紙の本
丸山眞男の「庶民コンプレックス」
2010/04/24 10:14
17人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:相如 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今回、この『丸山眞男セレクション』を読んでいて、あらためて目に止まった一文がある。それは、「日本の思想」論文のなかの、理論は現実からの抽象であってそれを理論家は自らの責任において引き受けねばならない、という有名な下りのなかで、脚注のなかに書かれている、「私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから、「庶民の実感」に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある」(336頁)という一文である。丸山が自らの「庶民コンプレックス」をさりげなく告白している部分として、非常に興味深かった。
丸山眞男の読者で惹かれる部分は人それぞれであろうが、私自身についていえば、この日本における「庶民」なるもののドロドロとしたものを、何とかして理解して克服しようという執念である。それは、現在貧困活動家として有名となった湯浅誠が「日本社会の岩盤」と呼んでいるものに相当する。湯浅は日本で貧困者に対して執拗に続く「自己責任」言説について、それは「新自由主義」的なイデオロギーの影響というものでは決してなく、日本社会に生きる人々の人生経験や生活実感に深く根ざした偏見や固定観念に由来するものであるとして、それを「岩盤」と呼んでいるが、丸山が生涯をかけて格闘しようとしたのも、この日本社会の「岩盤」に他ならない。彼は同時代の左翼がそうしたように、日本社会の特質を「封建主義」「天皇制」の一言で済ませることでは満足できず、それを内側から徹底的に理解して自らの「庶民コンプレックス」を克服し、日本において「デモクラシー」の確立を阻んでいる「岩盤」の存在が何かを解き明かそうとしたのである。
かつて私は、日本人の精神構造の「病理性」を否定的に描き出そうとした丸山に対して、その日本人が共有している「病理」に、自分一人だけ無関係であるかのようなエリート臭を感じて反発していた。今でもそうした違和感がなくなったわけではないが、評価はかなり変っている。というのは、本当にエリート意識に凝り固まった人物であるなら、西欧の政治思想を研究・紹介して知的優越感を誇示するだけで満足し、そもそも日本の「庶民」がどのような「精神構造」を持っていようが、関心すら持たないはずだからである。だから私に言わせれば、丸山と対極に位置するのは彼を執拗に攻撃した保守主義者ではなく、むしろ表面的な主張はかなり近いはずの、イギリスの政治思想やフランス文学を学びながら、それと現実の日本社会との落差に葛藤しようともしない――ゆえに「庶民の実感」の前に易々と無条件降伏してしまう――知識人の存在であっただろう。
このように丸山は自らの「庶民コンプレックス」に真正面から向き合い、それを懸命に克服しようと、「庶民」のなかにあるドロドロとした部分をなんとか理解しようとしていた。それを説明するために、丸山が「抑圧移譲」「タコ壺文化」「古層」といった様々な概念を用いたことはよく知られている。正直なところ、その全てが説得的であるというわけではないし、既に多く批判されてきたように、ある種の本質主義を免れていないことも確かである。しかし、後に華やかに語られた「日本人論」が今から見ると古臭い印象が否めないのに対して、丸山のほうに依然として迫力・オーラのようなものを感じるのは、丸山が「庶民」の根源を何とか理解しようという葛藤および格闘の跡が、行間からにじみ出ているためである。
私は専門家でもコアな丸山読者でも全くないので、具体的な内容についての評価は控えたいが、今回の『セレクション』の解説に若干の不満があったとすれば、それが丸山の思想の内容の解説が中心で、なぜこのようなことを彼が語らなければならなかったのか、そして「デモクラシー」を日本で実践するに当たって彼がいかなる困難や壁に直面していたのか、という問題について全く触れていないことにある。かつて丸山は、一見混乱に満ちた孫文の思想について、「何を語ったか若くは何と書いたかではなくして・・・いかなる問題をもって現実に立ち向かったか」を理解するべきだと説いていたが(「高橋勇治『孫文』」)、当然それは丸山の思想にも適用されるべきはずであろう。
