紙の本
多様性を受け入れるって難しい
2016/02/27 18:43
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投稿者:ラブ ヒストリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
これを読むまで、イスラム社会とは自分には理解できない世界だと思っていました。
この本は、著者がその「なぜ」に少しだけ答えてくれたように思います。
異なる宗教、価値観、習慣をもつ人々を理解しようとして努力しても、結局、最後は自分の基準でしか考えられない・・・。でも、わかりあう努力をすることで、お互いに傷つけあうことを避けられるのではないかとの理想を描く。
いろいろと考えさせられ、人間的にもとても共感できました。
紙の本
邦題は原題の直訳、或いは「イスラム過激派/穏健派のコーラン解釈の相違」とすべき。邦題訳が不親切では。。。
2016/07/10 23:10
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:tzst - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近の事件もあり、「フラットにみて」コーランには何が書いてあるのか、ということを勉強したくて買いました。結果としては期待している内容ではなかったです。ただ表紙には原題(「If the Oceans Were Ink――An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran」)がきちんと記載されており、これは内容に則している(科学的なアプローチというよりエッセイですよ感あり)と思いますので、きちんと中身を確認しなかった自分(+邦題訳)の所為ですね。。
内容としてはタイトルの割にコーランからの引用が少なすぎるし、エッセイ的な内容なので状況描写が多く、500ページ近いですが目的に当たる内容は半分あるかな、という感想です。著者に対してコーランを講釈する方の主観的な要素も多く(※これ自体は悪くないし、宗教なんて主観的なものだと思いますがこの本のタイトルにはそぐわない)、もしタイトルを付けるなら「イスラム過激派/穏健派のコーラン解釈の相違」が妥当と思います。
異教徒迫害の根拠に引用される「剣の章句」については特に知りたかった部分なので、「この章句が書かれた歴史的文脈は、すぐさま、無条件に異教徒を殺害していいわけではない」「メッカの非信仰者との闘いの中で書かれた」という点は興味深かったですが、その部分を簡単に流さないでほしかったです。なぜそれが上記状況で書かれたとわかるのか、などをもう少し科学的に解説した方が面白いと思いました。結局そこがきちんと説明できなければ、過激派の人たちを説き伏せられないのではないかと思います。
結局、中身と原題を確認しなかった自分の所為です。エッセイとして読んだら違う評価になったかもしれません。
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ムスリムの思考とその根源であろうコーランの内容を知りたいと思い、購入。
米国人でジャーナリストでフェミニストで多元主義者である女性(著者)と、保守的でコーラン原理主義的なイスラム教の学者であるアクラム師との対話(ソクラテス・メソッド的なコーランの講読)の記録。
巻末に簡単な用語集があり,役に立つ。
アクラム師は,コーランと預言者ムハンマドの言行(ハディース)に忠実であるという意味で,極めて保守的で原理主義的。
しかし,その原理主義の内容は,コーランやハディースの解釈に際しては,常に,前後の文脈,イスラム教の歴史(とイスラムの教えと単なる地域的な慣習との峻別)を十分に考慮するというもの。
よって,いわゆる「原理主義者」とは全く異なる結論を採ることがほとんど。
著者は、フェミニズムとコスモポリタニズムの立場からイスラム教を捉えようと努力し、その多くは成功して、その一部は恣意的な美化であったと自覚して失敗する。
成功の例は、現代のムスリム(の男性)が主張し実践する女性の自由の抑圧は、実はイスラム教の教義が根拠ではなく、各地の文化・慣習が根拠であるに過ぎないことの多くを確認したこと。
ニカーブの着用義務(強制)や、女性の礼拝を拒絶するモスクの態度がその一例。
失敗の例は、当初、少女との婚姻を認める文化を根本的かつ全面的に否定することができなかったこと(しかし、その後、アクラム師が見解を改めるに至る。)や、同性愛を全面的に否定されたこと,そして,イスラム教徒でなければ救われないと言明されたこと。
