- 出版社:講談社
- サイズ:20cm/248p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-06-215772-8
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商品説明- 「ヘヴン」
「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら—」驚愕と衝撃、圧倒的感動。涙がとめどなく流れる—。善悪の根源を問う、著者初の長篇小説。【「BOOK」データベースの商品解説】
【芸術選奨・文部科学大臣新人賞(第60回)】【紫式部文学賞(第20回)】「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」 少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に救いはあるのか。善悪の根源を問う長篇小説。『群像』掲載作品を書籍化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介- 「ヘヴン」
川上 未映子
- 略歴
- 〈川上未映子〉1976年大阪府生まれ。2007年デビュー小説「わたくし率イン歯ー、または世界」が芥川賞候補作となる。同年坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。08年「乳と卵」で第138回芥川賞受賞。
書店員レビュー- 「ヘヴン」

気鋭の芥川賞作家の...
ジュンク堂さん
気鋭の芥川賞作家の初の長編。主人公は十四歳の「僕」、テーマは苛めと友情。僕とコジマは友情を徐々に深める。しかし二人は級友からの徹底的ないじめにあう。暴力をふるわれ、従うしかない二人は涙を流しながらかばいあう。
そして物語は別々のクライマックスへ。ひとりは爆発をともなう驚愕の、もうひとりには静かな結末が。ふたりに訪れた「善悪の彼岸」は何だったのだろうか。
いっぷう変わった設定と、独特のリズム感で文学界に旋風を巻きおこした著者が、最も現代的で切実なテーマに挑みます。
ユーザーレビュー- 「ヘヴン」
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/10/08 00:12
川上未映子の多才さ、深さを証明して見せた力作。今から、次作が楽しみ。
投稿者:JOEL(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
川上未映子は本物だ。作家としての天分をまぎれもなく持ち合わせている。大阪弁を駆使した独自の文体で世間を魅了してきた作家が、本作で、いよいよ長編小説に取り組んだ。
本書は標準語で書かれている。かなり苦労して長編を書き上げたようなので、ハラハラしながら読み進めた。もしや小説としてのほころびを感じさせるものになっていはしないかと。
しかし、そんな心配は無用だった。前半こそ、物語の筋書きを淡々と綴っている。が、後半に入るあたりから、川上未映子らしさが行間にあふれ出始める。
いじめられている生徒といじめる側の男子生徒の哲学的問答はかなり読み応えがある。凡庸な作品ならば、いじめにあう主人公が男子生徒に反撃に転じる場面になるだろう。本作はそうではなく、逆に男子生徒からの理詰めの問いかけに主人公は追い込まれ、答えに詰まってしまう。
このあたりは、「世界」というものと自分の存在の関係性を根底から問い直そうとする、川上のかなり掘り下げた作業の投影に思える。
ほかにも、思想・哲学に関心が深い川上ならではの意識の断章が散りばめられている。こうした箇所に敏感に反応できるかどうか、読者の哲学的素養が試されるとも言える。
本作には、川上の根源的な問題意識が巧みに織り込まれている。締め切りに追われ、無理に仕上げたような作品とはほど遠い完成度の高さだ。
作品の最後は、映画的なビジュアルシーンで締めくくられるが、川上が読者に届けた数々のメッセージの回答は安易には提示されない。読後も考え続けねばならない問題として存在し続ける。
川上のエッセイを読んでいると、若い女性作家のおしゃべりの饒舌さに、あるいは楽しみを覚え、あるいは当惑する。しかし、川上は、実はもっと深いところで思索を重ねていることを教えてくれる。とても初の長編小説とは思えない作品の仕上がりだ。
音楽家や詩人としての経歴も持つ多才な川上が、このまま作家としての歩みを進めるのかどうかは分からない。しかし、今は、スター性あふれる作家の誕生を素直に喜びたい。
トークショーで見た川上は、その魅力を会場中に発散させていた。マイクなしでも響きわたる力のある声は、どんな壁でもうち破りそうな勢いがあった。
「こりゃ本物だ」。眼前の川上を見つめながら、繰り返し、そう思わずにおれなかった。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010/10/12 08:00
前言語的なものとしてではなく言語の見せる夢としてのヘヴン、すなわち現実
投稿者:こぶじいさん(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書を読んでいたところ、気になる文章が2箇所あった。「僕」とコジマとの間で文通が始まった後の、初めて二人きりで会った「あの日」以降の手紙の文面が挙げられる場面の文章と、文通が続く中で迎えた夏休み、それの終わる9日前に「僕」とコジマが会っている場面の文章である。引用しよう。
僕の目は斜視だった。
左目に見える輪郭に、右目がかろうじてひろっている輪郭が重なって、なにもかもがぼんやりと二重に見えるのだった。そのせいでなにを見ても奥ゆきを感じられず、すぐそこにあるものをさわるのにも、うまく距離感がつかめなかった。指さきで、手で、なにかをさわっても、ちゃんとさわれているのか、正しくさわれているのかどうかわからない感触がいつも残った。
(16-17頁)
コジマはそこまでしゃべってしまうと、しばらく黙ったままじっとしていた。しばらくふたりは手すりにあごをのせたまま、町をおろしていた。
(88頁)
本書評は、上記引用文の何が気になったかを述べていきたい。
はじめに一つ目の引用文についてである。この引用文で気になることは2点ある。ひとつは文末の「た」に関することであり、もうひとつは斜視の説明に関することである。
まず文末の「た」に関して。『ヘヴン』は引用文に限らず、地の文が必ず「た」で終わる。なぜ、「僕の目は斜視である」とではなく、「僕の目は斜視だった」と書かれるのだろうか?
