電子書籍
歴史好きなら必読
2018/12/15 21:49
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投稿者:はやたろ - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史に学ぶとはこういう事だと痛感させられました。
紙の本
面白いです
2015/10/25 16:41
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投稿者:たなゆ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者独自の視点から本能寺の変の謎を解き明かしたものです。非常に面白く一気に読み切りました。おすすめです!
電子書籍
面白い
2015/08/24 17:51
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投稿者:じょるじお - この投稿者のレビュー一覧を見る
ネットニュースでオススメされていたので試しに読んでみたのですが
今までとは違う新しい目線での歴史捜査な内容でした。
子孫の方が著者なだけあって詳しく調べてあるのもすごいですし
他国の文献とかが参考にしてあって面白かったです
電子書籍
面白い本ではある
2018/02/25 16:46
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投稿者:ゆ - この投稿者のレビュー一覧を見る
推理の形で信長さんの思考法を解くという本。
本能寺の変について、犯人の光秀さんではなく、信長さんの 「犯行動機」 を分析するというなかなかの斜めぶり。
信長さんが何をしたかったのか を考えるという、面白い視点で書かれています。
推理仕立てにしたところが狙いすぎの感があり、好き嫌いが出そうな本でした。
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この本を読むきっかけは、以前に明智憲三郎さんの本を読んでいたからである。著者は独自に資料・史料を読み解き、その背景までもを考えてこれまでとは違うものの見方、定説を覆す姿勢を貫いている。これは以前に読んだ本でも、本書でも感じられた部分である。
本書では信長の頭の中を解明し、ひいては本能寺の変の手がかりにしようとするもので、著書『本能寺の変四二七年目の真実』にも繋がる部分が多かった。これまでの定説に惑わされずに、日本だけではなく、影響を受けた中国文化(特に諸子百家)に至るまで考察を重ね、仮説を立てている。確かにと納得する部分も多いがやはりここに示されているのは仮説であり、推理・推測に過ぎない部分があるのも事実である。
しかしこの著者の姿勢は見習うべきだと感じた。
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この本のタイトルを見た瞬間に著者が誰だかピンと来ました。数年前に「本能寺の変431年目の真実」という本を書かれた、あの明智光秀の血を引いている方です。
単行本、そして新たな解説も加えられた文庫本と読んできて、本能寺を明智光秀が起こした理由が今一つ明確に理解できなかたのですが、この本を読むことでかなり私なりに明らかになりました。
ポイントは、信長の考え方(日本の統一を終えたら、すぐさま明国に攻め入り、一族以外の大名は日本国から追い出される運命にある)を理解した人間なら、信長がいなくなってもらえば良いと思うのが、当時の日本のベースにあったことだと思いました。
光秀はそれを理解した上で、チャンスを伺っていて、それは信長が家康を殺そうとして堺方面に招いた時だと、判断したベストのタイミングを選んだのだと思いました。
また、信長が、運が味方したからこそ勝利できたといわれる「桶狭間の合戦」も、韓非子に従って、素晴らしい戦略を立てて、勝つべくして勝ったと思わせる内容でした。
以下は気になったポイントです。
・信長の父の信秀の脳の中には、中国の兵法と故事の常識・論理がたくさん詰まっていた。これが、機知に優れ、戦えば必ず勝ち、前進すれば必ず敵を急追した、信秀脳の正体(p24)
・孫子で強調されているのは、「戦わずして勝つのが最善」ということ、兵糧攻め、水攻め、がその策である。さらに地形を知ることの重要性も繰り返し説かれている(p33)
・信長公記に書かれているのは、他国衆が退出した後に、朝倉義景の頭蓋骨を出したが、その時にいたのは信長の親衛隊の馬廻衆のみ(p44)
・桶狭間の戦いの作戦は、味方にも秘密にしなければ勝てなかった(p60)
