- 出版社:新潮社
- サイズ:20cm/410p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-10-398204-7
カンバセイション・ピース
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- 税込価格:1,890円(54pt)
- 発行年月:2003.7
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商品説明- 「カンバセイション・ピース」
幼少時の記憶や一族の歴史が「気配」として今も息づく古い家に暮らすことになった作家の「私」は、時空を超えた生のシンフォニーを聞く…。『新潮』連載に加筆し単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介- 「カンバセイション・ピース」
保坂 和志
- 略歴
- 〈保坂和志〉1956年山梨県生まれ。「プレーンソング」でデビュー。「草の上の朝食」で野間文芸新人賞、「この人の閾」で芥川賞、「季節の記憶」で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。
ユーザーレビュー- 「カンバセイション・ピース」
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2003/09/13 23:20
読者たちはみんな僕と同じように親近感を覚えながら読み進んでいるんだろうか?
投稿者:yama-a(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「似てるなあ」と思うのである。主人公あるいは作者と僕が。
ものの感じ方が近い面もあるかもしれない。いや、それより考えるプロセスが似ているのである。そして、暇さえあれば、と言うより朝起きてから寝るまでのあいだ、間断なく何かを考え続けているところはそっくりだと思う。読んでいて非常に親近感を覚える。
そこでふと疑問に思ったのだが、この小説はそこそこ多くの人に読まれて、かなり多くの人に激賞されている作品である。そんな読者たちはみんな僕と同じように親近感を覚えながら読み進んでいるんだろうか?──そうとは思えない。しかし、この小説において、いちいち「なるほどなあ」とか「ふーん、そんな考え方があるのか!」などと驚きの連続の中を読み進んで行くという読み方があるとは、僕には想像もできないのである。僕は淡々と「ふん、ふん」と読み終わってしまった。
主人公の内田高志という小説家の家に同居する6人と3匹の猫の物語であるとは言っても、主人公の妻の理恵以外はみんな一日中ウダウダ喋っていたり、ギターを弾いていたり、お茶や酒を飲んでいたりするばかりで何も起こらないお話である。普通はこんな話を小説に書こうとは思わない。下手に書き始めたりすると巧く終われないのは目に見えている。なのにこれを平然と書き始めて平然と書き終えている保坂和志の精神構造が解らない。いろんな考察や推論を述べたいのであればエッセイや評論という形があるのにその形は採らず、読んでみると確かにこれは小説でしか表わしようのない世界が書かれている。不思議。そして不思議なだけでなく面白いところがもっと不思議。帯に「どこがおもしろいのか、と問われてもうまくいえない。しかしおもしろいのである」という関川夏央氏の評が載っているが、まさにその通りなのである。
これだけ深い思考過程が展開されているのは、さては普段の会話の中で実際に語った台詞を随分そのまま採用しているのではないか、という気がするのであるが、実際に読んでみると、作者が物語を書きながら、書くことによってなおさら考察が深まり、書くという過程とともに進展し確立してきた考えがかなりあることが明らかに読み取れる。言わば、作品の中で登場人物が自らちゃんと立ち上がって自分の脳で考えているのである。
ダラダラと書いてあるように見えても、キャラクターの措定の仕方・人物の描き分けはかなり明確で、決して作者自身の考えをいろんな登場人物に振り分けているのではないのが判る。何の山もなくプツンと終わっているように見えて、そこに至る構成がかなり綿密に練られた上でのことであるのも良く判る。
