紙の本
さすがの読書論
2022/04/15 12:17
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
さまざまな媒体で発表された小林秀雄氏のエッセー・論考をまとめたもの。
「読書について」がタイトルになっているが、中には文化や教養、批評についても論じたものも含まれている。
冒頭の「読書について」は、自分の読書法を肯定してもらったようで、気持ちよく読めた。後段の文化教養についても広く読まれてほしい。
紙の本
小説を読もうと思いました
2020/05/10 21:24
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投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
普段、小説をあまり読みませんが、第一流作品の小説を読みたいと思いました。
「立派な作家は、世間の醜さも残酷さもよく知っている。そして世間の醜さも残酷さもよく知っている様な読者の心さえ感動させようとしている。」
という言葉が印象的でした。
読書を続けていこうと思いました。
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タイトル通り、主に読書についての文章を集めた随筆集。解説には『エッセイ』とあるが、『随筆』と言いたい。
教科書に載っている著者の作品は読んでおいて損はないもので、どれをとっても素晴らしい文章だった。
電車ではアレを読み、帰ったらコレを読み……はやったことがある人も多いのでは?(というか今でもやっている……)。
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一言一言含蓄に富んだ言葉が連なる。
読書、美、文章、批評、文化、教養と様々な事柄への思索。
なるほどと唸ったり、ちょっと難しかったり。
行きつ戻りつ読んだ。
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濫読していてもいいんだ!というか、この小林秀雄という人も同じような読み方をしていたことを知って驚いた。
面白い。全著、読みたくなる。
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ショーペンハウエルの読書についてを読んだことがきっかけとなって読んだが、非常に面白かったと思う。
やはり共通することも言っているが、中には見解が分かれているものもある。
最たるものが最初に記された『濫読』についてであろうが、ショーペンハウエルがこれを強く批判しているのに対して小林秀雄は擁護している。一見正反対のように見えるが、注意深く読むとこの二人の間には根底に共通認識が存在し、それが表出する過程においての通り道や、時代性の違いなどがその二人の意見を対照的な趣に見せているという風に感じた。
結局は、書物と言うものを形式や表面だけによって見てしまう、そして説明的に、分析的に、近代的自然科学的に読んでしまうことへの箴言であった。書の奥に人を見なければ、それが見えてくるまで書を深く味わわなければ、書から得られるものはないと小林秀雄は考えている。つまり書物にぶら下がるだけの読書では意味がなく、書物を通して、思索する自分によって獲得されるものがなければいけないという点において、ショーペンハウエルと共通認識に至っていると感じた。
また、ショーペンハウエルの方が思索と、ドイツ語の変遷に対する分析、批判を大きな比重としておいていたのに対し、この本は純粋な読書と言うこと、感じること、それから書くこと、批評すること、芸術と言うこと...それらに焦点を当てていたので、タイトルは同じといえかなり違う趣で読ませてもらった。
特に好きだったのは、思考と言うのは案外合理的でもなんでもなく、感覚で行われるものであって、人間の根本にあるのはそういう完成を大切にすることで見えてくるようなものなのだという意味の論であった。人間の研究をすることが逆説的に人間性の解体を引き起こしてるポストモダニズムに支配された今、人間が世界の中心から放逐されつつある今、もう一度人間の人間たる要素をしっかりと支柱として生きていくことが求められるのではないか?と言う事を考えさせられた。
本当に、良書は時代を超える。
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努めて乱読さえすれば乱読に何の害もない・。むしろ乱読の一時期を持たなかった者には後年、読書が本当に楽しみになるということも容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく、むさぼるように読むことで養われるほかない。
書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間がいるということ。
本を読む人は自分の自由な読書の時間を持っている。
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「濫読しないのは低脳児」と言われ「常に一流作品のみ読め」と言われ、濫読してたら二・三流も紛れ込むんじゃないの?とツッコミたくなるが、もう本人がいないのでどうにもならない。
