紙の本
予感と偏見
2017/01/12 10:34
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
世界情勢の変化を鋭くとらえているような気がする。一方で本書ではヒネテーラのように東南アジアに対する偏見も感じられた。
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『服従』が話題のミシェル・ウエルベックが2001年に発表した長編小説。かなりの問題作ということで、本国では多くの議論を巻き起こしたらしい。そういえば『服従』も議論の的になってるようで、割と過激な題材を扱うことが多い作家なのだろうか。
本作も『過激な題材』だけども、人間が多かれ少なかれ持っている暗黒面を戯画化して描いている故に、良くも悪くも話題になるのでは……という印象。
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旅行会社に勤めている?ウエルベック『プラットフォーム』だね。え、なにそれ。という新しい出会いのスタイルを提案する本として私の中では記憶されたこの書籍は、ウエルベック特有の高度に発展した資本主義社会への呪詛に溢れていて、悪意という意味では最も楽しめました。
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「地図と領土」でゴンクール賞を受賞したウェルベックの初期の作品。
「地図と領土」が本当は読みたかったけど、手元に「プラットフォーム」があったので、まずこれを消化してからと思ったら。。。
主人公はつまらない40歳独身公務員で、父親が他殺された後、遺産でタイにツアー旅行に出かけ、少女買春しまくる。そのツアーで出会った28歳の才色兼備の高収入キャリアウーマンと恋に落ちる。彼女は賢くて優しくて素直でセクシーで非の打ち所なし。。。
と、ここまで読んで放り出した。
後半はイスラム原理主義への批判などが書かれているようだが、女性がことごとく人間ではなく「女性器」としてのみ主人公の目線から描かれることに辟易するし、その「女性器」全てが主人公に対して優しくて献身的であり、「んなわけねーだろ」としか思えない。
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衝撃から未だ覚めない。終盤まで延々つづく叙述。ときおりその主体は主人公から脇役に譲られる。しかしそれは補足のように存在していて物語への効果は大きくない。読み終わってから2週間、未だ混沌のなかにいる。
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「服従」がベストセラーとなっているミシェル・ウェルベックの長編2作目。彼の作品は初めて読む。現代のフランス(を中心とした西欧社会)において、彼の視点はただただ人間の欲望というものの発露の仕方に向けられているようだ。露悪的ともいえる文体で、「普通の」人間の中にある欲望、殊に性欲についての描写がしつこくまとわりつくようで、濃密である。どこかで開高健が「作家の善し悪しは食事とセックスをきちんと書けるかどうかでわかる」というようなことを書いていたが、この作品では(フランスが舞台でありながら!)食事の描写はわりあいさらりとしていて、その分すべての技巧やレトリックをセックスとそれにまつわる哲学に費やされているようで、その徹底ぶりには執念すら感じさせる。
主人公はパリに住む公務員。ぱっとしない独身の中年男だ。仕事にも恋愛にも熱意はなく、特に趣味と言えるものもなく、日々をただ淡々と過ごしていて、セックスに関してははそうしたサービスを利用してすませている。
父親の遺産を相続した彼は、タイへのツアーに参加してある女性と出会い、人生が大きく変わっていく…。
…と書くとずいぶん陳腐なストーリーのようだが、まったく退屈させることなく読ませてしまうのはさすがの筆力。帰国して彼女と再会した彼は、彼女の仕事である旅行産業に大きな一石を投じることになり、すべてが思いのままに進んでいくが、やがてくる破滅に彼は気づくはずもなく…。
現代社会の欲望とセックス。異文化との衝突と暴力。それらが交錯する瞬間こそが、現代という時代を象徴していることを書きたかったのだろうか。
それが予言していたかのように、今まさにフランスを舞台にそうした悲劇が繰り広げられているのには驚かされる。
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観光について考える旅の中で読んだ。
