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軽い。ゴフマンの提示した枠組みを、日本の広告のジェンダー分析に応用。1982年に出版されたものが、この度岩波文庫から復刊された。この間出たばっかなのに、ブックオフに並んでて、ポイント使って、1円で購入した。良い記念にはなった。
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もう30年以上も前に発売された、上野千鶴子の処女作。
人間関係は、コンピューター技術に比べればその変化はゆっくりしているとはいえ、大きく変わってきている点もある。
その一つが「女は小柄でそれを大きな男が管理する」という「常識」。これは結婚(や離婚)したママタレ本人や家族の言動から崩れかけている。小柄な肉食系妻が背の高い夫の居ぬ間に若い子をお持ち帰りした事件がいい例。
もちろん、まだまだ希少ではあるが、もう二次元だけの話ではないのだ。
いい、悪いは別にして。
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おもしろい。そしてデジャブ感がある。講談??はたまた牧師の説教??(御両親がキリスト者であられる)
真偽のほどは別にしても・・・と思わせるくらい、読み手を魅了する。処女作らしい。あの栗慎の勧めもあった・・ということで、本当の処女喪失であられなければよいのですが・・・(ゲスの勘ぐりですが)
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上野チズコって下品なオバサンという印象しか持っていなかったが、書いてあることは普通のマトモな事だった。
大昔読んだ裸の猿の続編みたいな内容。30年も前に書かれた本だが、草食系男子の出現や、化粧する男の出現を予言しているのは見事。
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1982年カッパブックス刊。相互行為論というのを研究しているアメリカのアーヴィング・ゴフマン(1922-82)の書いたgennder advertisements という1976に書かれた本をもとに日本版応用編を書いたもの。「性からみた広告」という訳でいいのか? 1980年に刊行されたマスメディアに登場する商業広告ー「アンアン」「ノンノ」「モア」「ミセス」「プレイボーイ」「ポパイ」等に載ったものを対象にしている。広告にみられるポーズ・行動を通してそのメッセージを読むというもの。
広告からは男女の「らしさ」ごっこが伝わり、その演じ合いは対等ではなく、女は演技者で男は観客で現実社会の力関係を現しているという。そして広告は時代の一歩先を行くのはいいが三歩先を行っては受けてにメッセージが伝わらないという。なので広告はその時代の了解事項を示しているので広告分析はその時代の典型的な考え方の基準が表現されているという。
広告には魅力的な女性が多く登場するが、それは男から男への、女を媒介にした欲望のメッセージだという。女性向け商品であっても購買力のあるのは男という前提で、女性が登場する。女性が女性を見るときには男の色眼鏡をかけるー「男の目からみたらきっとセクシーに見えるに違いない」と。一方女性はセクシーな女性を見ても不愉快にはならず、モデルに同一化してナルシズムを味わうというのだ。
これらは女性にとってはなんか目にゴミが入ったような生活上の違和感として現れるのではないか。それを上野氏が論理的に明解に書いてくれる。
上野氏の第1作ということで、これからの数ある著作の側面があらわれている。
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案の定、あらゆる意味で「昭和」な本。
無理もない。本書が初めて世に出たのは1982年。男女雇用機会均等法が成立する4年も前、テレビの中では女性たちがあられもない姿でバカ殿様に弄ばれ(それもゴールデンタイムに)、世間では「アイドルはトイレに行かないしオナラもしない」という神話がまことしやかに囁かれ(トイレにも行くしオナラもする一般女性にはハタ迷惑な神話だったはずだ)、挙句に「据え膳食わぬは男の恥」と誰もが当たり前のように公言して憚らなかった、そんな時代だった。
だから上野が「女はつらいよ、それに比べて男は…」と手を変え品を変えて主張してても、文化の型を「女っぽい」とか「男っぽい」などと性差の言語でばっさり二分してしまってても、当時の事情を鑑みれば致し方ない。社会的弱者から反乱の狼煙が上がるときは、たいてい現実を故意にデフォルメして一面的な「強者vs.弱者」の図式で語られがちだから。それに、本書はちょうど日本で第三次産業が成熟し、働く女性の権利が社会的に認知され始めた時代のさなかで執筆されたもの。こうした時代の趨勢と上野の分かりやすい構図がぴったりマッチングしたからこそ、本書は累計11万部という驚異的な売り上げを見せたのだろう。
