紙の本
全世界のウゾームゾーよ、抵抗せよ
2003/04/06 03:31
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:梶谷懐 - この投稿者のレビュー一覧を見る
とにかくあちこちで話題沸騰のこの本、読んでみると想像していたより読みやすかったし面白かった。しかしその面白さは主にマルクス、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、ウォーラーステイン(+従属理論)、といったおなじみの理論が現実の国際情勢を分析する際のツールとして手際よく整理されているということからくるものだと思う。だからこの本に、一部の人が期待しているような、現実を変える理論的支柱になるような力があるかといったら、それは大いに疑問だ。この本に対する評価の高さは、むしろ上記のような思想家の著作になじんできた人たちの「俺たちの読んできたものは世界を理解するために有効だったんだ」という安心感からきてるんじゃないだろうか。しかし、肝心の内容はというと、次のような決して小さくない問題点を抱えている。
まず、すでに指摘されていることだが、<帝国>に抵抗する主体として本書で重要な位置づけが与えられている「マルチテュード」という概念にはあまりにも実体がない。筆者たちは、とりあえず「国民」に代表される近代的な「主体」概念はダメだ、というポストモダン思想の前提を受け継いでいるが、同時に、主体が存在しないところには変革もない、ということも痛感しているようだ。そこで考え出されたのが、何らかの境界線で閉じられることのない「多様性」を抱えた主体「マルチテュード」というわけだ。具体的には、シアトルのWTO会議に反対するために集まった人々のような存在をさすらしい。でも、先進国で裕福な暮らしをしていて一種の正義感からグローバル化に反対する人と、途上国で本当に食うや食わずの生活をしている人とを、本当に同じ概念でくくれるんだろうか。また、たとえばウヨクな人たちなんかは、やはりその「開かれた多様体」から排除されるんだろうか。そしてそのことに正当性はあるんだろうか。
僕はこの言葉を「ウゾームゾー」とでも訳してはどうかと勝手に思っている。「全世界のウゾームゾー」が騒いでも何も起きそうにないけれど、それを「全世界のマルチテュード」といいかえると何か変革への希望がわいてくるとしたら、それは単に言葉の魔術、イメージ操作だ。でも本書がやっていることは基本的にそういうことなんじゃないのか。
第二に、<帝国>の秩序概念は、グローバル化した資本主義による経済的なものだけではなく、デモクラシーなど個人の内面の価値観にまで行使される「生政治的」な権力のあり方も含んでいる。だとしたら、本書のようなその分析者も含め、<帝国>秩序の「外部」に立つことは可能なんだろうか。本書の議論がフーコーの権力論を下敷きにしている以上、それは避けられない問いのはずだが、みたところ著者たちはこれにまともに答えてない。それどころか、従来の従属論の思考にのっとって、WTOに反対するマルチテュードをグローバル経済の「外部」に立った批判者として手放しで賞賛しているように見える。フーコーならきっとそういう安易な「希望」を抱くことを戒めただろうに。
第三に、本書には、丹念な実証的作業によって現実に新しい光を当てよう、という態度が根本的に欠けている。そこが、マルクスやフーコーといった先達との大きな違いだ。マルクスは、現実の労働者のおかれている悲惨な状況をできるだけ詳細に把握・記述しようと努めたし、フーコーはそれまで語られてこなかった「歴史」の再構成(「知の考古学」)のために膨大な文献考証を行ったのだった。
というわけで、悪い本じゃないんだけど、残念ながら『資本論』や『言葉と物』といった、スケールが大きいうえに緻密な議論が積み上げられた偉大な古典には遠く及ばない、というのが正直な感想だ。
紙の本
ラディカルな理論の書
2003/08/24 14:33
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
資本主義と一体となった近代国民国家は、空間的「外部」と時間的「他者」を糧とした。ここで言う「空間」は領土だけでなく、内在と超越といった形而上学的な区画割りを含む。また他者が「時間的」であるとは、国民(ネーション)が歴史を発生場所とする幻想であると、あるいはエネルギー革命や技術革新が生産時間を短縮すること、より端的には価値が労働時間ではかられたことを念頭においている。
外部は、政治権力の存在基盤であった。何よりも権力は境界確定者として、内部と外部の媒介者として振る舞う。内在的な諸力の錯綜による矛盾を外部(神であれ悪の帝国であれ)への言及でもって、とりわけ危機の演出によって解消する。こうした権力の超越論的なあり方を時間軸に沿って論理展開することで、資本主義経済は最終決着を繰り延べる。都市と農村の賃金の差異や生産技術の革新を通じて利潤を獲得すること(工業経済)、細胞分裂的な差異そのものを生産すること(情報経済)。