・今川軍は、幸先よく、鷲津砦・丸根砦を攻め落としたが、信長の狙った通り敵は分断されて、しかも先陣は疲弊して、後陣には驕った状況が生まれていた(p66)
・正攻法で攻めると見せかけて意表を衝く(鳴海城に攻めるとみせかけて桶狭間へ向かう)、まだ戦闘態勢を整えていない本隊を攻める、という正面奇襲戦法であった(p71)
・今川義元が桶狭間に駐留させた理由として、1)夏の日差しを避けられる日蔭のある場所、2)高根山周辺の高地から戦況が見える、ので(p81)
・桶狭間からの出口の封鎖が不十分だったので、信長軍の突撃に対して、前陣がひるんで後退して全軍が崩れてしまった(p81)
・中国では始皇帝による天下統一がされる前(紀元前221)までに、様々な学派が生まれた。孔子・孟子・荀子らの儒家、老子・荘子らの道家、墨子らの墨家、韓非らの法家、孫武・呉記らは兵家と言われ、諸子百家のひとつに位置づけられる(p89)
・韓非子の思想の基本として、法治が国の根幹であり、信賞必罰の必要性も強調。本人を罰するだけでなく、罪を犯そうとする者をなくすため(p93)
・一揆は、村単位が構成員の信仰心や信念で行動するため、「戦わずに勝つ」という仕組みがきかない、したがって敵対した���合には殲滅しかない(p105)
・戦国武将の誰しもが、韓非子的な思想と、儒家的思想を併せ持っていて、場面に応じてどちらかが強く表れていた(p113)
・筆者の造語である「中日本」とは、将軍が直接統治を行った京都周辺の五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)に、信長が領国とした、尾張・美濃・近江・伊勢・越前・若狭、を加えた範囲(p116)
・尾張統一期(26歳、永禄2:1559)、上洛戦期(35歳、永禄11:1568)、中日本統一期(40歳、天正元:1573)、天下統一期(49歳、天正10:1582)に分けられる(p118)
・組んだ叔父の信光は、守護代信友を切腹させて清須城を信長へ、自分は那古屋城へ移った。信光が半年後に家臣に殺されて、信長は下四郡をすべて手に入れた。(p124)
・信長が、伊勢・若狭・越前を攻めた理由として、伊勢湾海運の港町津島を領有して、港町の重要性を知っていたから。港町からもたらされる交易品や貨幣の価値に目覚めていた。伊勢と、日本海側の越前三国湊、若狭小浜・敦賀を抑えることで、琵琶湖経由して伊勢と日本海を結ぶ海運を支配したかった(p132)
・信長は義昭追放の翌年に、朝廷から従五位下に叙任され、昇殿をゆるされるようになった。信長は朝廷の権威を活用するように方針転換した(p137)
・強敵武田氏と戦う場合、長期化すると、三島暦を用いる東国での戦いに混乱が生じる。命令を書いた書状にし「正月」と書いた場合、一か月の違いが生じるので、暦の問題を片付けたかった(p141)
・2014年10月、熊本県の旧家から、永禄9(1566)に信長が義昭に供奉して上洛する計画であったことを示す書状が見つかり、その2年後にあらためて光秀が義昭の仲を取り持つ必要性がないことが証明された(p164)
・光秀が信長を恨んで殺したとする怨恨説等は、「惟任退治記」が基になっている(p167)
・一族滅亡の危機を冒してでも謀反を起こすのは、謀反を起こさずにそのまま放置していると一族が間違いなくもっと悲惨な事態に追い込まれるという危機感がなければならない(p183)
・信長は、家督を譲った信忠には、美濃・尾張・甲斐・信濃・上野・飛騨、次男信雄には、伊勢・伊賀、三男信孝には四国を与えて、安土・京都を中心に織田家直轄領で固めようとしていた(p186)
・当時の日本には、大海を渡って軍勢を輸送できる大型の軍船も、それを操れる航海士も存在していなかった、調達を諦めた秀吉軍の唐入りは、朝鮮半島を渡って陸路を使うしかなかった(p194)
・秀吉の唐入りの真の目的は、将来の危険人物の国外放逐であった、その候補としては九州の地名を受領名とする、光秀、秀吉あたりだろう(p196)
・唐入りによる日本軍(兵士および輸送員)15万人のうち、5万人が死亡した。大部分は、労苦・飢饉・寒気・疫病によるもので、戦闘によるものはわずか(p203)
・百年近く続いている戦国の世を終わらせて平和な時代を築きたいという思いで信長をささえてきた武将たちが、天下統一は終わりではなく、その先に見��らぬ異国での戦いが待っていると知った時の衝撃はどうであろうか。この流れを止めたかったのが光秀の謀反の動機であろう(p217、220)
・本能寺の変は、信長による家康討ちだったとすると、光秀の謀反成功の条件がすべて整う(p252)