その原因としては2通り考えられる。一つ目は、地の文は、ひいては『ヘヴン』は回想だというものである。「僕」は斜視を直す手術を受け、術後に目を覆う包帯を外す(その場面で『ヘヴン』は終わる)のだが、『ヘヴン』は、斜視が解消されて以後の「僕」がそれ以前の思い出を語る回想だ、というわけである。この原因によると、『ヘヴン』はその結末以後における現在から、その現在自身と対比するかたちで記憶が語り出されていることになる。
原因の二つ目は、地の文は暗に記憶と対比された今語りだというものである。「僕」は物心ついた頃は斜視でなかった(その証が、或る写真に写った特定の人物を、産みの母として「僕」が同定することである)のだが、『ヘヴン』は、現在斜視である「僕」が斜視になる以前を暗に踏まえつつ現在を語る今語りだ、というわけである。この原因によると、『ヘヴン』は文中における現在から、その冒頭以前における過去と対比するかたちで思いが語り出されていることになる。
以上、地の文の文末が「た」で終わることの原因として考えられることを、2通り挙げた。もっとも、2通りとはいえ、どちらの原因とも地の文の語り手が「僕」であることには、言い換えれば、『ヘヴン』が「僕」に開かれた世界であることには変わりない。これは指摘しておきたい前提である。
ところで、この前提のもとで考えると、おかしなことに気づく。それは二つ目の引用文にかかわる。そこで二つ目の引用文についてである。この引用文で気になるのは1点である。なぜ、「僕たちは手すりに…」とではなく、「ふたりは手すりに…」と書かれるのだろうか? 『ヘヴン』の地の文は「僕は」と書かれてあることが多く、そのことから、地の文の語り手が「僕」である(『ヘヴン』が「僕」に開かれた世界である)ということが示唆される。そしてそのとおりであれば、「僕」を描写する場面では「僕は」とか「僕たちは」と書かれるべきである。しかし、引用文には「ふたりは」と書かれてある。この「ふたり」とは「僕」とコジマの二人であるのに、「僕たち」と書かれてはない。なぜ?
この問いへの回答として思いつくのはこうである。「僕」はコジマと同じく小説の登場人物に過ぎず、地の文は小説の作者や読者の視点から、『ヘヴン』に登場する人物たちにしてみればいわば神の視点から語り出されている、と。つまり、「僕」という言葉は「コジマ」というような人名の代わりに過ぎず、加えて、『ヘヴン』は特定の登場人物に開かれた世界ではなく、いうなれば中心なき世界である、というわけである。
その回答が拒絶され、『ヘヴン』はあくまでも「僕」に開かれた世界であるとこだわるならば、先の問いへの回答として思いつくのはこうである。「僕」は『ヘヴン』の登場人物ではあるが、しかしながらそれに尽きるわけではない、と。一つ目の引用文について気になることの1つ、斜視の説明に関して気になることというのはこの回答にかかわる。
斜視の説明に関して気になることとはこうである。左目に見える輪郭に、右目がかろうじてひろっている輪郭が重なって、なにもかもがぼんやりと二重に見え、そのせいでなにを見ても奥ゆきを感じられず、すぐそこにあるものをさわるのにも、うまく距離感がつかめず、指さきで、手で、なにかをさわっても、ちゃんとさわれているのか、正しくさわれているのかどうかわからない感触がいつも残る、このことがすなわち斜視であるということを、どのようにして「僕」は知ったのだろうか?