それだけに、今の目から見れば本書の記述がやや古めかしいのは否めない。何しろ本書にはフロイト顔負けの性欲一元論が溢れ返っているし、(上野自身も2009年の自著解題で認めているように)動物行動学の理論をそのまま無批判に使ってしまったりもしている。今の学界でこんな解釈を披露しようものなら、鼻で一笑に付されるのがオチだろう。
だがそれはそれ。探そうと思えば本書にも今に通じる魅力がたくさんあるはず。
たとえば、「父性社会」は力による支配だから弱者の「面従腹背」が半ば黙認されるのに対して、「母性社会」は愛による支配だからかえって面従腹背すら許されず、人の内面を隅々まで支配して無気力な社会にさせかねない、という指摘にはなるほどと膝を打った。人間自身がどこまで行っても不完全な存在だからこそ、葛藤を無理に消し去ろうとする社会より、葛藤をうまく処理する社会の方が断然良いというわけだ。
一般に母性愛が強すぎると、何事にも受動的で横着な男たちが出来上がってしまう。「面倒見のいいおかあさん」をいい歳こいて求め続けるジコチューで依存的な「潜在型マザコン夫」が。こうした夫に愛想をつかした妻たちは、今度は母として自分の愛のエネルギーを息子に一極集中させるだろう。その過剰な愛が、やがて第二のマザコン夫を作り上げるとも知らずに…。
要は、これが上野の見る母性型社会の問題点。
もちろんこの種の文化論的な話以外にも、本書は四方山話のネタの宝庫。これもまた本としての大事な魅力の一つだ。たとえば…
なぜ口紅はリップスティックという形状なのか。
なぜ男性のネクタイ姿が多くの女性に人気なのか。
答えは本書をご覧あれ。
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さりげないしぐさは社会的な記号、メッセージで満ちている。その根幹となるシステムは性差を利用・喚起させるもの。男っぽさや女っぽさ、それは単に生物学上の男女に関わらずに組んず解れつ、知ってか知らずか、互いに読み合い読ませ合い、システムのバランスを作り出している。
新書とかによくあるような、心理学的ハウツー本の学術方面からの先駆でありネタ本なんだろうなー。
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軽妙な語り口。なんとも。笑わずにはいられない(笑)限りなく男的目線な女による「男と女」についての分析だ。この本では大きな問題提起はないため、他の書も読んでいきたい。
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うーん。
女性論の第一人者が、「セクシィ・ギャル」について、
「女の読み方・読まれ方・読ませ方」について語っているですと!
って、手に取った一冊。
ショハナの小見出しが<「夫婦茶碗」のおそろしい秘密>から、<女が発情のお知らせ」をするとき>など、わくわくするようなもので、それもいなーと読んでみる。
ところが。
大きな章が5つあり、その5つがまたさらに、小見出しのついた細かな章組になっているんだけど、その小見出しごとに全部、読み切り?のような体裁になっている。
そうしてその各章が、上野先生の章のまとめで閉じるのだが、
なんともため息ともつかない愚痴のようなものであったり、強烈な皮肉であったりして、
たかだか230ページ強の中で繰り返されるのが、少し疲れたのも事実。
いわく、
『ただし無力な子供の側に立つのは、いつもメスなのだが‥‥』
『いずれにせよ、若い男女は、ますます現実逃避の麻薬患者の目に近くなっていくのである』
『劣位のサルのような複雑な笑いを浮かべながら、媚びてすり寄っていかなければならないのは、女の方なのである』
うーん、どれだけ行っていることが正論であっても、小見出しが28あってそのなかで、
のべつまくなしに愚痴と嫌みを並べられると、正論がかき消されてなんだか、
卑屈になってひねくれたおばちゃんと、膝付き合わせて永遠に終わりそうにない愚痴を聞かされている気分になろうと言うものだ。
女性がいかに卑下されていて、男性社会という男性目線のなかで、
媚びて自分を「受け容れてもらえる」商品として扱われていることか、
という論旨自体は悪いと思わないし、それをメディアや広告のなかで上手に浮き上がらせる
その作りは非常に読みやすい。
であればもっと、章をわけて例示しながら、上野先生のご高説はもうすこし、まとめてびしっと、章ごとに述べるとか結論とまとめの中で書ききれなかったものだろうか。
あともうひとつ。
読みながらどうしても拭いきれなかった違和感があり、それは、挟まれたビジュアル。
広告をそのまま転載する許可に問題があったのかはたまた出版社事情なのか、
