ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)
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- 税込価格:693円(19pt)
- 発行年月:2007.8
- 発送可能日:7~21日
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商品説明- 「ずっとお城で暮らしてる」
あたしはメアリ・キャサリン・ブラックウッド。ほかの家族が殺されたこの屋敷で、姉のコニーと暮らしている…。悪意に満ちた外界に背を向け、空想が彩る閉じた世界で過ごす幸せな日々。しかし従兄チャールズの来訪が、美しく病んだ世界に大きな変化をもたらそうとしていた。“魔女”と呼ばれた女流作家が、超自然的要素を排し、少女の視線から人間心理に潜む邪悪を描いた傑作。【「BOOK」データベースの商品解説】
ユーザーレビュー- 「ずっとお城で暮らしてる」
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2007/10/28 17:08
邪悪なものを肯定してしまいたくなるように書いてしまうこと、邪悪を邪悪と思わせない小説世界の美しさを目指すこと――「魔女」と呼ばれた作家の恐怖小説の流儀。
投稿者:中村びわ(女性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
今をときめくチャーミングな読書家作家・桜庭一樹さんが解説を書いていて、「本書『ずっとお城で暮らしてる』は、ちいさなかわいらしい町に住み、きれいな家の奥に欠落と過剰を隠した、すべての善人に読まれるべき、本の形をした怪物である」と言い切っている。本当にその通り。
怪物と言うより「魔物」が宿っているタイプライターを魔女がかたかた叩き続けるとこういうものが弾き出されてしまうのかという感じの、まがまがしさに満ちあふれた物語だった。
どことなくディキンスンの詩の世界を思わせる。『エミリー』(ほるぷ出版)という伝記的絵本にもなっているディキンスンは、1830年生まれ。ひきこもり生活を送るなかで多くの詩片を書きつけた。題名のないそれらは通し番号で整理されている。たとえば670番に次のような2連がある。
「幽霊のでる部屋などいらない/そんな家もいらない/脳裡には現実をしのぐ/そんな回廊がいっぱい//真夜中 戸外で/幽霊に会うほうがまだしも安全/脳裡の奥で/あのひややかな主に出くわすよりは――」(岡隆夫・訳/『エミリィ・ディキンスン詩集』桐原書店)
ディキンスンより40年あとに生まれたフロストもまた米国を代表する詩人で、彼の「幽霊屋敷」という作品のエッセンスも感じられなくはない。たまたま手元にある詩人全集にディキンソン作品といっしょにのっている。『ずっとお城で暮らしてる』から次々と遠ざかってしまうけれども、少しだけ紹介。
「わたしは幾歳もの夏を経たとうの昔に/消え去ったことを知っている寂しい家に住む、/ここに跡を残すのは地下倉の壁だけ、/それも昼の光が射しこむ地下倉、/そこに紫いろの実がつく野生のきいちごが生える。」(安藤一郎・訳『世界詩人全集12』新潮社)
作者のシャーリイ・ジャクスンは1910年代サンフランシスコ生まれの異色作家ということだが、こうした詩の数々をきっと好きで読んでいたことだろう。
『ずっとお城で暮らしてる』は怪奇小説だと思って読み進めていた。しかし、上に挙げた2つの詩に言葉として出てくる「幽霊」のような超常現象がないことに途中で気づく。幽霊はいないが、邪気や妖気を溜め込みやすい屋敷なのか、物語の語り手メアリ・キャサリン・ブラックウッドがそのような屋敷にしてしまったのか、話が進行していくそこは、世間の人から忌み嫌われる「お城」なのだ。
忌み嫌われるのはもっともで、メアリは姉のコンスタンスと伯父のジュリアンと暮らしているが、姉妹の家族は昔その屋敷内で殺された。本当のところ何があったのかは村人たちには知られておらず、姉妹は不気味がられ、外の世界との付き合いもほとんどない。仕方なく食料を買い出しに行けば、まともな対応をしてくれる人はごく一部で、いやがらせを受けることもある。