そして今、グローバル化による「外部」の消失と、情報化や大交流による均質化を通じた「他者」の解消がもたらされ、国民国家と資本主義は根本的な変質を余儀なくされている。新しい地図の作製と新しい時間性の構築、新しい共同性の構成へ向けた転換期を迎えている。
──これまでのところは、『〈帝国〉』の要約ではない。ヨーロッパ近代の権力と資本主義的生産様式をめぐる本書の系譜学的叙述は、以上のような平板で図式的な整理をはるかに凌駕するとてつもない濃度を持っている。とりわけ、スコトゥス‐スピノザ‐ニーチェ、あるいはマキアヴェッリ‐トクヴィル‐ヴィトゲンシュタインといった「内在性の平面」や「構成的権力」をめぐる思想的系譜の摘出は、実に的確である。しかし、『〈帝国〉』の大半を占めるそうした叙述は、ネグリとハートが本書で提示した〈帝国〉という概念の理論的背景をなすものにすぎない。
「今日私たちは、帝国主義から〈帝国〉への移行、言いかえれば、国民国家からグローバルな市場の調整への移行に立ち会っている」。来るべき〈帝国〉は領土を持たない。つまり、〈帝国〉はアメリカではない。それは、核兵器と貨幣とコミュニケーションを手段とするグローバルな管理ネットワーク(「単一の支配原理のもとに統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体」)である。
「〈帝国〉が具体的なかたちをとるのは、言語とコミュニケーションとが、言いかえれば、非物質的労働と協働とが支配的な生産力になるときである」。つまり、〈帝国〉はマルチチュード(これもまた〈群衆〉とでも表記すべき概念である)に寄生する。そこでは、腐敗が遍在している。アリストテレスの「生成消滅論」を踏まえるならば、マルチチュードが交雑による共通種「生成」の担い手であるのと裏腹な関係において、〈帝国〉の本質は「消滅(腐敗)」である。
「ただマルチチュードのみが、その実践的な実験をとおしてモデルを差し出し、いつ、いかにして、可能的なものが現実的なものに生成するかを決定するだろう」。だが、マルチチュードによる「愛のプロジェクト」がもたらす「モデル」について、著者たちは、ただアッシジの聖フランチェスコ伝説を持ち出して、「存在の歓び」や「愛、素朴さ、そしてまた無垢」といった美しい言葉をちりばめるだけである。
要するに、本書は徹底的な、ラディカルなまでに徹底的な理論の書なのだ。「しかし、理論を軽視してはならない。(略)新たな実践はそれまでの理論を総体として検証することなくしてはありえないのである」(柄谷行人『トランスクリティーク』)。
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長すぎる
2003/03/25 09:36
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投稿者:みゆの父 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本によると、この世には見えない権力の網の目が張り巡らされてるんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでにフーコーさんが言ってることじゃなかろうか。
そんでもって、この網の目が世界中に張り巡らされた結果、世界は一つのシステム、つまり「帝国」になったんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでにウォラーステインさんが言ってることじゃなかろうか。
そんでもって、「帝国」は打倒されなければならないんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでに古今東西の反体制思想が言ってることじゃなかろうか。
そんでもって、帝国を打倒するのは「マルチチュード」なんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、その実体は、というと(マグニチュードならわかるけど)よくわからない。「異質」とか「開放」とか「柔軟」とか、そんな形容詞が並んでるけど、つまり何なんだ、これは。
おっと、もちろん面白いことが書いてないわけじゃない。ポスト・モダンとかポスト・コロニアルとかが使えなくなったのはなぜか、とか、マキアヴェリやスピノザやマルクスの思想の生命力はどこにあるか、とか、色々なことがわかるのも高得点。
でも、とにかく長すぎる。読むのに時間をかけたのに、議論としては尻切れとんぼだから、よけい長さが身に沁みる。「帝国」って言葉を新しいラッピングでおしゃれにしたのは、さすがだけど。
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21世紀の偉大な「抵抗と革命の書」、ここに完訳なる
2003/01/27 16:34
