紙の本
ベイトソンの視野は高く、広い。読む度にワン・ステップ引き上げられる。
2006/12/22 18:14
12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベイトソンは「ダブル・バインド理論」といった精神病理学の業績や、人類学者マーガレット・ミードの夫としての知名度の方が高いかもしれないが、忘れられてはならない20世紀の知の巨人の一人であると思う。「精神と自然」は彼の数少ない著書の内、比較的わかりやすく彼の考え方をまとめたものであり、最後の著書でもある。この著書で語られるようなことを終生追求し考え続けていたことは、もっと知られてもよいはずである。
精神にも、生き物の成長にもある「ものごと」の繋がりのパターン。それを貫いているものを理解したい、とベイトソンは生涯を通して考え続けた。
この本を読んでいると、沸騰したお湯の泡と歴史上の英雄の出現にも、共通する理解の仕方があることが見えてくる。Abductionアブダクション、Stochasticストカスティックなど、それまであまり耳にしなかった言葉がキーになって、世界の繋がりが少しずつみえてくる。情報とは差異の事であるとか、論理のレベルの違いであるとか、今日では理解よりも利用が先行しているかもしれない情報というものの意味についても、1970年代にすでにベイトソンは深く考えていたのである。読んでみたら解ると思うが、物事の繋がり・流れの基本的な事柄について、なんとなく解ったような気になっている問題をベイトソンはきっちりと、しかも高く、広く、クリヤーな視野で捉えようとしている。そして「誰もが学校で習うこと」と、とても基本的なことからこの本では説明をしてくれる。基本的なことがらなのだが、読み返す度、それまで見えていなかった広がりが垣間見えるようで、ため息が出てしまう。
静かでなめらかな文章は、読んでいると気持ちが良い。思考することの心地よさを感じさせてくれる文章である。しかし平易なようでいて内容は難しい。というか、「わかった気になるのはたやすくても、広がりを体感するまでには遠い」というところだろうか。
改訂前の邦訳(1982年)と改訂版をくらべると、翻訳者も微妙な表現に苦労をした様子がわかる。私事であるが、二つの翻訳を比較しながら考えること(同時に原文も参照すること)で、ベイトソンも書いている「複数の視点の情報から奥行きが深まる」(両眼視で立体感がでる、というような)ことはないか、と期待もしていたりする。しかし、この方法は大変時間がかかり、あまり他人にはすすめられない読み方である・・・。(余談であるが、旧訳版のあとがきは、訳者の思い入れ、情熱が感じられて、これはこれで理解の参考になるものである。機会があったら読んでみるとよいと思う。)
改訂版は2001年に発行されている。今回の普及版はあとがきもその当時のまま、ハードカバーがソフトカバーになっただけであるが、この本が版を重ねてくれることは大変嬉しい。何度読み返しても、その度にワン・ステップ引っぱり上げられる気がする。じっくりと物を考えて、世界を理解したいという方には是非読んでいただきたい。
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グレゴリー・ベイトソンの一連の著作は、ダイナミックなシステム思考の事例集である。エコロジー思想の視界を一挙に拡大してみせた快著である。
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何回読んでも学ぶところ多し。
生きた世界の認識論
p.8「結び合わせるパターン」the pattern that connects
p.16おはなしストーリーは関係relevanceという名で呼ばれる繋がりの糸が集まってできたもの
1同一の物語の構成要素であるという理由によるAとBの結びつき
2全員が物語の形式で考えるということにおける人間同士の結びつき
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過去3カ月読んだ本の中で一冊だけ無人島に持っていくとしたら、この本を持っていきます!反語として「誰もが学校で学ぶこと」と題してつづられる思考の前提についての記述を一つ一つふに落ちるまで何度でも読みたい。知恵が深まるのを読みながら感じる。
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「ゆでたてのカニを生物の死骸であるということを私に納得いくように説明してみなさい。」
涼宮ハルヒのような突飛な質問は、学問の発展に重要な実験だということが分かる。
何かを厳密に説明しようとすると、実は常識だと思っていたことが、ある仮説にすぎないことが分かる。
キャリブレーション(較正)とフィードバック(負帰還)のようなサイバネティックス的な着想。
ps.
