紙の本
ドストエフスキーは究極の小説を書いたのか
2003/12/21 20:45
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書のなかでバフチンが用いるふたつの重要な用語(「ポリフォニー」「カーニバル」)についての引用から始めよう。
「ドストエフスキーのポリフォニー小説において重要なのは、単一の具象的世界の確固たる背景において対象をモノローグ的に認識し、その枠内で展開してみせるという意味での、ありきたりの対話形式ではない。問題は究極の対話性、すなわち究極的な全体にわたる対話性である。劇の全体はその意味では、すでに述べたごとくモノローグ的であり、一方ドストエフスキーの小説は対話的である。彼の小説は、複数の他者の意識を客観的に自らに受け入れる単一な意識の全体像として構築されているのではなく、いくつかの意識の相互作用の全体としてあるのであり、その際複数の意識のどれ一つとして、すっかり別の意識の客体となってしまうことはないのである」(p37)
「カーニバルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見せ物である。カーニバルでは全員が主役であり、全員がカーニバルという劇の登場人物である。カーニバルは観賞するものでもないし、厳密に言って演ずるものでさえなく、生きられるものである。カーニバルの法則が効力を持つ間、人々はそれに従って生きる、つまりカーニバル的生を生きるのである。カーニバル的生とは通常の軌道を逸脱した生であり、何らかの意味で<裏返しにされた生><あべこべの世界>(monde a l'envers)である」(p248)
たとえば「カラマーゾフの兄弟」を読みながら、僕(たち)はちょっと背伸びをしてイワンに肩入れしてみたり、ピュアなふりをしてアリョーシャに擦り寄ってみたり、偽悪家ぶって大審問官の苦悩に同情してみたり、偽善家ふうにゾシマ長老の「お話」に胸を打たれてみたりする。でも、そんな読み方をしていたのでは、ドストエフスキーの小説を読んだことにはならない。あえて乱暴な言い方をすれば、そんな読み方をするぐらいならドストエフスキーなんて読まないほうがいい。彼の小説には猛烈な毒が含まれているから。
ドストエフスキーが絶えず仕掛ける「感情移入」という罠を回避し、その「誘惑」に耐えながら読まなければ「ポリフォニー」は聴こえてこない。
(残念ながら、まだ僕には「ポリフォニー」が聴こえていない。かすかな予感があるだけである、なんとも無責任な言い草だけど。)
本書の解説で、訳者の望月哲男さんは書いている。「作者は……主人公と<我>-<汝>の関係にあって、小説という<大きな対話>を現在形で展開してゆく、一つの声の主体である」。
最近(でもないけど)埴谷雄高さんの「死霊」が文庫化されて、それなりに話題になったりした。埴谷さんはドストエフスキーの決定的な影響のもとに独自の小説世界を作り上げた人で、ついこの間電車に乗っていたら、隣に坐ったちょっとくたびれた感じのおじさん(五十過ぎぐらいの感じ)が「死霊」の文庫本を読んでいて、なんだか頬が緩んでしまった。
「カーニバル」について書こうと思ったら、なんだかまとまりがつかなくなってきた。そこらへんは、あなたに任せることにしよう。で、もし「小説」を書こうと思っているのなら、読んでみて損はしない本である。最後にちょっとした希望の言葉を……
「世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう」(p333)
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ロシア随一の文豪の作品についての評論。「カーニバル」という伝統と「ポリフォニー」という革新。2つの生き生きしたコンセプトを駆使した骨太な名著。
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ドストエフスキー文学を知る上で、避けて通る事のできない「複数のパースペクティブ」(柄谷行人)あるいは「ポリフォニー」という言葉。圧倒的な分析力でそれを初めて提示したのがこの論文。歴史やら音楽史やらを交えて紡ぎ上げた驚異の書である。
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作者はこの長大な論文の最後、ドストエフスキーの創造した芸術圏と同化し、彼以上の複雑な芸術的な世界モデルに達するためには、モノローグ的慣習を捨てなければならないと書いている。
ここでのモノローグとはいわばプロトタイプのことで、それはもしかしたらライトノベル的なキャラ小説の本質であるのかもしれない。