挟まれたビジュアルが全部、イラストなのだ。
また、広告以外にたとえば明らかに文脈上、これは宮崎美子だな、と思われる、
グラビア美女もなぜか、イラスト。しかも申してはなんだが微妙な。
セクシィ・ギャル大研究として、女性の捉えられ方を視覚と記号で表した本書において、
そのビジュアルに画家の画力のせいで、ビミョウにバイアスがかってみえる、といったら、
怒られるだろうか。
写真ならまだしも、より個性や癖の出るイラストで、視覚的に女性論を支援しようとする試み自体に、あたしなんかは疑問を感じてしまうなぁ。
広告がそこにあるのであればそれを、写真があるなら素直に写真でいいと思う。
広告であれば問題もあるかもしれないけど、サルの威嚇の顔までイラストに��なくても。。
でも、ふと思って手元の岩波現代文庫を手にしたらそこにはイラストすら1つもなかったので、
もしかしたらこのシリーズの特徴かもしれないけれど。
ここに写真がばしっとあれば、それだけでちゃんと、広告や写真のいいカタログにもあると思うのになぁ。
なんとはなしに、文章の勢いの良さと、
それだけに浮かび上がらざるを得ない反イラスト(奇妙な)の微妙な不協和音ばっかりが、
頭に残ってしまう、読書でしたとさ。
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人と社会の解釈の仕方
「女を知る」ことをテーマに今回上野千鶴子の本を購入。結果からするとこれで女を知れたかというとそうではない、まぁ上野千鶴子という女をしることにはなったが。ただ、面白いのは非言語で示された状況からその意味を読み取ろうとする試みである。そこには普段の生活では意識していないけどもっと深くにある意味があるときがるということ。そうすると日常生活の見え方がまた少し違ったものになってくる。
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セクシィ・ギャルの大研究 女の読み方・読まれ方・読ませ方 上野千鶴子
上野千鶴子のデビュー作。もとはカッパブックスの一般向け書籍で厳密な議論ではないし、内容そのものも今となってはものすごく時代を感じさせるものの、さすがに読ませる面白い。お得意の家父長制やなんやみたいな重たい話は回避しつつも、表象論やら記号論やらの道具立てをうまく使ってざくざく切り刻んで手際よく料理していくのはすごい。
まあ、ニューアカってのはこういう手際の良さ比べみたいなところがあったので、そのお作法の通りではある。あの時代の流行りだったのだな。
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上野千鶴子の初めての著書という価値から岩波現代文庫に収められたのだろう。もともとはカッパブックスとして世に出たもの。広告類を中心に実例を挙げて社会の男の見せ方、女の見方を紹介し、多様性のないステレオタイプが蔓延していることを訴える。こういうのって、同性への視点と異性への視点とかあると思うけど、上野さんが書いていたように男は女を観賞物や性的対象としての目線で見るのに対して、女もまた女を見るときは男目線になっているというのはなるほど。もっといかがわしい広告とかも対象にしていれば、現代との違いが感じられたかもしれないけど、化粧品の広告とかメジャー雑誌の記事とかマスものではあまりそういう感じもしない。書中でもコピーがとんがってるわりにビジュアルが旧態依然というようなことが何度か出てくるけど、80年代初めも今もそのあたりはそんなに変わってない気がする。逆に言えば、そのくらい目で見ることのありようの大切さというか旧弊さというか、そういうものを感じる。
紹介されている広告や記事類が意外と今でも同じ文脈で読めてしまうのに対して、文調や書きぶりは隔世の感あり。軽~くナンチャッテ風に書くのは80年代の軽佻浮薄な社会のノリなんだろうし、短めの文章でつないでいくのはカッパブックスのスタイルなのかな。できるだけ軽くつくろうという感じがするんだけど、それだけにテーマのまじめさも伝わってくるような気がする。これって世の中全体の知性というか本を読む人率が高かったからじゃないだろうか。今の本のほうが大したもの感を出しながら内容は陳腐ってものが多い気がする。そんななかにあって光文社新書にわりと面白いテーマ、切り口のものが多いのもカッパブックスの頃からの伝統があるからなのかなと思ったりした。