・本能寺の変で唯一生き残った信長の小姓である黒人の彌助(やすけ)は、京都のイエズス会に引き渡された。密室でなされた出来事がフロイスに伝えられた可能性あり(p256)
・信長の油断とされる「信長が無警戒で本能寺にいた」ように見えたのは、無警戒だったわけではなく、「少人数でそこにいる」ことが信長の企てにとって必須条件であった(p272)
・家康討ちを初めに企画して持ちかけたのが、光秀であったら、信長は光秀を信じ込み、まったく疑うことなく家康討ちの実行に没頭しただろう(p277)
2015年8月23日作成
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文字通り、織田信長の行状をつづった上で、なぜ彼が明智光秀に殺されたかを記した一冊。
彼の説(信長は家康暗殺を狙っていて、逆に光秀に殺された)というのは信用できないものの、その背景や他の武将の動きなどをよく知れたのは良かった。
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信頼できる資料をもとにするといいながら独断的な推測・判断が多く信頼性が逆になくなっているが、信長が大陸を重臣の移封地に考えていたというのはいいポイント。明智光秀がそれを嫌って謀反に及んだ、光秀にとっては絶好の機会だった、という説もおもしろい。ただ、それだけを書くのに説得力のない資料提示をするのが本としてはひどい。
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この本、7章まであるんだけど、6章まではのろのろと進む。なーんだ、月並みな本じゃないかと思ったんだけど、最終章の7章がめちゃくちゃ面白い。
戦国ラバーなら、楽しめると思います。
えぇ?っと思う、本能寺の変の裏なんだけど、確かに矛盾点は私の頭では指摘できないし、何をおいても私は信長を賢い人だと思っているので、それを裏切らない推測。
3巻目を最初に読んでしまったけど、明智さんの前2巻も読んでみようと思います。
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信用成る歴史文献をもとに答えを導き出していくのは面白い試みだけど、結局何が正しくて何が間違いなのかの情報判断は現代人、著者がやっているわけでいろいろと自説都合の良いところを拾い取りしているような気がしないでもない。
歴史書として読むよりも歴史探偵という新しい分野での読み込みの方が向いている。これを読んで史実がそうだったのだと決めつけるのも難しい。
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後世伝えられる歴史は、勝者の歴史であるとはよく言われる言葉。
織田信長が生きた時代の後に、豊臣秀吉が天下を取り、さらに家康が全国を統一した国家として樹立し、300年間も治世を続けた。
その信長、秀吉、家康がみな同じ時代を生きたのだから、今に伝えられた歴史が、徐々に塗り替えられていったことは間違いないと思う。
うつけと言われる織田信長が、どうやって今川義元を破り天下人として名乗りを上げたか、そして、なぜ信長は本能寺で討たれねばならなかったのかなど、織田信長にまつわる疑問符について、古文書等を再度精査、構築し、真実を探る。
という内容の本ではあるが、筆者の建てる仮説に古文書の具合の良い部分を探して切り貼りしているようにも読めるので、こんな解釈もあるよというひとつの意見として読ませていただきました。
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せっかくそれなりに納得性の高い仮説を提示しているのに、光秀の子孫だとか、なんで自分の信用を落とすようなことを言うんだろうねこの人。
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大河の前に予習。徳川秀忠/家光の名付け親とも言われてますね。2代将軍と3代将軍の名前に「光秀」を含ませたのは、本当に本人が名付けたのか、それとも、感謝の念だったのか。史実は闇の中ですね。
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明智光秀の子・於雀丸(おづるまる)の子孫という【明智憲三郎】氏が、織田信長の脳内を探り、本能寺でその生涯を閉じるまでの経緯を追っています。信長が<大うつけ>を演じて攪乱していたことや、光秀謀反の真相<怨恨説+野望説>を覆す証拠を掲げて、辻褄の合った調査結果を披露されています。「未来の危機」が、謎を解くキーワ-ドとして「本能寺の変」の真相に迫っています。