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- 発売日:2009/06/17
- レーベル:ユニバーサル ミュージック (e)
- カタログNo.:TOCE14256
- 組み枚数:2枚
- 発売国:日本
- フォーマット:CD
CD
室内楽リサイタル アルゲリッチ、マイスキー、グートマン、今井信子、他(2CD)【CD】 2枚組
EMIクラシックス・ベスト100 第3期24 bit最新リマスタリングアルゲリッチ/シューマン:室内楽リサイタル(2CD)ソリストとして、またオーケストラとの共演でもその...
室内楽リサイタル アルゲリッチ、マイスキー、グートマン、今井信子、他(2CD)【CD】 2枚組
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曲目
- ディスク1
- ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44 第1楽章: アレグロ・ブリランテ
- ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44 第2楽章: イン・モード・ドゥナ・マルチャ(ウン・ポコ・ラルガメンテ~アジタート~ア・テンポ)
- ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44 第3楽章: スケルツォ(モルト・ヴィヴァーチェ) & トリオ
- ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44 第4楽章: アレグロ・マ・ノン・トロッポ
- 2台のピアノ、2つのチェロおよびホルンのためのアンダンテと変奏曲 作品46 ソステヌート~アンダンテ・エスプレッシーヴォ~ウン・ポコ・ピウ・アニマート~ピウ・アニマート~ピウ・レント~ウン・ポコ・ピウ
- 2台のピアノ、2つのチェロおよびホルンのためのアンダンテと変奏曲 作品46 ピウ・レント・アニマート~
- 2台のピアノ、2つのチェロおよびホルンのためのアンダンテと変奏曲 作品46 ダッピオ・ムーヴィメント~テンポ・プリモ~ピウ・アダージョ
- ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47 第1楽章: ソステヌート・アッサイ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ
- ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47 第2楽章: スケルツォ(モルト・ヴィヴァーチェ) & トリオ
- ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47 第3楽章: アンダンテ・カンタービレ
- ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47 第4楽章: フィナーレ(ヴィヴァーチェ)
- ディスク2
- ピアノとチェロのための幻想小曲集 作品73 第1曲: やさしく表情をもって
- ピアノとチェロのための幻想小曲集 作品73 第2曲: 生き生きと、軽く
- ピアノとチェロのための幻想小曲集 作品73 第3曲: せいて、情熱をもって
- ピアノとホルンのためのアダージョとアレグロ 変イ長調 作品70 ゆっくりと、心からの表情をもって~
- ピアノとホルンのためのアダージョとアレグロ 変イ長調 作品70 急いで、そして燃えるように
- ≪おとぎの絵本≫~ピアノとヴィオラのための4つの小品 作品113 第1曲: 速くなく
- ≪おとぎの絵本≫~ピアノとヴィオラのための4つの小品 作品113 第2曲: 生き生きと
- ≪おとぎの絵本≫~ピアノとヴィオラのための4つの小品 作品113 第3曲: せいて
- ≪おとぎの絵本≫~ピアノとヴィオラのための4つの小品 作品113 第4曲: ゆっくりと、メランコリックな表情をもって
- ヴァイオリン・ソナタ第2番 二短調 作品121 第1楽章: かなりゆっくりと、短くかつエネルギッシュに~生き生きと
- ヴァイオリン・ソナタ第2番 二短調 作品121 第2楽章: きわめて生き生きと
- ヴァイオリン・ソナタ第2番 二短調 作品121 第3楽章: 静かに、単純に
- ヴァイオリン・ソナタ第2番 二短調 作品121 第4楽章: 動きをもって
その他のバージョン
CD | Chamber Works: Argerich Maisky 今井信子 Neunecker Gutman Etc | EUR輸入盤 | 発売日 : 1995/08/25 | 購入できません |
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CD | Chamber Works: Argerich Maisky 今井信子 Neunecker Gutman Etc | 国内盤 | 発売日 : 1995/09/20 | 購入できません |
CD | Chamber Works: Argerich Maisky 今井信子 Neunecker Gutman Etc | 国内盤 | 発売日 : 2009/06/17 | 購入できません |
CD | Chamber Works: Argerich Maisky 今井信子 Neunecker Gutman Etc | 国内盤 | 発売日 : 2015/02/11 | 購入できません |
商品説明
EMIクラシックス・ベスト100 第3期
24 bit最新リマスタリング
アルゲリッチ/シューマン:室内楽リサイタル(2CD)
ソリストとして、またオーケストラとの共演でもその実力を余すところなく発揮している現代最高峰のピアニスト、アルゲリッチ。近年は室内楽の名手としても活躍し、オールラウンドな才能を内外に示し続けています。オランダの古都ナイメーヘンで行われたこのシューマン・プログラムでは、アルゲリッチの眼鏡にかなった個性的な名手が一堂に集められ、熱のこもった非常に高い水準の室内楽が展開されています。レコード芸術特選盤。独批評家賞。仏ディアパゾン・ドール。英グラモフォン賞。英Classical Brit Award(EMI)
【収録情報】
シューマン:
CD1
・ピアノ五重奏曲変ホ長調作品44
・2台のピアノ、2つのチェロおよびホルンのためのアンダンテと変奏曲
・ピアノ四重奏曲変ホ長調作品47
CD2
・ピアノとチェロのための幻想小曲集作品73
・ピアノとホルンのためのアダージョとアレグロ変イ長調作品70
・『おとぎの絵本』~ピアノとヴィオラのための4つの小品作品113
・ヴァイオリン・ソナタ第2番二短調作品121
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
ドーラ・シュヴァルツベルク(ヴァイオリン)
ルーシー・ホール(ヴァイオリン)
今井信子(ヴィオラ)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
ナターリャ・グートマン(チェロ)
マリー・ルイーズ・ノイネッカー(ホルン)
録音時期:1994年
録音場所:オランダ、ナイメーヘン
録音方式:デジタル(ライヴ)
アーティスト紹介
シューマン、ロベルト(1810-1856)
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。 ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。 翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。 シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で、名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。 1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。 1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。 1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。 1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。 1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。 1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。 1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。 しかし、1853年11月には、楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて、公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。 若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことで、ブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。 このブラームスの出現は、晩年のシューマンにとって、音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。 1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され、回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。 作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。
ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。
翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。
シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で、名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。
1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。
1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。
1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。
1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。
1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。
1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。
しかし、1853年11月には、楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて、公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。
若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことで、ブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。
作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
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