この問いへはこう回答することができる。眼鏡を着用し、そしてその着用前と着用後とを対比することによって、と。ただ、この回答によれば、眼鏡を着用した途端に「僕」は斜視であることを知ったことになる。
確かに、眼鏡を着用することは「左目に見える輪郭に、…」と自覚するための条件にはなろう。でも、それならこう尋ねたくなる。どうして「僕」は眼鏡を着用するようになったのか、と。それは、「僕」の身近にいた誰かに、「僕」が野球のフライ球を取れないときに「これはひどい斜視だ」と言われ、そして「斜視だから」と言われる中で眼鏡を着用させられたからではないか。眼鏡を着用するようになる以前、かように教えられることによってはじめて「僕」は自分が斜視であることを知ったのではないか。そしてそこを基盤に、斜視だから左目に見える輪郭に…と、あるいは、斜視だから「僕」の左右の目は別々の方向に向いていると、あるいは、斜視だから苛められると自覚していったのではないか。言語習得の観点からすればそういうことになる。ここで重要なのは、「斜視」という言葉が教えられるとき、教えられる側には斜視であるかどうかを疑う手掛かりなぞない、ということである。なお、教える側にしてみれば、「斜視」とはまずもって、左右の目が常に別々の方向に向いていることである。
さて、言語習得の観点を踏まえれば、一つ目の引用文についての問いへの回答はもうひとつ考えられる。なぜ地の文の文末は「た」で終わるのか、それは、前言語的なものから自身が言語的なものと対比されており、しかもその対比が自覚されているからである。それゆえにこそ、言語作品である『ヘヴン』の地の文の文末は必ず「た」で終わるのであり、要は、文末の「た」は何もかも言語化されてあることを示す完了形なのだ、と。この回答と対比するに、先に挙げられた2通りの回答はいずれも「斜視」という言葉を教える側に立った回答であり、この点では同類である。
前言語的なものでありながら言語的なものであることが、しかもそれに尽くされないことが自覚されるところ、そこがすなわち「僕」であり、そしてここがすなわちヘヴンである。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/10/24 15:39
輝かしい幻影の城が霧の中からすっくと立ち上がる
投稿者:あまでうす(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
私が中学生の頃も苛めはありました。なぜか大きな力を持つ実力者を中心にして権力者グループが形成され、彼らは非力な者、弱い者を次々に血祭りにあげ、暴力を伴ったその独裁的なパワーを誇示していました。彼らはどうやら地元の暴力団ともつながっていたようで、その暴圧には校長や教師も抵抗できないようでした。
幸い私はその番長とは妙な因縁で友好的?な関係をかろうじて維持していたので、直接の被害に遭うことはなかったのですが、家が貧乏でどことなく不潔でうろんな印象を与える同級生が彼らの哀れな犠牲者になっており、それはこの地方に古くから存在していた差別ともつながっていたようです。
この小説のヒロインであるコジマと斜視の主人公は、そういうエリート連中の哀れな標的となり、毎日のように殴る蹴るの手ひどい暴行を受けているのですが、そのことを誰に訴えることもなく無抵抗のまま耐えに耐え、されるがままになっています。
このように悲惨な苛めがどうして繰り返されるのかという問題について、作者は苛める者と苛められる者との間で形而上学的な議論を戦わせていますが、両者の主張はまったく噛み合わず、苛める側の論理も説得性に欠けますが、そんなことより、もしも当時私がこのような苛めを日常的に受けていたらどうだったでしょう。
きっと親兄弟にも先生にもなにも言えずに、この世の最も孤独な場所で立ちすくみ、繰り返される陰湿な暴力に命がけでひたすら耐えていたに違いありません。
そういう言語に絶する地獄であえぐ弱者同士の間にひそかに結ばれた奇跡の絆を、作者は限りない共感と優しさで一字一字を慈しむように描きます。平明で簡素な日本語が静かに紡がれるうちに、突如眼もくらむように高貴で輝かしい幻影の城が「法華経」の地湧の菩薩のように霧の中からすっくと立ち上がるさまはけだし壮観です。なんという文芸の力技、作家の力量でしょう!
そして苛める者と苛められる者との対立が頂点に達したときに、コジマがとった自己犠牲、凶暴な狼の群れに裸の子兎が自らを生贄として捧げるシーンは大きな感動を呼ぶに違いありません。
寄る辺なき子羊の生を根底から支えている絶対的な弱さが、窮鼠猫を噛む火事場の馬鹿力的な異常な強さとして立ち現れているのです。弱者はその弱さを武器として貫き通す時にはじめて健常者の無神経で無意識の強さに打ち克つことができるのだ、という作者の確信がこのクライマックスシーンに表現されているのではないでしょうか。
にもかかわらず主人公がこの世界とつながる、もっとも弱くてもっとも強い環としての「斜視」を捨てようとした瞬間に、幻の弱者同盟ははかなくも崩壊してしまいます。別れを告げてそれぞれ別の道を歩み始める若い2人は、そのまま今世紀半に訪れるべき新しいヘヴンを象徴しているようです。
♪あまりにも苦しみ過ぎた恋人たちはいまはただ二人で居るだけで幸せなのですシャガールの「誕生日」のように 茫洋
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010/02/27 17:38
作家の勝負服は「文体」