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投稿者:小林浩 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ついに刊行である。これだけ前評判が高いのは、思想書では本当のところ、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』以来ではないか。実際、ネグリ=ハート組と、ドゥルーズ=ガタリ組をつなぐ線というのもある。ネグリはドゥルーズのスピノザ論やマルクス読解に大きな関心を示してきたし、ドゥルーズの方もネグリのスピノザ論の仏訳版に序文を寄せているほどだ。ガタリとネグリには共著(『自由の新たな空間』朝日出版社、絶版)があるし、ハートには『ドゥルーズの哲学』という著書がある。ドゥルーズ=ガタリがマルクスとフロイトの再読解を軸に、資本主義社会への抵抗線を描いたのが上記の二書であるとすれば、ネグリ=ハートが共産主義の旧弊を打ち破りつつ、世界資本主義へのオルタナティブ(代替案)を提示したのが、この『帝国』である。911以後のグローバルな現実に介入するためのもっとも強力な実践的思想書として『帝国』は出現する。いわゆる「世界新秩序」に異議を申し立てるがゆえに、本書は保守派政治家から危険視されることになるだろう。さらに、西欧政治思想の系譜の斬新な再解釈ゆえに、アカデミックな保守派からも敵視されるだろう。もちろん本書を読む上で、一連の政治経済学書を読み込んでおかなければならないということはない。ドゥルーズ=ガタリの著書がそうであったように、本書もまた、予備知識なしでただちに読まれうることを暗黙の前提としている。ここでは様々な新しい概念が提出されている。中でも世界新秩序の異名である「帝国」、社会変革の民衆的主体である「マルチチュード」などが重要だが、そのほかのもっとも特徴的なもののひとつ「ポッセ」がある。ポッセとは、ラテン語で「力を持つ」という動詞である。かつて西欧ではこのポッセを、エッセ(在る)とノッセ(知る)とともに、重要な価値とみなしていた。こんにち、ネグリ=ハートはこのポッセを、「知と存在をともに編み込む機械」であり、抵抗のシンボルであるとみなしている。このポッセの「力」とは、ゲバルト(暴力)ではない。搾取に抵抗し、民衆の自律的な協働を目指す力である。それゆえに、本書は911以後のあらゆるテロリズム(アメリカの一国主義的な対テロ戦争も含む)の暴力に反対する「力」となり、さらに世界資本主義によるグローバルな抑圧に対抗する、現実主義的な闘いの「力」となるのだ。ヒントが満載の本書は、今日から明日への勇気の糧となる、希望の書である。現代人必読必携だ。
関連書 『現代思想 Vol.31−2 特集=『帝国』を読む』
連載書評コラム「小林浩の人文レジ前」2003年1月28日分より。
(小林浩/人文書コーディネーター・「本」のメルマガ編集同人)
紙の本
内容紹介
2003/01/24 20:33
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投稿者:以文社 - この投稿者のレビュー一覧を見る
〈帝国〉という言葉は捉えどころが無いのですが、それでも関心を呼び起こされるのは、現代という時代が捉えどころが無いからです。この現代性を壮大なスケールとヴィジョンで解き明かしてくれるのが本書です。例えば、今日テロという犯罪を戦争に仕立てて、国際社会を戦争状態におとし入れるような社会が、いつからどのように始まったのか? また、市場原理という原理主義が、われわれの日常生活を巻き込んだ生政治(剥き出しの生)へと転換したのは、どのようにしてか? これらの大問題を冷静に分析しつつ、現状分析に甘んじていられない、将来の可能性への熱いまなざしをマルチチュード(群集、多数性)に向けています。グローバル化に応じた、一国主義に捉われない世界の解放の視座を提供します。
目次
第1部 現代の政治的構成
第1章 世界秩序
第2章 生政治的生産
第3章 〈帝国〉内部のオルタナティヴ
第2部 主権の移行
第1章 二つのヨーロッパ、二つのモダニティ
第2章 国民国家の主権
第3章 国民的主権の弁証法
第4章 移行の兆候
第5章 ネットワーク権力:合州国の主権と新しい〈帝国〉
第6章 〈帝国〉
間奏曲:対抗-〈帝国〉
第3部 生産の移行
第1章 帝国主義の諸限界
第2章 規律的統治性
第3章 抵抗、危機、変革
第4章 ポストモダン化、あるいは生産の情報化
第5章 混合政体
第6章 資本主義的主権、あるいはグローバルな管理社会を行政管理する
第4部 〈帝国〉の衰退と没落
第1章 潜在性
第2章 発生と腐敗
第3章 〈帝国〉に抗するマルチチュード
注
索引
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読書ノート、つくりました。
http://orc.lolipop.jp/pukiwiki/pukiwiki.php?%C6%C9%BD%F1%A5%E1%A5%E2%2F%B5%DC%CB%DC%B9%C0%BC%F9%2F%A1%D8%C4%EB%B9%F1%A1%D9%A5%CE%A1%BC%A5%C8
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(20090407〜20090429読了)
