紙の本
人間関係を読み解く
2017/01/14 13:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:でぃー - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会学という学問的見地から人間関係を読み解いていく本著。コミュニケーション偏重の世の中となっていきている現代において、これから私たちが「どのように」していけばいいのかというよりも、その前に、「なぜ」このような社会になっているのか、というのを考えることができる。第2章「アイデンティティからキャラへ」は必読である。
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「キャラ」って何だろう?
単に性格みたいなものか? 「外キャラ」と言えば外面のことで、「内キャラ」は本当の自分、なのかと思っていた古いワタシ。
でも単にそんなものでもないらしいし、外キャラ・内キャラが形成される背景に著者の土井隆義さんの言う「排除型社会」があると言う。多様過ぎるが為に似たもの同士の結束が苛烈になる現代。他者を認めないほどに。
人間なんて100パー同じものは有り得ない。排除排除を繰り返すと、突き詰めると独りになっちゃうよ? でも人間独りじゃ生きていけないんだから、適当なところを見つけ出して妥協して折り合ってくのが、人間関係、なんじゃないかな。私が言うのも激しく変だけど。
この手の本は、読んでいてどんどん怖くなってしまうのだけど、同じ本の中に希望が見出せないものが多い。ちょっとだけでも何か、明るいものが欲しい。
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仕事の討論会のための資料。
「ネオテニー」「文化資本」
この二つのキーワードが両方のってる。
ということで、この本を参考に討論のテーマを作成させていただきました。
非常に参考になりました。
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土井氏がこの本を執筆する前に書いた「友だち地獄」と比べ、紙幅の関係からか内容が若干薄いという印象を受けた。
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確かに言うとおりである。
現代は、係わり合いの薄い「やさしい関係」であるが故に「表面的なキャラ」を演じて、さらに自分がどういう人間であるか「内面的なキャラ」を模索している。
多種多様な価値観があるが故に、相手のキャラを決めてしまうことで、ある程度の気楽さがある……。
で、だからと言って、どうすればいいのか、がよく分からなかったので閉塞感だけが残る結末であった。
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現代は、交通機関の発達で移動が便利になった反面、意図時にウォーキングでもしないと足腰がよわりがちな時代です。同様に、ネット環境の発達でコミュニケーションが便利になった反面、雑多な人間との出会う機会を意図的にでも設けていかないと自己の耐性力も育ちにくい時代なのかもしれません。
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[ 内容 ]
価値観が多元化した社会で感じる閉塞感。
気遺いに満ちた「優しい人間関係」のなかで圏外化におびえる恐怖感。
ケータイやネット、家庭から学校といった日常は、過剰な関係依存と排除で成り立っている。
子どもたちにとって、現実を生き抜くための羅針盤、自己の拠り所である「キャラ」。
この言葉をキーワードに現代社会の光と影を読み解き、「不気味な自分」と向きあうための処方箋を示す。
[ 目次 ]
第1章 コミュニケーション偏重の時代(格差化する人間関係のなかで;コミュニケーション至上主義)
第2章 アイデンティティからキャラへ(外キャラという対人関係の技法;内キャラという絶対的な拠り所)
第3章 キャラ社会のセキュリティ感覚(子どもと相似化する大人の世界;子どもをキャラ化する大人たち)
第4章 キャラ化した子どもたちの行方
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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現代社会の人間関係にいきづらさを抱えている人にぜひ読んでいただきたいかな。
考え方の違う他者に対して排斥してしまう部分を自分の中に誰しも少なからず持っているはず。
現代社会は豊かになるにつれ、それをますます助長させている。
その原因や病理について述べられている。
土井先生の書いた、友だち地獄や非行少年の消滅を読みましたが、この本はそれら二つの融合した部分に加え、最近の問題について綴られている。
この本が社会学的か否かについては少し恣意的であり、著者が対象としている年代に自分が含まれていても、共感しえない部分も少なからずあったため、微妙なラインかな、と思うが。
しかし考え方的には大筋同意できる。
薄くてサッと読めるので長めの論文といった感じ。
面白かった。
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若者の人間関係に関する本。
「若者は自分に好ましい物と人間だけを選択し、彼/彼女らの経験世界は狭小化の一途をたどっている(手に入る機会と情報は増加しているにも関わらず…)」ことを喝破した1冊。
現代は個人の「個性」が重視される社会である。そこでは、共通の価値観による序列化が意味をなさない。もはや、出自や学歴の違いは彼/彼女らにとって関係ない。というのも、それは自分とは完全に異なる世界の人々の話で自分達には関係ない話なのだ。世界は自分の周りの集団・トライブで完結する。
このような社会では、社会からの拘束は働かない(『春の雪』『ロミオとジュリエット』のような)。自分が所属する仲間の間での人間関係に関心が集中し、その人間関係に縛られるからである。もはや、抽象的な他者(世間体)を気にするのではなく、具体的な他者のみを個人は関心にもつ。
その結果、「若者のネオテニー化」「キャラ化」が進行する。勝てて加えて、この現象は若者だけに起きているわけではない。動揺に、大人の間でも惹起しいるというのが議論骨子。
疑問に思った点は2点
①1970年代から「個性」重視が始まる→高度消費社会→画一的な商品の消費から多様な商品の消費と言ってるけど…
80年代からじゃない?
②経験世界が狭小化しているのは部分的には事実。ただ、世界を拡大化している人も増加している(山田昌弘が言うように)。問題なのは人間関係格差なのでは?