桜庭さんの紹介文に「善人」とあったが、誰かが根っからの善人であるかどうかには関係なく、人間の社会というものは、あらゆる人たちが善人の顔をしていないと成り立たないと言えるだろう。人間の内に封じ込められておくべき邪悪なものがきちんと封じ込められていないと、その人自身の人生のみならず社会は荒廃して行く。
個人が自分で邪悪なものを封じ込めて「善」の部分を育て増強させていくようにできないならば、邪悪の噴出により惹き起こされた犯罪やトラブルは社会で封じ込められなくてはならない。ところが個人が噴出させた邪悪に他者の邪悪が感応することがある。それによって生じるいじめも紛争も戦争も、はたまた正義という名の制裁も、集団としての善が十分に育てられなかったことの結果なのだ。読んで行くと、そのような邪悪に覆われた世界を、何もファンタジー世界だけのものではないと意識させられる苦さもある。
邪悪なものを抱えながら独自の奇妙なルールに従って暮らしていく姉妹と、邪悪なものを抱えながら世間のありきたりに拠って暮らしていく村人と、その両者の対比が面白い。
後者は、他の人と同じような生活、あるいは人並みより少しだけ上の生活を志向する人ならば大抵当てはまる。自分を大切にしながら普通に生活を送ろうという、そのあたりまえが他者を犠牲にすることにつながる場合がある。意識されないうちに邪悪なものが働いてしまっている。このような邪悪に私はずいぶん悩まされてきた気がするが、自分もまた自身で気づかない邪悪で多くの人を傷つけてきただろう。そこの部分をうまく書かれてしまってばつが悪い。
そして、ここまで書いてきたことならば、冷徹な視点を持つ作家であれば独自の設定を行って描くことができるものなのだが、しかし、本書の際立った特徴は、前者に当たる、人並みを志向しない姉妹の奇妙な生活世界の描写だ。夢見るように日々を送る少女の変わった振る舞い、つかみどころのない思考と感情、そういったものが美しくあるからこそ、そこに隠された邪悪までをも肯定したくなる。そのように書かれること、そのような作者の意図を見破らせずに読ませようとすること。作者が「魔女」と称された理由はそのあたりにあるのだろうか。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/04/04 21:30
「機会があれば、ほんとうに子供を食べられるかしら」
投稿者:峰形 五介(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
村人たちに疎まれている二人の姉妹――コンスタンスとメリキャット。
コンスタンスは他者と接触することを恐れて屋敷にひきこもっているので、村に買い出しに行くのはメリキャットの役目。彼女に向けられる村人たちの視線は冷たい。心ない言葉をぶつけられる時もある。その度にメリキャットは物騒なことを考える。
「そもそもこんな人たちが生み出されたことに、どういう意味があるのかわからない」
「みんな死んじゃえばいいのに、そしてあたしが死体の上を歩いているならすてきなのに」
「みんな死んで地面に転がっていればいいのに」
メリキャットは「フシギちゃん」と呼ぶには不気味すぎる。しかし、怖いのは彼女ではない。いや、怖いことは怖いのだが、得体の知れぬ怪物じみた存在は距離を置いて見ることができる。
本当に怖いのは村人たちのほうだ。メリキャットと違って、彼らは理解しがたい存在ではない。どこにでもいる普通の人々だ。そう、読者と同じように……。
村人たちの悪意は読者の心に潜む悪意であり、村人たちの醜い行動は読者がいつか犯してしまうかもしれない(あるいは過去に犯した)過ちなのだ。
終盤、悪意の発露が集団ヒステリーの様相を呈し、村人たちは暴徒と化す。ここまで極端なことになると、読者は逆に安心できるだろう。狂った暴徒たちをメリキャットと同じような怪物と見做し、「俺の中にも悪意の種はあるけど、ここまで非道なことはしないよ」と思い込むことができるだろう。
ところが、そんな安易な逃避を作者は許さない。時が経つと、村人たちはしおらしくなり、姉妹に許しを乞い始めるのだ(卑怯にも匿名で)。こうして、読者はまた思い知らされる。村人たちが卑屈で非力で臆病な「どこにでもいる普通の人々」であることを。自分自身の姿がそこに映し出されていることを。
ああ、怖い、怖い。
ちなみに書評のタイトルはメリキャットが口にした言葉。
それを聞いた姉のコンスタンスはこう答える。
「料理できるかどうか、わからないわ」