投稿者:栗山光司(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
川上未映子の『ヘヴン』はとても面白かったが、もし、作者の名前を隠して読んだら絶対に川上未映子だとわからなかっただろう。
芥川賞作品『乳と卵』にしろ、最初に読んだ『わたくし率 イン歯ー、または世界』でも、川上以外は考えられない文体が僕の脳内に粘着保存されて、「川上未映子だぁ~!」という文体が彼女の小説の真骨頂であり、誰も真似のできない文体世界がここにありと、自己主張し、彼女と文体の不即不離の関係性の強固さに、最早この文体で書きつづけるだろうと言う僕なりの強い思い込みがあった。それが、見事に裏切られたわけ。
改行の長い文体は息継ぎも思うようにゆかず結構息苦しくなって遅速読になるけれど、延々と濃密な独白が続く「未映子の世界」がエロチックでもあって、ハマッてしまう。
だけど、そんなマニアックな読者は多くはないと思っていた。『ヘヴン』が3万部も売れていて純文学として出足の早い売れ行きだと聞いていたけれど、あくまでも川上未映子独自の文体の延長線上で書かれたものだという思い込みがあった。
にもかかわらず、多くの読者に受け入れられたのかと不思議な気がしていた。もしそうなら、こんな嬉しいことはない。
そして、やっと手に取ったわけだが、冒頭でその疑問が氷解した。まるで正反対とも言ってもいい文体。改行が多い。息苦しくない。サクサク読める。思わず!「川上未映子さん?」って本に向かって問いかけていた。
「いじめる/いじめられる」問題はとても社会性の高いテーマだけど、川上はその社会性の底を突き抜けて「関係性→宗教性」(哲学)まで届く重いメッセージを若者たちに配達しようと強い使命感を持ったが故に、このサクサク読める文体を選択したのだろうかと、僕なりに解釈した。
もし、そうなら、純文学で何万部も売れることは希有のことに近い現況の出版事情の中で、かような文体を選択したことは素直に良かったと思う。
せっかく自分なりに発明した独特の文体を放擲して自分の色を消して新しい文体で小説を書くことはとても勇気のいることだったと思う。
そして、この新作の文体が、僕にとって「作者当て」が出来ない無個性とも言ってよいものだから、この『ヘヴン』を書くための限定された文体ではないかと言った疑念も僕にはある。極端に言えば「匿名性」に近い文体だと思う。
『ヘヴン』はより多くの人々に届けたかったのだろう。そのために選択した文体だと言う作者の戦略だとしたら、作者の強かさに脱帽する。
だって、僕はとても面白く読むことが出来たし、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」とカウントされる現代思想をしゃべくる若者たちにも小説『ヘヴン』は誤読されようが、ちゃんと届いている。
特にいじめる側にそんな何も信じることが出来ず、欲望も不確かな「さびしい若者たち」が登場する。理屈で不安を補強する。
だから、視点を変えれば、「いじめる/いじめられる」側が逆転する予感がある。逆接の構造を読むことも出来る。
主人公のぼくは「コジマ」と「いじめる」の間で揺れ動く。
次作は『ヘヴン』の文体で書くのだろうか、それとも『乳と卵』の文体か。歌手でもあり、女優でもある小説家はその都度、変幻自在に二刀流で使い分けることは「川上未映子」らしいとも言えるかもしれない。
マニアックな好みの僕は『ヘヴン』をデビューで選択した「こてこての未映子弁」で読んで見たい気もする。
特に『ヘヴン』に登場する女の子のコジマは、「こてこての文体」にしっくりすると思う。
そんな勝負服の文体で描かれた「ヘヴン」は強度を持った衝撃度があると思うけれど、多くの若者たちが引くかもしれない。
でも読んでみたい。せめて続刊で『続ヘヴン』が上梓され「文体の挑戦」がなされ、ぼくとコジマの行く末を追ってみたい。
葉っぱのBlog
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/10/27 18:34
理屈はないよ、いじめたいからいじめるだけなんだ。この思い上がった、現代に跋扈する異質なものたちを見よ。なすすべなく、ただいじめられている者たち。生死の淵に追い詰められたいじめ被害者は宗教的救済を確信するしか道はないのか?それとも………。
投稿者:よっちゃん(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
斜視である「僕」は中学生で同じクラスの少女「コジマ」とふたりで陰惨ないじめにあっている。いじめにあっている同士の短い手紙の交換、会話にならない言葉のやり取り、非常階段でひっそりと肩を寄せ合う。二人だけの世界がやるせなく淡い夢のように描かれるが、それはいつ壊れるかもしれない繊細なガラス細工を見ているようで落ち着きを欠いて、むしろ不穏な空気が漂っている。「僕」の名前は紹介されないし「コジマ」は小島なのか児島なのか?「ヘヴン」?それは「コジマ」に誘われて二人でたずねた美術館にある絵なのだそうだが「僕」は結局見損ねたままで終わっている。天国を指すものではなく、とてもつらい悲しいことのあった恋人たちがそれを乗り越えてたどり着いたしあわせの住まいだと「コジマ」は言う。
