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『ワルキューレ』全曲 ショルティ&コヴェント・ガーデン王立歌劇場、ホッター、ヴィッカーズ、他(1961 モノラル)(4CD)

  • 発売日:2014/08/05
  • レーベル:Testament *classics*
  • カタログNo.:SBT41495
  • 組み枚数:4枚
  • 発売国:Europe
  • フォーマット:CD
  • 国内送料無料

CD

『ワルキューレ』全曲 ショルティ&コヴェント・ガーデン王立歌劇場、ホッター、ヴィッカーズ、他(1961 モノラル)(4CD)【CD】 4枚組

ワーグナー(1813-1883)

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『ワルキューレ』全曲 ショルティ&コヴェント・ガーデン王立歌劇場、ホッター、ヴィッカーズ、他(1961 モノラル)(4CD)【CD】 4枚組

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商品説明

ワーグナー:『ワルキューレ』全曲(4CD)
ショルティ&コヴェント・ガーデン王立歌劇場1961年ライヴ録音


ショルティ、オペラ指揮者としてテスタメントに初登場。1961年『ワルキューレ』の歴史的パフォーマンスを収録した貴重な録音!
 戦後、英国のオペラ界は衰退しきっており、クーベリック、クライバー、そしてケンペなどの手によって復興に邁進してきました。不在が続いた音楽監督にショルティが就任し、そしてこの『ワルキューレ』によって世界中に向けてコヴェント・ガーデンの完全復活を宣言したと言われています。さらに、数ある20世紀クラシック録音の中でも「金字塔」と呼ばれる『ニーベルングの指環』全曲の録音を開始したばかりのショルティ渾身のパフォーマンスとしても、歴史的価値は計り知れません。評論界からも他に類をみない大絶賛を得ました。
 この録音は、1961年にコヴェント・ガーデンの音楽監督に就任したばかりのショルティが、同劇場に初めて登壇した際のパフォーマンスです。ブリュンヒルデのアニタ・ヴェルキ、ヴォータンのハンス・ホッター、ジークリンデのクレア・ワトソンなど超豪華な歌手陣です。緊張感や迫力、そしてショルティの音楽家魂が非常に高く評価された公演です。ショルティの指揮ぶりも素晴らしく、コヴェント・ガーデンから最高のパフォーマンスを引き出しています。評論家には、「超一流」「驚くべき」「戦後最高」「言葉にならないほどの興奮」と最大の賛辞が送られています。
 この『ワルキューレ』が含まれる『指環』全曲は、ハンス・ホッターがディレクション、ヘルベルト・ケルンがデザインを担当していました。ケルンはその後ギュンター・シュナイダー=ジームセンに交代し、さらに改訂されたため、このヴァージョンは唯一無二のものです。1964年に完成した『指環』全曲とは違う版になります。 1961年9月29日の初日の後、10月2日の公演を収録しています。(TESTAMENT)

【収録情報】
・ワーグナー:『ワルキューレ』全曲

 ブリュンヒルデ:アニタ・ヴェルキ
 ジークリンデ:クレア・ワトソン
 ヴォータン:ハンス・ホッター
 ジークフリート:ジョン・ヴィッカーズ
 フンディング:マイケル・ラングドン
 フリッカ:リタ・ゴール
 ゲルヒルデ:マリー・コリアー
 ヘルムヴィーゲ:ジュディス・ピアース
 オルトリンデ:マルガレータ・エルキンス
 シュヴェルトライテ:ジョアン・エドワーズ
 オルトリンデ:ジュリア・マリオン
 ジークルーネ:ノリーン・ベリー
 グリムゲルデ:モーリーン・ガイ
 ロスヴァイセ:ジョゼフィン・ヴィージー
 コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
 ゲオルグ・ショルティ(指揮)

 録音時期:1961年10月2日
 録音場所:ロンドン、コヴェント・ガーデン、ロイヤル・オペラ・ハウス
 録音方式:モノラル(ライヴ)


【ライナーノートより】
1961年9月29日、コヴェント・ガーデンの音楽監督に就任したばかりのゲオルグ・ショルティはロイヤル・オペラ・ハウスにて新演出の『ワルキューレ』を演奏した。ショルティの契約は3年と限定されていたが、これは、コヴェント・ガーデンがこの重要なポストを誰かに独占させることなく運営する方針があったためで、ロンドンを一挙に世界のオペラ界の中心とするのに重要な施策であった。