そう考えると、芸術という分野ではライトノベルは認められないということになるが、それは一方でドストエフスキー的なものとは違う別角度でのまったく新しい芸術のスタイルに成長することも暗示しているのかもしれない、なんてことを思った。
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ポリフォニー小説やカーニバル文学といった横文字はひとまず横に置いておこう。本書が素晴らしいのは、ドストエフスキーの小説の本質が「対話」にあることを浮き彫りにしたことにある。登場人物は対話を何より求めている。それは自分以外の他者以外にも、「人間は決して自分自身と一致しない存在である」が故に現れる自らの中の他者、自らの中の分裂した自己に対する対話を求めているのだという。ドストエフスキーは無数の声無き声を聞き、それを自らの中で歪曲することなく互いに対話させる事ができたのだという評価をバフチンは確立させたのだ。
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[ 内容 ]
《ポリフォニー》と《カーニバル》二つのキイ概念で解く「対話」の本質。
[ 目次 ]
第1章 ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈
第2章 ドストエフスキーの創作における主人公および主人公に対する作者の位置
第3章 ドストエフスキーのイデエ
第4章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴
第5章 ドストエフスキーの言葉
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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ドストエフスキーの文学的革新性を理解する。ポリフォニーは、神なる視点を持つモノローグと異なり、人間を描くのによりリアルな手法。相反する要素を結びつけるカーニバル化は、独特の活力を生んでいる。セリフの多声性は、人間の未完結を示すし、それが人間の実相だとも思えた。
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ナラティヴ関係でよく言及されるバフチン。
昔、山口昌男さんが、ブフチンについて語っていたな、とぼんやりと思い出しつつ、読んでみた。
「ポリフォニー」と「カーニバル」という2つのキーコンセプトを中心にドストエフスキーの作品を読み解いて行く。
これらの概念は、なるほど、面白いと思うし、勉強にはなるのだが、ドストエフスキーは遠い昔に何冊か、読んだだけなので、具体的なところではピンと来ないかな〜。
もう少し、ドストエフスキーの具体的なテキストに基づいた分析が多いとよいのだが、わりと抽象的な議論が多くて、しばしば文脈がわからなくなった。
面白そうなんだけどね。なんだか、今ひとつ距離が縮まらない。
バフチンの評伝か、解説書か、なにかを読んでみようと思う。
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ドストエフスキーに関するポリフォニーもカーニバルもよく興味があるのでちゃんと読まなきゃ…と思ったけど結局あきらめた…ぴぴ…
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ドストエフスキーの詩学
(和書)2011年01月24日 21:41
1995 筑摩書房 ミハイル・バフチン, 望月 哲男, 鈴木 淳一, Mikhail Mikhailovich Bakhtin
随分前から読んでみたいと思っていた一冊。
ドストエフスキーの作品は文庫本化されているものはほぼ目を通しました。その上で読んでみるのが一番良いと思いました。漸くその時期が来たかな。
ドストエフスキーを再読してみるのが一番良い。再読に於いて取っ掛かりになるのを期待する。
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ドストエフスキー論としてだけではなく小説論としても読めた。人間の最後の言葉、それを導こうとする対話の営み。
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ドストエフスキーを何冊か読んでないと、これを読むのは難しいですね。たぶん一冊とか読んだだけではよくわからず、少なくとも3つくらい読んでからでないと肯定も否定もしようがなく、内容が理解できないと思う。逆に、読んでいれば、いまひとつ腑に落ちないようなところが理解できて面白いのでは、と思う。
確かにドストエフスキーって、登場人物がやたら議論ばかりしてたり、その議論がどこに向かっているのかわからなかったり、それが作品の中でどういう位置を占めているのかわからなかったりするし、結末も納得が全的にいくものでもない不全感があったりもするので、この本のバフチンの議論がいったん理解できれば、けっこう”腑に落ちた”感は、僕はありました。
