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私が2004年の春に読んだ、お厚い科学の啓蒙書。
ニュートンがプリズムを使って白色光を7色に分光したとき、今日の科学の基礎はつくられた。しかし、彼の同時代人であったジョン・キーツをはじめとするロマン派詩人は、“虹の詩情を破壊した!”と、ニュートンを非難。一方、現代においては、ゲノムサイエンスの医学への応用など、科学の実利的側面ばかりが注目を集めている。実は、そのどちらも科学に対する極端な見かたであり、どちらも間違いである、科学とは、限りない驚きと美に満ちた営みなのだ。というのが筆者の主張である。
著者の専門分野は生物学・進化学であるが、脳科学・認知心理学・物理学・宇宙論などを縦横に援用し、科学が孕む“センス・オブ・ワンダー”を様々な側面から解剖してみせてくれる。
とまあ、ここまではほとんどが翻訳書にくっついてる紹介文の引用です。ここだけ読むと分かりやすい本なのですが、私には分かりづらいところもあった。それはなぜか。
彼の主張は一貫しているし、私自身科学的な知識が全くないわけではないので、科学のお話は楽しく読めたのです。が、実は“詩”についての知識がほぼゼロなので、ジョン・キーツとかロマン派とか言われても?なのです。まあそういう細かいところ(細かくはない、むしろ主題です)はサラッと流しても(ほんとは流しちゃいけないです)、十分楽しめる本だと思います。
私のように詩についての教養がない方は、この本をもとに、こういう詩人がいてこういう主張をしていたんだね、という具合に、知識をつける“きっかけ”にするのもよいかもしれません。英文科や仏文科の方にっとっては詩の分野はとっつきやすいと思うので、純粋に科学の啓蒙書として楽しまれるとよいと思います。
話題の中心は、先ほどの紹介文の引用にもあるとおり、「光をプリズムで分解する」という科学的手法が如何に“詩的な美しさ”に満ちているかということと、科学のもたらす“詩的な畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)”が如何にすばらしいかということである。光をプリズムで分解するというニュートンの手法から、様々な応用がなされ科学が発展していったということを、丁寧に説明してくれている。
私がこの本の中で最も惹きつけられたのは、第6章「夢のような空想に ひたすら心を奪われ」、及び第7章「神秘の解体」である。第6章では、迷信とだまされやすさについて、第7章では、超常現象を考えるときの統計的思考法について、それぞれ語られている。私としては、細木○子のようなインチキオバハンがゴールデンタイムでのさばっているような現状を見るにつけ、この第6章と第7章が広く読まれることを期待したい。
それにしても、ドーキンスという人の教養の広さには、ただただ驚かされる。多種多様な詩、散文、文献から縦横無尽に引用がなされており、まさにそのことが彼の説得力の根源となっている。しかし、よく考えてみると、多くの西欧人はかなり広範な知的教養を有している
(たとえば聖書の引用はお手の物だし、幼い頃からシェイクスピアの詩や戯曲を覚えさせられる)のであり、これぐらいの文章を書く人なんてうじゃうじゃいるのだ。まあ、日本と彼らとでは教養の物差しが違うし、その内容も異なるので一概には言えないのだが、それにしても、彼らと対等にやりあうには、西欧文明の厖大な教養を身に付けなければならないのか(「身に付ける」というのは日々の生活の中で口をついて出るような状態を言う。)と思うと気が遠くなる。二流大学に通う二流法学部生の私には当然のことながら到底無理である(教授はよく語学をしっかり身に付けろと仰るが…)。それでもやってやる、という気概ある中高生には、ぜひとも本書をお薦めする。
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正直,何が言いたいかよくわからなかった・・・
昔(Nerton以前)は虹は神秘的なモノの代表であったが,Newtonがひとたび物理的な現象に還元してから,その神秘性が失われてしまった.という意見は間違いで,科学はよりいっそう,その神秘性を引き立てる.というのが前半の大意なのであろう.
後半は生物学の特異な例を挙げて・・・何が言いたかったのか?
福岡伸一氏が翻訳だったので,期待しすぎたのかも.