アクラム師の態度・教説,神に対して「のみ」服従するというムスリムの基本に基づいている。
それ故,アクラム師は,旧約聖書に(そしてコーランにも)登場するイブラーヒーム(アブラハム)の神に対する真摯な態度を賞賛する。
また,アクラム師は,イスラムの教えが悪なのではなく,それを悪用する人間が悪なのだと繰り返し説く。
ムスリムは神を畏れ,他人への思いやりと正義を重んじなければならない。
そうした態度が保たれていれば,女性を保護するイスラムのシステムが,女性の自由を剥奪することはないと考える。
例えば,家庭における財産管理者を男性に限定するイスラムの考えは,それ自体が問題なのではなく,その男性が権限を濫用することが問題なのだ,女性ではなく男性を管理者に指定したことは神の深慮であって理由は不明である,と説明する。
上述した二カーブ(すなわち,女性)やアブラハムに関する(すなわち,ユダヤ教及びキリスト教に関する)イスラム教的な見方のほか,コーランの立場から見たナザレのイエス(イエス・キリスト),ジハードとそれを行うための条件,多様性に対する考え方など,現在,イスラム教に関して問題とされている事柄を網羅した内容になっている。
著者は、アクラム師との対話によって自身の思想の多様性・多元性が拡充されたことを喜び、また、イスラム教(ことにコーラン)には多様性を許容する包容力があることを確認できたことを喜ぶ。
「人々よ、われらは��まえたちを男性と女性から創り、おまえたちを種族や部族となした。おまえたちが互いに知り合うためである。」(コーラン第49章13節)
最後に、宗教と哲学について。
アクラム師は,西洋化・近代化の名の下に宗教から宗教的な部分を抜き去って思想・哲学にしてしまう傾向にたいして強い拒絶を示す。
同様に,宗教が慣習に堕し,精神性を欠く至ったことも強く批判している。
このことは、「仏教哲学」という言葉が氾濫している仏教において,より大きな問題とされるべきだと思う。
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マスコミの影響を受け、イスラム教について多くの誤解をしていた。コーランを都合よく援用して、様々な混乱を生じさせていることがよく分かった。
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イスラム教をひいき目に記載しているが、あまりにも実態が知られていないので知識として得ておくために良い内容。
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コーランには本当は何が書かれていたか? カーラ・パワー著
専門家に学ぶイスラムの奥深さ
2015/11/22付日本経済新聞 朝刊
本書はアメリカ人ジャーナリストとインド人ウラマー(イスラム諸学の専門家)が、イギリスのオックスフォードで交わした友情の賜物(たまもの)である。著者のカーラは子供時代に中東や南アジアの各地に滞在し、イスラムの世界に触れた経験を持つ。ただ大学教授である両親は、それぞれに名ばかりのクエーカーとユダヤ教徒であり、彼女自身の家庭環境はどう見ても宗教的とは言えない。
対話の相手であるモハンマド・アクラム・ナドウィーは著名なウラマーで、その最大の業績は初期イスラムの9千人にのぼる女性学者の活動を掘り起こし、それまで男性が支配するものと思われてきたイスラムについて見直しを迫ったことである。彼は女性の差別を否定するが、「リベラル」な立場からではなく、コーランを読み込むことによってそうする。フェミニズムに傾倒するカーラが、イスラムの指南役にアクラムを選んだことには相当の理由がある。
アクラムにとって、イスラムの神髄は何よりもタクワー(神への畏怖)であり、それは党派性と読みかえられるようなアイデンティティに関わるものではない。イスラムの規範と思われがちなベールの着用も利子の忌避も、彼にとって本質的な問題ではないのである。自らの党派的な主張に合うよう、コーランの一部を都合よく抜き出すのは彼がもっとも強く糾弾する真似(まね)だ。
アクラムが望むのは、カーラがイスラムについて先入見にとらわれず自分で考えられるようになることであり、結論を与えることではない。そのため自分の見解にカーラが納得できない場合は、ほかの学者の見解にもあたるよう勧めている。彼自身、高い評価を受けたウラマーでありながら、他人の意見に耳を傾けることを忘れない。大学での講義のなかで女子学生から指摘を受けた際、熟考を重ねたうえで、自身の見解を撤回、修正することさえ躊躇(ちゅうちょ)しないのだ。イスラムは多様な姿を見せるが、カーラがアクラムを通して見たイスラムは、そのもっとも魅力的な姿と言えるかもしれない。
