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学校の授業では教わることのない、科学思考の方法論
2012/03/17 21:32
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
学校の授業では教わることのない、科学思考の方法論である。個別の知識は教わっても、その知識をいかにして得るのか、何がより正しい科学知識なのかをどのようにして判断するのか、その方法を教わるのは、大学の卒業研究の段階になってからである。今の時代でも師弟間での徒弟制度で教わらなければ本当に身につくものではない。この本を読んでも頭で分かる範囲内のことではある。しかし、知識を獲得するそのやり方や知識と理論の善し悪しを判断するやり方を、方法論という知識として知ることだけでも、さらには、科学に問えることや科学が答えられることの範囲や限界について知ることは、一大進歩である。
中学高校の段階からこの本の内容を知っておいてほしいものである。分かりやすく丁寧に書かれているから、中高生でも読める。科学技術は分からないといって敬遠し、普段は専門家任せになっていて何か問題が起きた時になってはじめて、身勝手に文句ばかり言う社会人にとっても勉強になることが書かれている。。
直接の関連はないが、福島原発事故においても電気を使い放題にしてきていながら、その背景となる問題については何の関心も持っていなかったことについて、反省させられる。
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科学的思考を身に着けるのに最適
2020/03/24 06:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:KazT - この投稿者のレビュー一覧を見る
「科学的に考えるとはどういうことか」について、様々な例を挙げてわかりやすく解説します。
そもそも科学とは何かという問いについては、「ちょっとでもより良い仮説を求めていく営み」であり「裸の事実を少しでも減らしていくこと」であることを読者につたえ、この活動に参加しないものが疑似科学と定義している。さらに、一般の人々には科学の中身よりも、科学とはどんな活動か、ということの知識を持つことが重要であると語ります。
後半では福島原発事故を例に、科学リテラシーについてのレッスンが行われ、まさに学校では教えてくれない市民にとって必要な「科学的思考」を身に着けるのに最適で非常に親切な一冊だと思います。
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とりあえずざっくり読みで終えたので,またいずれ読むつもりですが,戸田山氏の本はおおよそ面白くて,この本も面白い部類に入ると思うのですが,今回の本はしかしながら問題があるかなと思いました。テクノロジについて庶民も知らないでは済まない!ということをおっしゃっている。分からなくはない。でも,戸田山氏のように,起きている時間に本をたくさん読めるほど,世の中の人は暇ではないし,自分がやらなければいけないことを抱えています。
科学・技術のある程度のことはきちんと調べましょうというスタンスは,僕には「上から目線」に思えました。
お金を出してラーメンを美味しく食べている科学者は「ラーメンが一体どういう具材から,どんな調理の仕方でできているのか」をきちんと調べてからラーメンを食べているとは思えません。知りたいと思ったらラーメンのことを調べる。調べるかどうかは本人の自由。専門でないことを調べるというのはそういうことですよね。でも,科学・技術は専門でない人も知っておかなきゃならんというのが「上から目線」だと思うんです。ラーメン屋が「ラーメンを食すならば,ラーメンの勉強をせよ!」なんて言ってたら,きっと客は入りません。
ざっくり読みなので,この本の真意とは異なるのかもしれませんが,「素人目線を維持した専門家になりましょう!」というのがまず基本だと思います。裁判員制度も裁判に一般の感覚を入れるために導入されたようですが,裁判官が一般の感覚を持ってないというのがおかしいと思わないといけないのではないでしょうか?
みんな忙しいんです。自分の範囲の生活で必死なんです。そういうことを考えると,僕(一応,科学者のはしくれ)は,「りっぱな市民になれ!」なんてとても言えません。
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市民のための科学リテラシー。豊富な例を交え,平易な語り口で,科学哲学のポイントを紹介。科学と社会について考える上で知っておくべきことが網羅されてる。著者には初めての新書ということだが,意外。他にもいい本をいろいろと書いてる。
科学リテラシーとは,科学の扱う個別的内容ではなく,科学という活動について理解すること。「科学でわかったこと」を教わるだけでは,科学を理解したことにならない。どうしてこんな大事なことを「学校で教えてくれない」んだろ?