第二次世界大戦中、ロイヤル・オペラ・ハウスはメッカ・カフェが運営するダンス・ホールとして使われていた。1945年に本来の用途に使われるようになったのは、数人の献身的な人々の奮闘によるものだった。やらなければならないことが山積みだった。戦前の経営陣も運営本部も1939年から存在しておらず、全く新しい組織をゼロから立ち上げなくてはならなかった。真っ先に行われたのは、デイヴィッド・ウェブスターを統括的な理事に任命することだった。彼は、精力的で上昇志向の強いビジネスマンだったが、音楽や芸術に情熱を併せ持っていた。ウェブスターの最初の仕事は、ニネット・ド・ヴァロア率いるサドラーズ・ウェルズ・バレエ・カンパニー(現在のロイヤル・バレエ)をコヴェント・ガーデンに移したことである。当時、このバレエ団にはマーゴ・フォンテインというスターがいた。1945年6月、コヴェント・ガーデン・オペラ財団は、すでにヨーロッパ・オペラ界で確固たる実績を誇っていたカール・ランクルを音楽監督とする旨を正式に発表した。国家的なオペラ・カンパニーを創設することは財団の強い意志だった。そのためには、バレエ団も歌劇団も英国人で構成され、独自の伝統とスタイルを築き上げる必要があった。最終目標として、英語によるオペラ上演を目指していた。
ランクルはこれらの方針を完全に委ねられていた。しかしながら、客演指揮者を多く招くことに乗り気でなかったことで、1951年に辞任した。彼の辞任後、4シーズンが音楽監督なしに運営される。この空白期間を事実上埋めたのは、エーリヒ・クライバーとルドルフ・ケンペの両指揮者であった。このふたりの指揮者により音楽的力量は格段に向上し、コヴェント・ガーデンは高い演奏水準と評価を獲得するに到った。ところが驚くべきことに、1955年、ラファエル・クーベリックが音楽監督に就任する。ランケル同様、クーベリックも英語によるオペラ上演に賛成しており、専属アーティストによる歌劇団の構築に熱心だった。しかし、実際ワーグナーを含むいくつかのオペラにおいて、英国人だけでの配役や満足できる英語対訳を探すことが非常に難しくなってきた。1950年代には、一部オペラはオリジナル言語で上演されるようになり、マリア・カラスによる『ノルマ』やクライバーによる『エレクトラ』などが挙げられる。
クーベリックの在任期間はわずか3年で終わり、再び正式な音楽監督を置かない3年間を経験することとなる。デイヴィッド・ウェブスターはこの状況にとりわけ反対することはなかった。ケンペがこのポストを引き継いでくれることが望まれていたが、他の楽団との契約の関係上叶わず、単発契約でコヴェント・ガーデンに出演し続けることになる。

ゲオルグ・ショルティが初めてロイヤル・オペラ・ハウスに出演したのは、1959年の12月のことだった。演目は『ばらの騎士』で1938年以降初のドイツ語上演だった。戦争中スイスで過ごしたハンガリー人であるショルティは、戦後、1952年までミュンヘンで活動した。その後、フランクフルトに移り、ロンドンへ移住するまでこの地で過ごした。コヴェント・ガーデン財団の理事長に復帰していたデイヴィッド・ウェブスターは『ばらの騎士』での成功によりショルティを音楽監督に迎え入れる。
管弦楽作品の演奏に集中することを考えていたショルティは一旦辞退するが、ブルーノ・ワルターに説得され最終的にはウェブスターの申し出を受け入れた。
この音楽監督というポストに正式に就く前の1961年2月、ショルティはコヴェント・ガーデンに再び登場する。演目は初演が大成功を収めたばかりのブリテンの新作オペラ『夏の夜の夢』だった。音楽監督としての公式デビューは1961年8月、この歌劇団が初めてエディンバラ音楽祭に出演した際であった。演目はグルックの『タウリスのイフィゲニア』だったが、タイトル・ロールを歌ったリタ・ゴールが精彩を欠き、演奏全体として大成功とはいいがたいものだった。ロンドンに戻り『タウリスのイフィゲニア』を2度再演し、ついに新演出の『ワルキューレ』のリハーサルが開始された。これは新演出の『指環』全曲プロジェクトの最初の演目という位置づけであった。