「虚心で鑑賞せよ」というのも難しい。何事もできるだけ先入観は持たずにしたいものだが、鑑賞中はどうしても自分の過去の経験等に影響されて、「これはこういう事だろう」と解釈や批評といった言葉にする作業を行っている事が多い。
「数学者はものを考えてない」も深い。考えるという行為は合理的なものではない。考えると計算するのは違う。答えを出す必要もない。考えれば考えるほどわからなくなるものである。合理性や論理的思考ばかりを追求していては考えている事にはならず、単なる答え探しをしているだけなのかもしれない。
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僕が生まれる前のものばかりを集めた随筆集。「読書について」というショーペンハウエルの同名のそれとは違って、濫読を容認している(安心した)。本が多すぎて困るというやつは、大抵途中でやめちゃうやつだ、と。
今は、おそらく当時よりさらに本が多くなっている。「努めて濫読さえすれば、濫読になんの害もない」とはいうが、僕は努めて濫読出来ているだろうか(今度は心配になってきた)。
だが、読むのにも技術がいるのだと。濫読を経験していなければ、後年読書が本当に楽しみになることも難しいのだと。そうか、僕の読書の楽しみは、まだ先にあるのか。嬉しいような、なにか絶望的なような。
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小林秀雄『読書について』中央公論新社、読了。「読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪る様に読む事で養われる他はない」。表題エッセーをはじめ、「読む」と「書く」にテーマ絞ったアンソロジー。巻末には「教養ということ」(田中美知太郎)を収録。解説は木田元。「この思想家に挑戦」して欲しい。
小林の著作は幾度と無く親しんできましたが、このようにテーマを絞って積み重ねるように読むことは、その思考を奥底へ分け入る上で非常に有益でした。「解説」では哲学者の木田元さんが、自身の読書体験と小林との出逢いからハイデガーへの歩みを紹介。興味深い。
若い人に読んでもらいたいなあ。→ 小林秀雄『読書について』中央公論新社 http://www.chuko.co.jp/tanko/2013/09/004540.html 濫読や全集のすすめ、小説の読み方といった読書技法、良い文章とは何か、そして美しいものを見ることなど、実用的アドバイスに溢れるエッセイ集成。
「読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が目覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない」。小林秀雄「読書の工夫」 。
いや、じつにしびれますねえ。
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“批評の神様”と呼ばれた著者の、読むこと・書くこと・教養についての文章を集めたエッセイ集。一つの作品、一人の作家に、どれだけ本気に向き合ってきたかを問われるような気持ちになる。「読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れていく。」・・・眼の覚めるような読書がしてみたい。
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読了。解説やレビューを見ているとみんな「読みやすい!」とか書かれていて、あれ?ひょっとして「難しい」と感じる俺は馬鹿なのか?と思いながら読み始めた。途中から小林秀雄ワールドにグイグイ引き込まれていく。真剣に2度3度繰り返し読んでみたいと思った。
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小林秀雄と聞くと構えてしまうが、この著書にはその必要はなく、分かりやすい文体で綴られる。一方で、文を通して人に会うといった至言や濫読を推奨されたことへの安堵などは、著者を畏怖するバイアスによるもの。彼自身と向き合えていない自分が、何をか語らん。人間とは、限界の分からぬものを怖れるらしいが。
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小林秀雄にしてはかなりデレた文章。いつものツンツンした意味不明の批評よりは読みやすかった。気がする。
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読書論、作家論についての文章は鋭い。あとはイマイチ。
耳に痛いと思う文言もある。
良く書くにはよく読むこと。作家の全集にあたって、人となりや思考の癖に触れること。
観賞するには、自分の心を賭けろ。己を虚しくして幅広い鑑賞の世界に遊べ。
小説を読んでいればやった気になるので、実地になんでもやらなくなる。すばらしい恋愛を読みかじって、恋愛を装う術が身につくと、本ものの恋愛が分からなくなる
ものの性質を知ろうとする知識や学問は、物の姿を壊す働き方をする。花の姿の美しさを感ずる時にはいつも花全体をひと目で感じる。だから感じることを易しいことと思いこむ。