・「個々の国家が同等な存在体として法的にみなされうる」(ハンス・ケルゼン)→「不偏的な世界国家」→「共同体」→「国際連合」P18
・規律社会から管理社会への行こうを認識する事が可能になった(ミシェル・フーコー)。P39
・国家組織、軍事介入は合衆国によって一方的に指揮される同盟国に対して<帝国>の目下の敵を武力によって封じ込めるプロセスを指導するよう要請。
・マルクス「資本主義はそれ以前の社会形態や生産様式よりもましである」と同じで、<帝国>はそれ以前の権力構造よりもましである。P66
・参考、ジャンボタン「国家論」1576年。君主とマルチチュードの統一や公と私の統一によって主権を生み出す事は不可能であり、また契約論的な枠組みや自然法的な枠組みに固執している限りは主権の問題を解決する事は不可能。P135
・サルトル、「全ての被抑圧者を同じ闘いの中に結びつける最終的な統一は植民地においては、この分離なしには否定の契機と私が名づけるものによって先立たれねばならない。この人種主義に反対する人種主義こそ、人種的差異の撤廃への通じる唯一の道」P139
・グローバリゼーションの暗い側面は感染への恐怖。P182
・「原理主義」という用語は今日のメディアにおいてしばしばその名で通っている社会的消費編成の多様性を切り詰め、もっぱらイスラーム原理主義に言及している。P194
・「全世界を探し回り地球の隅々から生産手段を調達し、あらゆる文化段階と社会形態からこれを奪い取り獲得する。資本が実現された余剰価値を生産的に使用するためには、その生産手段を量的にも質的にも無限に選択できるようにますます不変に全地球を自由にいうる事が必要」P195
・<帝国>の経済=組織は腐敗を通して機能する。P263
・レーニン、帝国主義を政治的な概念として批判している。P303
・マルクス、国民国家は個々独特の方法で限界を画する組織体にほかならない。P308
・アリギ、アメリカは資本主義的蓄積の次の長い同期を導く為にXXを日本に手渡した『周期論』。
・世界の指導者達が、グローバルな経済的、政治的秩序の確立においてニューディール政策が担う役割とそれが発揮する力を認識し始めていた。P324
・世界市場の統一化へと向かう傾向がもたらしたもう一つの重大な帰結として、グローバルなプロレタリアートの大部分がその移動性を増大させるようになった。P329
・プロレタリアートは資本が将来その採用を強いられることになるような社会的、生産的形態を現に創出している。P348
・中世以降の経済的パラダイムの継続。P363
?農業および原材料の搾取が経済を支配
?工業および耐久消費財の製造が特権的な地位
?サービスの提供および情報の操作が経済的な生産の中心
・脱中心化、非−階層的で非−中心的なネットワーク構造。P385
・マルクスとユンゲルス「資本家の利害を規制する失効期間としての国家」P390
・巨大なコミュニケーション企業が差し出す情報の根本的な内容といえば恐怖!!貧困に対する休みなき恐怖。未来に体汁不安が貧困者同士の仕事獲得競争を強いる。<帝国��のプロレタリアートの紛争を維持。P428
・価値や正義は計測不可能な世界に生息し、その世界で育まれる人間存在による絶えざる発明と創造のみが勝ちを規定する。P446
・一般的知性は蓄積された知、技術、ノウハウによて創造された集団的、社会的知性。P455
・統治の最も協力ア思想家たちでさえも、この弁証法と危機からうまく脱出できなかったおうに思われる。P470
・ヨーロッパの知識人たちのアメリカへの逃走は失われた場所を再発見する試みだった。P473
・腐敗を認識する能力はデカルトの言葉を用いれば「この世で最も公平に分配されている能力」。P484
・マルチチュードの目的論はテクノロジーや生産を自分自身の喜びや自分自身の力の増大に向けて方向づける可能性のうち。P492
・自分自身の移動を管理するという一般的権利はグローバルな市民権へのマルチチュードの本源的な要求である。P492
巨大組織の仕組みや危険性、今までのの歴史を振り返りながらその危険性も含めて詳細に観察している著書だと思います。内容量が多いので詳細に理解する為に再読が必要。
大変読み応えのある本です。
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読みたい。
本書のテーマもマルクス並みに大きいため、議論は粗っぽく、残された問題も多い。しかし、すぐれた古典がそうであるように、本書が提出したのは答ではなく、帝国という問題である。『資本論』が共産主義者にとっても必読書となったように、本書を読まずに21世紀の社会科学は語れないだろう。
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難しいけど面白い!マルクスからドゥルーズまで縦横に駆使して、グローバリゼーションの姿を描き出しています。グローバリゼーションを国家を超えた主権<帝国>の勃興として捉え、マルチチュードによる<帝国>への抵抗に可能性を見出す。書かれて10年たっているけど、今だからこそこの視点が活きるんじゃないかな。とりあえず第1部だけでも読む価値ありです。
