紙の本
物語論序説
2018/09/04 16:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ロラン・バルトの代表作の一つであり、広い意味で物語を語る上では欠かせない一冊。記述は意外とやさしく書かれており、物語の概念をソシュールの一般言語学講義を踏襲しながら述べていく。「機能」や「指標」の概念は特に重要。
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基本的にバルトの言っていることはよくわからないので、この本におさめられているうち最も汎用性の高いお話を展開している『作者の死』と『作品からテクストへ』について記述しておくこととする。
『作者の死』
*「作者」なるものは近代以降に登場した人物でしかない。これは「個人」という概念をつくった17、18世紀啓蒙思想あたりに起源を求めることも可能かもしれないが、それよりも重要なことは「作者」という概念の作用の仕方である。端的に言えば、「作者」が生まれたことにより誰が得したのか、ということである。批評ならびに批評家である。
「批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている」(P.81)
「あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。」
「実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読する物は何もないのだ」(P.87)
*<解釈すること>(解き釈ぐすこと)が批評である、とは私たちの時代の、きっと共通認識であるのだが、そうはいってもそんなに簡単なことではなく、上のような<解読すること>に陥りがちである。
*「読者」の誕生。
*タイトルが紛らわしいと思う。死んだのは「作者」ではなく、「作者の優越性」である。たしかに構造主義的に考えれば、作者はいないと言って格好つけることもできるかもしれないが、実際、作る人間はいる。
『作品からテクストへ』
「作品は物質の断片であって(たとえばある図書館の)書物の空間の一部を占める。「テクスト」はといえば、方法論的な場である」(P.93)
「作品は手のなかにあるが、テクストは言語活動(エクリチュール)のうちにある。(中略)テクストは作品の分解ではない。作品のほうこそ「テクスト」の想像上の尻尾なのである。あるいはまた、「テクスト」は、ある作業、ある生産行為のなかでしか経験されない」(P.94)
「・・・作品は、文献学という、字義の科学の対象となる。・・・要するにそれ自体が一個の普遍的記号として機能し、当然、記号の文明の一個の制度的範疇を表すのである。これに反して「テクスト」は、記号内容を無限に後退させ、・・・」(P.95-6)
*
やっぱやめた。
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ロラン・バルトの、おそらく代表的・入門書的なものの一つと思われるが、バルトに熱中した30代前半に何故か読まずにいた本。
比較的初期の文章から、70年代初め頃の文章まで入っている。
冒頭の「物語の構造分析序説」(1966)は構造主義時代の重要作らしいが、文章が生硬で、バルトらしいエロティックな美しさに欠ける。
むしろ「作者の死」「作品からテクストへ」がわかりやすく、面白かった。
私にとってロラン・バルトに対する興味は過去のものだろうか?
彼はもちろん哲学者ではなかったし、「思想家」でもなかった。もともと文芸批評家であって、その点は日本の吉本隆明や柄谷行人などと同じだ。そのテクストは美しい音楽のようで、それ自体が芸術的だけれども、哲学書と同じように読むことはできない。そんな気がした。
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やっぱり抽象的。用語が多かった。
でも『表象の帝国』よりは抽象的なものを扱ってる分、おおざっぱでいいのかしら。
個人的に、物語は構造で要約できるが、詩を要約したら「愛」と「死」しか残らない、というのに納得(それしか覚えてないっ)
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最初の2論文は、ひたすら退屈でとばしてしまいました…。
逆に「作者の死」と「作品からテクストへ」はがぜん面白く読めました。
そこから後は、僕のテンション的には横ばい、あるいは下降気味だったかな。
テクスト理論あたりからバルトのことを知りたい方は、とにかく「作者の死」と「作品からテクストへ」の2つがおすすめです。
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僕の頭が悪すぎて全然読み進まない
しかし、どこまで言っても、要素に分けたがるのね、こいつらの文明は
イームズのパワーズオブテンという映像があるけど、あれこそまさにこの、最小単位と、その集まりによる構造体と、その集まりによる次の構造体と、、、というのの視覚化のベースなんだろう
住所を小さい単位から書いてくのと同じで
歴史の始めに、神は素粒子の集まりから出来たと思ってるのかな?
神が素粒子を作ったとは考えられないのかな?
素粒子は、知性でしか観察できない、ということの寓意をもう少し考えてみるべきかと思う
要素が構造を作って全体になる、のではなく、全体が構造を見せ、要素を孕む、じゃダメなのかな?
何せ、構造や要素を発見するときに、人は要素としてではなく、全体として機能してるんだからね
そもそも要素なんて不確定だって証明しちゃったのに
物語の構造分析叙説
・芸術は、(情報理論における意味での)雑音を知らない
・物語の観点から見れば、われわれが時間と呼ぶものは存在しない
・読むということは、命名するということである。聞くということは、ある言語活動を認知するだけでなく、それを構築することでもある。
・小説の作者が研究されているのであって、それが果たして語り手であるかどうかは問われていない
・詩は要約できないという確信
・あるシークエンスの起源は、現実の観察にあるのではなく、人間に与えられた最初の形式、つまり反復を、変異させ、乗り越える必要性のうちにある
とかとか
バルトはフランス人に向けて本を書いてるのかなーということを思った
まぁ、フランス人がフランス語で書いてるから当然なんだけど、読みにくさはそこにある気がする
あと、エクリチュールとかが、日本語訳されると必要以上にニュアンスを帯びてしまってる気がする
横文字に負けてしまう
そもそも作者というもの自体、近世の産物ですが、その「作者の死」と読者の誕生、ということ
これをもっとうまくやったのが、ホックニーが写真並べて1枚の絵を作ってるような作品とかはまさに、鑑賞者の頭の中にしか像が存在しない絵になる
印象派もそういうところがある
ミケランジェロやカラヴァッジョでは、あくまで作品があって作者がある
「作品からテクストへ」は、テクストという訳の仕方が、横文字の権威感や新しい言葉感を醸し出すのを知ってて使うという楽をしてる感じが腹立たしいんだけど、こういうのってむしろ、ただのカタカナにしたことで誤訳になってると思うんだよね
うーん、、、
言葉はもう少し精度上げて選ぶべきというところを、ざっくりとした理解なのでざっくり言えば、歴史から文脈へ、ということでしょうか
違うかな
「エクリチュールの教え」がわかりやすく面白かった
表徴の帝国をもっかい読みたくなる
ヨーロッパにとって、意味を攻撃することは、隠すか逆にすることだが、文楽は意味を不在にするという方法をとる
とかね
隠さ���いことで、逆に何も隠れてないことを証すという方法は素晴らしいよね
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構造主義を理解することはポスト構造主義をここ数十年続けている現代を理解することに等しいと思っている。
あとは俗っぽい話でいうと、前々から構造主義は裁判書面を読む際の一つの着眼点として利用できる気がしていた。実際に本書を読んで、「序説」における機能レベルの分析手法は、自分が実際に現在扱っている事件の相手方の書面に対する違和感を整理してくれた。お陰で効果的な反論を展開できそう。
他方で他のレベルの分析手法はきちんとその内容を書かれておらず、消化不良。こんなもん世に出していいのか?
その他の文章も難しくも楽しいものでした。