしくなります。紹介されている本が読みたくなって本屋へ足を運んだりしました。思い入れのある一冊。
投稿元:
レビューを見る
人に本をすすめるという難業を
かろやかに文章に乗せている
いつかその本に出会えるような余韻たっぷりに
投稿元:
レビューを見る
大好きな須賀敦子さんの書評集なるものがあると聞いて借りてきた。思えば最初に教科書か何かで須賀敦子の文章に触れ、短い章の中に生半可なるものを感じ手に取ったのが「遠い朝の本たち」というこれも須賀さんの小さなころの読書体験を綴った本だったと思う。
静謐な中にも人生への暖かで豊かな眼差しに溢れた須賀さんの文章は読んでいると自分の身体が浄化されていくような気すらする。本作は色々な雑誌に須賀さんが寄稿した書評を集めているのだが、これが「只の書評ではない」のだ。数行で人の心を掴む静かで正確な筆致。例えばこうだ。
「仕事のあと、電車を途中で降りて、都心の墓地を通りぬけて帰ることがある。春は花の下をくぐって、初冬のいまはすっかり葉を落とした枝のむこうに、ときに冴えわたる月をのぞんで、死者たちになぐさめられながら歩く」
佐野英二郎の「バスラーの白い空から」という本の書評の書き出しなのだが、およそ書評の書き出しとも思えないむしろエッセイのそれだ。しかし実際にこの後に続く文章を読んで、この本を入手してしまったということからも書評としての強度も備えているということなのだろう。軽々と時空を越えていくこのエッセイ的書評集を読んだ後では、なにより須賀敦子の本をまた読みたくなってしまった。
投稿元:
レビューを見る
須賀敦子さん、ずっと気になっていた。何から読もうか、須賀敦子という名を目にするたびに考えていたんだけど、書店で目にしたこちらの装丁がすごくツボだったし、書評好きなので購入した。
比喩に理念が絡まっていて(一読では美しいけれども見逃しがち)すごくかっこよくてあたたかい文章だった。
還暦超えてもデュラスにときめけるのか、ちょっと長生きしたいななんて思った。
投稿元:
レビューを見る
書評集。文章に著者の知性と教養がにじみ出ている。そして、著者が本との出会いを大切にしていることがよく伝わってくる。
投稿元:
レビューを見る
須賀敦子は文章がむちゃくちゃうまい。書評であっても、紹介する本の引用を飲み込んで書評の文章そのものが1つの世界観を紡ぎ出すことあるんだなという驚き。幻想的で、すらりとした描写は読んでいて物思いを想起させる。
「パウル・ツェラン全詩集」「手にとって、ぱらぱらとページをめくったとたんに、深く引き込まれてしまうような書物に出会うことは、めったにない。」という著者が珍しく引き込まれた本。
海外の詩が訳される意味、特にツェランのような日常と硬く対立したところで造られた詩が、訳されたことの意味は非常に大きいという。
投稿元:
レビューを見る
やわらかさの中に強さと対象への愛情のある文体が須賀敦子の魅力。こういう文章を書ける人がもうこの世にいないということがとても残念でならない。世界の歴史や政治や文学にまったくと言っていいほど知識がなく、ほとんどの作家名を覚えられないわたしでも楽しく、時には感動で深いため息をつきながら読んだ。「バスラーの白い空から」の書評の冒頭は解説にも触れられているが、この冒頭を読むだけでも物凄い人だな、須賀敦子はと思うことができる。
旅の途中で読んだとか、床の上で読んだとか、どういうときに読まれたものなのかが(エッセイ形式だからか)細かく記述されているためその状況に思いを馳せて、書評される本の雰囲気や質感などもじっくり思い描くことができる。
書評なのにエッセイの形式をとっている謎は解説で明らかになる。
投稿元:
レビューを見る
カフェでおばさまたちが「あなたまだ須賀敦子読んだことないの? とても素敵なかたよ」という会話をしていて自分も混ざりたかった、という話を知り合いに聞きました。
須賀敦子の「素敵さ」とはどこからくるんだろう。彼女の知性と教養のある文章は、読む側のレベルまで一段高いところに上げてくれるような気がしてしまいます。
『本に読まれて』は須賀敦子が亡くなった1998年初版の書評集。
ウィリアム・モリスの表紙は素敵だけど、生きていたら彼女が表紙に選んだかどうか。
(最初のエッセイ『ミラノ 霧の風景』の出版が1990年だから、彼女が名エッセイストとして知られた期間はじつはすごく短い。没年の1998年には一気に4冊の本が出版されています。)