主人公・内田の思考は、この作品の中では完結はしない。しかし、それはもう読み始めた瞬間から予想していた通りである。自分の見方・感じ方を信用しないと言うか、過信しないと言うか、安易な結論に達してしまって思考を止めてしまわないのが、内田がものを考える時の態度なのである。彼が繰り出す「認識」とか「抽象」とか「世界像」とかの数多くのタームは、読者がこの作品を読み終えた後も考え続けることになるのである。
僕も若い頃は小説家を志して何作か苦労して書き上げてはみたが、いずれも満足の行く出来ではなかった。どこがどう悪いのか自分でも解らなかった。でも満足はできなかった。そして、今思うのである。僕は本当はこういう小説を書きたかったのだと。
by yama-a 賢い言葉のWeb
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2004/06/21 15:20
ホームドラマの定点観測。
投稿者:ソネアキラ(女性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「猫」「鎌倉の家」「大家族(正確には親族か)」「横浜ベイスターズ」。雑駁に述べてしまえば、三題噺ならぬ四題噺のエッセイのような小説。
作者がフィックス(固定)したカメラアングルは、定点観測のように、思い出の染みついた家での日常生活を淡々と映し出していく。そこで作者の分身とも思われる小説家の主人公以下妻や甥や姪などの登場人物たちは実によく話す。大半が他愛もないことだが。地の文は冗長とも思えるほど、長い長いフレーズ。金井美恵子といい勝負。時折、主人公の会話の中に、作者の思考する哲学や科学論の一片が、ちらと姿をのぞかせる。これらが、いい具合にミクスチュアされている。
いまやノスタルジーともいえる日本家屋の佇まいや季節の音や匂い、温度感などを丹念に描写している。高等遊民とも思える登場人物の暮らしぶりには、ゆったりとした心地よい時間が流れていて、海のそばで暮らしたいと今年の春、茅ヶ崎へ引っ越していった知人一家のことが頭をよぎったりして、「レイド・バック」というほとんど死語を久方ぶりに使ってみたくなった。
会話の断片で埋められたホームドラマ。ヤマなし、オチなし、ただしイミやイギはある。でなきゃ、最後まで読み通すことはできなかったはず。読み終えてから、そのあったかさ、ハッピーさを反芻している。反芻できるか、できないか、これも、また、小説の面白さの判断の一つといえる。
大人になるにつれ、親族と会うのは、冠婚葬祭の場とかになってくる。そこで何年かぶりで会ったいとこたちと話していると、いつの間にか昔の間柄になっている。頻繁に会っていた頃は、こっちが中学生で、向こうが小学校の高学年だった。お互い、もういい年齢なのだが、いまだに名前をちゃんづけで照れずに呼び合ったりしている。
自分の姿を自分で見ることはできないから、さまざまな相手からの反応や感触をインプットして、自分を造型していく。
たとえば、そんなことを想起させてくれる。とりとめのない会話をする。面と向かって話す、聴く。ことばを投げる、受け止めることの楽しさ、大切さを感じ入った。身体性ってやつね。換言すれば、生身。
最後に、誰か、この鎌倉の家をジオラマかなんかで復元してくれないかな。長谷川町子美術館にあるサザエさんの家のようなの。黒い影が出没するお風呂場とか、見たいなあ。
ブログ「うたかたの日々」
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2003/08/09 23:15
会話的平和
投稿者:オリオン(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初は“CONVERSATION PEACE”だと思っていた。死者の記憶が匂いのよう漂う場所で生者と死者が会話を交わしながら共生する究極の平和。それを「話をはずませる小物」を意味する“CONVERSATION PIECE”とかけているのかと思っていた。