それにしても、この『セレクション』を読んで、つくづくやるせない気分になってきたのは、「万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだという考え方は、実は同じことのうらはら」(369頁)など、現在の日本における政治風景に依然としてそのまま当てはまる言葉が、あまりに多いことである。自らの投票で選んだはずの首相の「指導力不足」を嘆く声が全国に満ちている一方で、「参加して監視していく」という能動的な政治態度は、丸山の時代よりも明らかに後退しているように思われる。丸山が戦後日本で最も読まれてきた知識人であり、特にその熱心な読者だった世代が社会の指導層になっているはずであることを考えると、丸山が格闘してきた「岩盤」がいかに巨大なものであったのかを思わずにはいられない。
投稿元:
レビューを見る
「超国家主義の論理と心理」をはじめとした彼の代表的な文章をうまくまとめてあります。丸山眞男を持ち歩くのにとても良い本。
安保闘争を知っている世代はまさに体験として彼を知っているのだろうが、私は彼を原体験として知っているわけではなく、大学の授業で習ってはじめて知った。
しかし、昨今の日本の政治家の発言を聞いていると、氏が示した戦前の日本戦争に突入していった特殊性が根本では解消できていないことに気づく。
例えば、国家、国体を区別できない政治家。また、国家を「形式的秩序」としてとらえられない政治家。だからこそ「教育勅語はいいところもあった」などというのだろう。そういった、一級品の戦前の日本の課題の分析を読み解くことで、「超国家主義」の彼の指摘は、単なる過ぎ去った「昔の日本」への指摘ではなく、むしろ今日にその課題が残り、解消されず、再生産されているという我々の危機を知ることができる。
是非はあるかもしれないが、戦前、戦中、戦後にわたる彼の分析力と明快な文章は一度読んでみたほうがいいと思う。
投稿元:
レビューを見る
p.132(軍国支配者の精神形態)
東京裁判で巨細に照し出された、太平洋戦争勃発に至る政治的動向は、開戦の決断がいかに合理的な理解を超えた状況に於て下されたかということをまざまざと示している。むしろ逆にミュンヘン協定のことも強制収容所のことも知らないという驚くべく国際知識に変えた権力者らによって「人間たまには清水の舞台から眼をつぶって飛び下りる事も必要だ」という東条の言葉に端的に現われているようなデスペレートな心境の下に決行されたものであった。
p.154(同上)
千差万別の自己弁解をえり分けていくとそこに二つの大きな論理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。
(中略)
ここで問題なのは、自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度自体なのである。
(中略)
ここで「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。
p.162(同上)
軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層(引用者注:軍務課あたりに出入りする右翼の連中や在郷軍人その他の地方的指導者層のこと)に排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった「世論」によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで推し進めて行かざるをえなかった。三国同盟から日米交渉の決裂に至る一九四一(昭和一六)年の十月ごろにはもはや軍部自体が「国民」に対してひっこみのつかぬ境地に追い込まれていたのである。日米交渉において最も難関だった問題が中国からの撤兵問題であったということは既成事実の重圧がいかに大であったかを語っている。東条は来栖大使の米国派遣の際にも、この条項だけは絶対譲歩出来ぬことを繰返し強調し、もしこの点譲歩するならば「靖国神社の方を向いて寝られない」と述べた。(来栖三郎、泡沫の三十五年、七二頁)。松井石根もまた「大亜細亜主義」誌上で、「今にして英米と妥協しアングロサクソンとの協力によって事後処理に当ろうなどという考えを起して、どうして十万の英霊に顔向けを出来ようか。蓋し十万の英霊の名に於て吾人は絶対に対米妥協に反対である」(事変処理と対米問題、同誌、昭和一六年七月号)と気勢を挙げている。国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して「英霊」がおさまらぬというところまで来てしまった。過去への繋縛はここに至って極まったわけである。
p.213(「三たび平和について」第一章・第二章)