ワーグナーは常に、コヴェント・ガーデンにおけるドイツ・レパートリーの中核であった。戦前より、著名なワーグナー歌手がこぞって出演していた。『ワルキューレ』がコヴェント・ガーデンで初演されたのは1892年のことで、グスタフ・マーラーによる『指環』全曲初演より22年も後のことだった。それでも、『指環』の中で『ワルキューレ』は最も人気が高かった。戦後新体制になった40年代後半から50年代にかけて、ワーグナーは最重要レパートリーで有り続けたのである。『トリスタンとイゾルデ』が数え切れないほど上演されたのに加え、『マイスタージンガー』や『パルジファル』といった主要作品も当時の最高峰のワーグナー歌手によって上演された。1948年、キルステン・フラグスタートとハンス・ホッターは、当時の歌劇場の方針による英語上演に悩まされながらも英語版『ヴァルキリー』を演じた。1954年の新演出『指環』全曲も高い評価を得、音楽的水準はバイロイトすら一目置くほどであった。初演はフリッツ・シュティードリーにより行われたが、リバイバル上演を大成功に導いたのはルドルフ・ケンペその人であった。彼の精緻で力強い指揮法がこの壮大な音楽に詩情と力を与えた。また、常に歌手陣を完璧にサポートした。1959年の『指環』はフランツ・コンヴィチュニーによって指揮された。これが彼の唯一のコヴェント・ガーデン出演である。アストリッド・ヴァルナイ、ヴォルフガング・ヴィントガッセン、それにハンス・ホッターといった超一流の歌手との共演により、コンヴィチュニーはかなり発展的な解釈を披露した。この演奏法は楽団員によって受け継がれ、今日でも最高の解釈のひとつとして記憶されている。ケンペ最後の『指環』全曲演奏は1960年9月のことで、新演出公開の一環として行われた。

『ワルキューレ』と同時に違うオペラの上演も開始された。これらは、新しく音楽監督に就任したショルティの発奮を物語っている。ショルティの提案により、『ワルキューレ』でヴォータンを歌うハンス・ホッターをプロデューサーに、ヘルベルト・ケルンをデザイナーに任命した。しかしながら、ケルンのデザインは大変不評で、『ワルキューレ』の後に解任された。次のデザイナーはギュンター・シュナイダー=ジームセンに決まった。ホッターは、オペラ雑誌の中で、プロデューサーとして直面した軋轢について書いている。シンボルと抽象概念を多用する新しいバイロイトのコンセプトに従うべきか、自然主義に徹し元来のワーグナーらしい舞台演出を続けるのか? ショルティは後者を好んだ。結局ホッターは、2つの概念の統合によってこの軋轢を解消しようとした。結果、舞台には「見られるもの」というよりは「感じられるもの」という効果がもたらされた。
公演が重ねられるにつれて、ほとんどの役はコヴェント・ガーデンに属する歌手が歌うようになっていった。エイミー・シュアード(ブリュンヒルデ)、デイヴィッド・ウォード(ヴォータン)、ジョゼフィン・ヴィージー(ヴァルトラウテとフリッカ)などである。しかし『ワルキューレ』の公演の際には、ジークムントのジョン・ヴィッカーズとフンディングのマイケル・ラングドンを除いて、主要な役は外部の歌手が務めた。同時に英語版『ヴァルキリー』はコヴェント・ガーデンの若手歌手たちの大活躍で公演が続けられた。中でも、マリー・コリアー、マルガレータ・エルキンスそしてジョゼフィン・ヴィージーは実力どおり世界的な歌手として認められていった。しかしながら、ショルティが就任した頃から、自前の歌手で英語上演をするという古いポリシーからは徐々に脱却が始まっていた。1958年5月の『ドン・カルロ』の大成功が大いに影響し、首脳陣は国際的スター歌手を起用しオリジナル言語での上演に舵を切ったのである。

