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本書の原題は『Zealot』“熱情”とかいう意味らしい。
そして副題は『The Life and Times of Jesus of Nazareth』たぶんナザレのイエスの生涯と時代とでも訳せばよいのだろう。
第1部「ローマ帝国とユダヤ教」、第2部「革命家、イエス」、第3部「キリスト教の誕生」に分かれた本文は約250ページ。その後に2段組で約70ページの膨大な原注が付く。(この原注が本文以上に面白い)
帯には「イスラム教徒による実証研究で全米騒然の大ベストセラー」「“聖書”から落とされた史実」「捏造された物語」などの惹句が書かれている。
本書は、聖書やその基になった記録からの文献学的歴史学的アプローチである。
新約の諸福音書にある記述を、時代や資料や風俗などを勘案した上で事実と創作に分類していく。福音書も著作物である以上著者の思想が反映され、それを政治的に利用する上で、事実は恣意的に解釈され、求められる形になるよう不都合な部分は削られ創作部分が付け足されていく。
イエスの処刑から40年後に書かれたマルコ、60~70年後に書かれたマタイとルカ、70~90年後に書かれたヨハネ。あたりまえのことだがその時代によりキリスト教はその立場が変わっている。その後も様々な文書が付け加えられ現在我々が手にする聖書となっている。
本書は、聖書の記載にあるイエスの物語や思想の虚実を明確にして、実像に迫ろうとしている。またその内容も邦題や帯の文言にあるような扇情的で下品なものではなく、至極穏当な文献学的な研究内容となっている。もちろん信仰や宗教を否定するものではないことは言うまでもない。
本書を読んで最も重要と感じたのは、イエスの言動が、統治者の代表であるローマの総督にとって、また大祭司などの宗教者にとって、更には各階級や各民族に属する民衆にとってどうだったか、という状況を推察することであろう。その政治的立場の違いによりイエスは予言者にも宗教家にも革命家にもテロリストにもそして神にもなり得るのである。それは彼がそうであることを周りが望んだからなのである。
信仰がどのようにして生まれ育っていくのか。宗教がどのように求められそれに成っていくのか。興味は尽きない。本書はとてもエキサイティングな内容の良書である。
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昨日7/15に買ったった!(≧∇≦)
入荷した途端、取置きしといた。まだ冒頭ですが、wkwkしながら読んでますよ。
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もともと「ナザレのイエス」がどこでどうなると「イエス・キリスト」になるのか?と言うことに興味があった。
起源後数十年の出来事とはいえど、当時エルサレム周辺はローマ帝国に支配されていたわけで、当時の出来事はローマの司政官をはじめ、客観的な歴史として認識されている部分もあったはずである。
にもかかわらず、新約聖書の中では奇跡をはじめ復活など論理的には考えられないようなことが散りばめられている。
これはいったいなんの物語なんだ?という疑問が常に頭の中にあった。
熱心なキリスト教徒でも無いので、真面目に新約聖書を読み込んだことは無いが、物心ついた辺りに通っていた日曜学校での各種エピソードはマンガやアニメの中の話以上のモノでも無く、以後は歴史の中でのキリスト教のあり様を知るだけであったものの、仕事の中に『バチカン』が入り込んできてから妙にキリスト教の成り立ちなるモノに再度興味が沸いてきたのである。
そんなところに本書である。
テヘラン生まれでイラン革命時にアメリカに亡命してしてきたという著者のバックボーン自体もかなり興味深いモノがあるが、宗教学者であるだけあり、非常に理性的に当時のエルサレムの民族的事情、歴史的事情、宗教的事情を加味しつつ『人としてのイエス』を浮かび上がらせている。
当時、イエスが目的とした活動は愛と平和なんて普遍的なモノでは無く、ローマ及びユダヤ教聖職者たちによる現体制の打破、『ユダヤ人』のための『神の国』を作るためには剣をとることも辞さなかった革命家の姿が見えてくる。
その転機となるのが、ゴルゴダの丘での処刑でも、3日後の復活でも無く、死語30年経ってからのエルサレムの崩壊であったという事実は非常に興味深い。
この後、ナザレの無学者が起こした革命運動が、民族的な要素をできる限り廃絶し、当時の大帝国ローマに適応すべく愛や平和といった普遍的な教義を中心としたものに作り替えられていく宗教活動に変容されていく。
この変容の軌跡の著述部分では、いかに宗教というモノが人間に都合の良いものに時代時代によって変えられていくものなのかということがわかり、非常に面白い本だった。
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イエス・キリストとナザレのイエス。切り離して考えたことなかったですね。著者はキリスト教に転向し、キリスト教を学んで、キリスト教の欺瞞を認識しつつ、信仰が失われなかった。そういう意味では、内容に深みも重みもありますが、読んでいくのが苦痛ではない。そういう本でした。とても勉強になりました。
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丁寧に文献に当たって、イエスの行動の背景、ローマ帝国との関係、エルサレムの状況等、わかりやすく述べられている。
パウロに改ざんされたイエスではなく、革命家としての人間イエスを私も知りたいと思う。
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【全米騒然の大ベストセラー】救世主(キリスト)としてのイエスは実在しなかった。いたのは、暴力で秩序転覆を図った革命家(ゼロット)としてのイエスだった。
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"ムスリムが描いた史的イエス”という観点で話題を集めた著書だが、筆者は個人の宗教観を完全に横に置き、学者として純粋且つ丹念に史的イエスの再構築を試みている。
ここで明らかになるナザレのイエスは、後年パウロが創り上げた"救世主"と大きく異なり、世界最強帝国に闘いを挑んだ革命家であり、エルサレム神殿の権威に楯つく強烈なナショナリストであり、地上における神の国樹立を目指すカリスマである。
ここにある"人間"としてのイエスは"救世主"イエスに負けず劣らず、人の心を動かさずにはいられない魅力に溢れている。
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紀元30年頃のユダヤがどのようだったかが良くわかる.イエスは意外とナショナリストだった.でもやっぱり主な資料が聖書だからなあ.もうすこし突っ込んで人間イエスを描いてほしかった.
