- 出版社:新潮社
- サイズ:20cm/382p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-10-541402-X
スーパー・カンヌ
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- 税込価格:2,415円(69pt)
- 発行年月:2002.11
- 発送可能日:購入できません
- 本
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商品説明- 「スーパー・カンヌ」
カンヌ近郊、ビジネスエリートの集うハイパー都市で事件は起こった。深く、緩やかに育つ狂気を糧として−。銃声が静寂を破り、ビジネス・エリートたちの超楽園に闇が、ゆっくりと、口を開く−。人類の未来を占うサスペンス。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介- 「スーパー・カンヌ」
J.G.バラード
- 略歴
- 〈バラード〉1930年上海生まれ。イギリスに帰国し大学を卒業。サイエンス・ライターなどを経て、56年SF作家としてデビュー。著書に「太陽の帝国」「コカイン・ナイト」など。
ユーザーレビュー- 「スーパー・カンヌ」
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2002/12/03 12:14
きみは、テクノ・ディストピアの悪夢を見たか?
投稿者:越川芳明(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
前作『コカイン・ナイト』にちょっとがっかりさせられたので、あまり期待しないで読みすすめていったが、こんどの作品はすごく読みごたえがあった。
『スーパー・カンヌ』の舞台は、過剰な労働とセックスレスな生活に特徴づけられる高級ビジネス街でありながら、「楽園」という皮肉な名称をもつ未来都市エデン=オリンピアだ。映画祭で有名な観光地を見晴らす高台にあるこの人工都市は、ハイテク産業のメッカとして、ヨーロッパの「シリコンバレー」として描かれる。
確かに、地中海に面した南欧のスーパー・リゾート地を舞台に、無数の監視カメラと強力なセキュリティ・サーヴィスに守られた閉鎖的なニュー・エリートたちの暗黒面がサスペンスタッチで語られる点は、『コカイン・ナイト』と何ら変わらない。だが、ひそかに犯罪とドラッグを生きる糧にしなければならないような危うい生活でも、『コカイン・ナイト』の金持ち特権階級の悪夢とはちがい、ひたすら仕事に明け暮れるこちらのパワー・エリートたちの病理は、ビンボー暇なしのワーカホリックの日本人には、より切実なものとして迫ってくるはずだ。
こちらの小説のほうが読みごたえのある理由は、それだけではない。語り手ポール・シンクレア(航空雑誌の編集にたずさわる中年のイギリス人)の中に、ヨーロッパのエリート階級にいまも根強く残るレイシズム(人種差別)に魅了される危ない傾向や、倒錯的な少女愛を認め、と同時にそうした誘惑の危険性を見出してゆくという、ある意味で綱渡り的な語りの冒険をバラードが自らに課したことが高く評価できるのだ。たとえば、エデン=オリンピアを牛耳る一握りの高級エリートの中でも、ワイルダー・ペンローズなる精神科医は、管理された少量の狂気は人間が正気を保つために必要であるとの、ユニークな考えに立ち、革のボーリングスーツで偽装した企業エリート集団が「楽園」の外の貧民・移民社会を襲撃する犯罪行為をたくみに正当化する。人間の中のひそかな暴力衝動を引き出す、あがらいがたい魅力をもった「悪」の権化である。
そうした「悪」のカリスマへの両義的なスタンスが、この小説全体にサスペンスを張りめぐらし、読者は最後まで語り手ポールがどっちに転ぶのか、わからない。ぼくが『スーパー・カンヌ』を面白いと思うのは、この小説はヨーロッパを舞台にした近未来小説でありながら、二〇世紀型のファシズムに対する現代日本人のノスタルジックで倒錯的な欲望のメタファーとしても読めると思ったからだ。つまり、エデン=オリンピアのエリートたちと同様、「移民」を極端に排斥しつづける日本社会は、結局まだ「悪」のカリスマに操られる古いファシズムの危険性を宿しているのではないか、と。(bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド翻訳家)
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2011/04/25 16:04
ポストモダンの夜
投稿者:わたなべ(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
《病理社会の心理学》三部作の二作目。サイエンス・パークと高速道路によって、ヨーロッパのシリコン・バレーたるべく建設された理想的なビジネス都市で発生した大量殺人の謎を追うサスペンス小説。