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ケータイの端末が「圏外」表示になるだけでパニックになる高校生がいる―そんな文章からこの評論は始まる。
若者に見られる人間関係の格差とは。カースト化された人間関係と現代のキャラ化社会とは。
現代社会の新しい形について読み解き、新しい人間関係にメスを入れた斬新な評論である。
本書が提言する現代の人間関係の在り様とは、結論から言うと、新宿命主義と寄りどころの無い存在論の発生である。
自己肯定の場が極端に減った現代において、人々は閉じたコミュニティーを形成し、そしてその殻に閉じこもる傾向が増えているといえる。だが、内部では表面上の個人が互いを「キャラ化」するという行為をしていて、決してありのままの自己を発する場ではない。
ここに外自己と内自己の乖離が生まれる。積極的に自己を押し出すのではなく、コミュニティーを平穏に保つために、ある意味では自己を殺して他者と交流するというのだ。そうした行為が現代では無意識的に行わている。
キャラとはアイデンティティと同一ではない。自己の根源であるアイデンティティとは同質にして異質なものである。つまり、キャラは場所によって自己を証明するためのものにはなるが、自己を確定させるものではない。あくまで、場に合わせたインスタントパスポートのようなものであり、その意味でキャラは別の場では流用が効かない。
何故なら、キャラは成長しないからである。
「あの人はああいう人だ」という評価を貰えるのは限定的な場所でしかない。少しでもキャラがズレてしまうともはやその場での自己は崩壊してしまうのである。
コミュニティー内では必ずキャラが必要となる。ペルソナ、と言ってもいいだろう。キャラを保っている間は自己が否定される場面は遭遇しない。
だが同時に自身のアイデンティティを発露できない。ここから寄りどころの無い自己が生まれる。
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(「BOOK」データベースより)
価値観が多元化した社会で感じる閉塞感。気遺いに満ちた「優しい人間関係」のなかで圏外化におびえる恐怖感。ケータイやネット、家庭から学校といった日常は、過剰な関係依存と排除で成り立っている。子どもたちにとって、現実を生き抜くための羅針盤、自己の拠り所である「キャラ」。この言葉をキーワードに現代社会の光と影を読み解き、「不気味な自分」と向きあうための処方箋を示す。
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キャラ化する子供たちかあいそう
単純なキャラを固定化することで、自我?を保ち生きていく子供たち。宿命主義的な子供たちは幼い頃から自分のアイデンティティを固定するから、叱られても効かないし、言う事を聞かなかったりするのかなと思った。
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<子ども>たちとたくさん接してきていた身としては、すべてに首肯できるわけではない。
でも、確かに一つの見方なのだとは思う。
かつては、アイデンティティ(自己同一性)を確立するために若者はもがき、
現代は、キャラを確立させるために、もがく。
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時代性という言葉を闇雲に使うのは嫌いなのですが、嫌おうが避けようが確かに時代が作り出すものはあると思う。
90年代末~00年代が高校~大学時代だったのだけど、
特に90年代末って、崩壊への憧れとか破滅の美しさとか、そういうものがもてはやされていた気がする(そういうものばかり自分のアンテナにひっかかったともいえる)。
そうして、なんとなく、いつかこの世界が美しく消えるという幻想というか希望の中で、自己の裡へ裡へと潜っていく。だからこそ他者との関係性というのは、今思うと、必死で痛々しいまで「己」を守って崩さないようにするものだったような気がする。
それが今は、キャラという他者に保証されないとなりたたないものに変わっていっているようだ。だが、他者といっても、完全なる他者ではなく、自分´とも言いえるような不完全な他者からの認証を得なければならない。
難儀な時代になりましたね。
印象的だった部分。
しかし、よく考えてみれば、コミュニケーション能力ほど、その評価が他社の反応に依存するものはありません。コミュニケーションとは、その原理的な性質からして、けっして自分の内部で完結するものではなく、つねに他者との関係の総体だからです。コミュニケーション能力は相手との関係しだいで高くも低くもなりうるものです。それは、じつは個人がもっている能力ではなく、相手との関係の産物なのです。(P28)
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最近、00年代後半の小説をよく読む。
90年代J文学(!)と言われた風潮の中にあった、美しい破滅、というのはどうもないらしい、確かに世界は変容したけれど、一瞬にして世界が崩壊することはあり得ないらしい、ということを知ってしまった後の小説は、なんだか酷く絶望的で、諦観にあふれているような気がする。
うん、たぶん、自分が選んでいる本の傾向。
90年代J文学にあった、あの破滅への憧れみたいなものは、ある種の希望であり、ある種の救いであったのだと思う。さて、すでに10年代。これから何処へ向かうのか。
自分の中の読書史がぽっかり空いた00年代中盤~後半の本をゆるゆると読みながら、これからを見ていきたいと思います。
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ブックレットと言うだけあって、かなり薄い本。しかし、内容はしっかりしているという印象。
今の若者が、なぜ「キャラ」という形で人格を形成し、その上でコミュニケーションをしようとしているのか、その理由を垣間見ることができる。
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卒業論文で『<非行少年>の消滅』を参考文献で読んで以来、ずっと気にしてる社会学者の一人。
本が薄いので、そんなに時間がかからずに読めます。
問題の原因を個人の心に求めていたのでは解決にならないんじゃないかと思っているので、大筋納得のいく文章でした。
サカキバラ世代なんですが、土井氏はこの15年くらいずっと違和感を感じている事に淡い光を見せてくれた気がする。
もう少し読み込んで、整理をして、自分の血肉としたい。