紙の本
今までにない戦い方
2006/07/24 16:50
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:クリス - この投稿者のレビュー一覧を見る
『正義は勝つ』これが今までの戦い方でした。しかし、この作品は影を光が打ち負かすのではなく、影と光が互いに抱き合って一つにとけあってしまいます。
初めは傲慢で、それが故に自ら影を解き放ってしまうゲドですが、影に追われ続けるうちにその心は落ち着いていきます。影は最初は《追う者》でゲドを追い詰めていきます。しかし、ゲドが影を追うのは自分だと気がついたとき、二つのものは切れない絆で結ばれていきます。
人間は影と光の部分を必ず持っています。この二つは欠けることなく、いつでもついてまわっています。どちらかがどちらかを倒すのではなく、ちゃんとお互いの存在を受け入れて生きていかなきゃないと感じさせてくれたのはこの物語でした。
紙の本
映画になるから、というわけではありませんが、、、。
2006/07/22 19:22
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kokusuda - この投稿者のレビュー一覧を見る
スタジオ・ジブリでアニメが製作された「ゲド戦記」。
シリーズ1作目にしてファンタジーの名作として知られているのが
本作です。
物語の舞台は「アースシー」と呼ばれる世界です。
大小様々な島が混在する多島海(アーキペラゴ)に中世風の暮らしを
営む人々が住んでいます。
その世界に若くして「竜王」「大賢人」の名誉をかちえた男がいた。
彼の名は「ハイタカ」、本名を「ゲド」。
今日まで数々の歌に残されるほどの大魔法使いだった。
これは彼が有名になり冒険が歌われるようになる前の若き日々の物語、、、。
ハイタカは辺境の地ゴンド島に生まれた。
少年の頃から魔法の才能があり大魔法使いオジオンの弟子になった。
しかし、彼は沈黙のオジオンと呼ばれる師匠の地道な修行に飽き足らなかった。
彼の野心?プライド?功名心?が強い欲求となっていた。
彼はゴント島を出てローク島にある学校で学ぶことになったのだが、、、。
ハイタカは彼自身の野心?プライド?功名心?のために「名も無き影」を
呼び出してしまい、影に追われ続ける。
周囲の人々を巻き込み災いをもたらし続ける影。
ハイタカと「名も無き影」の決着は、、、。
ル=グイン女史はエッセイでファンタジーは、「この世の真実を明らかにする」
効果があり、この「ゲド戦記」は男女の区別無く、「人間としての成長と本質を描こう」
としている、と書いています。
また男女や貧富の格差などによる差別にも関心を持ち、
「作品に少なからず反映している」とも述べています。
他にユング心理学などによる自我と獣性の戦い、とか世界の調和についての戒め、
などと解釈する批評家もいますが、作者が否定したりしてます。
ちなみにジブリ版も後者の解釈みたいで、、、(笑
ハイタカ(本名ゲド)、オジオン、カラスノエンドウなど魅力的な登場人物たち、
不思議な魔法の数々、アースシー世界の異質な自然と社会や文化。
ル=グィン女史は考えたのではなく自身の無意識の中から、これらを発見した、
と述べています。
この物語はファンタジーとしてのエンターテインメントを持ちながら、
作者の内面、思想、社会や文化に対する認識などについて描かれているのでしょう。
面白さやワクワク感だけではない何か。
冷徹な視線だったり、攻撃的な皮肉だったり、人生における真実だったり、、、。
これらが彼女の作家としての持ち味となって、子供たちや大人にさえ
受け入れられている原因なのかもしれません。
最後にル=グィン女史は小説、絵本、エッセイ、評論と様々な著書があり、
SF、ファンタジー、児童文学、一般小説と分類されるジャンルも様々です。
しかし、効果や対象に若干の違いはあれど彼女の中では全ての著作が同列のようです。
本人いわく「ハンドバッグを振り回して戦うおばさん」だそうですから、、、。
社会(世界?)の矛盾や自分自身と戦う姿勢が様々な作品に見て取れるように感じます。
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もちろんジブリの予習のためにv(笑)なんつっても岡田ですから。
すーんごい東京タワーの文庫とまよったけど、まぁお金があるうちに高いほうをと思いまして。
いまはソフトカバーは3巻まででてるんだよね。
すごく古い話だから、最初のころは今の文章より硬い感じでなれなかったけど、なれてからはたのしめました。ファンタジーだね〜。元祖ってかんじ。
まだ岡田さんがやるアラン王子はでていないのです。
これでは、竜が邪悪なものとしてかかれていて少しびっくり。普通竜って最終的に人間となかよくなるじゃない、けっこう。笑
最後のおわりかたが少しあっさりしすぎかなあーとは思ったけど、そのあとも何冊もあると思えばきになりませんね!