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「情報生産者になる」を読んで本棚から1992年のカッパサイエンス版を引っ張り出しました。上野千鶴子が自ら処女喪失作という著作であり、彼女の良きにつけ悪しきにつけ名刺がわりの一冊でした。女性学という目新しい立場や現在でもまったく不変の挑発的物言いにイロモノイメージがあったような気がしますが、その後の四半世紀の研究と教育の立場で社会学を鍛え上げる、という仕事には尊敬です。「情報生産者になる」はその集大成であり、「セクシィ・ギャルの大研究」はそのスタートラインだったのかもしれません。使われる広告サンプルはとても古めかしく時代を感じさせますが、その後の時の流れは社会における女性の位置付けを変えたのか、変えなかったのか?人によって意見は違うかもしれません。例えば東京医科大学の入試の女性差別問題とか、何も変わってないじゃないか、ということになると思います。だけど著者の学問におけるポジションは周辺から中心に移行しているのだ、と最新作を読んで感じました。それにしても最初の一冊から炸裂している上野節(もののいいよう)は全く変わらないのは、彼女が受け止める人ではなく、仕掛ける人だから、なのだと想像しました。
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NHK 100分de名著 2021年7月はボーヴォワール「老い」を上野千鶴子が指南しています。
「そう言えば、上野千鶴子の著作は、これ一冊持っていたはず。」と、
初版1982年発行のカッパサイエンス版を読み返しました。
岩波現代文庫に収録されていることは、今検索して、初めて知りました。
僕が読んだのは、1986年4月1日発行の第9刷り。穢れを知らない(^_^)十代での初読でした。
カバーの袖の山口昌男と栗本慎一郎による紹介文を読むと、本書は「衝撃的」な内容だそうです。
僕にとっては、全く衝撃的ではありませんでした。
どこが衝撃的なのか、ワカリマセンでした。
なるほど、広告のポスターでの男女の描かれ方は「男が威張っている」と読み取れるわけね。
そのほか、いろいろ分析してありますね。
と思いました。
「それならば、僕も機会があれば注意しましょう。」
と、高校の行事では性差別的な役割分担がないように留意し、自分の結婚式の時は、親族の紹介など新郎側と新婦側とで、先になる機械を均等にしたり工夫しました。
これらの事から類推すると令和になった現代において、「今の若者は」と言われても、今の若者の皆さんは何が言いたいのかワカラナイことでしょう。
例えば「草食男子」と揶揄されるのも、意味不明だと思います。
わかるのは「あんたがた、年寄りは、いろいろ偏見があったんですね。」ということでした。
第3章「女は「曲芸」に生きる」
の
「やらせる女」は「いい女」か
の議論が気になったので記します。
人間の性行動の解釈について、
学界では結論が出ていない二つの仮説を併記しています。
「攻撃と服従」
「ピースフルなコミュニケーション」
本書では(性行動に於いて攻撃的ではないであろう)ビートルズのジョンレノンが子どもをもうけていることを指摘して「ピースフルなコミュニケーション」説を支持できることを匂わせています。
本書が世に出た後、LGBTへの理解が進み、動物行動学が長足の進歩を遂げたので、
この二点についての記述は、大目に見る必用があります。(この二点を指摘して、否定するのは難癖の類いになることに留意が必要です。)
その他の点、例えば記号論としての記述は、現代でも通用する、と言うか、前提として認識するべき基礎知識になっていることに驚きます。
今で言えば「ノン・バーバル・コミュニケーション」の指南書としても読めます。
ちなみに性行動が「攻撃と服従」なのか「ピースフルなコミュニケーション」なのかについて、学界での結論が出たのかどうか、僕は存じ上げませんが、
僕が思うところでは(個人の少ない経験からですが)
「人によって、どちらかを常識として捉えている」
ということではないか、と思います。
「男は、性行動によって征服欲を満たしている」
と考える人もいれば、
「男も女も、二人で親密な関係を築きたいと思っている」
と考える人もいるように思います。
男については僕はワカリマセン。(男を���の相手として付き合ったことがないので)
女性については、歴代の彼女については、半々だったように思います。
「あんたの、征服欲を満たしてやるわよ。」(攻撃と服従と捉えている)
と言う態度で臨む人と、
「一緒に楽しみましょう。」(平和的な交歓と捉えている)
と言う人とが、
ちょうど同じ人数でした。(全部で何人か、は言いません(^_^)、そんなに多くないです)
「男は征服欲を満たしたいはず」と考える女性は「二人で仲良ししましょう」と言う男性の性に対する態度があることは思いも寄らないようでした。(必ず男は征服欲を持っている、と信じて疑わないようでした。)
このあたりが、相性があうかどうか、と言うことなのでしょう。
ただし、男はあまり相手を選ばないので、この感覚が不一致でも結婚して平然と性生活を営んでいる人もいて「たくましいな。」と思います。僕はうんざりして(その相手とは)子どもをつくりたくなくなってしまいましたが。