ダメダメな主人公、都合の良いヒロイン、卑俗なセックスシーン、筋の通った偏見を語る嫌な登場人物たち。あちこちに来たるべき暴力への伏線が散りばめられており、ウエルベックだしハッピーエンドはないわな、とソワソワしつつ読み進めると、カタストロフと諦念が待っている。
共感はできないが、世界はこのようなものなのかもしれないと感じもする。
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文明化が過剰に行き届いてしまった先進各国における「心の満ち足り」への遠い距離。
それが性愛の方面から露悪的に描かれた物語。
生きる積極的な理由がないことは自死への積極的な理由としては足りない・・・
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ウェルベック 4作目の小説(邦訳は『素粒子』に続いて 2作目)。資本主義と自由主義が行き着く先をポルノ紛いの筆致で描くとともに、イスラムに対する嫌悪感を隠そうともしない表現でスキャンダラスな話題を撒き、ウェルベックの名を世界に知らしめた一冊といってもいいだろう。どちらかというとムスリムからの脅迫とか、怒り狂うフェミストからの批判とかの話題が先行してしまっている印象で、今まで読んだ 3作の中では一番面白くなかった。ただし、享楽的なリゾートが一瞬で暗転する、その瞬間は見事だ。
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所々で唐突に西洋型社会に対する毒舌が出てきて、何度か吹き出してしまった。ペシミスティックでいてユーモアがある。この作家は初めてだったが、読みやすく感性も合う気がする。
厭世的でありながら性に関しては屈折もなく、初めから素直というのはある意味新鮮だった。おかげで、作中で主人公が展開する性の捉え方を結構面白いと感じながら読んでしまった(笑)。
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往来堂書店「D坂文庫2015冬」から。選んだ理由は選者の「日本にこんな意地悪な小説家は絶対いない!」というコメント。
さして取り柄のない仏人公務員ミシェルは、親の遺産でタイ行きのパッケージ・ツアーに参加し、少女を買う。そして、周囲のひんしゅくを買いつつ、そのツアーで知り合ったヴァレリーと恋に落ちる。帰国後はヴァレリーと一緒に彼女が勤める旅行会社で売春ツアーを企画するが、最後は…。
この小説の中でミシェルとヴァレリーは、もう数えきれないくらいセックスをして、その度にミシェルは西洋の性の退廃を、ひいては西洋文明の没落を嘆く。
少々乱暴なつかみ方ではあるけれど、西洋の高度資本主義への批判・警告を性を通して描いた、と言えるのかもしれない。
とは言え、この表現の仕方に読者はどこまでリアリティを覚えるんだろう。この小説にリアリティを感じる人は、この作家にのめり込むだろうし、反対にリアリティをまったく感じない人は、もうこの作家の作品を手にすることはないのだろう。もっとも、リアリティ云々の前に、官能小説とも言える性描写に辟易として、本書を投げ出す人も決して少なくないとは思うけれど。
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他者を避けることが最高の贅沢となった、個人主義が行き着く果てを描いた世界の物語。難解かと思いきや内容は非常に分かりやすく、絶望と諦観に彩られた筆致はリーダビリティが高い。物語性もあり、前半の観光ツアーからの出会いと性、そして欧米市場に第三世界の買春ツアーを持ち込むことで、西側世界の価値観を揺るがそうとした男女がやがて悲劇的な結末へと流れ落ちていくさまは非常に読みやすく面白かった。多くの男が感じている現代女性に対する恐怖感が、はした金で娼婦を買う方向へ流れていき、その部分のニーズや解消されない性欲を第三世界の買春で埋めるというアンサーはかなり過激である。誰しもが倫理観や嫌悪感でブレーキをかける所を露悪的に暴きだしていく筆致は人を選ぶだろうが、無視できないリアリティに満ちているのだ。結局は生きにくさを性にすがりつくことで凌ごうとする、上手く生きられない人々のための物語であると思う。
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何かと物議を醸しているフランスのミシェル・ウエルベックの小説。出版されたのは2001年8月。すぐその後の9月11日、米同時多発テロが発生したことで、イスラムによるテロの問題を予見した本とも言われる。
小説としてよかったかどうか、感想を言うとすれば非常に面白かった。ただ、そうだとして、この褒貶入り混じるこの小説の何が自分の興味を惹いたのかを語っておかなければならないだろう。
