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デカルト 「われ思う」のは誰か(シリーズ・哲学のエッセンス)
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デカルト 「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

著者 斎藤 慶典 (著)

従来デカルトの到達点とされていた「われ思う故にわれあり」の真意を読み取り、さらに究極の懐疑を進めた哲学者の行き着く先はどこか。神の存在証明はありえるか。極限の思考の営みを...

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デカルト 「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

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シリーズ哲学のエッセンス 24巻セット

シリーズ哲学のエッセンス 24巻セット

  • 税込価格:25,920240pt
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商品説明

従来デカルトの到達点とされていた「われ思う故にわれあり」の真意を読み取り、さらに究極の懐疑を進めた哲学者の行き着く先はどこか。神の存在証明はありえるか。極限の思考の営みを鮮やかに描き出す。【「TRC MARC」の商品解説】

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評価内訳

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デカルトがほんとうに考えていたこと

2003/06/08 19:14

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 序章でいきなり、本書はデカルトと私(齋藤)が交わした対話の記録だ、対話とは「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、「死んだもの」が再び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるのだ、と書いてある。これはデカルトが書き残した書物を読むこと、いや書かれたものを読むこと一般の比喩のように見えるが、そうではない。実はそれこそが、方法的懐疑の極点に立ったデカルトがほんとうに考えていたこと、「私」と「神」が一つに収斂していく次元を証しする言葉なのである。

 まず、「絶対に疑いえないもの」としてデカルトが見いだした「私」について(第一章)。デカルトの「思考する私」とは、それを通して、そこにおいて、ものが見える「媒体」として機能するもの、すなわち「「見えること」そのことであるような何か、それ自身が「思考すること」そのことであるような事態」を言うものであった。しかし、方法的懐疑の極限においては、そのような「思考=私」そのものもまた欺かれている可能性がある。だがそれがどういう事態なのかは、もはや「私=思考」には理解できない。そうした思考不可能なものに直面した「私」、つまり思考の限界に立ち尽くす「思考」が紡ぐ言葉は祈りの言葉に似ている、と斎藤氏は言う。

 次に、「思われたもの」(観念)の起源、つまり「思うこと」の外部の可能性について(第二章)。斎藤氏は、デカルトが与えた三つの神の存在証明のうち、神の無限性に基づくもの──「私」という有限性の内に「無限」なる神の観念が与えられているとすれば、そのような無限は有限な「私」のどこを探しても見当たらない以上、「私」の外にその「起源」を有することは明らかであり、したがって「無限」なるもの(「神」)が「私」の外に存在する──に着目して、次のように書いている。

《ここでデカルトは、観念から外部を推論しているのではない。そうではなく、「思うこと」が一個の全体として存立していることを見て取ることそのことが、「無限」が痕跡としてその「思うこと」に「触れて」いることなのだ。「思うこと」の端的な存立(これが第一章で明らかにした「われ思う」の「われ」すなわち「私」の内実だった)と、そこに「無限」が「触れて」いることとは、コインの両面のように切り離しえないのであり、両者は同じひとつのことなのである。》

 こうして「私」と「神」は一つの主題となった。斎藤氏によれば、それは「よき生」をめざす徹底したエゴイスト(私)のみが世界の外部という絶対的な他者(神)に直面する次元を開いていくことと重なっている。そこにおいて「思うこと」は、死んだもの=ありえないもの=存在ですらないものへ向けて祈りの言葉を差し出すこと(死者との対話)、つまり「愛すること」と同義であると斎藤氏は結論づけるのだが、この「エゴイストの愛」をめぐるデカルト=齋藤の思考が十全に展開されることはない。

 ──本書では示唆されるにとどまった主題について、たとえば永井均著『倫理とは何か』で展開される「エゴイストの愛」をめぐる議論と接続させてみると面白い。永井氏はそこで、デカルトに由来する「私」の二つの存在様態(独我論者とエゴイスト)に即した「語り方」の構造上の同型性(独我論やエゴイズムが真理であるとしても、だれもが独我論者やエゴイストであるべきだと主張することはできない)は世界の存在構造に基づくものであるとした上で、語りえぬこと(思考の限界)については黙ってやるしかないと、猫のアインジヒトに言わせている(ここには「神」も「祈り」も出てこない)。