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5月6日読了。
ジブリの映画化があまりに不安なためにもう一度読んでしまった。
ゲドは指輪と違って、全く話しの展開とか場面とか覚えていないのだけど、心に響く言葉が多い。
「言葉が発せられるためには、沈黙が必要だ」「後にも先にも」
冒頭に掲げられた『エアの創造』の詩も秀逸。
お話自体より、この本を読んで何に悩んだか、そのときの自分の何に役だったか思考の道筋を記憶にとどめる本だと思う。
アニメの挿入歌、どうして『エアの創造』じゃなくて変な歌詞のになってるんだろ・・・・・。
あと、なんであんなにエーゲ海
っぽいのか。非ヨーロッパな匂いの世界にしてほしかった。
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この夏映画化されるゲド戦記。
いつのまにかソフトカバー版なんかが出てたんですね。
ハリポタもそうですが、売り上げが見込めるが為に文庫ではなく、その1サイズ上で出されるのがなんか悔しいわけですが。それでもハードカバーよりかなり安いですけどね。
最初から最後まで、かなり暗い雰囲気が漂い続けます。
主人公のゲド、とても社交的とは言えないタイプですしね。
ゲドがかなり人間くさく描かれています。ゲドに限らず全ての人達かな。人間の傲慢さや嫉妬深さ、そういった負の部分が全面に渡って出てきてます。ゲドが追い続ける影もまた、そういった人の闇から生まれることになりますし。
一応子供向けの本に分類されるわけですが……きっと子供の頃読んでも理解できないんじゃないかと感じましたが。
映画になるのはもっと後の巻ぽいですね、ちなみに。
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軽い翻訳物アレルギーのある私ですが、無事挫折しないで読了することが出来ました。初めは、ソフトカバー版を出すにあたって再訳してもよかったのではないかとも思ったりしたのですが、読みづらいということでもないし、一種の雰囲気を創り出している面もあるので、清水さん訳でいいのかもしれませんね。個人的には、影との決着のシーンがとても印象的でした。(2006.06)
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アースシー世界のゴントの少年ゲド。ロークの魔法学院で驕りから禍々しき影を呼び出してしまう。形を変えながら迫ってくる影と決着をつける為に旅に出るゲド。この戦いに勝ち目はあるのか?
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ファンタジーの元祖。少年ゲドと影の戦い。ものごとを支配するためにはその真の名を知る必要がある――というのは、どの世界でも共通してある考えなので比較的受け入れやすい。いくつもの島々に渡っていくので、島の名前と位置関係が分かりづらいが、そこは地図でなんとか乗り切れる。ゲドの行く末にどきどきしながら、一気に読んでしまえる本。
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【ご飯作ったら無難にできちゃって、特に食べさせる相手もいないから1人でモサモサ食べました】っていうような感想。
訳し方の違いもあるのかもですが昔読んだ時はも少しドキドキがあった様な・・・
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ゲド戦記1影との戦い 読了。
なんか惰性で読んでしまう。
ものすごく面白いとか、そおいう本じゃない。悪くはないけど。
自分自身の本当の姿を知るものは自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。
ゲドはそのような人間になったのだった。
今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるのものにもはやその生を差し出すことはないだろう。