会話といっても生者からの一方的なコミュニケーションでしかないのだが、そもそもコミュニケーションの語源的意味は「共に生きる」ことなのだから、存在様式を異にする死者と生者が言語的に構築された一つの世界のうちに共生する可能性を追究した小説にふさわしいタイトルだと思った。
保坂和志は朝日新聞のインタビューで、「『生きる・死ぬ』ということと『いる・いない』ということは、ほとんど同じだと思われるけど、僕は違うと言いはりたい。ただ物理的に『ある』というだけじゃない、別の『あり方』が存在することを考えたかった」と語っている。
ここでいう別の「あり方」については、作品の最底部でずっと流れていた浩介のブルース・ギターの音や綾子の歌に託して語られる。それは音楽がもつ「容れ物の力」がもたらすものであり、「暫定的なフレーム」としての私が媒介項となって橋渡しする季節の移ろいの中で、かつての伯母の「声がすることがいまと一緒にある」といった、視覚と聴覚、空間と時間が融合する「抽象」のうちに実現するものでもある。
音楽という容れ物が人間や植物や死んだ動物たちに対して及ぼす浸透力や、暫定的なフレームが複数の過去の声を「いま・ここ」に喚起する力になぞらえられる「会話的平和」。
ところが先のインタビューによると、この小説のタイトルはヴィスコンティの『家族の肖像』に由来する。映画に出てくる老教授は、十八世紀の英国で流行した上流家族の肖像画を収集していたのだが、この一家団欒図のことを美術史では“CONVERSATION PIECE”という。
なるほど、そうするとこの作品は和やかで温かな会話につつまれた一家団欒の情景を、視覚や聴覚によってではなく言語的に表現したものだったのだ。言葉を通じて言葉の外にあるリアリティと接触することのうちに「生きることの充足感」を描くこと、そしてそれがまた日常のありふれた情景をなりたたせている根底に息づくリアリティでもあるということを、視覚や聴覚とは異なる抽象的な次元において叙述することをめざした作品が『カンバセイション・ピース』だったのだ。
それでも私は、最初の直観にしたがって、この六人の人物と三匹の猫による九重奏楽団が奏でる会話のうちに表現されるものを、あの世とこの世をつなぐ「会話的平和」と名づけておきたいと思う(スティービー・ワンダーに“CONVERSATION PEACE”というアルバムがあることだし)。
──ところで保坂和志は、「遠く離れた二人の人間が同じときに同じことを思っていたかどうかとか、百年後に生きる人間がいまの私たちの努力をわかってくれるかどうか、というチェーホフに始まったモチーフ」(『小説修行』)に、『残響』と『世界を肯定する哲学』でそれぞれ小説的思考とエッセイ的思考をもって取り組んだ。
死者の世界と生者の世界、あの世とこの世、記憶と知覚、言葉以後と言葉以前、総体と個別等々を、切り離しつつ媒介する「抽象」を言語でもって構築する『カンバセイション・ピース』の「神学的」ともいえる作業は、コミュニケーションの可能性もしくは不可能性をめぐるこれまでの仕事を集大成するもの(小説的思考がもたらす存在喚起力への賭け)だったのかもしれない。
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2003/08/31 21:13
知ってました?このカバー写真を撮った人、あの舞城王太郎『阿修羅ガール』の女学生を撮影した人なんですよ、すごいでしょ、気付いた私って
投稿者:みーちゃん(女性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
何ともいえないカバー写真だ。今でも東京の、どこかにありそうな、そして地方都市なら中心街から一歩離れれば必ず見かけるありふれた景色。曇り空だから決して暑そうな感じはしない、多分、春でも秋でもなく夏の、ちょうど今年のような曇天が続く一日の、早朝のちょっとひんやりした空気が、湿り気を帯びて肌にまとわり付くような、懐かしい写真。裏を見ると眠る猫。クレストブックを思わせる軽装本で、センスが光る。さすが新潮社装幀室のデザイン。写真は左内正史。おや、どこかでみたような。