物語と人物の設定が見事なまでに前作『コカイン・ナイト』の鏡像のように緻密な対称性をもって作られた作品で、読みながら前作の物語や場面がいたるところでフラッシュバックし、ひとつの物語を読みながら、その向うにもうひとつの物語を想起し、物語と物語の連関の中から作者の操作性、主題と形式に対する批評性が浮かび上がってくる、という複雑な感慨が浮かぶポストモダンな作品。いくつか具体例を出すと、謎を追ううちに観察者から行為者へと変容する語り手、「事件」を背後から操る魔術師的人物、麻薬に溺れる妖精のような少女、魔術師の陰謀を阻止するべく戦う(あるいは戦った)語り手の分身性を担っている男、真相を語る協力者にして裏切り者(であるかもしれない)女、……と、ざっとこんなところであり、もちろんニューロティック・スリラーやフィルム・ノワールの常套である医者と自動車は欠かせない小道具として活躍するし、事件の真相の「退屈さ」も、決定的場面の不在も、まったく同じである。
この眩暈がするような既視感に包まれた物語においてやはり特筆すべきなのは、前作では既に「事件」の犠牲となって噂でしか語られなかった少女が、今作ではラストでまるで嘘のような軽やかさで語り手によって救出されるその嘘のようにあっけない幕成り行きだろう。まるで作者が前作での少女の死を救済するためにこの作品を書いたかのようなこのまったくもってあっけない奇跡のような場面は、例によって語りの中では実に無感動にあっさりと流されてしまうのだが、去年翻訳が刊行された自伝で家族のことを、なかんずく二人の娘への愛を率直に表明し「人生の奇跡」とまで語るバラードの人柄を感じさせるもので、めずらしく非常に率直に感動的である。
バラードの、登場人物をほとんど物語を駆動するための「役割」に還元し、人格の深みを欠いた機能的存在とすることで、現代をひとつの「神話」的位相で描く独特なスタイルは、人によっては「自己模倣」とさえ批判されるような反復、順列組み合わせ的なポストモダンなスタイルであり、かつてはそこに一種美的なイメージの力を展開して人を魅了したヴィジョンとしてあったそれらの「未来」を、晩年に至ってむしろ成長から切り離された変容の主題が、未来の退屈さと一人の思索者としての「作者」の実験室としての小説、というきわめてプライベートな感触さえ残す逆説的な相貌を見せている、と考えるべきだろう。
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2003/03/16 18:18
ビジネスの理想郷で暴かれる人間の本性
投稿者:露地温(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語の舞台はスーパー・カンヌという実在の場所だが、最新のビジネス都市と化した近未来である。この時代では単なるビジネス都市ではない、ビジネスエリートにとっての理想郷となっている。理想的なのはここで働くビジネスマンたちには、オフィスにいるときに仕事に専念できる快適な環境が用意されていることによる。オフィスで働くことが最高に快適であり、高級住宅に帰るのも、シャワーを浴び、睡眠をとるためだけなのだ。そして、自主的な警備員達と至る所に設置されたカメラで監視されたこのビジネス都市では犯罪は起こらないはずだった。
この都市に「ぼく」が妻のジェインとともにやってくることから物語は始まる。ジェインは、スーパー・カンヌで足りなくなった医師の後任としてやってきたのだ。前任の医師は、この完璧なはずのビジネス都市で銃を乱射して何人もの人を殺していた。飛行機事故で足を痛めてた「ぼく」は昼間の退屈を紛らわすことが半分、前任の医師の謎めいた行動の理由、そして拭いきれないビジネスのユートピアに対する疑問などを抱えて、事件の真相を追うのだった。
ここで描かれる都市はどこか歪んでいる。カメラで監視された社会といえば『1984年』を思い出すが、監視され制限を受けるわけではない。表向きは本当に理想的な社会のようにも見えるのだ。しかし、何か違和感を感じながら主人公とともにこの世界を動き回るうちに、裏側の世界が顔をだす。それからが俄然面白くなってくる。
面白いのはミステリー的な謎を追う興味もあるけれど、むしろこのビジネス都市にある奇妙な論理に主人公が時には反発し、時には取り込まれていくことで、人間の心理を暴き出していくからだろうか。性悪説的な、人間には必ず暴力的な欲望があるかのような描写は、J.G.バラードの得意技といっていいだろう。ある程度否定できないものの必ずしもそうは思わないのだが、バラードの物語を読んでいるとまさにそれこそが人間の本質のように思えてくる。
訳者あとがきによれば、結末に対して「英米の読者は、そうくるか!と膝を叩いた人と、これはどういうことだ!と激怒した人に分かれ、その中間はあまりいなかったらしい」という。ぼくは前者であったが、膝を叩くということはなかった。バラードのもつある種諦めたような世界観からすると、この結末はなんとなく予想通りという気がしたのだ。しかし、この結末で終わることで読者は希望を持つことができるような気がする。何かが変わるかもしれないという希望を持つことが。
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2003/02/09 21:17
すごくわかるような気が
投稿者:矢野まひる(女性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
高級リゾートとして名高いコート・ダジュールは、年々、シリコンバレーのようなビジネス・エリアとしての側面を強めていっているのだそう。では映画祭で有名な近未来のこの土地で何が起こるのか。タイトルに魅かれて読み始める。