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2006/02/03 16:29

投稿元:ブクログ

最近、疑問に思っていたことに対してデカルトが答えに近いものをくれました。デカルトの生き方自体にも、考え方にもとてもわくわくします。
わたしは全然哲学なんて読んだ事なかったけれど、わかりやすく丁寧に書いてあっておもしろかったです。NHK出版は分かりやすくそして興味のでるものが多い気がします。
この世界(?)の一番確かな(?)もの(?)
と、言葉にすると結局真実ではなくなってしまいそうなのにうまくうまく説明されています。
『思われ』自体が真実で『思われ』自体が『私』で『思われ』の外は『思われの外』と思った時点で『思われ』てしまっている。
う〜んおもしろいです。

2010/06/07 20:14

投稿元:ブクログ

[ 内容 ]
究極の懐疑はどこへ向かうのか。
自らの生をよりよく導くために絶対に疑いえないものを求めた方法的懐疑はどこへ向かうのか。
神の存在証明は成り立つのか。
デカルトが行き着いた極限の思考の営みを解き明かす。

[ 目次 ]
序章 哲学とは何か(死んだものとの対話;「よき生」のために)
第1章 「われ思う」のは誰か(夢;狂気;「私」とは何か)
第2章 「われ思う」に他者はいるか(観念の起源へ;「無限」ということ)

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[ 参考となる書評 ]

2011/03/16 23:14

投稿元:ブクログ

著者みずからデカルトの思考をたどりなおすことで、デカルトとは別の到達地を探ろうとする試み。内容は、「何かが現象してしまっている」という事態を問う、斎藤慶典の他の著書と大きな違いはない。文体もいつもの斎藤節だ。

デカルトが懐疑の果てに見いだしたのは、「今、私には何かが見えると思われ、聞こえると思われ、暖かいと思われるというこのことは、確かである」ということ、つまり「思われ」ているそのことは、絶対に疑いえないということだった。だが著者は、デカルトがこの「思われ」を「考える私」と言い換えている点に、重大な取り違えがあるという。

著者は、「思われ」は「思考するもの(者)」でも「思考されるもの」でもなく、むしろ「思考するもの」と「思考されるもの」が、そのうちで初めて成立するような、端的な「……と思われること」それ自体なのではないかと言う。そうした「思われ」こそが、すべてがその内で姿を現わすような「世界の母胎」なのであって、そのうちでしか「何かが疑いうる」とか「疑いえない」という事態も成立しない。そうだとすれば、この「思われ」は、けっして「絶対に疑いえない」といえるようなものではない。あらゆる思考がその内で成立し、それ自体はもはや思考されることのない限界に、デカルトの思索は逢着していたのにも関わらず、彼はそうした事態を「考える私」と取り違えてしまったのではないかと、著者はいうのである。

ところで、そうした「思われ」それ事態は、すべてがその内で姿を現わす「場所」なのであり、その「外部」は存在しない。だが著者は、「思われ」それ自体を、その「外部」を考えることのできないような「一個の全体」として見て取るということは、どのようなことなのかと問う。一個の完結した全体としての「思われ」が考えられているとき、私たちはけっして「外部」を持たないはずの「思われ」の「外部」に広がる「無限」に触れるのではないだろうか。著者はこのように考え、私の内にある「無限」の観念が、私自身によって生み出すことができないことから、「無限」なる神の存在を証明するデカルトの議論を、上のような議論へと読み変える試みをおこなっている。

2016/05/08 23:19

投稿元:ブクログ

かつて『方法序説』を読んだ際、我思う、ゆえに我あり、までは理解の範疇にあったが、神の存在証明が腑に落ちなかった。しかし、本書を通して、我思うの部分、そして神の存在証明について、脱構築した本書は、真に腑に落ちるものであった。またもや、生きることの深淵を、哲学することによって覗き込めた思いがする。いまさら、デカルトと対話する意義は大いにあったのだ。


・P71:「私」=「ある」=「思考すること」=「感ずること」
・P110:デカルトは神の「存在」を証明したというが、そもそも神という「無限」は「思うこと」がこととする「理解」をはみ出してしまうことだったのだから、そしてそれに対して「存在」とは「思うこと」において「理解」可能な事態だったのだから(あるいは「存在」と「思うこと」は同じことだったのだから)、「無限」なる神は「存在」ですらないのである。

2013/04/29 23:59

投稿元:ブクログ

初めてちゃんと哲学の本を読んだ。最初は文章の意味がわからなかったが、途中からなんとなくわかってきた。

デカルトの言葉は有名だが、そのちゃんとした意味やどのようにその言葉がうまれたかはよく知らなかったため勉強になった。

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