そう、舞城王太郎『阿修羅ガール』のセーラー服姿の少女が、踏切を渡る姿が何とも清々しいカバー写真を手掛けていたのが、佐内。あの時は『女生徒』(作品社)よりという巻末のデータに驚いたけれど、新潮社装幀室のデザイン、特に色合いが抜群。写真のバランスも絶妙。で、私がこの本を手にしたのは、第一がこのブックデザイン、その次が出版社のコピー。細かいことは忘れたけれど、純文学なのに「笑いとユーモアが」といった殺し文句。
で、この小説、売りはユーモアではなくて、文章、独特の饒舌体。といって、椎名誠みたいに根っからの楽しさがあるかといえば、ちょっと違う。哲学的な話題にしても、それが圧倒的な深さか、といわれると、蓮見圭一のような凄さまでは行かない。文章は、漢字とかなのバランスがよくて読みやすいけれど、村上春樹ほどには親しみやすくはない。改行が少なくて、一つの文が延々と続く所は舞城王太郎を思わせるけれど、彼ほどの文圧は感じない。リズムでは、どうしても京極夏彦の絡みつくような高みには達していない。或る意味オール4的な小説。
むろん、読んでいて不快感は全く感じない。懐かしいなあ、と思う。大げさに言えば、漱石や潤一郎を、少しだけれど思い出す。あ、これって昔懐かしい私小説じゃあないの、って。ただし、扱うのが猫の話や、野球といった軽めの話題ばかりってのが、如何にも現代。新鮮というよりは、こんなところでまだ元気にやってます、ふうな、何ともいえない日本的スタイル。話が収斂しないままに終わり、感動とは無縁というところまで。
主人公は、いつでも態度を保留する作家の内田高志43歳、妻は食糧問題のシンクタンクに勤める理恵、なぜか彼女は1人だけ年齢不詳で、それに姪のゆかり19歳と猫三匹ミケ2歳、ポッコ12歳、ジョジョ10歳、そして4歳で死んだチャーちゃんの思い出とともに一軒家に暮らしている。
彼らが暮らすのは、世田谷の昭和23年に建てられた伯母の家。英樹兄が住んでいたが、転勤をしたので留守を預かるというかたちで住んでいる。ただし高志の家族は昭和35年から37年まで伯父伯母と4人の子どもたちと一緒に、ここで暮らしたことがある。だから今でも、従姉兄たちとはそれこそ家族みたいなもので、彼らは思いついたように実家にやってくる。
仲のいい従姉兄たちの長女は奈緒子姉54歳、かなり性格がアバウト。家を貸してくれているのが英樹兄51歳、奥さんの真弓と亮太、直也の二人の子どもと遊びに来ることも或る。幸子姉50歳、清人兄47歳も含めて、ともかく4人は今でも高志の遊び相手というか話し相手。世田谷の家の一階を事務所にしているのが大学時代の後輩でギターばかり弾いている会社社長の佐藤浩介41歳。したで働くのが沢井綾子27歳と、なんだか話が混乱する森中26歳。
それに高志と同じベイスターズ・ファンの前川、大峯などが、軽い会話を繋げていく。彼らが語るのは、鎌倉と東京の花火、幽霊の話であり、猫の生活、輪廻、超常現象、そして三年後の世界でもある。なかでも楽しいのは、高志と従姉兄たちが墓参りをするときの会話と、野球場でのヤジ。これを新感覚哲学小説、というのはあんまりで、やはり会話の軽さを楽しむ本。それが新しいかといえば、作者の1955年生まれというところが見えてしまう苦しさがある。
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2004/02/26 15:51
小説より書評がおもしろいって、いったい…
投稿者:pipi姫(女性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
小津安二郎の「秋刀魚の味」のDVDを見た翌日から読み始めたせいか、「これって、小津映画みたいな小説やなあ」と感じ、横浜ベイスターズを応援しに球場へ通うシーンが延々描写されると、ますます「やっぱり小津やんか」と思ったのは、わたしだけではあるまい(「秋刀魚の味」の場合は大洋ホエールズだったが)。
『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでから本書を読むと、作者がこの小説で何がしたかったのかがとてもよくわかる。この物語は、だらだらだらと始まってだらだらだらと終わる。主人公である作家は一日中だらだらとああでもないこうでもないといろんなことを考えているのだが、そのだらだら感が好きな人にはたまらなく響いてくる作品だろう。わたしは小津より黒澤明が好きなので、あんまり性に合わないのだが、なんでこんな日常生活の漬物みたいな小説を書くのかを本人の弁を借りて言えば、「フィクションとはいえ、小説は現実と連絡をとりながら静かに離陸していくのがいい」からということらしい。