舞台はハイテク都市「エデン・オランピア」。みんな仕事がレクリエーション、余暇なんて死語というほどの仕事マニア。セックスなどという古臭い習慣に興味を示す人もいない。重役たちは精神安定のためにスラムに行って、有色人種を狩る。これれっきとしたセラピーのプログラム。このセラピーがめちゃくちゃ効果があがるのです。
それだけなら、まあ誰でも思いつく話なんですけど(っていうのもすごいけど)、この小説が成功しているのは、単純に、アラブ人を叩きのめしてエクスタシーを感じている重役たち=悪、それに反発してエデン・オランピアから脱落したもの=善、っていう書き方をしないところなんです。
突然連続殺人に走って撃ち殺された小児科医の代わりに、エデン・オランピアに配属された妻についてきた、怪我で休職中の飛行機雑誌編集者が主人公。彼は連続殺人の本当の理由を探っていく過程で無菌都市の本当の姿をだんだん知っていくのだけど、ここがすごい。
この人、ものすごくゆれるんです。どうしても、肯定しないまでも否定することができない。ここがすごくこわい。例えば私に、絶対に人種差別的なところがないと言えるでしょうか? 暴力で全てのストレスが解消されるとしたら? 難民を極端に受け入れないこの国で、何も考えずに済んでいるからって、自分に人種差別的な傾向がないということにはならないです。
謎解きもさることながら、主人公が結局どっちに転ぶのだろうという興味にひっぱられて読み進めました。おもしろかったです… が、長いよ! 2段組で367ページ。うんと暇なときに読むことをオススメします。あなたの暇は間違いなくつぶれます。
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2006/01/24 18:48
これがバラードの真価ではないはずだ
投稿者:king(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
本作はサスペンスミステリといった趣で、「コカイン・ナイト」や「殺す」などと状況設定、問題意識などが共通している。「病理社会の心理学」という名の三部作を予定しているらしく、「コカイン・ナイト」「スーパー・カンヌ」「ミレニアム・ピープル」(未訳)で構成される。
訳された作品について言うなら、これらはすべて、セキュリティの行き届きすぎた管理されたコミュニティでの人間の心理についての探求を旨としている。安全さに包まれ、死んだように生きる(確かコカイン・ナイトにそんな表現があった)ということがもたらす人間精神への影響を警告する、というところだろうか。
で、前置きは良いとして感想だけれど、正直、退屈だった。
ここで展開されていることには既視感ばかりが募った。「殺す」の時点では、ゲーテッドコミュニティにおける逆説、というようなものに面白味と新鮮さ、そして現代性があった。しかし、「コカイン・ナイト」の時点で既にそういった言説が飽和状態となっていたきらいがある。さらに、サスペンスじみた展開が小説の長さにしか寄与していないように思えて、あまり興がのらなかった。
殺人事件の謎を追ううちに見えてくる犯罪の影、という基本プロットなどが「コカイン・ナイト」と「スーパー・カンヌ」でほとんど変わらないのもマイナスポイントで、同じ小説を二度読んでいる感が否めない。「殺す」か「コカイン・ナイト」を読んでいると、「スーパー・カンヌ」で謎めかされている乱射事件の真相などは驚くようなものではないし、エデン=オランピアの謎めいた雰囲気も裏に何があるのか最初っからわかってしまう。
しかし、昔のバラード作品なら、こういう批判をはねかえす作品それ自体の強度とでもいうものがあったと思う。同じプロットだろうが見慣れたモチーフだろうが、それでも面白かった。破滅三部作では、主人公が変なオブセッションにとりつかれて深みにはまるという展開は同じであっても、それぞれの結晶化したり、砂漠化したり、水位上昇したりといった光景、ヴィジョンの鮮烈な描写と妙にグロテスクでデカダンスな退廃の雰囲気が執拗に書きこまれる。それだけに終わらず、内宇宙とバラードが呼ぶ、精神と外界の交錯が強烈な印象を残す。テクノロジカル・ランドスケープ三部作も、メディア(マクルーハン的な意味で)と人間精神の関係の探求には、やはり強烈なヴィジョンの提示があった。
「スーパー・カンヌ」を読んで、以前の作にあった独特の迫力のようなものが欠けているという印象を抱いた。非常に平坦、というか浅い。思うに、ここでバラードは小説を書く水準を変えたのではないか。
それまでの変なオブセッションに誘われてよくわからない行動を取る主人公ではなく、ある程度多くの読者に了解可能な行動をする主人公を据え、彼の目を通して叙述していくという風に変わったのは、作品の主張を一般化しやすい形で提示するためなのではないか。そして、これが退屈さに寄与しているのだけれど、用意されている結末にたどり着いて終わりという構成は、ともすると結末までに至るプロセスがすべて迂回路にしかならなくなってしまう。この小説の妙な長さ(二段組み400頁弱)はそういった迂回によって支えられているように感じる。
エンタテイメント性を付加したら、バラードの魅力がまるごと削げ落ちた、という感じがある。バラードが、あえてこのような小説の形式をとることで、何をしようとしたのかがわからない。「コカイン・ナイト」などを読んでいなければ、悪い小説ではない。しかし、これはバラードの真価を示すものではないと私は思う。
「壁の中」から







