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投稿者:Tucker - この投稿者のレビュー一覧を見る
2004年6月1日、長崎県佐世保市の小学校で、6年生の女子児童が同級生にカッターナイフで切り付けられ、死亡するという事件が発生した。
「佐世保小6同級生殺害事件」と呼ばれた事件のルポルタージュ。
前半は事件の発生から、加害少女が施設へ送致されるまでの日々の記録。
そして、後半は事件が一段落してから行った、被害者の父、兄、加害者の父へのインタビューとなっている。
内容が内容だけに、あまり何度も繰り返して読むにはツラすぎる、というのが正直なところ。
ただし、読む時は引き込まれて、一気に読んでしまう。
被害者の父は、毎日新聞佐世保支局長。そして本書の著者は、その直属の部下。
毎日新聞佐世保支局は、その上の階に佐世保支局長の自宅もあったため、著者は被害者の女の子とも面識があった。
著者は遺族に近い立場でありながら、取材しなければならないマスコミの立場にも立たされてしまったのだ。
そんな立場になって、気付くマスコミの「残酷さ」「醜さ」
さらに加害少女が14才未満だったため、「少年法」ではなく、「児童福祉法」が適用され、少年事件以上に情報が外部に出てくる事は少ない。
例え被害者の遺族が何が動機だったか知りたい、と望んだとしても。
そのためか、僅かな情報から、わけ知り顔で、「事件の解説」をするマスコミが後を絶たなかった、という。
「残酷さ」「醜さ」は、昔から凶悪事件、重大事件が起きる度に言われてきた事だが・・・。
ところで、本書を何度も繰り返して読めない、と思った理由は、著者の次の一文。
「記事に書かれた内容が、きのう起きた現実と結びつかない。
どこか遠い場所のできごとのように思える。
事件取材がしたくて始めた記者稼業なのに、僕は自分の周りだけは例外なく今日と同じように明日がくると信じて疑わなかったのだ。」
可能性は低いにせよ、誰にでも当てはまるので、ゾッとする。
少し意外だったのは、事件当時、中学2年生だった被害者の兄。
周囲の人たちは、「腫れ物」に触れるように扱ったが、妹(被害者)から、ちょくちょく加害者の少女の話を聞かされていたので、実は事件が起きた経緯を一番、理解していたのかもしれない。
父親が子供を亡くしたショックで、ボロボロになり、あまりモノを考えられなくなっていた中、一番、冷静に家族や、加害少女の事さえも考えていた「大人」だった。
インタビューの中の、次の言葉が印象に残る。
「あの子を憎んでも仕方がない。こっちが疲れるだけですから。(中略)
相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。
お互いにひきずりたくないというか。
こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。
諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。
謝るならいつでもおいで、って。」
(インタビューの時期は、はっきり書いていないが、この兄が大学生、または社会人になってからと思われる。)
この兄の言葉が本書のタイトルにもなっている。
(ちなみにタイトル文字も、この兄が書いたもの)
最初に、この本のタイトルを見た時、相手を許す、という気持ちになるまでの経緯を綴ったものか、と思ったのだが、許す、許さない、とかいう話ではなかった。
「前に進むための、けじめとして謝って欲しい。謝るならいつでもおいで」
自分なら、天地がひっくり返ったとしても、出てくる言葉ではない、という気がする。
逆にこういう考えに至るまで、よほど苦しんだのだろう。
やはり、この本、そう何度も繰り返して読めない。
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少年法さえ適用されない児童の犯した殺人。
ひとつの悲惨な事件を通して、周囲の人々がどうって向き合っていったのか。
とても身近にいた筆者であるからこそ、踏み込めた心の中。
特に、被害少女の兄の思いには、被害者家族へのケアに当たる者には必読であろう。
ゲーム感覚で他人を殺めてしまう子ども達が、これからも増えていく怖れを感じた。
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佐世保で10年前に起きた小六が同級生を殺した事件について、毎日の記者である被害者の父親の部下が書いた本。非常に重たく、ぜひ読むべきとは勧めにくいが、事件と報道の問題において取り上げられる問題が生々しく重苦しく描かれている。ただ、後半のインタビュー的部分はやや物足りなかった。
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加害少女の状況を読んでいて何となく感じるのは、ここ数年、満員電車の中で、スマホや携帯電話にかぶり付きで、前の乗客に当たろうが何しようがまったくお構いなし、という人間が目につくこと。少女だけでなく、老若男女。その頑なな空気は、他人には厳しく無頓着な一方、限りない自己愛で満ちている。他人の痛みへの想像力は微塵も感じられないのだ。