各章末にまとめがついていて,分かりやすい。二分法的思考は排除すべきこと,科学は真理ではなく少しでも良い仮説を求めていく活動であること,科学によってさまざまな現象について体系的な説明が可能になること。超心理学が科学になれないのは,「現在の科学的見解と反する現象」を対象とする時点で科学であることを自己否定しているから。
科学に用いる推論には,真理保存的な演繹と情報量を増やしてくれる帰納・類推・アブダクションなどがあって,これらを組み合わせる仮説演繹法が強力な道具になっている。仮説の検証には,はっきりした反証条件を定立しておくことが大事。後付けで仮説を修正することで理論を救う態度は,あまり多用すると科学ではなくなってしまう。検証実験は適切なコントロールがなされていなければならない。相関関係と因果関係は異なる。こういったことを踏まえたうえで,本書第二部では,市民の科学リテラシーをどう社会に活かしていくのかを論じる。かなり良い本,オススメです。
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科学的思考をするための基礎がつまった良い本.第I部では科学的な考え方を支える「科学を語る言葉」が丁寧に定義され,主に科学史からの例によってわかりやすく解説されている.普段,わかったつもりで使っていることば「仮説」「理論」「検証」「実験」などがあらためてその内容が精査されていくのを読むと,頭の中がすっきり整理されて実に気持ちがよい.第II部ではそれらを具体的な問題に適用し科学的思考の訓練をする.取り上げるのは原発問題だが,巷にあふれる感情的、情緒的な議論ではなく,どのような考え方が科学的なのかを説明し,そして科学者が答えられない科学の問題があることを明らかにした上で,自分で考え,自分で判断することの重要性を説く.その基盤になるのが科学的リテラシーであるというのはとても説得力がある.
新書というパッケージが堕落する中,久しぶりに中身のある新書を読んだ気がする.こういう本が森博嗣の「科学的とはどういう意味か」くらい売れるといいのだけど.
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「科学的に考えるとは?」について様々な概念や具体例を学びつつ、最終的に「科学者ではない市民のための科学リテラシーを身につける」ことが目標の作品。今後僕たちが歩むべき道を照らしてくれる灯台のような存在と言っても過言ではない。(長江貴士)
▼『ジセダイ』140文字レビューより
http://ji-sedai.jp/special/140review/20111216.html
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科学的に考える方法をわかりやすく解説してくれる良書。このような方法論は学校で教わる機会が殆ど無く、あったとしても大学4年の卒論研究のとき以降だろう。しかも、その時でも体系的に教わるわけではない。今後の教育改革の時には、教育内容を幾らか削減してでも、是非このような科学的思考法を義務教育か高校で教えるようにしてもらいたいと思う(どうせ細かな知識なんて受験が終わったらすぐに忘れるわけだし...)。というかむしろ早急に、文科省は戸田山さんに意見を仰いで指導要領を作成に着手すべきだと思う。そのような教育がなければ第2部で著者が示すようなデキル市民を増やすことはできないだろうし、科学技術立国うんぬんにも災いするだろう。
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ダイオキシン、環境ホルモン、遺伝子組み替え、そして原子力発電所。日々進歩する科学技術は時に市民の生活を脅かします。何か起きたとき市民は科学者に説明を求めますが、科学者の言うことは難しく、曖昧に聞こえる表現ばかりでわからない。わからないから主張の中身ではなく、派閥論・陰謀論などわかりやすい物語に落とし込んでやいのやいの不毛な言い争いが生じることになります。本書は科学者の説明をどう理解したら良いのか。また科学技術を専門家に任せるのではなく、市民が科学技術をコントロールする重要性を簡潔に紹介しています。以下、気になった部分を独断と偏見で。
第1部 科学的に考えるってどういうこと?