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久々にキリスト教関連の本を読んだ.ふしぎなキリスト教という新書を数年前に読んだけど,比較するのが憚られる.こちらは,きちんとした本.ユダヤ教とキリスト教の断裂していることが,歴史的に説明されていて,勉強になった.
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ローマ帝国に於いて磔刑はどのような犯罪に対して科された刑罰なのかを明らかにするところから、イエスがどのような存在であったかを読み解く。
ローマの資料などから新約聖書の虚構を崩し、史実の人としてのイエスに迫る。
総督ピラトがイエスを裁判で救おうとしたエピソードがあるがこれも虚構であるとする。ピラトは大多数のメシアをゴルゴダの丘に送り、イエスもその一人でしかなかった。
イエスはローマによるパレスチナ占領及び、神殿の司祭等によるローマへの協力を否定し反旗を翻した革命家であったという。
この本を読んで感じたことは、パレスチナのユダヤ人の気性の荒さである。この地を治めることはローマ帝国でも難儀したようで、小規模の反乱の連続だった。イエス没後に起こった大反乱でローマ帝国によりイスラエルは滅ぼされユダヤ人はイスラエルから追い出されてしまうことになる。
今のパレスチナ問題を考えるに、ユダヤ人独自の信仰と自尊心、排他性、他国の意見を受け入れないなどは現代に受け継がれているように思えてならない。それと同時にパレスチナ問題はイスラエルを滅ぼし、ユダヤ人から国土を奪うまで解決しないように思える。
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タイトル通り、イエス・キリストの実像に迫る。当時の記録、習慣などなどから、実在したイエスはどんな生き方をして、いかに死んでいったか、そして神になったのか。
当然ながら聖書の知識があったほうがより楽しめる。
図書館から借りて、途中で挫折。
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近所の本屋でたまたま目に入りタイトルにつられて思わず購入。
イスラム教徒による研究の成果だと言うことでますます興味をそそられた。
イエスの活躍した時代の時代背景、イエスや同時期にたくさん現れた予言者の活動、そしてキリスト教の成立について検討し、聖書の福音書の他に当時のいろいろな文献からキリスト教信仰の対象としてのイエスではなく、実在のイエスについてその実像をとらえようとしている。
当時イスラエルはローマ帝国に支配されている。ローマの統治はその地域の支配層を使った間接統治であり、ユダヤ人あるいはユダヤ教の支配層と結託している。それに不満を持ち現政権を倒しローマから独立してユダヤの王国を作ろうとする革命家の一人がイエスだったということである。現代でもよくある話だ。
従ってイエスは暴力を否定しないし、ローマ人から見れば世間を騒がす過激派の指導者者と見られて不思議はない。
イエスはユダヤ教徒で、ユダヤ人にしか説教をしていないし、奇跡も行っていない。言ってみればキリスト教徒は何の関係もないわけである。
奇跡と言っても現代の目で見ればやらせ、まやかし、奇術の類だったようなので少々笑える。
結局、イエスをキリスト教の信仰の対象にしたのはパウロであり。パウロ教と言ってもいいくらいである。そのパウロでさえもユダヤ教徒からは異端扱いされて、異教徒に信仰を広めてキリスト教という世界宗教になったというわけである。
本書は冷静な視点から書かれている。巻末に約70ページにわたり注釈があり、論拠や見解の相違点などが記されている。
著者はイラン革命の時にアメリカに亡命して成人になっており、高校の時にキリスト教に触れて一旦はキリスト教徒に改宗してキリスト教を学んでいる。そこで、聖書が矛盾だらけであり、イエスの実像が全くわからないと言うことが本書作成のきっかけの一つである。著者の20年に及ぶ研究の成果であり非常におもしろく読めた。
ただ、翻訳が時々おかしなところがあり、一度読んだだけでは理解できないようなところがいくつかあり少々残念だった。
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聖書を読んでいて、いつも不思議に思うことがあった。何故、ピラトはイエスを助けようとしたのか? 何故ユダヤの民は、イエスでなく、バラバを恩赦することを選んだのか?イエスを産んだユダヤ人は何故キリスト教を選ばなかったのか?本書を読んで、様々な疑問に対する作者の仮定が、僕にはストンと腑に落ちるような気がした。中東出身でアメリカの教育をうけ、一時は敬虔なクリスチャンであり、今はムスリムの作者だからこそ書けた作品ではないだろうか。
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図書館でなんとなく手にとってパラパラ読んだ。
借りるつもりはなかったけど、そのまま借りて帰ってイッキに読んだ。
p7
Mat 10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
(GNB) "Do not think that I have come to bring peace to the world. No, I did not come to bring peace, but a sword.
