- 出版社:岩波書店
- サイズ:22cm/297p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-00-011262-8
岩波講座哲学 02 形而上学の現在
飯田 隆 (編集委員), 中畑 正志 (編集委員), 野家 啓一 (編集委員), 村田 純一 (編集委員), 伊藤 邦武 (編集委員), 井上 達夫 (編集委員), 川本 隆史 (編集委員), 熊野 純彦 (編集委員), 篠原 資明 (編集委員), 清水 哲郎 (編集委員), 末木 文美士 (編集委員), 中岡 成文 (編集委員)
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- 税込価格:3,360円(96pt)
- 発行年月:2008.8
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商品説明- 「岩波講座哲学 02 形而上学の現在」
形而上学の問いが、いま再び浮上している。今日、新しい仕方で形而上学と面するまでに、私たちはどんな境界線をまたいだのか。「哲学の原点」に立ち還ることを基本方針に編成したシリーズ。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧- 「岩波講座哲学 02 形而上学の現在」
| 展望 形而上学は現在する | 中畑正志 著 | 1−19 |
|---|---|---|
| なぜ世界は存在するのか | 永井均 著 | 23−47 |
| 「形而上学」の死と再生 | 鈴木泉 著 | 49−73 |
ユーザーレビュー- 「岩波講座哲学 02 形而上学の現在」
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2011/08/27 07:15
「言語を使用する人間」の特殊性としての「私」について
投稿者:こぶじいさん(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前、bk1に『ウィトゲンシュタイン――没後60年、ほんとうに哲学するために』(河出書房新社、2011年)の書評を寄せた。そしてその際、「レアールな(内容を規定する、もしくは、事象内容的な)述語でない「存在する」という言葉の習得にあたっては、レアールな言葉が習得されたあとで、そこから、存在することが“覚られ”なければいけない」という旨に対して、「なるほど!書評」にて次のコメントを頂いた。「ここまでくると、言語を使用する人間という種の特殊性について考える必要があるのでは?」
本書評の主題は、「言語を使用する人間」の特殊性としての「私」である。
本書に収められた永井均の論稿「なぜ世界は存在するのか――なぜわれわれはこの問いを問うことができないのか」は、内容的規定如何にかかわらずただ在る〈これ〉を(〈私〉〈今〉から〈世界〉〈存在〉へと)追究する途上、「私」の内容的規定として次のとおり提示する。「世界を認識し働きかけることができる主体が自分自身を世界の中に位置づけ反省的に指すときに「私」が成立する」(本書p.28)。そしてその内容的規定に対して、こう、注を付す。「主体が自分自身を世界の中に位置づけかつ反省的に指すことができるのは、個々の意識のまとまりには個々の身体が恒常的に対応していて、それゆえにまた、思いを声にして出せる口と動かせる物体としての身体に付いている口とが恒常的に一致しているからである。そのため、私が客観的に識別可能なこの身体を指示する意図なしに「私」と言っても、身体に付いた口のおかげで、私は客観的に識別可能なある身体を指してしまっている(書き言葉の場合は署名がその機能を果たす)。たとえば、この一致の恒常性がなかったり、すべての人の声が一つのスピーカーから発せられるような世界では、この通常の意味での「私」は機能しない。[引用者註:後略]」(同p.43)
なお、永井論稿の表題の問いへの答えは次のようになる。すなわち、世界には身体に相当するものがないので口についてのような恒常的な一致が成立し得ないから、と。また究極の答えは次のようになる。問い答える言葉は世界に内容的規定性を与えてしまわざるを得ず、したがって内容的規定性においては、内容的規定如何にかかわらずただ在る世界(の、なぜかただ在るという現実性)なぞないから、と。
如上の、口についての恒常的な一致に基づく「私」の内容的規定について、思いを声にして出せる口と動かせる物体としての身体に付いている口との恒常的な一致は、言語習得にあって重要である。確かに、この恒常的な一致がなければ通常の意味での「私」は機能せず、習得されなかっただろう。とはいえ、しかし、何か物足りないように思われてならない。それは何か。耳である。思いを声にして出せる口には、同時にその声が聞こえる耳が必要なのではないか(書き言葉の場合、思いを文章にして出せる口には、同時にその文章が見える眼が必要なのではないか)。口で声に出された思いが耳で聞こえ、しかも、口と耳は言葉にされるところにおいて在る、さもなければ、自分自身を世界の中に位置づけ反省的に指すことなぞできないのではなかろうか。というよりも、言葉にされるところにおいて思いが口で声にして出されると同時に耳で聞こえて在るということこそがすなわち「自分自身を世界の中に位置づけ反省的に指す」ということなのではなかろうか。
さて、ここで質問がある。言葉にされるところとは、紛うことなき“現実の”世界のことである。そしてここにおいて口と耳が在る。だが、それにもかかわらず、言語習得の観点から「私」の内容的規定で取り上げられるのは口である。なぜ耳は取り上げられないのだろうか?