今や戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の悪も、戦争の悪ほど大きくはない。従って逆にいうならば、世界中の人々にとって平和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も実現されないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しな���。なぜなら、それを追求するために戦争に訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想を毀損してしまうからである。
p.246(「現実」主義の陥穽)
現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られていくものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。
p.269(戦争責任論の盲点)
天皇の責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判のウェップ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。しかし少くも国内からの責任追及の声は左翼方面から激しく定義された以外は甚だ微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の道義的責任を論じて退位を主張したのが世人の目を惹いた程度である。実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人びとまでが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを露呈したものはなかった。大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限を持ち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。事実ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでなかったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも拘らず天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果すところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追求し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚性支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起されるべき事柄である(具体的にいえば天皇の責任の取り方は退位以外にはない)。
p.306(日本の思想)
「國體」という名でよばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはやないし、またその「魔術」にすっぽりはまってその中で「思想の自由」を享受していた古い世代にもも��もとない。しかしその魔術はけっして「思想問題」という象徴的な名称が日本の朝野を震撼した昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如として地下から呼び出されたのではなかった。
p.425(現代における人間と政治)
現代において人は世間の出来事にひどく敏感であり、それに「気をとられ」ながら、同時にそれはどこまでも「よそ事」なのである。従ってそれは、熱狂したり、憤慨したり適当にバツを合わせたりする対象ではあっても、自分の責任において処理すべき対象とは見られない。
投稿元:
レビューを見る
丸山眞男は世間では「左翼知識人」という位置づけなのだろうか?しかし彼はマルクス主義では全然ない。ただ、兵士として原爆投下の日に広島にいたらしく、平和主義を主張していることは確かだ。
周到で学問的な冷静さにあふれた丸山眞男の鋭い分析を、せめて昨今の頭の悪い右翼連中に論駁してもらいたいものだ。
「政治的判断」の中では、「(戦後の)現状はケシカランから(戦前に近い形に戻そうと)改める」というのが現在の保守政党で、「何々を守ろう」と言っているのが革新政党である。という、パラドキシカルな状況を指摘している(377ページ)。
なるほど、日本で言われる「保守性」とは、現在ではなく過去の方向を向いているのに間違いない。