(Greek NT) Μὴ νομίσητε ὅτι ἦλθον βαλεῖν εἰρήνην ἐπὶ τὴν γῆν· οὐκ ἦλθον βαλεῖν εἰρήνην, ἀλλὰ μάχαιραν.
p18
ルカによる福音書は別として、それ以外の福音書にその名を冠している人物がそれを書いたわけではない。
新約聖書におさめられている文書のほとんどについてそれは言える。
その著者が書いたのではないのに、その名を冠した偽書は、古代ではごく普通に行われていたので、それらを偽造文書と決めつけるべきではないが。
p21
ナザレのイエスについてはっきり言えることは、
①1世紀はじめのパレスチナでは、よくあったユダヤ人の社会運動の一つをリードするユダヤ人であったことと
②そうした行為のためにローマ人が彼を十字架に貼り付けにしたこと
この2つだけ。
p47
神はイスラエル人にこう言った。
Deu 20:16 ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。
Deu 20:17 すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとは、あなたの神、主が命じられたとおりに必ず滅ぼしつくさねばならない。
申命記10章16-17節
旧約聖書における、殺人の数々はすごい。
p65
イエスという赤子を探し出そうとして、ベツレヘム周辺で生まれた男児すべてを抹殺しようとするヘロデの無益な企みから逃れるために、イエスの一家がエジプトへ脱出したという、マタイによる福音書にある同じように奇抜な物語にも、ローマ帝国全土に最も名の知れ渡ったユダヤ人であるヘロデ大王について書かれた数々の年代記や物語があるにもかかわらず、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ローマ人のいずれの年代記や歴史にも、この出来事を裏付ける証拠は一片もない。
ルカの話も、マタイの話も、われわれが今日考えるような「歴史」として読まれることを意図して書かれたものではなかった。
p130
イエスが公の宣教の場で初めて口にした言葉は
Mar 1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
Mar 1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
これはヨハネの教えそのままだった。
イエスの最初の公の場での行動も同じ。
Joh 3:22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
Joh 3:23 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテス��を受けていた。
イエスの最初の弟子アンデレとフィリポは、どう見ても彼の弟子ではなく、ヨハネの弟子であった。2人は、ヨハネが逮捕された後、イエスの信奉者になったにすぎない。
「マムシの子らよ」という独特の呼びかけも、ヨハネと同じ表現。
だが、イエスは単なるヨハネのマネではない。
イエスのメッセージは、ヨハネよりもはるかに急進的で革命的で、危険なものだった。
p149
イエスのいた時代いた場所では奇跡は珍しい現象ではなかった
当時のパレスチナには、魔術に心を奪われる人が多く、イエスは、ユダヤとガリラヤを放浪する数知れない易者、夢占い師、魔術師、まじない師の1人だったにすぎない。
雨をふらせたアッパ・ヒルキア
ティアナのアポロニウスは聖者と呼ばれ、行く先々で奇跡を披露していた
当時はユダヤ人祈祷師は多く、悪魔祓いそのものが儲かる仕事の一つだった。
諸福音書にも、悪例を追い出す祈祷師のことが多く記されている。
マタイ12.27
ルカ11.19
マルコ9.38-40
使徒言行録9.11-17
p185
キリスト教徒がイエスの死後、彼を「人の子」と読んでいた。
イエスが話していたのはギリシャ語ではなくアラム語。
Mat 12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
Mat 12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
Luk 12:9 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。
Luk 12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
(KJV) But he that denieth me before men shall be denied before the angels of God.