『たとえ海がインクであっても』という原題は、「たとえ海がわが主の御言葉のためのインクであるとしても、わが主の御言葉が尽きる前に海は尽きたであろう」というコーランの一節による。「黒か白か」といった単純な立場は撥(は)ね除(の)けられ、汲(く)めども尽きないコーランの奥深さが二人の対話のなかで明かされるのである。邦題が生む甘い期待は、いい意味で裏切られる。
原題=IF THE OCEANS WERE INK
(秋山淑子訳、文芸春秋・1900円)
▼著者は66年生まれの米国人ジャーナリスト。現在はロンドン在住。
《評》東京外国語大学教授
八木 久美子
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コーランを読んだ直後に読んだこともあり、コーランに対する前提の衝撃はそこまで大きくなかったものの、自由に解釈するという意味での幅の広さ・懐の深さを感じ得るには十分だった。歴史書とも言える旧約聖書、物語とも言える新約聖書に対して特定の時代の生活様式を書いたものがコーランであるというイメージを持っていた中ではなかなか新鮮な本だった。
適切な本を知らないが、イスラム教徒アラブ世界の慣習が切り分けられる副読本があるととても良いのだが。
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イスラム教の歴史上、女性のイスラム学者は9000人いるという。
モスクで礼拝することについて、原初、女性は子育て等の理由で「免除」されていたが、禁止はされていなかった。
禁止したのはその後のアラブの習慣によるらしい。
著者が対話するインド出身のイスラム学者の立場は明快だ。コーランは神の言葉であり、信仰は自身と神の契約であり、それ以外の何物も介在させる余地はない。
宗教を法とするということは、法にさえ違反しなければ正しく信仰していることになるという、堕落をもたらす。自身の信仰が正しいかどうかを判断するのは神のみだ。法律を決めた高官ではない。形式もまた然り。イスラム国は真っ向から否定される。
仏教にしてもイスラム教にしてもキリスト教にしても、時を経るにつれ、余計な雑物がまとわりつき、組織防衛が最優先され、教義が形骸化していく。にも関わらず、正しい主張は勢いの良い大きな声にかき消されてしまう。
イスラムはどこへ行くのか。
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コーランと解釈はその時代ごとに行きつ戻りつしていること、聖典の読み方は変えられても聖典の絶対性と信仰の絶対性は変えられないこと、宗教を外側から見ること。
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この題名には少々裏切りを感じる。フェミニストのユダヤ系アメリカ人女性が、コーランの解釈を研究するインド人、オックッスフォード在住のイスラム原理学者から講義を受け、密着取材をしたもの。非常に個人的な内容で、いわゆる少数派の解釈だ。家庭において男は女を管理し、究極的には打って従わせるとの内容や、多神教徒たちを見出し次第殺す、などとの物騒な記述は確かにあるようだ。これらの文面の解釈や、その後構築されたイスラム法により進化した現代のイスラム教をどう受け止めるかで、大きな幅があるということのようです。
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非イスラム教徒の女性ジャーナリストが、イスラム学者で聖典解釈者とコーランについて様々な議論をします。何が書いてあるかというよりは、どういう姿勢で読むのか、どうすれば預言者ムハンマドに近づけるか。西洋から見た表面的なムスリムではなく、ムハンマドが本来伝えたかった真髄に触れられたように思います。
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本書の主張のエッセンスとしては「現在我々がイスラム世界に対して原理主義的、異常だと思う慣習や考え方は、元々のコーラン、ムハンマドの教えには無い」ということになろうか。
内容にムスリムの日常や自分語りが多く、彼らを理解するための背景として必要なのかもしれないが、それにしても分量が多く冗長に思える。原題を見ると、あくまで友情を通じて議論を交わした経過を綴った本ということなので仕方が無いか。