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ゲド戦記の映画が公開されてから、この本を手に取りました。作者の Ursula K Le Guin は1929年生まれなので、もう77歳近くになっています。彼女はSF界で最高の栄誉となるヒューゴー賞を5回、ネビュラ賞を4回受賞しています。これはSF界ではすばらしい業績です。しかし、このゲド戦記の原作本は、ファンタジー小説です。SFとの共通点は仮想世界をリアルに描くという事かな、と思います。SFでは何の制限もなく自由な世界を作り出せますが、ファンタジーの世界にはある一定のルールがあり、どのファンタジー小説もその範囲内で記述しているように思えます。たまに「ハウルの動く城」のように、現代世界との接点があり、魔法を使うハウルがゲーム機でゲームする甥達に会いに行くシーンもあるような小説もあります。しかし、このゲド戦記は純粋なファンタジー小説で、しかも魔法を扱っています。魔法を扱うファンタジー小説のベストセラーはたくさんありますが、Magic のとらえ方が小説ごとに異なる点がこれらの本のベストセラーたるゆえんなんでしょう。例えば、Terry Goodkind は、additive magic、subtractive magic という世界を作り、ハリーポッターは、魔法学校で魔法を学ぶ世界を作っています。Ursula Le Guin の世界では、「もの」に付属する true name が分かりさえすれば、魔法でその「もの」をコントロールできるという概念が特徴的です。豪華な料理などを魔法で目の前に展開できますが、すべて虚構の世界の産物であり、食べる事ができませんし、豪華なドレスも目の錯覚といった感じです。しかし、動物などに変身はできるようであり、この点は T.H.White の"The Once and Future King"に出てくる偉大な魔法使いのマーリンの技と同じです。ゲド戦記の魔法使いゲドは、魔法の杖を象徴として用い、船を操る風を制御し、いろんなものにspellをかける小技も駆使します。大技、小技を使い分け、Dragonと戦う強さで読者を魅せながら、自分の影(shadow)との戦いに力を消耗する弱さも併せ持っている、実に人間的なキャラクターになっています。この原作を読んでゲドの人間性を理解して映画を見れば、更に映画は楽しいものとなるでしょう。どちらが先でも構わないという人もいますが、私は原作を先に読む事をお勧めします。
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真の名前を知ることでそれ自身を自在に操ることができる魔法使いの活躍する世界。
本当の名前=本質、本性?
私は私の私らしさを、そして相手の相手らしさを本当に大切に出来ているのだろうかと。
ゲドのように自分の影も自分として受け入れ、なおその影に負けずにいられる強さを持てる人でありたい。
節目節目でまた読んでみたい。
(060817)
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読了したその日の夜、残りの巻すべてを買いに本屋へ走ってみたりした。世界観はしっかりしているけれど、某物語ほど微に入り細にわたって書かれているわけでもないのですぱっと読めます。なんで今まで読んでなかったんだろう。
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映画見たついでに本も読んでみた。映画のほうはこのゲド戦記シリーズをギュゥと絞った感じなのかな?やっぱりファンタジーっていうのは夢があるから、子どもは勿論大人でも十分楽しめるんだよね。特にこのゲドは話の構成とか世界の作り方とか、ものすごい凝ってるから大人でも存分楽しめる。話の端々に出てくる言葉もハッとさせられるものがあったりして。決して子供だましではない、人間の心理とかも描いた1作です。これで卒論書こうと何気なく思ってたけど、本気でこれを機会にファンタジーで卒論を書こうと思う。さっ、そうと決めたら2巻〜5巻も早速読まないと。ちなみに1巻では、自分の中の心の闇について書かれています。
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◇◇◇『ゲド戦記 影との戦い』について書くための前置き◇◇◇