(GNB) But those who reject me publicly, the Son of Man will also reject them before the angels of God.
p195
ピラト裁判は作り話
p198
福音書以外のところに、ローマ人総督が過越祭にそのような役割を果たす習慣があったという歴史的証拠はひとつもない。
マルコは、同じユダヤ人なら、直ちに不正確だと分かる明らかに作り話的な場面を入れたのか?
答えは簡単。マルコはユダヤ人の読者向けに書いているのではなく、彼自身が住んでいたローマの読者に向けて書いたから。
p221
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書の物語を含む「ナザレのイエス」について書かれた言葉は、事実上、殉教者ステファノや、元ファリサイ派のパウロのような、生前のイエスを実際に知らない人々によって記されている。(例外の可能性があるのはルカだけ)
p222
イエスの磔刑のあと、数十年の間に、キリスト教の解釈をめぐり、競合する2つのグループを出現させた。
一つは、イエスの弟ヤコブ陣営
一つは、元ファリサイ派のパウロ陣営
最終的にはこの2つの陣営が憎悪に満ちた敵対意識丸出しの抗争を繰り広げ、それが今日のグローバルな宗教としてのキリスト教を形作ることになる。
p236
パウロがキリスト教を世界宗教にした
ユダヤの立法を無視するパウロ
p254
イエスの正統的継承者ヤコブ
イエスの弟ヤコブを、人々は「義人ヤコブ」と呼んでいた。
ヤコブはなぜ、ペトロや十二使徒の残りのメンバーよりも、ヨハネよりも、ヤコブが何度も衝突したパウロよりも、下の地位におかれたのか?
なぜヤコブは、新約聖書からほぼ完全に削除されてしまったのか?
なぜ、初期教会でヤコブが果たした役割が、現代のほとんどのキリスト教徒に知られていないのか?
イエスの弟であるというヤコブの身分は、母マリアが永遠の処女であるという話と噛み合わないので、彼の役割は影が薄くなった。
Jas 1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
Jas 1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
(ASV) and the rich, in that he is made low: because as the flower of the grass he shall pass away.
(GNB) and the rich Christians must be glad when God brings them down. For the rich will pass away like the flower of a wild plant.
ヤコブの富裕層への激しい批判は、大祭司アナヌスの怒りをかきたてたかもしれない。
しかし、富裕層批判は、兄イエスの山上の垂訓を繰り返しているに過ぎない。
Luk 6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
Luk 6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
Luk 6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
(GNB) "How terrible for you who are full now; you will go hungry! "How terrible for you who laugh now; you will mourn and weep!
(Greek NT) οὐαὶ ὑμῖν οἱ ἐμπεπλησμένοι, ὅτι πεινάσετε. οὐαί ὑμῖν οἱ γελῶντες νῦν, ὅτι πενθήσετε καὶ κλαύσετε.
p236 結論
二千年後の今、パウロの作り上げたキリストは、歴史上の人物としてのイエスを飲み込んでしまった。
歴史上実在した「ナザレのイエス」は
地上における神の国の樹立を目指し、弟子たち軍団を集めながらガリラヤ全土を歩き回り、社会の変革を意図していた熱烈な革命家、エルサレムの神殿の司祭階級の権威に楯突く伝道者、ローマの占領に反抗して敗北する急進的ユダヤ人ナショナリスト
であり、その面影は、キリスト像の影で埋没してしまった。
人間としてのナザレのイエスは、キリストとしてのイエスにまけないほどカリスマ的で魅力的。
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ユダヤ人であり、ユダヤ教徒であり、ユダヤ教の改革者を
目指した「ナザレのイエス」が、いかにして、ローマ帝国で
ギリシア語を使い、異教徒への布教を図ったヘレニストたち
が作り上げた「イエス・キリスト」へと変容したかを、
様々な、そして大量の研究・論文を元に見事に描いてみせた
著者の20年をかけたライフワークとも呼べる本。原注では
自説とは違う文献もしっかりと触れているあたり、誠実な
著作であることがうかがえ、現時点の史的イエスの研究と
しては最も正確なものとなっているのではないかと思う。
もっとも私にとっては確認作業のような読書だったことも
事実だが。
キリスト者にとっては受け入れられないことも多いだろうが
「信仰」と「歴史・科学」という違う文脈の話だということ
を忘れてはいけない。極端に言えばボクサーと力士、どちら
が強いかという話に似ている。ルールが違う以上簡単に
比較は出来ない。ボクシングで戦うか、相撲を取るか、
新たなルールで新たな競技を作るか。どちらにせよ、冷静な
態度がお互いに要求されるのは間違いない。