「僕」の日常生活は学校でも家庭でもそうなのだが、ぼんやりした夢幻の世界であって、そこにいる本人ですら曖昧模糊とした存在でしかない。凄惨極まりないいじめが繰り返される。その細部の描写、そこだけが圧倒的リアリティをもって読者に迫りくる。精神的、肉体的苦痛に叫び声を上げもだえる「僕」。しかし、外の世界へその悲鳴を伝えることをしない。なぜそうしないのかと私は読んでいていたたまれなくなる。だが「僕」はいじめられるだけの存在でしかないのだ。いじめ問題については一通りの知識はある。しかし、いじめられる側の人間性がとことん否定され、追い詰められた究極には自らがその存在感を喪失する………ことになるのかと、これほど凄まじい筆圧で突き詰めた(それは理屈ではなく著者の鋭い感覚でもってなのだが)いじめ小説に衝撃を受けた。
「僕」といじめる側の百瀬との激論。「僕」はなぜいじめられるのかと、必死になって、勇気をふりしぼり、人権を前面にした常識的で健全な主張をする。百瀬はしかし、欲望のおもむくままにいじめたいからいじめるのだと、残酷に「僕」をやりこめるのだ。そこにあるのはいじめる側の狭い世界にしか通用しない、剥き出しの粗野な感情だけなのだが………。
私たちの世代でも百瀬のような異物は存在した。しかし、私たちはそれを有害物として当然に排除する体質を持ち合わせていた。アナクロと言われる前にあえて当然の体質だと言っておこう。だから異物が存在していても局所的であり、まして、まるで神になったかのごとくなすその独善を容認するような世の中ではなかった。ところがいつの頃からであろう、「僕」の厳粛な宣言を平気で揶揄する空気が生まれてきたのは?異質な存在が常態化し、異質を排除する免疫力が喪われてきたのは。
そしてもうひとりのいじめられる存在「コジマ」がある。彼女はクサイ、キタナイ奴といわばいじめられる典型として冒頭には登場するのだが、彼女を特異な存在とする著者の意図が徐々に明らかにされる。「僕」へのいじめがエスカレートするにつれ、寡黙で感情に乏しかった彼女は饒舌になりヒステリックになっていく。「コジマ」は「僕」に熱っぽく語る。ぼろや汚れたものをまとい、風呂にも入らず、食うものも食わず、そしていじめられる。それは意図的にそうしているのだと。「コジマ」はあえていじめをそのままに受け入れ、彼らを許すことによって世界を善なるところへ導こうとする存在なのだ。
タイトルが暗示する宗教的雰囲気が濃くなっていく。ただし私にはカルト的いぶかしさも感じられるのである。「僕」にそんな彼女を敬遠するそぶりがあったのだろうか。それは読者の想像にゆだねられる。
そして彼女の変貌にはまさに鬼気迫るクライマックスが用意されている。「コジマ」の全存在をかけていじめ集団に立ちはだかる彼女。キリストの聖性と神がかりの魔性が同居したようなぞっとする凄さはとてもこの世のものとは思われない。
ラストではたぶん、読者は救いを感じることになるのだろう。
「僕」にとっていままで存在しなかった世界と繋がったような光が見え始めるからだ。
どうして光が見えたのだろうか、
どんな光だったのだろうか、
と思い巡らす深い余韻が残った。
究極の「コジマ」を体験したためだろうか。
「コジマ」が愛した、そのままでいることを請われた斜視を、自分の意志で手術したこと、それがある種の呪縛からの解放だったのか。
単に劣等感のおおもとであった斜視が治ったためだろうか。
継母であるがさりげなく母であったことの発見。それが現実世界との接点であることに気がついたからかもしれない。
そして「コジマ」の言う向こうの世界・ヘヴンは見えたのか。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010/11/03 17:51
川上未映子「ヘヴン」、大きな問いかけを含んだ問題作。
投稿者:オクー(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
去年の話題作。川上未映子を読むのは実は初めて。大阪弁の小説も知
らなければ芥川賞の「乳と卵」も未読だ。この物語はいじめを描いては
いるけれど、それだけではなく、さらに大きなテーマを含んでいる。
ロンパリとあだ名されいつもいじめられている斜視の「僕」、そして、
同じようにいじめを受け、「僕」と同志的なつながりを持つ女生徒コジ
マ。コジマは「僕」に対して、自分たちは弱いんじゃない、自分たちは
何が起こっているのかちゃんと理解し受け入れている、それは「強さが
ないとできないことなんだよ」と言い、いじめられながらも精神的にど
んどん強くなっていく。
「僕」はいじめる側の少年百瀬と偶然出会い「なんで、…君たちはこ
んなことができるんだ」と詰め寄る。しかし彼は、斜視なんてまったく
関係ないと言い「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいい
の。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあ
って、たまたまそれが一致したってだけのこと」「自分がされたらいや
なことからは、自分で身を守ればいいじゃないか」と平然と語る。百瀬
のこの長い長い語りは、あるところでは不思議なことに共感さえ覚えて
しまう。この物語で何より作者が語りたかったのはこの世界の理不尽さ
に違いない。「強者と弱者」「善と悪」、それだけでは片づけられない
人と人との関係。様々な価値観。ラストは明るく希望さえ感じる終り方
だが、胸の奥には重くどんよりとした気分が残る。その重さこそがこの
小説の価値なのだと僕は思う。
ブログ「声が聞こえたら、きっと探しに行くから」より
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010/02/07 23:43