■スタジオジブリによるゲド戦記の映画化があって、僕の周りには思ってもみなかったゲド戦記ファンが何人かいることがわかった。僕がゲド戦記を初めて読んだのは高校1年生の夏休みだったと記憶している。その頃から現在まで、ゲド戦記のファンだという人には出会わなかったし、マイナーなファンタジーに過ぎないのかと思っていた。
■僕がゲド戦記を読んだのは高校の夏休みの課題の読書感想文のためだった。高校1年生の夏休みに『影との戦い』を読み、高校2年生の夏休みに『こわれた腕輪』を読んだ。そして、当時「三部作」だった最後の『さいはての島へ』を3年生の夏休みに読もうと考えていたのだが、読書感想文という課題は3年時にはなかった。そのため、『さいはての島へ』は読まないままでいたし、4冊目の『帰還』も実家に所蔵はされていたが、読まないままでいた。
■何も読書感想文という必要に迫られずとも読めばいいものを読まずにいたのは、当時の僕にとってゲド戦記が特別面白い本ではなかったということを物語っている。面白い本ではなかったどころか、文章が読みにくくて読み進めるのが苦痛な本だったと記憶している。
■映画化があって、周りにファンがいることを知って、読まずにいた3冊目がどんな話であるのかが気になった。もしかすると今読めば理解ができるのかもしれない。そう思って、帰省した際に3冊目と4冊目を読んだ。
■3冊目を読んで、映画で主人公のような顔をしている少年がアレンであることはわかったが、「命を大切にしないやつは大嫌い」とか何とか言っているヒロインが登場しないので、あれっと思って4冊目を読んだ。しかし、4冊目のアレンは3冊目で試練を終えてすっきりした顔で脇役でしか登場しない。映画の予告で顔に火傷らしきものをおったヒロインはテルーらしいが、「命を大切に」云々とは言いそうもない。
■となると5冊目が原作にあたるのだろうかと思ったが、5冊目は実家にはない。しかし、まあ、もうどうでもいいかという気になっていた。3冊目4冊目もやはり面白いとは思わなかった。きっと僕はこの作品との相性が悪いのであろう。そう納得すればいいものをどうしてもすっきりしないものが残るので、1冊目の『影との戦い』を読み直してみようと思った。
◇◇◇無駄のない名作◇◇◇
■高校1年生の時には何日かかけて読んだ本も今では数時間で読み切ってしまえる。話の筋を忘れないうちに最後まで読むことができた。
■ゴント島の鍛冶屋の息子ダニー(ゲドの幼名)は、幼少時にまじない師の女性に見出されて簡単なまじないを教わるようになる。まだ本格的な魔法の教育を受ける以前に、彼はカルガド帝国によって侵略を受ける十本ハンノキの村を教わったまじないを駆使して守り通す。村を守った彼は倒れて寝込んでしまう。その彼を救ったのがかつて島を地震から守ったとして名高い魔法使い・沈黙のオジオンだった。
■成人してオジオンの弟子となり、正式に魔法を教わるようになったゲドだが、オジオンはなかなか直接的には魔法を教えてくれない。知識と力を得たい��願う若者のはやる気持ちと、教えを授ける教師の落ち着いて焦らない態度とが描かれるのを読んで、思わずニヤッとしてしまう。
■やがて、ゲドはオジオンの元を離れロークの魔法学院に入学する。ロークでは憎いライバルとしてヒスイ、物語後半の旅の共ともなる友人としてカラスノエンドウと知り合う。自分より出来て、自分を馬鹿にしたような態度をたびたび見せるヒスイにゲドは反感を強めていく。かつて友人がゲド戦記のことを「ジュブナイル」小説だと言っていたが、なるほどジュブナイルだなあと思う。物語の展開や配役に無駄がない。名作の名作たる所以か。
◇◇◇誘惑の位置づけ◇◇◇
■着々と力を付けていくゲドは、しかし、ヒスイへのコンプレックスは拭うことができず、ついには、ライバル意識から禁断の魔法を示威行為のために用いてしまう。そのために現れ、ゲドに付きまとうことになる「影」との戦いがここから始まる。せっかくうまくいっていた修行もこの一件のために後退することになるし、何より若くして今後の人生に重い枷をかけられてしまう。それも、自分の思い上がりが原因なのだから救われない。