まず何より、このテクストには幾通りもの解釈を許す、小説らしい懐の広さがある。そして、その広さは読者こそがこの作品を読む中で作っていくべきものとしてそこにある。著者の意見と主人公の意見は同一視するべきではないし、また当然おそらくは同一ではないのでもない。その上でも主人公の行動や考えに対して共感できないがゆえの批判があることは想像に難くない。しかし、それさえもまた著者がすでに意図し、読者の前にあえて提示したものであると見做すべきものなのだ。
そして、この小説は何と言おうと、あからさまにセックスについての小説である。人間が生きるにあたっての多くの行動は、幼少期より自然な形で獲得されるが、セックスだけは成長した後に人はその能力を獲得する。その結果として、それぞれがそれなりのやり方で対応をしなくてはならなくなった。かつて唯幻論で有名となったフロイト派精神分析の心理学者の岸田秀は、人は本能が壊れた動物だと言ったが、他のことはさておき、性に関しては人間は生物的本能が壊れているといっても差し支えはない。だからこそ、セックスは隠されていながらも、逆に言葉による饒舌を身にまとうものである。
古来、社会システムはそのような特性を持つ性をその社会統制にも利用してきた。誤解のないように付け加えるが、人格的な権力主体があって、その主体が社会統制のために意識的に性を利用してきたというのではまったくない。性という属性をうまく活用できるようなシステムを持った社会が、何よりも他の社会と比べてうまくやってきたと考えるべきである。性が本能に根差しておらず、そのために性をめぐって構築されるシステムが通時的には可塑的なものであるからこそ、時代を超えて性はある種の社会権力のコードとして役立つものとして形を変えて継がれてきたのだ。ミシェル・フーコーがその晩年『性の歴史』に取り組んだのも、彼の社会権力論のスコープからするとまったく当然の帰結である。また、フロイトが精神分析において性をあれほど特別視して理論を構築したのには、後世多くの間違いを指摘されるにせよ、大いに理由があったと言えるのである。
さて、ミシェル・ウエルベックは、そうした性が個人的なものであると同時に社会を統制するためのコードであることについて意識的である。そして、まさにそれこそが小説の形で取り上げられるべき類のものであることも十分に分かっている。最初に戻って、これこそが、自分がこの小説が非常に面白かったとした理由である。ミシェル・ウエルベックは、社会的コードとそれが含まれる時代、テクノロジー、グローバリズムとの矛盾を小説の形で指し示し、そこから目を離させることをしない。
社会における性の活用のされ方は、時代と場所によってさまざまであり、一般に性倫理とも呼ばれるものは、社会の要請によっても変転する。性の倫理は、非常に個人的なものであり自由に選択できるかのようなものであるのにも関わらず、その時代の社会体制の側に容易に回収されうる。一方で、その深いところで、性がある種の報酬であるがゆえに、そこに嫉妬の力学が入り込むことによって社会の中でマグマのような力学の支点を生み出す。イスラムの論理における心理的力学においてはもちろん、この小説でフィクションとして描かれた、セックス観光ビジネスに対するマスコミの反応は、まさしくその力学が強く働いているがゆえにある種の納得性を読者に与える。現代日本社会でも、芸能人の不倫にあれだけ騒ぐのは、冷静に考えると論理的に何が問題なのかわからないのだが、嫉妬の観点からみると合点がいく。
性においては、時代を超えて一貫した倫理というものがあるようで、実はそういったものはほとんどないといってよい。主人公らが所属する新興の観光会社の新基軸として打ち出したセックス観光についても、それに類したものが実際にタイで行われていたことは、ある意味では公然の秘密である。そういったものは、その昔は韓国でもフィリピンでも行われていたし、東西冷戦終了後の東欧でも行われていた。日本の中にも多様な性風俗が存在しているし、援助交際という別の形での売春行為も生まれている。数は多くはないのだろうが、女性が男性を買うというシステムも存在する。高橋源一郎が、かつてのベストセラー作家石坂洋次郎の大衆小説の中で、あっけらかんと娼婦の話が家族でされていることを指摘したが、かように売春というものひとつをとっても、場所と時代によって位置づけは異なっていた。もし一貫したものがあるのであれば、それは倫理ではなく嫉妬の論理の方なのだろう。