レヴィストロースが文化人類学として整理したと訳注に書かれている内容は未確認。
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「対象を見固めるのでなく、対象をこえてつながるパターンをこそ見つめること」
そうあとがきにある通り、差異あるもの間の比較から浮かび上がる、それらをつなぐパターンを見つけだし科学・宗教・社会・美・精神その他世界の様々を包括する規則を探る、知の巨人ベイトソンの思索を味わう本。
引き合いに出される対象が生物の発生から進化論、科学論にサイバネティクスと多岐かつ深く、さらにベイトソンなりの語句の定義が盛り合わさり話題についていくのが大変ではあるが、博学趣味の人ならこのつながるパターンの大局がたまらないのではないだろうか。
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精神を物質と分けて考えるのでなく、同一の観点から捉えなおすこと。対象を対象として捉えるのではなく、その差異と相互作用に注目すること。学習というプロセスと進化と呼ばれる変化から、同一のアナロジーを見い出すこと。ベイトソンが目指す地平は、物質や精神、生命と環境といった切り分けられたいったものの関連性を掘り下げ、分断された概念の間に共通の橋を渡そうとするものだったのかもしれない。学習とは"教え""学ぶ"という二元的なものではなく、〈刺激〉〈反応〉〈強化〉という3つの構成要素が必用なのだという主張にはハッとさせられた。
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「学校の生徒もみんなしっておる」という皮肉めいた名前の章がとてもよかった。常々忘れがちな前提を確認できる。
「精神の生態学」とかぶるところもおおいけれど、こっちの方が読みやすい。(なによりページ数が少ないところがいい)
必要最低限の保守性(両立性、一貫性)をそなえて後は修正可能な部分を持っておく。
時代遅れを修正するとき、過去の遺産と戦っていこうとするときにわれわれを悩ますジレンマは、その古びたものを手放してしまったら一貫性も明晰さも両立性もそして正気までも失ってしまうのではないかという恐れ。
しかし、時代遅れにはもう一つの局面が存在する。文化システムの中に早すぎる部分が在るから、ついていけない部分が生じる。
つまり時代遅れというものは二つの部分の不均衡から起こる。そして、一方の停滞の理由が自然選択の内半分にあるとすれば、あまりにも急速な進歩の根が外的な選択の働きによる、と推測できる。(進化を操縦すべき二つの構成要素の距離があまりに開きすぎてしまったから)
夢とはまさに内的一貫性のチェックを受けない部分。
人間を振り分けるこの対称性が、実は生ある世界を成り立たせる弁証法的な対極性なのだということ、この点を忘れてはならない。
夜なきところに昼は現れない。
ではいかにして両者を組み合わせるのか。問題はそこにある。←個々の熱狂ドグマのレベルから一段高いレベルに上る事(メタ化)
問題の鍵はテンポの調節
社会的変化の選択に個人的な安楽さと不快さという基準しかなく、新たな事態によって新たな不快感が生じるまではメンバー対カテゴリーという論理階型の基本的相違さえ忘れられている。
全面進歩でも全面保守でもだめ。
一つの偏った精神が支配するよりは二つの偏った精神が抗争する方がましだと言えるが、抗争システムからは妥当な決定は期待できません。論自体の持つ力ではなく、抗争力の強弱によって決着がつくという性悪な特徴が抗争システムにはつきものだから。
権力が腐敗するのではなく、権力の神話が腐敗する。
チェスで言うところの勝利ではなく一歩一歩最上の打ち手を求めよ。これを持続するのは並大抵の努力ではありません。(より大きなゲシュタルトの中で考えなければなりません)
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相変わらずベイトソン、たくさんのジャンルを縦断しつつ、生命=世界=自然=精神、について知を駆使している。その博学ぶりには驚くしかない。
「パターン」と呼ぶものが連結・相互作用しつつさらに大きなパターン(メタ・パターン)を成していく、という詩的は、確かに生物において常に見られることなのかもしれない。「パターン論」は音楽にも適用できるはずなので、ちょっと興味深かった。
第2章「誰もが学校で習うこと」が面白い。どこの国でも、やはり学校の先生はいちばん大事なことを教えてくれない、ということらしい。ベイトソンは「学校で教えるべきなのに教えてくれていないこと」を列挙してゆく。多様な視点からの抽出で、実にベイトソンらしい。
ただ、かつて『精神の生態学』を読んだ際にも感じたことだが、ベイトソンの思考は最終的に収斂してゆく地点がどこなのか、漠然としていてよくわからない。
最後の方は進化論に関する議論なのだが、ここでいう「自然選択」というものが、ダーウィンの「自然淘汰」と同じものなのか違うものなのかという点、はっきりしなかった。進化論は大筋ではたしかだと思うが、具体的に「どのようにして」進化が進んできたのか、私にはよくわからない。ベイトソンが言っていることも、どうもすっきししないのである。