「「現実」主義の陥穽」には、講話論議、再軍備の問題に際し、いちばん頻繁に向けられる非難の言葉は「現実的でない」という言葉だ、と書かれている。
この言葉は、いままさに、原発を巡る推進/脱原発議論のなかでも繰り返されており、日本人の意識構造のキーワードなのだと思った。
丸山はここで言われる「現実性」を、(実際は多面的なはずの現実を)一面的にとらえたものであり、「既に与えられたもの=既成事実」としてとらえられたものだと指摘している。慧眼である。
「日々造られていくもの」としてのプラスティックな「現実」という側面に対する意識が、どうやら日本人には欠如しやすいらしい。
そのほか、福澤諭吉の相対主義的な考え方や、東京裁判での戦犯容疑者の証言から見えてくる、日本的官僚制度ふうの気質など、実に面白い、鋭い論評があふれている。
誰かにおすすめしたくなる本。
投稿元:
レビューを見る
「超国家主義の論理と心理」を学生の頃に講義のテキストとして読んだことがあるので、思い出して再読した。
まず日本の超国家主義は欧米とことなり政教分離が未発達のため精神の動員が起きたという。そして権威や権力の高低差は、天皇からの距離に応じて同心円状に広がるという。そしてそのような仕組みが戦争に荷担したという。
今の私達は戦争が肯定された理由を当時の国際関係や国力比から説明しようとしがちだが、極端な精神論が語られた当時を生きた者にとって隣人があれほど戦争に対して肯定的であったのかこそがリアルな問題点だったのだろう。
投稿元:
レビューを見る
「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」(丸山[1946=2010:80])
丸山眞男は戦後すぐに記した『超国家主義の論理と心理』の末尾を以下の一文で締めくくる。その3年後に記された『軍国支配者の精神形態』の末尾はこうだ。
「これは昔々ある国に起こったお伽噺ではない。」(丸山[1949=2010:184])
以後この調子が続く。ここに丸山の失望を読むことは簡単だ。が、もし失望してしまったのであれば、トゥホルスキーのように口をつぐみ、唖者として暮らしたであろう。そうならなかった丸山は何を期待し、何を実践したのだろうか。『超国家主義の論理と心理』で丸山は次のように言う。
「「新しき時代の開幕はつねに既存の現実事態が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。」(丸山[1946=2010:59])
二度あることは三度ある。では、同じことを繰り返さないためにはどうすればよいか、どうすべきか。それは、徹底的に「認識すること」あるいは「対象化すること」である。この姿勢を丸山は生涯貫き通した。であるがゆえに、丸山は日本人の思考の癖を極めて的確に認識し得た。では、われわれ日本人はどうか。そうではないだろう。ここに丸山を読む意義がある、と私は思う。
『「現実」主義の陥穽』にて、丸山は、我々日本人がこれこそまさに「現実」だ、と考えるその「現実」とは何か、ということを考察し、その落し穴を明らかにする。はじめに、丸山は「現実の所与性」を挙げる。現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られるものであるにも関わらず、日本人は前者のみに着目してしまうこと、それが「現実の所与性」が意味することだ。2点目に、「現実の一次元性」を挙げる。これは、現実の一つの側面だけが強調される、ということだ。たとえば、6割の日本人が、憲法改正に賛成しており、残りが反対していたとしても、後者を無視し、憲法改正が「現実的」である、と考えがちである、ということだ。丸山は以上2点より、次のように言う。「その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです」と。
以上より、丸山は国民が公平な判断を下すために、つまり現実を認識するために、以下3つの条件が充たされている必要がある、と言う。
1. 通信・報道のソースが片よらないこと
2. 異なった意見が国民の前に公平に紹介されること
3. 以上の条件の成立を阻む、もしくは阻むおそれのある法令が存在しないこと
さて、衆議院を通過した「特定秘密保護法案」であるが、これはどうみても、3に該当するだろう。何をもって「秘密」とするのか、それが明確に規定されていないため、たとえば、TPP問題、たとえば、原発問題等に関して、重要���情報が「秘密」として指定された場合、どうなるかは、火を見るより明らかであろう。政府から与えられた「現実」を受け入れることが「民主主義」であるという構図を知らない「現実主義的」主権者にはなりたくないですね。
投稿元:
レビューを見る