冒頭、主人公の父親が彼の愛人の兄に殺されるのだが、そのことについて主人公はたいして心を動かされるわけではない。普通の小説であれば、大きな事件として扱われるべきこの事件が、単に父親の遺産が懐に入った経緯を説明するひとつのエピソードとしてあっさりと流される。しかし、父の愛人が北アフリカ出身であり、その兄が熱心なイスラム教徒であったことが、最後のオチにつながってくる。父親が殺されたにも関わらず、色恋ごとで人を殺すようなことを理解の範疇外であるともいえるような態度をとった主人公はあらためて最後にイスラムにおける色恋ごとに関する倫理へ反したことによって手痛い報復を受けるのである。そして、彼らはフランス社会からも性の規範を逸脱したことによって批判される。
小説の最後は次の言葉で終わる。
「みんな僕を忘れるだろう。すぐに僕を忘れるだろう」
それは、正しすぎるがゆえに、あまりにも意味がない。しかしながら、記憶とその永続性とに、人生の意味がかかっているとして、「みんな僕を忘れるだろう」ことについて畏れをなく生きていくことがどうやってできるのだろうか。そして、そこにできる心の隙間に、性はするりと入り込んでくるのものなのではないだろうか。
「要するに、人間がひとりひとり違う存在だという考えはまさに不条理以外のなにものでもない。ショーペンハウアーがど���かでこんなことを書いている。「人が自分の人生で覚えていることは、過去に読んだ小説よりほんの少し多い」まさにそういうことだ。ほんの少し多いだけなのだ」
そういえば、タイトルになった「プラットフォーム」にウエルベックはどういう意味を込めたのだろうか。日本語のプラットフォームとフランス語のプラットフォームの含意が異なるような気がしている。作中に出てくる「プラットフォーム」という言葉はたった一回、次の少年のときのひとつのエピソードを思い返した主人公の独白の個所だけだ。
「かつて、十二歳のとき、山岳地に建つ高圧電線の鉄塔によじ登った。登っているときはずっと下をみなかった。てっぺんに着き、プラットフォームの上に立つと、降りるのが面倒で危険なことのように感じられた。頂に万年雪を被った山脈が視界の果てまで広がっていた。その場にとどまるか、ジャンプする方がずっと簡単だったはずだ。あと一歩というところで、墜落という考えに捕まった。捕まらなければ、飛翔の果てしない快感を得られただろうにと思う」
人生において、プラットフォームの高台に上って達観したように思えても、そんなものは錯覚で、すぐに下りてこなければならないものだということなのだろうか。そこにある幻滅を味わうのであれば、プラットフォームから飛翔して、そこで終わりにすればよかったのだろうか。主人公の恋人のヴァレリーが結果としてそうであったように。いずれにせよ、みんなすぐに僕を忘れるのだから。
あまり期待していなかったのだけれども、きちんと話の展開もあり、伏線の回収もあり、あらためて面白い小説だった。
主人公がぼそりとつぶやくように「読書のない生活は危険だ。人生だけで満足しなくてはならなくなる。それは危険を冒さざるをえぬ状況をもたらすかもしれない」ということなのかもしれない。
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『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(高橋源一郎)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062180111
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発達した西側文明の中で、アジアを性的に搾取しながらも幸福の絶頂にあった人々が、突如強烈な暴力によって足元を救われる。この話はいったいどこに行き着くのかと思い始めたところで、暴力によって一気に世界が破壊されるコントラストがすごい。
そんなに金を稼いで何になるのかという気持ちにはなる。
この本の出版が2001年で、2001年9月にアメリカ同時多発テロ事件があり、その後も2002年10月のバリ島爆破テロ事件などたくさんのイスラーム過激派によるテロ事件が起こっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/テロ事件の一覧
こちらを見ると90年代から目立ち始めているが、特に21世紀に入ってからの件数がものすごい。
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西欧先進国、発達した資本主義が生み出す孤独かより一層の欲望は、セクシャルのはけ口を海を越えた外へ向かわせるのかね。
そしてそこにはもちろん反感もある。
うんそりゃーテロが蔓延するわ。
全方位にケンカを売るウェルベック氏、これで読了したのは4作目(服従、闘争領域の拡大、セロトニン)これが一番面白かった。