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バフチン 「 ドストエフスキー の詩学 」 ドストエフスキー作品を 複数意識の独立性(ポリフォニー原理)、意識と意識の相互作用(イデエ)、カーニバル文学性(分身や逆転した世界)から論じた良書
ハードな読書だった。独立した複数の意識の共存と相互作用がカーニバル的世界感覚を通して、一つの芸術作品に結合するという論調
ドストエフスキー作品を捉えた文章
「相互に融け合わない意識の複数性(ポリフォニー)こそドストエフスキー作品の本質的特徴である」
「主人公は 客体的な人物像でなく〜純粋な声である。われわれは彼を見るのではなく、彼を聞くのだ」
「人間と人間、意識と意識の出会いは〜無限の中、最後の瞬間〜カーニバル的、聖史劇的な時空の中で行われている」
ドストエフスキーと主人公との関係性(作者は 主人公について語るのではなく、主人公と語り合うのである)についての 論考は 実際の創作方法を知りたい。詳細な人物設定をするのだろうか。
ドストエフスキーと主人公の関係性
*主人公は人間であり〜人間の内なる人間
*主人公にとって世界とは何か、ドストエフスキーにとって主人公は何者か
*作者が行ってきた役割を主人公が行い、自分自身を解明していく
*地下室的人間=意識を主たる活動としているような人間〜生活の全てを自己と世界を意識することに集中している人間
*ドストエフスキーの主人公は、自意識そのもの〜自分についての他者の言葉の一つ一つに耳を傾け、他者の意識を覗き込み、歪められた自らの像を認識している
*作者にとって主人公とは、彼でも我でもなく、一人の自立した汝〜自立した価値を持った言葉の担い手
イデエとは
*人間の内なる人間を試みるための試金石であり、内的人間の暴露
*人間の意識が 深層の本質を開示するための環境
*対話の中でイデエは生まれる
*個人の意識ではなく、意識同士の対話的交流の場
ドストエフスキーにおけるイデエの把握が個人的な性格を持つ
ドストエフスキーは個人の意識と社会の意識におけるイデエの生活を描いている〜イデエが中心主題〜イデエが主人公
ドストエフスキー作品の世界
*思想が事件に引き込まれることにより、感情であり力であるイデエが生み出される
*他者の我を主人公が承認する、または承認しないことが作品テーマ
内なる人間
自分自身の開示〜自己観察というより自己対話
カーニバル的世界の核心
*交代と変化、死と再生
*カーニバルとは万物を破壊し再生させる時間に捧げる祭である
*パロディ化とは 奪冠者たる分身をつくり、あべこべの世界をつくること
ドストエフスキー作品の中心人物には、それぞれ何人かの分身がいて、本人をパロディ化している
「地下室の手記」以後のテーマ
*意識の最後の瞬間
*狂気寸前にある意識
*神と魂の不滅が存在しない世界においては、すべてが許される
ドストエフスキーの源流
ソクラテスの対話
メニッポスの風刺(メニッペア)
「おかしな男の夢」
*ドストエフスキーの主要テーマの完璧な百科事典
*主人公像〜賢い馬鹿、悲劇的道化
*メニッペアの普遍性〜一人だけ真理を知っているがゆえに、狂人として嘲笑される
*地上の楽園、原罪、贖罪という人類の運命を描く聖史撃の普遍性
*カーニバルとは過去数千年にわたる偉大な全民衆的世界感覚〜恐怖から解放し、世界と人間、人間と人間を接近させる
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ポリフォニーの考え方は現代の日本にかなり大切な考えだと思う。
同調性の高い国、 日本。みんな黒、みんなスーツ、みんなマスク。一人一人がボヤけている社会。
個人が見えてこない。個にフォーカスすると、キツくて耐えられない。崩れていく。
個が立っている人にはその杭を打っていく。そんな日本。
ポリフォニーという考え方。個と個と個の思想がはっきりとしていることで、その個もくっきりする。
そういうこと。
社会意識の中での課題意識としても面白いかも。
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ドストエフスキー本人の経歴から小説を分析するのではなく、ポリフォニー小説として小説を考え、その小説の主人公の行動からドストエフスキーの小説家としての分析を行なうということであった。したがって、多くの小説が一部分を抜き書きで書いてあるが、全てを読んだ後でないとなかなか理解しづらい。ましてや50年前に読んで内容がおぼろになっている場合は苦しい。
米原万里の紹介本であるが、学生にはあまり向いていないのかもしれない。