美しくて哀しい切ない物語
投稿者:トグサ(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕のブログ記事より抜粋して引用。
川上未映子さんの本は初めてだったのですが、書評などでの評判がよく手に取りました。
結果、率直に読んでよかったと思いました。
イジメが主題の物語ですが、美しい文章で綴られ、切ない物語となっています。
「机も花瓶も、傷はついても、傷つかないんだよ、たぶん」
とコジマはつぶやくように言った。
「うん」と僕は肯いた。
「でも人間は、見た目に傷がつかなくても、とても傷つ思う、たぶん」
とコジマはさっきにくらべてもっと小さくなった声で言い、それきり黙ってしまった。
舞台
携帯も存在しない、ネット世界も介在しない1991年の中学校
登場人物
僕:斜視であり、毎日のように二ノ宮、百瀬たちにひどいイジメを受けている。
コジマ:家が貧乏であること、不潔だということでクラスの女子から苛められている女子生徒
二ノ宮:僕をいじめる中心的な生徒。「彼が冗談を言うとそこにいる誰もが笑った。」
百瀬:二ノ宮たちとともに僕を苛める生徒
物語のはじまり
ある日、僕のふで箱の中に、<わたしたちは仲間です>と書かれた紙が入っていた。
数通、手紙が送られて来た後、「会いたいです」と。
僕が会いに行くと、それはコジマであった。
「友達になってほしいの」とコジマ。
コジマと僕は、こそっり手紙をやり取りするが、教室の中では、コジマと僕は言葉も交わさず、目も合わさない。
題名のヘヴンとは
コジマがいちばんすきな絵のこと。
「その部屋はね、ちょっと見るだけだとふつうの家のふつうの部屋に見えるんだけど、そこはね、じつはヘヴンなの」
「天国ってこと?」
「ノー。ヘヴン」
(中略)
「その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの」
コジマはそう言うとためいきをついて目をこすった。
おそらくコジマは、このヘヴンの絵に描かれる恋人たちに、将来のコジマと僕の未来を重ね合わせているのだろうが、その心情を察すると、とても切ない。
このコジマが一番好きな絵であるヘヴンは、コジマの口から語られるのみで、僕は実際には目にしない。
このことは、この『ヘヴン』という物語の結末に暗示的である。
コジマがとてもすきだという僕の斜視に関して
引用すると
右目はだらりと目じりに流れて、あいかわらずどこを見ているのかわからなかった。不気味だった。
コジマが不潔にしている理由が好きな父親を忘れないためのシルシであり、それはコジマの意思によりわざとそうしているのであり、清潔にしようとすれば出来るのに対して、僕の斜視は幼い頃から存在し、僕は簡単には治せるとは思っていないのは、非常に対照的である。
そして、コジマは言う。
「わたしは、君の目がとてもすき」
苛めに対する三者の受け取り様またはその世界観、そして批評のようなもの
コジマ 「大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ。」
「あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
「あの子たちにも、いつかわかるときが来る」と何度も繰り返すコジマ。
百瀬
「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろ。したいからするんだよ。」と僕を苛めている理由を”たまたま”であることを繰り返す百瀬。
「だからさ、そういう阿呆みたいな嘘をたよらないでさ、自分の身は自分で守るしかないよね」
そう最近、読んだ宇野常寛の『ゼロ年代の想像力 』から僕なりに引用、解釈し、この『ヘヴン』という物語に応用するとしたなら、僕、コジマ、百瀬たちが生活しているこの1991年の中学校は、敵が誰で味方が誰でと割り振られた世界に安住しているわけではなく、“たまたま”選ばれた者がターゲットにされる、そして、次のターゲットは自分かもしれないバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に生きているのである。
次の百瀬の言葉は、相対主義が深く浸透した刹那的なポストモダン状況に我々が生きていることを意味する。
「弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ」
(中略)
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」
一方、僕はといえば
僕
僕は引きずりこみたくもないし、引きずりこまれたくもないんだよ。
この「僕の想像力」は、「世界から引きこもることによって、誰も傷つけたくない」という「九十年代の想像力」と呼ばれるものなのだ。
宇野常寛が指摘するように、バトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に対しては、この「引きこもり」の態度は通用しないのだ。
「頑張ればなんとかなる、我慢していれば、明るい未来がきっと来る」というコジマの想像力は、「昭和の想像力」と呼べるかもしれない。
ラスト近く、コジマが二ノ宮、百瀬らいじめっ子に対して取った態度は、立派であるし、感動的であり、神々しいのだが、それはやはり、それはいくつかの物語で見てきたものと変わらぬ「昭和の想像力」の限界ではなかろうか?