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何が、足りなかったのだろう。
子どもを見る目、感じる心、心の声を聴く余裕。
社会の受け止め方、伝え方。
起きてしまった"最悪"に、
それぞれに言いようのない哀しみが残っている。
もちろん読者にも。
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とてもモヤモヤした。だけど、とても良かった。
「僕にとって、『本当のことを書く』とはどうことなのだろう。僕が本当に知りたくて、届かないその先。だれにも埋められない喪失の向こう側」(p.284)。
起きている事、本当の事を知ろうとするということは、つまりこういう悩みや矛盾、葛藤を抱えることなんだと思う。
おれは、神戸の酒鬼薔薇事件や、永山事件、秋葉原の事件も、そして佐世保のこの事件も、いつも「社会問題」として見てきた。「社会」というマクロな文脈から、事件はどういう現象として捉えうるかを考えてきた。
だけど、現場で起きている事を追う、というのは、そういうこととは違う。そもそも現場には、「事件」があるのではなく、人がいるから。
それは、少女、父親、御手洗さん、お兄ちゃん、怜美ちゃん、そこにいる人と向き合って、「なぜ」を追うということ。現場ではおそらく、事件は必然的な現象として捉えることなんてできない。人のこころは必然的には動かないから。だから「なぜ」を追うことは霞みをつかむようなものなんだと思う。
そう考えると、記者ってのは人のこころのありかを探る営みなのかもしれんなあ。それは、亡くなった方への悼みであり、生き残った人々への弔いであり、生きる自分自身にある根源的欲求でもあるかもしれん。
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加害者側、被害者側、そして報道としての取材者の立場から、それぞれの葛藤や事件後の歩みが描かれていた。
この本に出会えてよかった。
新聞記者である筆者も「当事者」のひとりで、このような親しい人たちの中で起きた事件対して本人なりに「人を殺めること」に向き合ってきたことが伝わってきた。
良書。
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どちらの立場になっても、言葉にならないやりきれない思いばかりだ。とにかく、やり直しのきかないことは断じてすべきではないと本当にしみじみ思う。
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小学校六年生の女児が、インターネット上において、友人(被害者)の書き込みに腹をたて、空き教室に呼び出してカッターで首を切って殺害した事件。あれから早くも10年が経つんですね。
この本の著者は、殺された女児の父親と同じ職場(毎日新聞佐世保支局)で記者として働いて、事件当時から被害者家族を取り巻く、ありとあらゆる行く末をリアルタイムで見ていた立場の人間。その渦中やその後を綴ったもの。
被害者の少女の実兄の存在は、マスコミには取り上げられなかったが、妹を失った直後、その後の心境を彼自身の言葉が綴られていて、読んでいてこれが一番堪えた。
当時まだ中学一年生だったという彼は、娘を殺害され憔悴しきった父親をフォローしようと気丈にふるまい「大人」にならざるをえなかったこと、事件を考えないようにするため勉強に没頭、その結果、希望の高校に進学したけれど、ことあるごとに事件のことがフラッシュバックし、ほとんど保健室で過ごし、単位が足りなくなり高校を3ヶ月で中退してしまった。その後、通常の道からドロップアウトした者が通う高校に進学し、現在は大学生になって、今後は被害者家族の役に立つ仕事をしていきたいとまでの心境に成長していることを知った。
「妹を失った悲しみや、日常生活を送るつらさを誰かに聞いてほしかった-」そうだよね。苦しかったと思う。しっかりした子ほど、親も周りも見過ごしやすいのだから。つらかったね。
最後にこの兄は言う。「謝るなら、いつでもおいで」と。
この若さで、どこまで自分を分析できた子だろう。
加害者本人がこの本を読む機会はあるのだろうか。
この一言を読んでどう思うだろうか。
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それぞれの立場で事件に巻き込まれていく様子が、
非常に読みやすくわかりやすく書かれていました。
特に当時のマスコミ報道が必ずしも正確なことばかりではなかった、ということに、改めて「マスコミ報道は眉唾して」と思いました。
本当にやりきれない事件ですが、
すぐ上のお兄さんの、その後の大変な時期から少し抜け出た現在の気持ちや思いに
ほんの少しの救いを見いだした気がします。