評論界でのショルティの指揮に対する評価を高まっていった。フランシス・ドナルドソンは自身の著書「20世紀のロイヤル・オペラ・ハウス」(George Wiedenfield and Nicolson, 1988)で、当時の評判を「ショルティ氏はスコアに壮大な解釈を加えた。」と紹介している。タイムズ紙の評論家は『ワルキューレ』観劇後「オーケストラとして戦後最高」と掲載した。フィリップ・ホープ=ウォレスは「実に見事な演奏・・・ショルティの音楽監督としての初の作品であり、熱狂的なファン達の未だ失われていない愛の結晶でもあった。」と評した。エドモンド・トレイシーは「身体中に興奮が伝わるような演奏」と述べた。
ショルティは残りのオペラでも同様の喝采を浴び続けた。しかしながら、1964年に『指環』チクルスが完成した頃には、頻繁に劇場に通うファンが集まる上段の客席に反ショルティの小さな徒党が形成されもした。アンチ=ショルティ派は、ショルティの持つ緊張感、音量、オケの酷使といった特色は、常にオペラに要求される詩情や温かみと相容れないと感じており、ショルティひとりのカーテンコールの際、しばしばブーイングを行うことで意思表示をしようとした。ただし、こうした兆候は1961年時点ではまだ見られず、『ワルキューレ』の初演は世界的賛辞を得たのである。

キャストは並外れて豪華である。ブリュンヒルデは、フィンランド出身の若手ソプラノ、アニタ・ヴェルキが務めている。彼女の温かみのある声と胸に訴えかけるステージ・パフォーマンスがこのエポニムなヒロインを最上級のものとしている。ハロルド・ローゼンタールは1961年11月号のオペラ・マガジンで9月29日に行われた初日の舞台について書いている。「ヴェルキのパフォーマンスは未熟な女戦士というよりはむしろ、激しいまでの若さを印象づけるものだった。だがこの印象は、ヴォータンへの嘆願の中で大きくプラスに働いた。『戦いの叫び』が要求する高い技術もやすやすとこなしていた。」だが、ローゼンタールが最大の賛辞を送ったのは、フリッカを演じたリタ・ゴールであった。「声楽的にも演劇的にも、これこそヴィルトゥオーゾの歌唱である。ゴール女史が舞台を支配していたといってもよい。ヴォータンだけでなく観客までもが、彼女の痛烈な言葉と高慢な立ち居振る舞いに恐れおののいた。オーケストラもこの歌唱を完璧にサポートした。真に偉大なアーティストである。」さらに、クレア・ワトソンが歌ったジークリンデに関しても記述がある。「優しく女性的。第三幕でのジークリンデのシーンは圧巻だった。」ジョン・ヴィッカーズに関しては、「彼のベストの出来とは言い難かった。ところどころ、ジークムントが非常に軽く感じられた。」と否定的であるが、この録音を聴く限り印象は全く異なる。この録音からは、しっかり役になりきった心躍らせる歌唱が聴いて取れる。ローゼンタールはさらに、1934年からヴォータンを歌い続けてきたホッターにも触れている。「ステージ上での存在感は圧倒的である。ホッターはヴォータンを「現人神」に作り替えてしまったかのようだった。怒りの場面では、ぞっとするほどの表情を見せたが、ブリュンヒルデに対する慈しみの感情はこの上なく優しいものとして表現された。」

他のすべての評論家同様、ローゼンタールも惜しみない賛辞をショルティに送っている。その中で、ショルティの選択したスタイルは当時のコヴェント・ガーデンで聴かれたものとはかなり異質なものだったことも指摘している。「ショルティが正しくケンペが間違っているというわけではない。逆もまた然り。ワーグナー音楽へのアプローチ方法はひとつではないのだから。だからこそ、ワーグナーの音楽は人々を魅了し続け永遠に生き続けるのだ。その夜のオーケストラの出来は素晴らしく、コヴェント・ガーデンが一流歌劇場オーケストラを持ったことを実感させた。今まで聴くことのなかったワグネリアンのどよめきが沸き立ち、オーケストラの響きは言葉で言い尽くせぬほど刺激的だった。」これにショルティへの賛辞が続く。ショルティの音楽家魂、響きとバランスに対する耳の良さ、この音楽を牽引する力と情熱を賞賛している。

この演奏がなされた頃には、金字塔と呼ばれるデッカへの『指環』全曲録音がすでに始まっていた。『ラインの黄金』がウィーンで録音されたのは1958年である。『ジークフリート』が1962年、『神々のたそがれ』が1964年、そして1965年に『ワルキューレ』の録音を持ってこのチクルスは完成することになる。このライヴ録音は、1961年の9月と10月にコヴェント・ガーデンで行われたショルティの『ワルキューレ』4回の公演のうち第二回目を収めたものである。英国ロイヤル・オペラと10年にわたり音楽監督として君臨したショルティの一場面を捉えた、特別な歴史的価値をもった録音である。
c Tony Locantro, 2014、訳:堺則恒(TESTAMENT)

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