僕の「九十年代の想像力」とコジマの「昭和の想像力」、百瀬の「ゼロ年代の想像力」による世界観は、結局、交わらずのまま物語を閉じる。
確かに、爽やかな終わり方であったが、ここには宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で模索したバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界を終わらせようとする想像力はなかった。
僕の批評のようなものに少しでも興味をもたれた方がいれば、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力 』を手にとって欲しい。
なんだか厳しいようなことを言いましたが、この川上未映子さんの『ヘヴン』は美しい文体で書かれた読んで損は絶対にない物語となっています。
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010/04/05 20:42
ひょとすると川上未映子の作品の中で最初に選ぶべき小説ではなかったのかもしれない。
投稿者:yama-a(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
芥川賞をもらった頃に巷間伝えられたイメージから、もっと破天荒な設定の、荒唐無稽な文章を書く作家だと思っていた。たとえば途中で世界が歪んで今までのストーリーがどっかへ飛んでしまい、訳は分からんけどなんか面白いとか、文法も時々むちゃくちゃになるけど妙にイメージだけは的確に伝わってくるとか、勝手に僕はそんな小説を想像していたのであった。
ところが、読み始めてみると、かなりオーソドックスではないか。そうなって来るとそうなって来たで、今度はなんだか無性に物足りない気がしてくる。読者とは真に勝手なものである。
描かれているのは、ひと言で言ってしまうと(本当はひと言で言ってしまっては身も蓋もないのだが)中学校でのいじめの話である。主人公は斜視の少年。恒常的にいじめを受けている。そして、いつからかその少年に親近感を覚えて彼に近寄ってきた同級生の少女・コジマ。彼女もまた「身なりが薄汚い」という理由でいじめを受けている。
どこにも突飛な設定はないし、ぶっ飛んだ表現もない。いや、むしろ、地に足がついた感じで、オーソドックスに巧い作家であることが解る。
しかし、そうなってくると逆に、読み終わったときに「これで終り?」という印象が残ってしまうのである。終わり方は悪くない。と言うよりむしろ巧い。けれども、こういう風に静かに進んだ小説であれば、最後まで読んだときにもっと大きな驚きがあることを期待してしまうのである。例えば小説が進行する中で途中まで書いて放棄されていたことが、最後に全部繋がって一気に謎が解けるみたいなエンディングを。
それを思うとこの小説には、表題になっているヘヴンの正体をはじめ、いくつか書きっぱなしのまま最後を迎えてしまったことが多すぎるように感じてしまうのである。
いや、最後に帳尻を合わせることが全ての小説に求められるというわけではない。わざと放置したままぶった切るように終わるのも小説の一つのテクニックではある。
しかし、勝手にぶっ飛んだ作家を想像していて、いざ読み始めたら裏腹に正統な小説であったとき、どうしてもなんだかこのままでは済まないという気がするのである。真にもって読者というのは勝手なものである。
ただ、この小説は終わり方がすべてという小説ではない。この小説の白眉は、むしろいじめる側の少年である百瀬が極めて身勝手ないじめる側の論理を展開するシーンではないだろうか。このあたりはなかなか深く胸に食い込んでくる。
この深さが最後まで持続するからこそ、想像と違って少し面白味に欠けるような気がしながらも、きっちり最後まで読めたのである。
僕のような勝手な先入観なしに読み始められた人は、当然もっともっと面白く感じたのかもしれない。ひょとすると川上未映子の作品の中で最初に選ぶべき小説ではなかったのかもしれない。
by yama-a 賢い言葉のWeb
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2011/06/14 02:33
哲学を学んだ川上未映子らしい内容だと思う
投稿者:チルネコ(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
川上未映子の作品が苦手という方は多いかも知れない。実は僕もそうだ。それは作品の内容というよりも、あの独特というか奇を衒ったというか、作者の意図はわからないが読者にはなんだかな~と思ってしまう文体にある。関西人の僕でさえあのコテコテ感はいまどきどうだろうと思ったくらいだ。まぁああいうのに時代はないのかも知れないが、受け入れがたく何作か挑戦したがどれも読書を頓挫せざる終えなかったというのが本音である。
だが、今回のこの『ヘヴン』はそういう関西人風の語りではなく、いたって普通に標準語で書かれてある。なので、これが最後だと思って読んでみたが、なんと読了できたのである。これには嬉しさがこみ上げてきた(笑)関西弁の作品ももしかしたら内容の方は読むに足るものが濃縮されてるのかも知れないが、読了してないのでわからない。だが、本書にはちゃんと作品に流れるエッセンスがあり脱個性してくれてよかったなと思う(苦笑)