■ロークを卒業したゲドは竜の脅威にさらされるロー・トーニングへ派遣される。ゲドはペンダーの竜との交渉を成功させる。ペンダーの竜は、ゲドを狙う影の名前を教えてやろうかと誘うが、ゲドはこの誘惑に打ち克つ。次に向かったオスキルではテレノンの石の誘惑と戦い、これにも勝利する。どちらものってはいけない誘惑で、ゲドはどちらにも心を揺れ動かせながらもこの誘惑を逃れ、危機を脱する。
■これらの誘惑は何なのだろうかと思う。どちらも自分より大きな力、未知の不思議な力だ。一度は読んでいる話だし、薄々と影というのはゲド自身なのだろうなと予測はつく。自分と戦うのは自分の力でなければならないし、外部の何かに頼ることは大きな災いを呼ぶことになる。影はゲドを乗っ取ろうとするし、乗っ取った影はゲドの力をそのまま手に入れる。「誘惑」は影の仕組んだものとして語られる。自分の責任を放り出して、判断を他人任せにするとろくなことにならないというメタファーなのだろうなあと思いながら読んだ。
◇◇◇自分と向き合うことにともなううだうだ◇◇◇
■オスキルを離れたゲドはオジオンの元を訪れる。オジオンとの再会を経て、ゲドは影と正面から戦う決意をし、「狩り」に出る。かといって、相手がどこにいるかはわからないのだが、ゲドは海に出る。海に出るのは、他人を巻き込まないためと、もし影に乗っ取られてしまってもそのまま海中に没すれば被害は最小限に食い止められるだろうとの目算があってのことらしい。
■その後、海上での影との接触があったり、次作への伏線が張られたりしながら、立ち寄った島でカラスノエンドウと再会し、見届け人としてのカラスノエンドウと共に南へと帆を張る。そして、二人がいくつもの島に立ち寄るエピソードをカバーの裏にプリントされた地図と照らし合わせながら読み進む。最初見たときはゴチャゴチャしたわかりにくい地図だと思ったが、この地図もこの物語に添えられた重要なアイテムなのだなと感じられた。
■オジオンと再会し、ゲドが影と戦う決意をしたところで物語はターニングポイントを迎え、終局へと向かい始めるのだが、ここからが長い。戦う決意をした時点でもう答えは出たようなものなのだから、ひっつかまえてさっさとしとめればいいものを、島から島への南の海への旅は、読んでいて退屈になる。地図を見つつ読みながら、「ああ、これは行く所まで行かんとダメなんだな」と思う。
■「この先は地図にない」という「さいはて」まで行かなければゲドは影を追いつめられない。いや、その「さいはて」を越えていかなければならない。自分自身の「既知の限界」を越え、確信を持って向かわなければ影を追いつめることは出来ない。ゲドとカラスノエンドウのだらだらと続く南への航海の過程を読みながら、「ああ、ここは自分と向き合う決心をしたものの、やっぱり何となくうだうだしてしまうゲドのうだうだな内面が描かれているというわけか」と納得する。
■そして、「さいはて」を越えてたどり着いた砂浜でゲドは影を捉え、自身と一体化する。やれやれ。
◇◇◇影を捉えることはできたのか◇◇◇
■再読してみて、なるほどよくできた話だなとは思う。しかし、僕はこの話を特別に好きにはなれないようだ。そして、別に好きでなくてもいいなと思えた。話の筋は理解した。何かを感じる所もあった。しかし、この主人公が特別に魅力的だと感じるわけでもないし、アースシーの世界が魅力的だとも思わない。「これ以上でもないし、これ以下でもない」というラインが引かれたのだ。続いて『こわれた腕輪』も再読しようとしたが、さすがにもういいやと思った。僕はゲド戦記が嫌いなわけではない。しかし、特別好きでもない。
■こういうことなのかなと考えてみる。「高校生の時分、周りで流行っていたものを面白いと思えずに抱いた疎外感を、『名作』とか『古典』といった権威にすり寄って代替して満たそうとしたのだが、『名作』『古典』の方も、だからといって必ずしも面白いものではなかった」と。そして、最近になって映画化で脚光が当たったことと、身近なところにファンがいると知ったこととが、ゲド戦記をシンボルにしてこのくすぶった思いを再燃させたのかもしれない。
■『ゲド戦記 影との戦い』に引きつけていえば、その疎外感が影だったのかもしれない。こう書くとまとまりがよいが、一度は捉えたはずの影が別の形でよみがえることや、捉えたつもりでも捉え切れていない部分が残ったり、捉えようとするが故に逃してしまう部分だってあるのではないか。ゲド戦記はどこか説教臭くて、僕はやはり嫌いなのかもしれない。どっちでもいいが。