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借りたもの。
イスラーム過激派組織に関する報道でとり上げられている「コーランの一節」とされている大部分(イスラーム国家の建国とか、楽園に72人の乙女がいるとか)が、実はコーランには書かれていない!!というキャッチーな事実から始まり、読んでいてどんどん惹き込まれていった。
勿論、報道でもそれらが「『コーラン』を歪曲した解釈である」と端的に伝えられるが、では一体『コーラン』は何が書かれているのか、何を言わんとしているのか……
インド系イスラーム教徒のアクラム師と女性ジャーナリストのカーラ女史による、1年の講義――それは『コーラン』の一部分に対する旅のようなものだった。
“保守派”や“原理主義”という言葉からイメージされるものとは異なる実態が浮かび上がってくる。‘コーランは単なる手引ではなく、視野を広げる手段だった(p.94)’。
歪曲された解釈は“セム系一神教のひとつであるイスラーム的なるもの”と“後世に持ち込まれたアラブや諸々の文化由来のもの”が混同したり、都合よく解釈された結果であることが垣間見れる。
「イスラーム」は女性の権利を肯定し、異教徒にも敬意を払うよう求めている。それを明文化しているにもかかわらず……
アクラム師は、『コーラン』に誤った解釈をする人々――都合のいい文節だけを切り取り、前後の文脈を読んでいないことを強く非難する。
この本は『コーラン』の精神の基盤探求だけでなく、アクラム師とカーラ女史の半生や経験を通して、イスラームとその周辺の歴史や文化を垣間見る旅本の様相もあった。それが『コーラン』の近現代史・文化史を補完する。
それが『コーラン』が過去のメジャーな慣習に囚われた保守的なものではない面があることを知る布石になっているようだった。
勿論、歪めた解釈があることは前述通りだが、だからこそ文献調査や前後の文脈を読んで議論・内省することで本質を見直すきっかけを得る。
アクラム師は当初、児童婚を肯定していたが、女学生たちとの対話を通して、「考えを変える」(否定)に至る。
学者としても、己の考えを翻すという勇気にも、感嘆してしまった。
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[大海の中へ]いわゆる世俗的な家庭に生まれ、中東や南アジアの諸都市で育った著者のカーラは、イスラーム古典の卓越した研究者であり、ムスリムでもあるアクラムと出逢う。欧米で吹き荒れるイスラーム批難の声に違和感を覚えた彼女は、イスラームを理解するために、アクラムと1年間にわたって『コーラン』を読み進めるというプロジェクトに乗り出すのだが......。著者は、『ニューズウィーク』紙などに寄稿しているジャーナリストのカーラ・パワー。訳者は、東京大学で宗教を学んだ経験を持つ秋山淑子。原題は、『If the Oceans Were Ink: An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran』。
まず本書を読むにあたっては、これは『コーラン』の解説本ではないという点に留意が必要かと。むしろ、著者が「私は一種の文化的な地図の作成者となることを願った」と記しているとおり、二人の(既に強固な思想や価値観を形作っている)人間の思想的なつばぜり合いといった趣きが強い作品かと思います。あまり類書に出会ったこともないためでしょうか、非常にスリリングな読書体験をすることができました。
ただこの試みを絶望的なまでに「損なっている」のが、イスラーム理解のために禁じ手とカーラ氏が主張する姿勢やものの考え方を、そのまま彼女自身が踏襲してしまっているところ。しかしその「損ない」故に本書が価値のないものになるかと問われればそうではなく、反対にその「損ない」にこそ本書を読む価値が潜んでいる気がします。結果として本書終盤からの下記の抜粋のとおり、このプロジェクトが「カーラ氏のカーラ氏による、(アクラム氏の助けを借りた)カーラ氏のための」ものとなったことに(良い意味でも悪い意味でも)限界があると強く印象付けられました。
〜アクラムの宗教を勉強することで、私は私自身の宗教を実践することができた。〜
読書会やゼミの議論に非常に向いた作品だと思います☆5つ
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コーランに書かれていることについて、誤謬を正す本。異文化によって生じるギャップを埋める考えも記されている。