だが、これも個人的には評価の難しい作品となってしまった。物語のテーマは〔いじめ〕で、主人公である【斜視】の僕と女子でいじめられているコジマのいじめの描写、そしてこの二人の関係性の育みにほぼ終始する。いじめの描写がエスカレートしていったりするので、物語だけなぞって読むと残酷性ばかりで痛々しい。だが本書のそれは川上未映子にとっての表現の手段のように映り、真のテーマは〔善と悪〕を描くことにあったように感じれるだろう。なかでも圧巻なのは僕が百瀬といういじめ側NO.2と一対一でいじめる側VSいじめられる側の論理をまじ合わせるところ。もちろんいじめを普通に考えるといじめられる側にも理由があるというような論理に一理もなく、いじめる側が悪いというのが倫理だろう。だが、本書のそれはどちらが善で悪というような白黒つけるのではなく(白黒つけるために書かれたなら問題作だ)、善と悪は相対的なものだというものを表現したかったのではないだろうかというのがひしひしと伝わってくる場面だった。
考えて見て欲しい。どちらが善でどちらが悪かというのは、ある程度の問題ならばいじめの問題に関わらずしっかりと判断できるのではないだろうか?戦争はどうだろう?政治は?経済に差別に、原発は?悪い、あるいはよくないと思っているにも関わらず、許容してしまっていることはないだろうか。またはわかってても個人だけではどうにもできない問題があるのでは?そう考えるといじめは社会の、世界の縮図だというのが本書によって理解せざる終えないだろう。主人公だけでは立ち向かおうとしようがなんだろうが、どうにもできないのだ。だがそれだけならいじめの小説で終わらせてもいいわけで、そうしなかったのが主人公と百瀬の理論合戦なのだ。百瀬の理論武装は一見こじつけや自己の正当化にしか見えないが、主人公の論理は無残に打ち砕かれてしまう印象的な論理展開としている。となると、作者はいじめを肯定する気はもちろんないと思うことを考慮すると、いじめというもんを相対的に描きたかったとしか捉えようがない。もしいじめ肯定するんだったらいじめる側の視点から描いたほうが斬新だし、かといってしたら糾弾されるからできないだろうし(苦笑)やっぱり哲学の影響を受ける著者だけあって、いじめに関わる両者の言語化は価値あるものだったと思う。
だが、ラストのこれはなんだろうか?理論合戦の部分で「いじめに斜視は無関係だ」みたいなセリフがあったのに、斜視が○○で斜視が好きだったコジマが突然いなくなったら途端新しい世界が開けちゃったの?これって視覚的な世界において?ないとは思うけど、心理的な開放感とかなのだろうか?百瀬の言葉があったにも関わらずラストがこうなっちゃったのはただの逃げだ。美しくもないうえに、何も変わらずこの光はすぐ暗に戻ってしまうのがわかりきっている。著者自身が答えを捻り出すことができずに、無難に収束させちゃった感しかなく残念でならない。まぁ、やっぱり物語とし読むなってことなんでしょうね(苦笑)ということで、結論としては物語として読んだら全くの駄作だが、文学と捉えるならば一定の価値は見出せる作品だと思う。
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2009/11/29 19:45
「ヘヴン/書籍」その向こうにあるヘヴンを見たい
投稿者:soramove(男性|未指定) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「同じクラスでイジメに遭う「僕」と「コジマ」
ふたつの無垢な魂が小さな密室で汚されていく、
大阪弁でちょっと変わった文章を書く川上未映子が
イジメという今日的なテーマを大阪弁を封印して挑んだ作品、
予約して届くのを楽しみしていた作品、さっそく読み切った」
物語はクラスの仲間から徹底的に苛められている
「僕」によって語られ、
「私も同じだよ」という手紙から
同じクラスで苛めにあっている女子「コジマ」と
ひっそりとした手紙のやり取りで
つかの間の安らぎを覚える中学の日々。
人はどこまで他者を蔑むことができるだろう、
そして人はどこまで他者からの蔑みに耐えられるのか。
イジメの中心人物が勉強も出来、ルックスもいい少年というのが
気になった、たぶん実際だとこういう少年はその中心にはいなくて
少し離れた所から「困ったな」という気持ちで
見過ごすのじゃないだろうか、
でもそんなことはどうでもいい、この密室で行われた事は
彼らのその後の人生にどう影響するんだろうか。
そんなことが気になった。
こんなことがあったことも忘れてしまうよ、
そこでそう感じたかという気持ちを忘れるというより
そういう事実そのものさえ、記憶は無かったものと。
そうかもなと思った。
主人公の「僕」よりも
彼とわずかな触れ合いを求める「コジマ」という少女が
気になった、彼女が見せたかった「ヘヴン」が
どんなものなのか気になった。
さて、息を詰めて読み切って感じたのは、
これまでの彼女の作品との違いだ、
尖って、才気煥発、才能の発露を抑えられないような
彼女の文章は自分には重かったし、
女性としての文章を前面にしすぎているのが
息苦しかった、
今回は彼女は「文学」というものから真正面に向きあい、
「心の輝き」のようなものについての
彼女の考えを書ききっていると感じた。
イジメを扱いながらも、
ここにあるのはイジメへの
彼女の考えというわけではなく、
人が生きているうちに起こる数々の出来事も
そのうち「あったのか、無かったのか」
分からないように感じるだろうという
誰でも分かっている事実だ。
でも、まだ物足りない、
それは期待の値が高すぎて
着地点が予想の範囲でどうにも
心の奥を揺さぶられるというところまで
達していないのだ。
ただ今回の作品を読んで安心した、
フツーの文章も書けるじゃんと、
きっと彼女の頭の中には書きたい、書くべき
「物語」があふれているのだろう、
それを広く一般の読者に向けて
また新しい物語を読ませて欲しいと思った。
才能ってあるのだと、そのことは確かなようだ。
でもまだ届かない・・・・。
★100点満点で75点★
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