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罪と罰 2 (光文社古典新訳文庫)
目の前にとつぜん現れた愛する母と妹。ラスコーリニコフは再会の喜びを味わう余裕もなく、奈落の底に突きおとされる。おりしも、敏腕の予審判事ポルフィーリーのもとに出向くことにな...
罪と罰 2 (光文社古典新訳文庫)
罪と罰 2
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商品説明
目の前にとつぜん現れた愛する母と妹。ラスコーリニコフは再会の喜びを味わう余裕もなく、奈落の底に突きおとされる。おりしも、敏腕の予審判事ポルフィーリーのもとに出向くことになったラスコーリニコフは、そこで背筋の凍るような恐怖を味わわされる。すでに戦いは始まっていた。【「BOOK」データベースの商品解説】
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「義を見てせざるは 勇なきなり」と一肌脱いで感謝されるとうれしくなる。ところが思いがけないところから余計なことをしてくれたとお小言を頂戴する。内心複雑な思いで弁解にあい努めるハメに追い込まれた。よくあることだが、これってナポレオン主義と関係あり!?
2009/08/26 15:08
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ラスコーリニコフの犯罪論を読んだポリフィーリーがラスコーリニコフの殺人哲学について挑発的に言及する。
「この世にはどんな無法行為だろうと、犯罪だろうと、それを行うことができる人間が存在するという………いや、できるなんてもんじゃなく、完全な権利をもつ人間が存在する、そういう人間には法律も適用されないという(のがあなたの考えのようだ)」
高校生の時に初めて『罪と罰』を手にとって、読む前からこれは完璧な殺人理論を持った犯罪者の話であると聞いていたものだから、ラスコーリニコフは体制破壊のパワーをもつカッコイイ殺人者というイメージばかりが先行してあった。この反動は大きく、読んでみれば優柔不断、なんともだらしない男なんだと、期待はずれのせいで実はまともに読み続けることができなかった。その後もラスコーリニコフの殺人の思想・動機についてはこのいわゆるナポレオン主義であるとの先入観には抜きがたいものがあった。
「犯罪理論」は冒頭からではなく第三部で初めて明らかにされる。読者としては、なぜ彼は殺したのかと疑問を持ちながら読んでいくと、きわめて衝撃的にこれが現れる。魅力的なミステリー仕立てのため、なるほどこれかと胸に刻み込まされることになるのだ。
ただ今回は本当にそうなのかと突っ込んでみた。
彼の「犯罪理論」はすべての人を「凡人」か「非凡人」に分け、「非凡人」はあらゆる犯罪をおかし、勝手に法を踏み越える権利をもつとするもの………ポルフィーリーはこうも指摘するのだ。
ポルフィーリーの過激かつ一面的な指摘に歴史的検証を加えれば次のような論証が成立する。
法の制定者や人類の指導者が新しい世界秩序をつくる作為はそれまでの社会が神聖であると認めてきた枠組みをぶっこわすことであるから、旧秩序からみればまさに犯罪行為である。しかし新しい社会体制ではその犯罪行為そのものが「正義」の実現行為であるとされる。また大きな正義を実現するプロセスでは捨石は必然的に発生するものだ。(ポリフィーリーはあえて的をはずしてこの負の面だけを言及したものである)たとえば新秩序の形成者によって日本に原爆を落としたのは「正義」の実現であったされる。いわゆるナポレオン主義だ。ただし、これは歴史事象をある断面に切り取ってみせたひとつの事実認識である。
変革者の作為は変革に成功して初めてその権利が社会的に認知されるであって、失敗すれば思い上がりの確信犯としてしっぺ返しを受けるものでもある。
ドストエフスキーにはナポレオン主義という表現はない。後に研究家がつけたものである。それによればナポレオン三世の著述にある、歴史を変えるような偉大な英雄・指導者は神が地上に遣わせた天才であり、彼は諸国民と対峙して神の命に従った事業を短期間で完成させるとする考えに由来する。
ドストエフスキーの描く人間は真・善・美の完成体ではない。もっとなまなましい偽・悪・醜が混じりあった存在のはずだ。そう思えば、きれいごとで飾られたナポレオン三世のこの思想は実にいかがわしいものだと気がつく。選良たちがよかれと成し遂げる事業の反作用は累々たる屍の山を築くことに他ならない。天才たちといえども生身の人間であるからこれら犠牲者から発せられる怨嗟の重圧には決して平然としてはいられないのだ。そしてナポレオン主義は大いなる錯誤であるのだが必要とされる自己欺瞞なのだ。ナポレオン主義の実体は自分たちのこの醜悪な行為を隠蔽し、無言の譴責から自己を弁護するために用意された究極の砦なのだ。彼らは強い思い込みにより錯覚を錯覚として気づくことのない、そして破綻のない自己欺瞞を完成させている。
ところで、倫理的、宗教的、政治的、この世のあらゆる秩序を拒否していたラスコーリニコフはそれに替わる世界を自ら作り上げようとする意思はなかった。彼は理想とする世界がどういう世界なのか、イメージすら持ち合わせていない。貧乏人を苦しめる金貸しの老女を殺すことでひきかえに何千もの命を救う?あるいは強奪した金を将来の正義の実現の元手とする?それはラスコーリニコフの意図した犯罪ではない。
ラスコーリニコフはポリフィーリーがなした挑発的指摘を否定はしなかったが次のような論旨を展開している。非凡人には法を踏み越える権利があるといっても公的な権利ではない。「彼らは(非凡人は)自分の思想のためにもし死体や流血といった事態を踏み越える必要があれば、ぼくの考えでは、彼らは心の中で良心に従って、流血を踏み越える許可を自分に与えることができるんです。」
これがラスコーリニコフ犯罪論の本音であろう。なんと謙虚な犯罪論であることか。ナポレオン三世の言う天才たちは国民に対してもっともっと傲慢だった。私はラスコーリニコフの犯罪そのものは終始ナポレオン主義と呼べるシロモノではないと思う。
にもかかわらず<思想のために><公的な権利のことではなく><自分の良心に許可を与える権利>などとした自己撞着的犯罪論は彼にとってなくてはならないものであった。ナポレオン主義は天才たちが社会的に通用させねばならない自己弁護のための論理だったのに対して、これは彼だけにしか通用しない屁理屈である。しかし彼だけには通用させねばならないと彼の内心が用意した「自己弁護のための究極の砦」だったところでナポレオン主義の実体に相通ずるものがあるのだ。
では彼の犯罪はなんであったのだろうか?