・科学的説明・科学的にものをみるとはどういうことかを説明。
・理論と事実を二分法的に捉えてはいけないこと(事実の観測にも理論的背景が存在する)。
・科学は原理的に「真実」を明らかにすることはできず、より確からしい、ただしいつか覆される可能性を含む「仮説」を探っていくものである。
・したがって、原発事故などの際、大衆は科学者に「危険か安全か?」を問いかけるが、科学的な説明では危険とも安全とも答えられない。どうしたって、グレーゾーンにとどまる。またそうしなければならない。
第2部 デキル市民の科学リテラシー 被ばくリスクから考える
・市民による科学技術のコントロールの重要性について解説
・「餅は餅屋」。科学技術のことはそれぞれの専門家に任しておけば良いのだろうか。素人は専門家に判断をまかせて、何か起きた場合には専門家に文句を垂れれば良いのか。断じてそうではないというのが著者の意見。なぜか。
①専門家は、対象とする分野を絞っているからこそ「専門家」なのである。科学者は政治・社会・経済的な総合的な観点からの判断などできない。無理にさせれば、おかしなことになる。
②問題の多くは市民が知りたいことのフレーミングと専門家のフレーミングの齟齬から生じている。知りたいことを市民がフレーミングし、科学者がフレーミングにあわせて適切な情報をすることで意思疎通の困難は解消されるだろう。
③素人は知識がないから適切な判断ができない?ということはない。重要なのは科学技術に関する知識ではなく、科学的な見方である。わからないことがあれば専門家に聞けば良いのであって、市民は知識を深めるより、専門家に適切な問いをなげかけるスキルを磨くべきである。
「市民」て誰?
・科学技術をコントロールする市民って誰なんだろう?最後に著者のイメージする市民と大衆の違いを述べる。『事故で満員電車が止まったときに、駅員に詰め寄って文句を言うのは「市民」ではありません。「大衆」です。復旧の手助けをするか、せめて復旧作業の邪魔をしないように努めるのが「市民」。あるいは、年金不祥事が起きたときに、年金を納めるのが嫌になったというのが「大衆」で、どうしたら年金制度を再建できるかを論じるのが「市民」です。』
・確かにおっしゃるとおりで、問題はどうやって市民を養成するかだろう。一つには、教育現場において小学校か���「市民的」態度で議論する練習をさせることが重要だろう。スウェーデンなどではそうした取り組みが進んでいると聞いている。また、一方そうした教育を受けてこなかった我々大人に対しては、なにかの課題について「市民」的な議論ができる場と材料を第3者的な立場から提供できるNPO、コンサルなどが重要になるのではないかな。
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理論=仮説と事実=真実の2分法を避けよ、という話から始まる。
逆にすべては仮説と考えるところから起きるペシミズムにも、「よりよい仮説を」という歯止めをかけてある。
読みやすい語り口ながら、周到な本だと感じる。
疑似科学と科学の境目を決定するのは難しいが、反証可能性を封じるのは「疑似科学的」ふるまいである、とこの本にある。
我々「科学のシロート」である一般人にはプラクティカルな判断基準だろう。
ある事柄を実験で明らかにするには、実験群と対象群が必要であることや、相関から因果関係を短絡してはいけないという話は、これまでにも知っていたことなので、特に書き残すことはなかった。
ただ、本書に頻出する「デキル市民」(ちなみに、市民とは「対話を通じて社会を担っていく主体」と規定されている)という用語には戸惑いを感じる。
何となく、「お前たちはよい子だから、こうしろ」という、老獪な脅迫を感じてしまうのだが・・・
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小生、とっても信頼をおいている著者。でも、そんな姿勢もこの後半部を読むとダメなんかなぁと。「デキル市民」は「科学的思考」をもって自分の頭で考えて行動しなくちゃいけない。なるほど前半部を読めば「科学的思考」がつく。科学哲学、メディア・リテラシーなど。小生としてはこれをどう伝えるかが課題。
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良くできた教科書だと思います。戸田山さんは教科書的な本を書くのが好きなのかいつも上手いと思います。内容的には一般向けと言うことで,多少なりとも科学哲学を囓った身としては物足りなさもありますが。しかし,科学哲学っていわゆる哲学じゃなくなって来てるんだなぁ。思想系で一番将来性があるんじゃないですかねw