掲載されているのは88年〜95年くらいまでの書評や解説、読書日記など。
私が読んだことがあるのはデュラス『北の愛人』、川端康成『山の音』、タブッキぐらい。
ポール・ボウルズ、E.M.フォースターなど、須賀敦子は「楽しく読んだ」くらいに書いてますがなかなかレベルの高い名前が並びます。
没後にあわててまとめた感が多少ありますが、「湊千尋という写真家」とか山崎佳代子といった名前が新鮮さをもって書かれていたり、生前から親交があったのだと思うがのちに須賀敦子関連の本を出している大竹昭子、松山巖、池澤夏樹の名前があがっているのも興味深い。
以下、引用。
仕事のあと、電車を降りて、都心の墓地を通り抜けて帰ることがある。春は花の下をくぐって、初冬のいまはすっかり葉を落とした枝のむこうに、ときに冴えわたる月をのぞんで、死者たちになぐさめられながら歩く。日によって小さかったり大きかったりするよろこびやかなしみの正確な尺度を、いまは清冽な客観性のなかで会得している彼らに、おしえてもらいたい気持ちで墓地の道を歩く。
ポスト・イットなどという、糊のついた便利なしおりがまだ市販されていなくて、じぶんで細く切った白い紙に、要点やら感想を書き入れたのが、降伏の旗のようにあちこちにはさんである。
「多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて捨てたくないと考えている多くのもの、また神の愛する多くのものがそのそとにあります。神が愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。」
こんなちっぽけな、こんな思想のない建物で暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になるぞ。建物が人間を造るということを、よくおぼえておきなさい。
「彼女(ハエは女性名詞だから)が死ぬのを見るために、私はそばまで行った」
「私がそこにいることが、その死をよりむごたらしくしている。それをわかっていて、私はそこにいた。見とどけるために。死がどんなふうにハエをなめつくすかを、そして、どこから、たとえば外部からか、壁の厚みからか、地面からか、その死のやってくる場所を見とどけたかったから」
そしてハエは死ぬ。作家は時計を見る。三時二十分。
「彼女の死を正確に記すことによって、ハエはひそかな葬儀をしてもらったことになるのだ」
若いときに読んだと���っても、なにも理解していなければ、読んでないに等しいのではないか。いや、読んだと思っていばっている分だけ、マイナスということだ。
絵本に夢中になって、ゴハーンと呼ばれても聞こえない子供みたいに私はこの小さな本に没頭し、読んだあとも、また開いては写真や挿画を眺めた。
いつか時間をつくって、もういちどサン・ドニに行ってみよう。もういちど訪ねて、わけもわからずに、中世のキリスト教に捉われていた自分を、あの王たちの寝姿を見ながら、もういちど考えてみよう。やがては迎えなければならない、自分の死までの道がすこしは見えるかもしれない。
「この戦争のひとつの特異な点は、文化財の徹底した破壊にあると思う。なぜ兵士が閉じ籠っているわけでもないカトリックの教会やイスラム寺院が、片端から爆撃されなければならないのだろう。……なぜ市立図書館みたいな戦略上、何の意味もない建物が焼き打ちにあっているのだろう。……つまりひとつの土地の集合的記憶の抹殺が、最初から〔この戦争の〕目的だったのではないだろうか」
投稿元:
レビューを見る
須賀敦子のスクリーニングを経た書物であれば、ぜひとも読んでみたいという本があるわけで、さっそく2冊の本を注文した。著者が無類の本好きであったということがしみじみと伝わってくる。
投稿元:
レビューを見る
著者の本好き・読書好きが伝わる一冊。
半ばエッセイのような書評は「この本のここがとてもいい!」「この本に出会えてよかった!」という感動・感嘆を隠すこと無く、本物の教養や知性に裏打ちされた文章で綴られている。その本の不満足な点も述べていることもよい。ネタバレにならず、読者の読書欲を煽り、文章自体が読み物としておもしろいーー書評のお手本と言えよう。
投稿元:
レビューを見る
須賀さん2冊目。
旅の途中で。言葉が文章が美しい。
読んでみたい作品が増えた。普段読まないような本を読みたくなったらこれに頼る。