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序文
第1章 日常性に埋没した感性
第2章 客間にさまよいいった場違いな人間
第3章 星の世界のバーコード
第4章 空気の中のバーコード
第5章 法の世界のバーコード
第6章 夢のような空想に ひたすら心を奪われ
第7章 神秘の解体
第8章 ロマンに満ちた巨大な空虚
第9章 利己的な協力者
第10章 遺伝子版死者の書
第11章 世界の再構成
第12章 脳のなかの風船
訳者あとがき:ドーキンスVSグールド
邦訳引用文献
参考文献
(目次より)
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読み応えがありすぎる!
内容としてはタイトルの通り、科学は虹をスペクトルに解体してし、誌的さを奪ってしまった、という詩人の言葉なのだけれど、けれども、これを読む限りは化学ってロマンだと思うんだけどなぁ……。
世界がどのような精緻な仕組みで作られているか、動いているか、それをしるだけで豊かになれると思うんだけども、科学アレルギーなんだろうか。
面白く興味深いけれど、内容が多岐にわたるので、ぜんぶを通して読もうとすると辛い。
とりあえず、面白そうな章だけ読んでみるのもありかなーと。
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『利己的な遺伝子』は絶賛2回目の挫折中ですが、これはすいすい読み進められました(図書館で借りて期限があったせいかも?)。
なんか分からなくても、これからポピュラ・サイエンス系をどんどん読み進めよう!って気になりました。文学だけでは分からない世界をもっと知りたいなと。
星占いに関するあのジョークは、私もいつか言ってみたい!!
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主にドーキンスの専門の?動物行動学、ダーウィニズムと統計学的な観点から「科学的思考は決してイマジネーションをおとしめるものではなく、むしろその逆」ということを啓蒙する。
「偶然の一致」に神秘性などを感じてしまう人間の傾向も、ダーウィニズムで説明しえる![p237]人間の脳はまだ石器時代ぐらいの設定で、現代社会はそのころに比べて大きな差があるということがそもそもの問題だ。
また、誤ってはいるが聞こえのいい素晴らしい詩的な表現(それが素晴らしいものであればあるほど)が多くの誤りを拡げてしまうことにも冷静に、冷徹に言及している[p275など]。
ドーキンスの脅威的なパラダイムシフトは、自然淘汰の単位を「個体」ではなく「遺伝子」にみたことだった。その軸から「ミーム」という人間の文化的な側面を遺伝子的なアナロジーで捉える概念も考案された。本書では最後にはこのアナロジー、類推が人類の飛躍的な発展要因であったのではないかと結ぶ。詩やアートの価値を進化論的に優位な戦略に寄与するか否かで判断しようとするのは面白いが、あくまでもひとつの側面であろう。
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欧米の知識人はほんと碩学。
しかし、話があっちこっちに飛躍するので論旨追うのがタイヘン。
科学は味気ない、詩的ロマンスを壊すという意見に真っ向から挑み、科学こそは自然界にセンスオブワンダーという神秘性を見出すもの、科学万歳を唱える意欲的な逸書。
福岡伸一の訳なので、『利己的な遺伝子』と少々ニュアンスが異なる向きもあるが、あとがきを先に読めば概要が知れる。わかりやすい。
占星術や宗教儀式への戒告は、『神は妄想である』でも伺った論調。全部頭に入れるのは難しそうだ。
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・私の初めての著書『利己的な遺伝子』を出版してくれた外国のある編集者がいった。あの本を読んだあと、冷酷で血も涙もない論理に震撼して三日眠れなかった、と。別の複数の人間からは、毎朝気分よく目覚めることができます。
・両腕をいっぱいに広げる。左手の指先が生命の誕生、右手の指先が現在とする。その間が進化の歴史である。左手から中点を超えて右肩のあたりまで、バクテリア以上の生命形態は存在していなかった。多細胞の無脊椎生物が出現したのは右ひじのあたり、恐竜が現れたのは右手の手のひらのあたり、絶滅したのが指のつけねのあたりだ。人類の祖先、ホモ・エレクトスが出現し、引き続いて現在に至るホモ・サピエンスの時代はほんの爪の先。爪切りでパチンと切り取れる範囲でしかない。
現在、記録に残っている歴史、すなわちシュメール人の時代、バビロン捕囚、ユダヤ史、ファラオたちの諸王朝、古代ローマの戦士たち、キリスト教の成立、メディアとペルシャの律法、あるいはトロイ伝説、ヘレネやアキレウス、アガメムノンの死といったギリシャ神話、ナポレオンやヒトラー、ビートルズ、あるいはクリントン…これらはすべて爪の先をやすりでひとこすりしただけで消し飛んでしまうのである。
・1994年7月29日のタイムズ紙のコラムで、バーナード・レヴィンは、「高尚な科学」が、私たちにもたらしたものは、携帯電話、折り畳み傘、ストライプの入った歯磨き粉である、などと軽口をたたいた後、見せかけの真面目さを装ってこう始めた。
“クォークを食べることができますか?寒い冬に、クォークをベッドの上に広げることができますか?”