異様に長ったらしい文を連ねたかと思うとブツブツ切ってみたり、保坂和志の文体はひょっとしてまだ定まっていないのではないかと思わせるような独特の奇妙なリズムをもっている。あるいは、この「不安定感」が保坂の「おきまりの」文体なのかもわからないが、ほかの小説を読んでいないのでなんとも言いがたい。わたしはこの作品のテーマとか主人公の思考が語っているさして目新しくもない哲学よりも、この文体や、一日中だらだらと思考しているその様子を書き連ねているということに興味を惹かれた。つまり、保坂の哲学そのものではなく、「哲学している小説家」を書くという行為にそそられたのだ。メイキング哲学小説とでも言えばいいのか、サルトルの哲学小説に比べるとはるかに読みやすい本作のほうが日常生活の中にある突起に様々に気づかせてくれるものがある。
保坂は、『書きあぐねて…』の中で、この小説の会話文を読みにくくするため、わざと3割ほど削ったりしたというのだが、わたしはさらにそれを3行飛ばして読むという荒業で読了してしまった。隅々まで舐めるように読んだ読者には申し訳ないが、わたしは3行飛ばしや10行飛ばしをあちこちで展開しつつ、それでも楽しんで読んでしまった。
ところで、この書評を書く前に、bk1書評子さんたちの投稿を読んでみた。なんというおもしろさ! いたく感心したので、全員の書評に「はい」ボタンをクリックした。
オリオンさんのおかげでタイトルの意味がわかったし、驚異の多読家みーちゃんさんのいつもながらのおもしろい評を楽しませてもらったし(カバー評はそれだけで一冊の本を出せる!)、yama-yaさんの自己にひきつけた読みの深さにも共感したし、深爪さんが作品と格闘された思考の跡にも興味惹かれ、山さんの駄作宣言にはなるほどと納得してしまったし、すなねずみさんの、読者の心情がよく伝わる書評は大好きだし、佐々木昇さんの簡潔で的を射たコメントはもうちょっと長文を書いてもらえればもっといいけど、栗山光司さんの、講演会の内容と横断させるというテクストを離れた読みもおもしろい。
わたしは8本も書評がついている本にはそれ以上投稿しないことにしているのだが、今回は書評が素晴らしかったので、ついついそれが言いたくて書いてしまった。小説そのものより、書評のほうがずっとおもしろいと思ってしまうわたしは保坂ファンとは言えないのだろうなぁ。
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2003/12/26 00:21
今日も猫を抱えて、空を飛んでいるのではないか?
投稿者:栗山光司(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
読み始めて、中々気分が乗らなかった。中断して別の本にシフトすると、もう本書を再チャレンジするきっかけがなく、もたもたしながら、アップされたみなさんの書評を読むと、とても面白い。ヘンなのは僕の貧困なリテラシーだと、落ち込んでしまった。そんな時、保坂和志の講演会が京大11月祭で開催されるとの情報が入った。演題は『カンバセイション・ピース』である。その時の主催者側の質問事項を概略紹介する。
1】本書では築50年の「家」そのものが主役だが、「建物自体が主役」とはどういうことか。その狙いは何でしょうか。また、そのような着想を得たきっかけのようなものはありますか?
2】作中の「私」、内田高志が書こうとしているという「一種の恋愛小説」とはどういうものでしょうか。
3】作中に「神の子は死んだということはありえないがゆえに疑いのない事実である」という、テルトゥリアヌスなる人物の言葉が引かれています。この言葉には「矛盾それ自体を論証の力とするような力」がある、とも書かれています。これはどういうことでしょうか? この言葉が、単に無意味な文と感じられないのはなぜなのでしょうか?