ランダムに生じる遺伝子変化のうち、「自然選択」された環境適応的な遺伝が、最終的にその種の大半を覆い尽くすためには、たぶん何百何千、あるいは何万もの世代交代にわたる繁殖が必要だと素人的には思われる。すると、今こうしているあいだにも、世界のどこかに、「より進化した次世代人類」が存在していなければおかしいのではないか。ランダムな遺伝子変化が常にもっとたくさん見られなければ、永久に「進化」はやってこないような気がしてしまう。
・・・しかし、確か現代進化論も諸説があってすっきりとはしていなかったような記憶がある。もう少し進化論について読んでみるか。
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結構しんどい読書だった。こちらの理解度が低いという意味で☆も3つで。本書は「精神」をいかように説明するべきか?という内容なんであって、精神が何であるかという問いに答えるものではないのだろう。説明のために引っ張り出されるのが、パターンと量、形態と機能、ストカスティックやトートロジーというベイトソン流の理論や概念装置なのだが、これらをまず理解することが難しい。。。
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今回のテーマは、グレゴリー・ベイトソンの思想です。
グレゴリー・ベイトソンの考えについての理解を深めます。また、社会システム理論やパターン・ランゲージなどの考え方に通じる点について考えます。これらが、自分たちの研究・関心にどうつながっているのかを考えてください。
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自己の内的な平衡の保守性と、外的環境変化への適応性の双方を同時に維持し続けることが生存であり、これは遺伝と獲得形質にも類比されるものである。
あらゆる科学的前提をリセットするところから始まる思考の探検に地図はない。それどころか思考じたいを思考することが繰返し求められる。
進化生物学や文化人類学への深い造詣から提出された英米圏のユニークなポストモダン思想である。
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タイトルはなんとなくカルトっぽいようなスピリチュアルっぽいような雰囲気があるが、中身はそこまでではない。ドーキンスの「利己的な遺伝子」やヴァレーラ/マトゥラーナ「知恵の樹」みたいな本を想像するとわかりやすい(あれはあれで胡散臭いが)。
生物が世界をいかにして認識するのか、あるいはそうした認識はいかなる進化の過程を経て成立したのか、サイバネティクス的な視点でもって考察していく。全体として、ストカスティックなプロセスを重視して、生物の認識過程や進化過程をみていく。
生物学的な正しさについては正直よくわからない。しかし、学際的な現代思想の本、あるいは社会科学本としてはいろいろなヒントが得られる。組織論や戦略論、とくに動態的な変化を伴うそれらを考えるにも、有効な視点を提供してくれる。もともとサイバネティクスは、経営学はじめ社会科学と相性がよさそう。そんなつもりで読むのが面白いだろう。
ただ、決して読みやすい本ではなかった。重要な事項にたどり着くまでに、二重三重の前提条件と事例の提示を経ねばならずかなりまわりくどい。ときどき自分が何を読んでいるのかわからなくなってくる。簡単に全体像を押さえてから読むいいと思う。
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◆きっかけ
YouTube SENSORS公式チャンネルの2018/7/23公開の動画 「落合陽一が今"オススメしたい本"は? 」がきっかけ。
『デジタルネイチャー』執筆にあたって影響を受けた本として、落合氏はデカルトの『精神と自然』をあげていて、その流れで
「『デカルトからベイトソンへ』のオマージュで、世界の再魔術化をテーマに『魔法の世紀』を書いた」
と言っていた。
続けて次のように発言していた。
「精神と自然というと我々の社会ではもはや人間の精神だけではない。
つまりデジタルネイチャーって融合自然をもたらしている…っていうような状態を作ってて、なんかそういうところをフックに、なんかそういう思想本みたいなのを17世紀くらいからポチポチと読み漁るプログラマー がいてもいいかなぁという本なんですけど。
ここで重要なのは、それを読み漁った結果プログラムを書かない奴を作りたいわけじゃなくてですね、なんかそれを読み漁ってプログラムを書く人を作りたいんですけどね。と思いながら書きましたけどね。
売り上げは好調なんですけど恐ろしくなんか不思議な本なんで。」とのこと。
彼の発言から、読みたい本が増えたし、彼の著作も読みたいと思った。読み漁ってプログラム書きたい。2019/2/11