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商品説明
ボヴァリー夫人とは何か? フローベールの最初の長編小説を徹底的に読み抜くことによって、その「テクスト的な現実」に露呈するさまざまな問題を縦横に論じる、歳月をこえた書き下ろし2000枚の大著。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
「テクスト」としての『ボヴァリー夫人』を読むための手引書
2014/10/20 11:58
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
『ボヴァリー夫人』とは何か、と聞かれた文学通が口にするのは、ルーアン近郊の田舎に住む免許医の妻であるエンマ・ボヴァリーが他の男と関係を重ねたあげく、男に捨てられて自殺する話、というあたりだろうか。では、「ボヴァリー夫人」とは、誰のことか。ボヴァリー夫人と呼ばれる女性は三人いる。まずは、夫シャルルの母、次に先妻のエロイーズ、最後がエンマである。
三人のボヴァリー夫人がいるのに、標題を読んだ誰もが、エンマのことにちがいない、と思い込むのは、それまでに語られてきた多くの言説に影響されているからだ。筆者は『ボヴァリー夫人』に関してこれまで語られてきた、無責任で信用できない言説から自由になり、目の前にあるテクストを読むというところから話に入ってゆく。実は、多くの作家・批評家が無批判に用いてきた「エンマ・ボヴァリー」という呼び名は、作品内で一度も使われてはいない。作家が使用していない固有名で作品を論じるのは「テクスト的現実」を無視している、と筆者は言う。
語られることもあれば、語られぬこともある。何故「ヒロイン」は、一度もエンマ・ボヴァリーと呼ばれていないのか。そこには意図があると考えるのが、テクストに基づいて批評する者のとるべき態度なのだ。一事が万事、このスタイルで貫かれている。先行する批評、論文の至らぬ点には批判を、すぐれた論考には同意を唱えながら、ゆるゆると持論を展開してゆく。
その映画批評で、大柄な西部劇俳優で政治的にはタカ派として知られるジョン・ウェインを、柱にもたれたり、ライフルでなければコーヒー・カップを、と常に何かに触れていないと大地に佇立できない「接触の魔」と喝破して見せた手際に、手もなくひねられたのを覚えているが、テマティスムというのだろうか、ストーリーとは無縁に、「手」、「足」、「塵埃」、「毛髪」といった事物が何度も作品中に登場する場面を吟味し、それが登場する場面の前後で、人物のとる行動にどのような変化が見られるか、を微細に読み込んでゆく。相変わらずの鮮やかな手並みだが、初めて見せられたときのようには驚かない。ふむふむ、なるほど、といった感じ。
それよりも、従来の小説を読みすぎて、現実世界をそれととりちがえた夢見がちな女性としてとらえられてきたエンマ像や、妻の心理や行動の変化に気づくことができない鈍重で無神経な夫と見られてきたシャルル像の読み替えに蒙を啓かれた。いかに、われわれ読者は「テクストをめぐるテクスト」に影響を受けてテクストに対しているか、そのために読むべき文章を読み飛ばし、勝手な人物像を創りあげてしまっているか。筆者があたらしく取り出してみせるシャルルのなんと、生き生きした人物であることか。
この小説を「エンマ・ボヴァリーは自殺した」と要約してみせた批評家がいたそうだが、思い出してみよう。小説は転校生のシャルルが「僕ら」の前に登場する場面から始まっているし、エンマの死後も小説は続いている。最後は薬剤師オメーの受勲の知らせで終わっているのだ。出版当初は「地方風俗」という副題が付されていたこの小説をよく読めば、エンマは「自殺」などしていないことがよく分かる。なんと、自殺を認めるはずのないカトリックの司祭にみとられて最期を遂げているではないか。
あまりにも有名な『ボヴァリー夫人』を読むという作業に待ち受ける陥穽にはまることなく、手垢のついたボヴァリー夫人像にも染まらず、ほこりを払って目も覚めるようなエンマやシャルルに出会える、フローベールが書いた「テクスト」としての『ボヴァリー夫人』を読むための待望の手引書である。