学生達のレジメは、御丁寧に主人公たる「家」の間取り図まで掲載している。その面倒な努力に頭が下がり、そこまで、若い人達を惹きつける保坂和志は何の衒いもなく風のようにやって来た。あまりにも普段着過ぎる格好で話は淡々と始まった。
彼は浅間山荘事件をライブで見たことを覚えていないという政治社会に関心を持たない人だが、まあそれは、彼の文学者としての矜持で、文学というのは政治についていろいろ言う言葉のおかしさを考えることなんじゃないだろうか、と首尾一貫している。
猫と横浜ベイスターズ、家について、幽霊、神、恋愛と饒舌にエンジンがかかる。そこに通底していたものは「記憶」であろう。刺激を一杯受けて、帰宅し、もう一度、本書を手にすると、僕なりのデジャ・ビュ(既視感)に取憑かれ、遠近感のある小説空間に自然と入り込むことが出来た。不思議と言えば不思議。集中度がレベルハイになったのです。今度は他の本を見向きもしないで、一気に読んでしまった。
雑誌「新潮」で高橋源一郎と対談しているが、どうやら、この「家」は装置としてのタイムマシンらしい。タカハシさんはこの小説を読むのに凄い時間がかかり、読了するまで、ポールデイヴィスの『タイムマシンをつくろう!』、山本義隆の『磁力と重力の発見』も読んでしまい、感想として、この二冊はどうも保坂さんの小説と同じ様なことを言おうとしているんじゃあないかとしゃべっている。
タイムマシンは離陸し「記憶」の闇に浮遊するが、有限な宇宙をも突き抜けて、いつまでも漂って着陸したくなかったらしい。取り合えず収まりを付けたが、作者のホンネは飛んで飛んで飛続けていたかったのか。某書評氏が保坂さんは開かれた人、高橋さんは壊れた人と、的を得たことを書いていましたが、「開」と「壊」は空飛ぶペルシャ絨毯の動力源になることは間違いない。しかし、保坂さんが、高校三年生の文化祭で「タイムマシンの作り方」というのを弁論大会で喋った裏話には驚いた。彼は年季が入った技術者なのだ。本当にタイムマシンを作りたかったのに、その材料、道具は考具として小説の文体しかなく、選択のしようがなくて小説家になったものらしい。本気に言葉の力を信じているのだ。
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2003/11/24 16:33
ベケット、チェーホフ、鈴木忠志……どこか演劇人の匂いがする
投稿者:すなねずみ(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「書きあぐねている人のための小説入門」につづけて、「カンバセイション・ピース」を読んでみて、部屋の掃除をしたら気分がいい。
いま保坂和志病に罹ってしまっている状態で、文章の上っ面は保坂さん風であるのだけれど、彼のひとつの文章に出来る限りの多様な方向性を持たせようとしている感じはとても開かれていて自由なところがあるというのはたぶん間違ってはいなくて、ひとつの文章を句点で止めるということは、とても勇気のいることで、ある種の決意というか思い切りが必要であり、こうやって文章をどこまでも止めずに続けてゆくかぎり何も終ることはないのだと思えばこそ生きつづけることができるのだ、と大袈裟なことを考えてしまうことが生きることの助けになるときがあるのだ、少なくとも僕にとっては。
「少なくとも僕にとっては」という止めかたには「逃げている」感じ、「甘えている」感じがある。それは毎日の生活のなかで「生きつづける」ことの辛さから逃げて、甘えてしまおうとすることとどこか似ている。
「生きつづける」ということは、ひとつの文章を終えて、次の文章へとつなげてゆくことに似ている。(何だか「似ている」ばかりで見苦しい感じだが、)とにかくひとつの文章を終えるというのは、本来とても厳しく自己を律することを必要とする行為であって、ときに他者の助け(ないしは外部)をどうしようもなく必要とするから、そこに「会話」なり「対話」なりが生まれてくるのだと思う。
久しぶりに、高橋源一郎さんの小説を読んでみたいような気持になっている。保坂さんの「開かれかた」と高橋さんの「壊れかた」はどこか似ているような(補い合うような?)気がする。
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2003/09/20 00:03
猫好きになろう
投稿者:深爪(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