この質問については、身体に付いているものを動かせるか否かがかかわっているように思われる。口はパクパクと動かせ、また眼(というか瞼)もパチパチと動かせる。しかし、耳は口や眼(瞼)のようには動かせない、開けたり閉じたりできない。かくして耳は口や眼のようには動かせない以上、それらのように心身問題(精神は如何にして身体もしくは物体を動かせるのか、という問題)を成立させることはできない。というのは、心身問題の会得されるうえでの根本は、内容的規定如何にかかわらずただ在る〈私〉が内容的規定をもつものを“動かせる”現実だからである。心身問題の根本を自覚できないこと、このことこそが、言語習得の観点から耳が取り上げられない要因ではなかろうか。
それでは、口や眼ではなく耳を取り上げてみよう。耳は開けたり閉じたりできないし、開いたり閉じたりしない以上、現象学的光景の特性(特定人物・特定時点から遠近的に限られた全体が開かれているというパースペクティブ性と、現象の外部の“なさ”)を言語習得において得ることはできないように思われる。というよりも、現象学的光景の特性は元来眼に由来するのであり、耳に由来しないであろう。というのは、耳から全体が開かれているとしてもそれは遠近的ではないし、また、耳は現象の外部の“なさ”を(眼のように閉じることによって)自覚的に生じさせることができないからである。
青山拓央「命題と《現実》」(永井均ほか 『〈私〉の哲学を哲学する』、講談社、2010年。所収)で述べられたとおり、〈 〉の全体性(ある意味、〈これ〉がなくなったらすべてがなくなると云えるが、その「すべて」のすべて性)は現象学的光景の特性から得られたのだとしよう。そうすると、耳の場合、他人から教えられるというかたちでの言語習得からは〈 〉の全体性を得ることができないのではないか、云い換えれば、独在性(相並ぶもののなさ、〈存在〉の比類なさ)を自覚することができないのではないか。
そう思われたのだが、しかし、そうとは限らないか。声が聞こえる耳と身体に付いている耳との恒常的な一致(の、耳と眼による同時認知)によって、「聞こえるのはあの耳でではない」というところから独在性を自覚できないこともないか。しかも、身体に付いている耳は動かせず、動かず、“ただ在るだけ”であり、ゆえに耳については眼などとは異なり、恒常的に一致していることが認知されることはない。そこからして、独在性は、眼などの場合よりも深く自覚できるようになるのではなかろうか。(このことは、独在論が心身問題とは別の問題であることを証左する。)
ところが、である。耳についての恒常的な一致ということには重大な問題がある。声にして出せる口と身体に付いている口との恒常的な一致は、言葉が耳で聞こえると同時に口の動きが眼で見えることによって認知され、成立するだろう。眼についても同様であろう。いうなれば、口などについての恒常的な一致には教示的な根拠がある。ところが、言葉が聞こえる耳と身体に付いている耳との恒常的な一致はそうはいかない。なぜなら、耳は開けたり閉じたりできないし、開いたり閉じたりしないからである。はてさて、耳についての恒常的な一致は如何にして成立するのだろうか?
いや、これは問いが間違っているのか? 耳については恒常的な一致に教示的な根拠なぞないのか。恒常的な一致は要請なのか。