ところで、
一番知りたかった「なぜ少女は少女を殺したのか?」については、本作を読んでも、私は今一歩、ピンときませんでした。
ただ、人格が形成される途上の年齢だった加害者少女が、当時、望んだように、そして今、すぐ上のお兄さんが望んだような「普通の生活」がおくれているかが気になります。
(多分、この二者のいった、いうところの「普通の生活」は多分、かなり本質的な部分で違う気がしますが)
余談ですが、
あの頃、お父さんが何度かマスコミの前へ出て話していて、
でも、被害者少女の写真が……だったので、
もっと普通のかわいい写真を出してあげればいいのに、
という妙なことを考えたことを覚えています。
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「救い」とは何かと被害者の父は言う。
御手洗さんが怜美ちゃんを気遣うことも
お兄ちゃんが怜美ちゃんにいて悩み、自分について悩むことも
川名さんがこの本を書き上げたことも
加害者の父が加害者を見捨てないことも
すべて「救い」だと私は思う。
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第一部
1本の電話
僕は新聞記者
昼日中の教室で
抱き上げてやれなかった
加害少女は
少年法すら適用されない
嵐の幕開け
殺意アリ
遺族とマスコミの狭間で
長い夜
Vサイン
中間の子ども
さっちゃん。ごめんな。
審判開始
元担任の涙
ブログごしの生声
退屈が蝕む心
カウントダウンを止めるには
実名報道
手探りの大人たち
12歳の遺骨
動機
誤訳
ちょっと、いい?
泣かない同級生
怜美を返して
記者にしがみつく
風化と波紋
上滑りの先に
偏り
更生と贖罪と
付添人の会見
寂しさのスクラム
ひと時の休息
第二部
御手洗さん/被害者の父として
加害者の父として
被害者の兄として
エピローグ
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この本を読み始めた矢先、佐世保同級生殺害事件から10年のニュースが流れた。
ああ、10年経ったのか。10年という節目でこの本が出版されたのか。
10年もたてばどんな凶悪な事件も風化していく。
次から次へとセンセーショナルな事件が発生するこの時代、人の記憶なんて儚いものだ。
でも私の中ではこの事件の衝撃度は相当強くいまだに忘れられない。
バスジャック事件、神戸や山口の事件よりも何より。
犯人が少女だったこと、現場が学校だったこと、そして動機が分からないこと。
もちろん、二人の中でいざこざがあった事は報道の通りだが、殺人に至る強い動機がどうしても理解できなかった。
この本は当時被害者の父の御手洗さんの部下として働いていた記者の手による。
事件の発生する前から被害者一家と深くかかわり、渦中においては事件の記者として奔走した。
身近で事件を見つめてきた人が書いたものを読めば、事件の核心に触れられるのではないかと期待し手に取った。
結果的にはやはり分からないと言わざるを得ない。
加害者が口を開かず、被害者がもうこの世にいない以上何も分からない。
そんな中で一番真実に近いと思われる部分が、被害者の二番目のお兄さんが語っている部分。
被害者の最も傍にいたお兄さん。
加害者の少女もよく知るお兄さん。
このお兄さんのインタビューが、ズーンとくる。秀逸です。
騒ぎの中で一人取り残され泣くこともできなかった少年。
親を差し置いて一番辛かったとは言い難いが、苦しかっただろうな。
その彼が言う言葉だからこそ重い。
加害者の少女にこのお兄さんの思いが届くだろうか。
届いてほしい、そんな気持ちになった。
「結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。」
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佐世保小6同級生殺害事件を担当した毎日新聞の記者が著者。被害者の女の子は支局長の娘だった。親しく付き合っていた人が被害にあう。記者として事件に向き合う葛藤が描かれた第一部では、少年法への疑問や「なぜ起きたのか」納得できる理由が得られない苦しみが書かれている。第二部では、被害者の父と兄、そして加害者の少女の父との対話がある。
ひりひりとした本人の心の痛みが伝わってくる。テーマはやっぱり、葛藤だ。答えは簡単に見つからないからこそ悩むし、これだけの内容の本が必要とされる。最後に著者は被害者の兄の言葉に一つの救いるを見出す。その結論は今いち納得はできない。そこに言葉をもっと費やして欲しかった。
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日本を騒がせた事件の、被害者遺族の部下として、最も関係者に近い位置にいた記者によるルポ。遺族に近しくも自らもマスコミである苦悩を描き、取材を通じて加害者家族とも向き合い、関係者の本音を浮き彫りにする。ただただ、考えさせられる一冊。