保坂さんの小説は、他の小説とはちょっと違っていて、この人はいわゆる小説そのものをあまり信用していないのでは、と思わせるところがあって、でもだから小説を壊したいとかそういうこととはまた違っていて、たまたま小説という形を借りた別の何かというか、もはや小説ですらないっていうか、何というか、私にとっては「上手い言い方が見つからないもの」としてそこにあります。
本書では、主人公の日常が主人公のぐるぐる巡って移り行く思考とその間に周囲の人々とランダムに交わされる会話によって描き出され、それは特にストーリーと呼べるものでもなくて、だから読む方としても次にどうなるんだろうとか最後はどうなるんだろうとか、あるいはどうしてこうなんだろうとか、そういうことは全く考えずに読み進めて、っていう感じなんだろうなってことはある程度予想していたことなんですけど、それでもこの本は思ったより読むのに苦労してしまって(長いし)、それはもしかしたら「最高傑作」という出版社自身による宣伝文句や、関川夏央氏の「小津安二郎の映画のように面白い」っていう意の褒め言葉(小津は世界的に高く評価されているがゆえに、「小津のように」はきっと絶対的評価)を過剰に意識してしまったからなのかもしれないんですけど、なかなか小説のキモのようなものがつかめず、それとは裏腹に一貫して気を緩めようとしない著者の自信(というより読者に対する信頼)はひしひしと感じて、小説世界にうまく入り込めないんです(例えば猫が好きだったら、もう少しすっと入れるんでしょうかね)。
何年か前の『季節の記憶』という小説は、会話を中心とした何が起こるでもない本書と似たような感じの小説で、それでも漠然と「この人たち(登場人物たち)はどこへ行くんだろう?」と思いながら引っ張られて読んでいた部分もあったんですけど、本書では主人公(及びその周辺)は「どこにも行かない」ってことがもう最初から分かっている感じで、うーん、こんな状況が延々と続くんかいな、などと思いつつ読んでいたらそれでも読みにくいなりにだんだん感じがつかめてきて、と思ったらふいにまたよく分からなくなって、の繰り返しで。
「小説の可能性を問う」という種類の小説のように見えて、実は問われているのは読み手の資質のように思えてしまうんです。穏やかなフレンドリーさに満ちあふれているようでいて、エンタテイメント性や恋愛感情が周到に排除され、感傷的なものも極力抑えられ、それでいて高い次元の作品に帰結しているがゆえに、「誤読」など許されないって感じの(それだけ著者に信頼されているからこそ)、一種の厳格さすら覚えてしまうのです。
「家」という空間が「思索」の中で時空を超えて無限に拡がっていく、そのさりげないようで綿密な構築力は見事というほかなく、それは私たちがこの本を読み終えて以前と変わらずに周囲と何気ない会話を交わしながら何気ない日常を過ごしつつ「いまこうして在る」ってことだけでそれだけで大きな喜びを感じるのかもしれない、そういう可能性をも孕んでいるであろうからで、だから著者のこれまでの仕事の集大成のようなこの作品が現時点の「最高傑作」と呼ぶに相応しいものだと思うし、こんなのを書ける人って世界的にもそんなにいないはずとも留保なしに思うんですけど、それでもこの作品に対する「愛」のようなものはどうしても沸き上がってこなくて、それは自分がただ著者の厚い「信頼」に応えきれていないと感じているからってだけのことなんでしょうが、それでも例えば「サージェント・ペパーズ」に辿り着いてしまったビートルズに、すごいよこれ、でもときどきは「ミッシェル」とかも演ってね、って思っちゃうこともありますよね。
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2004/03/02 23:21
「家」への愛着
投稿者:BE-T(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰しもが心のどこかでこの生活を打破すれば「新しい何か」が見つかると思ってないだろうか。そんなことを考えてる人にこそ読んで欲しい。
主人公は、一年前から世田谷の古い一軒家に住んでいる。この家は伯父の家であった。ここには主人公が幼少期に住んでいたこともあり、その後もこの家にはたびたび訪れ、住み慣れている、そんな「家」を中心に物語は展開していく。といっても大きな事件やイベントがあるわけでもない、彼ら(主人公と妻と姪、主人公の友人の会社の人々、そして猫達)の日常が丁寧に細やかに綴られている。普通であれば気にも止めない事を気にしてみたり、自分の日常を明確にしながら楽しんでいるとでも言うのだろう。誰もが逃れようとしている日常を慈しむかのように扱っている。