日本政治思想史と政治学の知見をもって戦後思想をリードした丸山眞男。その思考の特徴を示す代表的な論考を集め、丸山再認識への最良のエントランスを提供する。編者による鮮やかな丸山論収載。
投稿元:
レビューを見る
初めて丸山眞男の文章に触れた。難しい言葉を使ってるようで分かりやすい、面白い文章だった。第二次世界大戦期の日本人の精神その他についての彼の考えが目から鱗。こんな教授に出会いたかった。ほんのわずかだが自分がこの世に生を持った時間と彼がこの世に魂を残した時間が被っていることに感動。
投稿元:
レビューを見る
丸山真男の著作(講演も含む)集。
政治的な「思惟方法」について、その在るべき姿が模索される。
日本の伝統的な思惟方法の問題点として、際限のない「無責任」(これは、日本において、中核・機軸となる思想が欠落していること、自由な主体的意識が生まれていないことに一因を帰する)や、「現状追認」(「現実」という言葉が「既成事実」と同義に用いられ、現状の盲目的受容がなされてきた日本の政治にありがちな風景)といった点が、様々な著作において、微妙に形を変えながら指摘される。
講演録である『政治的判断』では
・政治的な責任というものは徹頭徹尾結果責任である
・政治から逃避する人間が多いほど、専制政治を容易にする
・選挙とは、いわば「悪さ加減の選択」であって、ベストを選択するプロセスではない
・「政局」とは「政界」と同義であり、「政局不安定」だからといって「政治的に(あるいは国民生活が)不安定」ということには必ずしもならない
などとして、政治的な思惟方法の理想形を、具体的に提示する。
日本政治の腐敗や政治的無関心等が日々問題視されるが、根本的解決の兆しはうかがわれない。
そうした問題を考察していくに当たり、本書から得られるものは大きいといえよう。
投稿元:
レビューを見る
130907 中央図書館
有名な「超国家主義の論理と心理」だけしか、読む時間はなかった。終戦直後に書かれたものであるから、その先鋭な時代断面の気分が根本にあるには違いない。それでも日本では「自己証明する論理体系もなく、アプリオリに権威を受け入れる」というのが執拗低音であるということが、70年後の我々でも素直に納得できる。
投稿元:
レビューを見る
丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)
(和書)2012年09月27日 12:28
丸山 眞男 平凡社 2010年4月10日
数ヶ月前に、柄谷行人さんの講演を聴きに行った。その時、丸山真男さんの話題が出た。デモについてでしたがなかなか面白い話だった。そして最近、片山杜秀さんの本を読んでいて又、丸山真男さんの話題が出た。柄谷行人や浅田彰以上の影響力を持った知識人だという話でした。
そうか今まで一冊しか読んでいない。佐藤優さんのお勧めで読んだ一冊きりだ。そしてあまり意味が分からなかったときた。それで入門編を兼ねてこの本を手に取った。そしたらなかなか面白いではないか!苅部正さんが嵌るのもわかるわかると言う感じになった。
なかなか面白く今、丸山真男を読むのは意義深いことだと感じる。
投稿元:
レビューを見る
丸山真男の論稿から代表的なものを掲載。50年代の第二次世界大戦の記憶がまだまだ生々しい頃の論稿において、日本における責任の所在のなさ(最終的に円の中心に天皇がいる)、現実を既定のものとして受け入れてしまう姿勢を論じていることに、時代を感じつつ、しかし今もアクチュアルに感じる議論が展開されている。
投稿元:
レビューを見る
日本の極端国家主義の特徴は、精神的な権威と政治的な権威が分かれていないこと。この極端国家主義が、国民を永きにわたって苦しめ、戦争に駆り立てたのだ。教育勅語で国家が倫理を押し付けるなんてけしからん。国家は宗教や信仰、思想に中立であるべきだ。▼慎ましやかでないし、むき出しの権力でもない。偉そうなのに小物。それが日本的な政治。東条英機などがその例だ。
※過度な一般化。歴史上の短期間の現象や特定の政治家の特徴を強調しすぎており、複雑な全体を一面的に切り取っている。
※日本特殊論。ここが変だよ日本人。日本人はこれこれの特徴をもつと指摘するのは喝采され、外国人がこれこれの特徴をもつと指摘すると「差別」「偏見」になる。
※反体制バイアス。
現実主義けしからん。「国際情勢など、現実を見れば、再軍備が必要だ」はだめ。再軍備反対。現実は所与であると同時に、日々造られていくものだ。「現実だから仕方ない」がファシズムに対する抵抗力をなくさせた。
※「現実主義」が何を指すのか不明瞭。「現実主義」は、国際政治学の「リアリズム」のことではないらしい。