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科学的とはなんなのかを時に緩く・ニヤリとする文章で教えてくれる良書。
なぜ私たちは科学リテラシー持っていなければいけないのか、などの日常生活に関わってくる話もふんだんにある。
そして、それがとても分かりやすい。
練習問題もあって、本当に講義を受けているかのよう。
終わりの方に著者おすすめの科学本が載せられているので、興味のある人はこれを入り口に、より深い所に入り込んでいけるようになっている。
おすすめ。
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前半(第Ⅰ部 科学的に考えるってどういうこと?)と後半(第Ⅱ部 デキル市民の科学リテラシー)の落差が大きい本です。
第Ⅰ部では、
理論と事実、仮説と真理を二分法的に考えるのは、安全と危険、科学と疑似科学を二分法で考えるのと相似形で、危険な考え方である。
より良い仮説とは
①より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる。
②その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない。
③より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる。
そして、「アブだクション」(仮説演繹法)について丁寧に分かりやすく説明がされており、科学するとはどういうことなのか、その「科学リテラシー」が理解できるようになっています。
ところが、第Ⅱ部になると、今回の原発問題を取り扱っているのですが、第Ⅰ部で自らが述べていた罠にはまっている記述が散見され、科学的リテラシーが上がった故にがっかり感が強いです(ちょっと皮肉っぽい書き方でしたらごめんなさい)。
ということで、第Ⅰ部を読み終わったらいい本だったなーと閉じるのが正解かも(笑)。
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第一部で科学の考え方を解説。
第二部で「一般の市民が科学の考え方を理解する必要性」を説く。
"科学・技術まみれになったこの社会"では、市民も科学リテラシーを身につける必要がある。
なぜなら、科学の「内容」は当然科学的で、専門家に委ねることができるが、
その「使い方」は科学的でなく、専門家だけに委ねられない、"社会全体"で考えねばならないことだから。
そしてその具体例として、専門家と市民をつなぐ"コンセンサス会議"を挙げる。
「市民向け」、というよりは「インテリ市民向け」という感じがした。
・トピックの書き方が、一般の人には興味持ちにくそう(抽象的な単語、耳慣れない単語が多い)
e.g. "「理論」と「事実」はどう違うの?"
→科学は真理に近づけても、真理には成り得ない? とか、 科学は白黒じゃない、グレーなもの
などの方が好奇心をそそりそう
・具体的な事例は一つ一つを理解するのがちょっと大変。ある程度の教養を要する感じ
・しかしその分濃く、具体的な例が豊富で、本筋の内容に分かりにくいところがあまりない
もう少しまとめた方が、厳密さは欠くが読みやすいところもあるように感じた
e.g. 私たちの抱える問題の解決を専門科だけに任せられない問題三つは
要するに、「科学の扱いは科学的じゃない」に集約できるのでは
個人的には→
自分は、文系学部から理転して研究を始め、
「どういう研究がいい研究なのか」
「科学の世界での共通ロジックってどういうものなんだろう」
と悩んだり、自分なりの答えを出したりしていたのだが
第一部はそれらを裏付けたり、ヒントをたくさんくれるところがあり、興味深かった。
世の中を構成する人の半分以上は文系で、厳密な科学的思考を体得している人は少なく、
理系でも、「なんとなく」な理解の人は多いだろう。
「イメージ」や感情で科学の技術・産物を利用するのは危険だし、逆に良い技術を利用しないのは勿体ないと私も思う。
筆者の主張を実現するためには、
もう少し読みやすく「市民向け」に書かれていればもっとよかったかな、と思う。
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科学哲学の基礎の基礎がたいへんわかりやすく説明されており、良心的な内容の本。でもただ本書の後半は、これまでの著者が刊行してきた一般向け著作と比べると、かなり異質な内容となっている。読者に対して、科学リテラシーを身につけた「デキル市民になれ」と、かなり強く呼びかけており、多少pushy。著者は、啓蒙的であることとの暴力性に自覚的な人だから、原発事故後の世情を鑑みて、確信犯的に強いメッセージをおくっておられるのだと理解したが。。。