そして「家」。いまでは非常に少なくなっている、大家族や家族団欒という古きよき時代を彷彿させる。主人公が幼少のときにあった出来事が、奥の部屋を見ていて数十年の時を経て思い出されたり……。これは主人公が「家」、すなわちこの空間を一番心地よいと考えているからこそ書き綴られるもので、だからこそ丁寧にかつ細やかに綴られている。この作品では「家」そのものの扱われ方が主軸にある。家とその空間、これを主人公が大切に感じているのではないか。それだけ「家」に愛着を持っているのだろう。私自身は祖父の家を思い出し、と同時に行きたくなった。
もちろん今あるものが全てではない。しかし今あるものを理解し、慈しむことによって、次の「何か」が見えてくるのではないか。
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2004/03/07 00:34
何もストーリーがないからこそ、自分の何気ない人生までが「後押し」されているような気がする変わった小説
投稿者:カンダラッキー(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説のことを知ったのは「ほぼ日刊イトイ新聞」で、それまで保坂氏のことは名前すら知らなかったのですが、糸井氏との対談の内容が気になって、初めて氏の作品を読んでみたわけです。
その対談で先に、「ストーリーがない」ということを知っていたので、「それはどういうものだろう?」という興味を持って取り組んだわけですから、何かの筋を期待して読まれた方とは、面白いか面白くないかの感想も違っているでしょう。
正直、最初のうちは読みづらかったです。主人公の住んでいる(従兄弟の)家に、事務所を間借りしている後輩の会社の3人のメンバーが、あまり魅力的ではなく、タイトル通りの「話の種」(あるいは一家団欒)を生み出すために無理やり作られたキャラクターか、あるいは業界にしかいないような特異な人物像に見えてしまって、次へ進みにくかったんです。猫にも興味がないですし。
が、主人公が横浜球場でベイスターズの応援をするくだりから、ちょっと面白くなってきて止まらなくなってきたんですよ。
私は野球は見ませんが、格闘技観戦を趣味としていた時期があって、あの生の会場で共有する情報量の多さというのが、良く分かったんです。
しかし、それもこの小説のメインではなくて、家に息づく「記憶」というのか何なのかがメインで、この辺に深いテーマが隠されているのかどうか。それを深読みすべきかどうかで皆さんの評価も大きく割れているように感じます。
私としては、登場人物たちは本当にどうでもいい話を繰り広げ続けるそのとりとめのなさが実に現実的で、大勢が集まったときに話が混線する日常の風景がそのまんま活字化されているのを読みながら、テーマが隠されているかどうかを考えるのはやめていました。
作品内のあまりの何気なさに背中を押されるように、「そうなんだよなぁ」と、自分の子供の頃の記憶のあり方や、祖父の庭木の手入れを手伝っていた経験や、格闘技観戦にいそいそと出掛けていた頃の思い出などを穏やかな気持ちで回想していたんですよ。
だから、私にとっては作品中のネタとして出てくる幽霊の話やら哲学的なコメントなどは結構どうでも良くて、作品に少しでもストーリー的な面白さを付加しようとして使われているかのようなそれらの話題さえも不要なほど“大人数で平和に暮らしている人々”の日常を時間をかけつつ読み終わった感じで、何だかとても新鮮な読書体験でした。
「人にもぜひ勧めたい!!」という作品ではなくて、それでも、
「ちょっと変わっていて面白い作品があるんだよ。読んでみて損はないと思うよ。こういう小説が成り立つものだとは、全然考えていなかったもの」
と教えてあげたい一冊です。
最大の難点は、終盤、対話の中身に次を期待させるものが薄くなり、求心力が衰えてくるところ。
哲学的なネタを差し挟んだ会話をこれだけ繰り広げるのならば、終盤に向けて、もう少し盛り上げるための嘘を書き込んでくれていれば最後まで飽きなかったのになぁ、と。
でも、爽やかな読後感があって、私は十分楽しめました。