憲法9条擁護。「国際情勢がきな臭くなったから改正」はダメ。制定された当時から米ソ対立は予見できていたはず。にもかかわらず、非武装国家を選んだことにこそ、画期的な意味があった。p.264
※平和主義の理想を誤って追求することがかえって戦争を引き寄せる。
各世帯にピストルを1つづつ配給すれば、権力や暴力にたいして自分の自然権を行使する心構えが根付く。これで「自衛権のない国民は何もできない」という再軍備派の言葉の魔術も効かなくなる。p.393
※外国のプロ軍隊に、素人市民がピストルでは応戦できない。国家は国民の生命財産を守ることを約束したのなら、軍事力の放棄(第9条)は国家の責任放棄であり、社会契約に違反する。
投稿元:
レビューを見る
断っておきたいが、本書を全面的にレビューはしない。例えば「超国家主義の論理と心理」を取り上げてしまったら、それこそ五千字以上の論文にならないといけないと個人的には思うからである。
先日5月3日の3年ぶりのリアル憲法集会に於いて本書の『「現実」主義の陥穽』(1952「世界」5月号)を話題にしていた。久しぶりに再読したくなった。今年はサンフランシスコ体制(安保体制)70年。正に70年前、丸山眞男は(軍隊の復活に反対している丸山に対して)「現実的でない」という言葉をよく使われたらしい。
現在日本の閣僚のほとんどが参加している日本会議が、「ウクライナは現実を突きつけた」と言っているらしい。
丸山眞男は、「現実的ではない」「現実を直視しろ」という主張には3つの特徴がある、と言っている。
①現実=既成事実に屈服しろ、という事に他ならない。それは容易に「現実だから仕方ない」に転化する。
②問題は多面的なのに、一面だけを強調する。
今回でもNATOへの批判は多々ある。例えばギリシャはNATOの戦車の動きを2週間止めた。ベルラーシでは、ロシアの戦車を止めるため、鉄道の信号システムを遅らせた人々がいる(その人たちがどういう処分を受けたかは明らかではない)。そういうことは報道されない。
「現実たれ、というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指しているのでしょうか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択しているのです」
③「現実的」と呼ぶのは、たいていは支配勢力。反対する人たちは、「観念的」「非現実的」とレッテルを貼られがちだ。「なんといっても昔から長いものに巻かれてきた私たちの国のような場合には、特に支配層的現実即ち現実一般と見做されやすい素地が多いと言えましょう」
そこから丸山は、1952年の情勢について滔々と述べて、再軍備すべきという主張がいかにリスクが多いかを明らかにする。
現代も、「現実を見よ」という勢力の次の言葉は、「だから改憲するべきだ」「だから日本も核兵器をシェアするべきだ」「敵基地攻撃能力を持つべきだ」という主張を次々と発するようになった。選挙を睨んでの発言であることは明らかである。
長いものに巻かれてはいけない。
投稿元:
レビューを見る
丸山真男の代表的な論考14遍である。
超国家主義の論理と心理
軍国支配者の精神形態
福沢諭吉の哲学
戦争責任論の盲点
日本の思想 等々
かつて文庫本や新書等で何度かトライしたが、その都度よくわからずそのままになっていたものが多い。その他初めての論文も含めて通読するなかで、丸山真男に対して今回はかなり理解が進み納得感があった。
先の大戦・15年戦争の総括を真剣かつ誠実に行なった政治学者という印象を新たにした。戦争責任の問題や軍部の無責任体制の解明など、日本の海外思潮受容の歴史特性まで遡って統治体制を政治思想や組織構造面から分析する思考の深さと明解さは秀逸なものを感じる。天皇の戦争責任の指摘には政治学者としての矜持や覚悟が滲んでいる、「退位以外になくうやむやな居座りこそ戦後の道義頽廃の第一号」。日本共産党の責任論はまだソ連社会主義への幻想に浸っていた時代でもあり、ファシズムへの批判の鋭さに比してまったく無内容であり、
日本の戦後リベラルに繋がる限界の萌芽をみる。
福沢諭吉の評価については、彼の「惑溺」に陥らない思惟方法と価値意識、多元的価値の知性による試行錯誤の過程が文明だとという主張、「世の中と交際を多くし議論を捏ねくりまわし進歩の先陣を切って世の中をデングリ返す」という哲学等が取り上げられ、日本の思想史における彼の価値を発掘し重要性を再確認した丸山の功績と意義はとりわけ大きいものがあると思う。
話は変わるが、丸山の超国家主義の「超」たる所以を思想信条や道徳・宗教の「私事」、倫理的実態としての価値内容をも国家主権の支配根拠においたという当時の国体をベースにした政治体制の分析は独伊と比較して十分納得できる。