この種の話題は、本来反論する価値もないが、ケンブリッジ大学の金属学者サー・アラン・コントレルは数日後の、「編集長への便り」に、次のような短い手紙を寄せた。
“拝啓、編集長殿
バーナード・レヴィン氏は、「クォークを食べることができますか?」とお尋ねになりました。私が推測するに、氏は、一日、500,000,000,000,000,000,000,000,001個のクォークを召し上がっていると思われます。 敬具”
・キーツは長編詩「レイミア」(1820)の中でこう書いている。
冷ややかな学問が、ちょっと触れただけで
すべての魅力は、消え去らないだろうか。
かつて上天に 恐ろしい虹が現れた。
われわれが その織模様と 織地とを知ると、
それは ごく当たり前の 何の変哲もない目録に入れられる。
学問は 天使の翼を切り落とし、
定規と直線で すべての神秘を征服し、
雲のさまよう空や 小鬼の棲む山を一掃し―
虹の織地をほぐすだろう(アンウィーヴ・ザ・レインボウ)
・紫外線よりも短い光はX線であり、筋肉を透かして骨を見る時に使う。最も短いのはガンマ線であり、波長の長さは一兆分の一メートルという単位である。私たちが光と呼ぶ幅の波長には、何も特別な意味はない。ただ、私たちにはそれが見えるというだけのことだ。昆虫にとっての可視光は、スペクトル上、かなりずれた位置にある。彼らにとっては紫外線も目に見える色であり(“蜂紫色”とでもいおう���)、代わりに赤色は見えない(つまり、彼らにとってその色は「黄外線」となる)。
・人の耳と対照的に、昆虫の耳は気圧計ではなく、言うなれば一種の小さい風向計である。実際、それは一つの風として分子の流れを読み取っている。われわれが圧力の変化として探知している波もまた、分子の動きによって生じる一つの波である。われわれの耳には閉じた空間に鼓膜が張られているような構造をしている。どちらの場合においても、周期的にあちこち動き回る分子によって、文字どおり前後に風になびくのである。
・科学を検討して、「これは私たちが考えたより良いものだ。私たちの預言者がいったより、宇宙はもっと広く、もっと大きく、もっと深遠で、もっと優美である。神は私たちが夢見たより偉大であるに違いない」と結論付けた宗教は皆無である。これはいったいどういうことなのだろうか。そのかわりに彼らはいう。「いや、いや、私の神は小さい神で、私は神にそのままでいてくれといいたい」。現代科学が明らかにした宇宙の壮大さを強調すれば、新旧を問わず宗教は、在来の信仰が得られなかった尊敬や畏怖をさらに多く呼び起こすことができるかもしれないのに。
―『惑星へ』(1995) カール・セーガン
・宇宙全体の中で、物質として存在するものは、32キロの奥行きと幅と高さをもった空っぽの部屋に置かれた、一粒の砂ほどでしかない。しかもその砂粒は粉々に砕かれて10の15乗もの数の破片(宇宙に存在する星の数)になっている、というのだ。天文学が明らかにしたこのような事実を見ると、目が覚めるようだ。美しいとすら感じられよう。
・子どもは何でも信じるものだ。当然ではないか、他にどうしろと言うのだ?子どもはこの世界に何も知らずにやってきて、何でも知っている大人たちに囲まれている。火は燃える、ヘビは這う。炎天下で日よけをせずにいれば真っ赤に焼け、ひりひりして、さらにガンになることも知られている。大人が言うこれらのことは、正真正銘の真実なのだ。
・にせ科学をすみずみまでよく見てみるといい。触っていると安心できる毛布や、しゃぶってもいい親指、しがみつけるスカートなどがそこに隠れている。
―アイザック・アシモフ
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ドーキンスさんの邦訳本の中では訳文が読みやすく感じます。
大人の方で科学ネタに興味があって、さりとてあんまり軽い内容じゃ満足できないという方には一読の価値ありと思います。