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<帝国>は歴史的時間を汲み尽くし、歴史を宙づりにし、それ自身の倫理的秩序のなかに過去と未来を呼び集める。p25
<帝国>において、倫理・道徳性・正義は、新たな地平へと投げ入れられるのである。p36
(Cf. ミシェル・フーコー)規律社会から管理社会へ。そこでは生権力が作用する。自分のメモ
社会構造とその発展過程の中枢にまで到達した権力の内部に包摂されてしまった社会は、まるで単一の身体のように反応するのだ。このようにして権力は、全住民の意識と身体の深奥にまで行き渡ると同時に、社会的諸関係の総体を横切って拡がっていくような管理として表現されることになる。p42
フーコー「社会による諸個人の管理は、意識やイデオロギーをとおして行われるだけでなく、身体の内部で、身体とともに行われるものである。資本主義社会にとって何よりも重要なのは、生政治的なものであり、生物学的なもの、身体的なもの、肉体的なものである」p46
<帝国>の生政治的なコンテクストがもつ支配力は、まず第一に、空虚な機械、スペクタクルの機械、寄生的な機械とみなされるべきであろう。p91
ニコラウス・クザーヌス「思弁とは「なぜあるのか[原因の認識]から「何があるのか」[本質の認識]へと知性が動くことである。そして、「何があるのか」と「なぜあるのか」のあいだには無限の距離が存在するのだから、そのような知性の動きが終わることはけっしてないだろう。しかも、それは非常に楽しい動きなのである。というのも、そうした動きは知性の生命そのものだからだ。このような事実から、知性のそうした動きは満足を見出す。というのも、その動きは徒労感でははく、光と熱を生みだすものだからだ」p102
近代性そのものは、危機によって定義されるものなのである。そして、この危機は、内在的・構築的・創造的な諸力と、秩序の回復を目指す超越的権力とのあいだの、絶え間のない抗争から生じる。p108
スピノザ「自由な人間は何よりも死について考えることがない。そして彼の知恵は、死についての省察ではなくて、生についての省察である」p110
ヘーゲル「即時的かつ対自的な国家は人倫的全体である。<中略>国家が存在することは、世界における神の歩みにとって必須の事柄なのだ」p117『法の哲学』
ジャン・ボダン「主権的至高権威と絶対的権力の要点は、臣民全般の同意なしに彼らに法をあたえることからなる」p119
ヘーゲル「私法および私的利福の領域、家族および市民社会の領域に対して、国家は一面では外的必然性であり、それらの領域より高次の力であって、その本性にそれらの領域の利害と同様に法律も従属させられ、依存させられる。しかし、他面では、国家は、それらの領域の内在的目的であり、国家はその強さを、普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利害との統一において、すなわち諸個人が諸々の権利をもつかぎり、同時に国家に対する諸々の義務をもつという点においてもつのである」p122 『法の哲学』
形而上学的な領域に視点を移してみた場合に、至高の君主制的身体が神の身体の一部であったのとまったく同じように、封建的所有権は君主の身体の一部であったのである。p131
国民的同一性とは、血縁関係という生物学的連続性と領土という空間的連続性、そしてまた言語の共通性にもとづいた、統合を推進する文化的同一性のことである。p132
ネーションの概念は、支配者の手のなかにあるときは静止状態や秩序の回復を助長するものであるが、被従属者の手のなかにあるときは変化と革命のための武器となるようにみえるのだ。p145
民族が進歩的でものであるのは、あくまでもそれがより強力な外的諸力から自分を守るために固められた防御線である限りにおいてなのだ。p146
マルチチュードの脱領土化の欲望こそが、資本主義的発展のプロセス全体を駆動するモーターなのであり、資本はたえずそれを抑えこもうと試みなければならないのである。p168
他性とは所与のものではなく、生産されたものなのである。p169
【ポストモダニズム】
・ポストモダニズムの分析は、グローバルな差異の政治、国家の境界の厳格な条里化を逃れた、平滑な世界を横切る脱領土化された流れの政治の可能性のほうを指し示しているのである。p189
・何が新しいかといえば、ポストモダニズムの理論家たちは近代的主権の終焉を指摘しており、近代の二項対立や近代の同一性の枠組みの外部で思考する新しい能力、複数性と多種多様性の思考を実演しているという点である。p190
・思いきり単純化して言えば、ポストモダニズムの言説はグローバリゼーションの過程における勝者に主として訴えかけ、原理主義はその敗者に訴えかけているのだと論じることもできるだろう。p198
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現在のアメリカ一極世界は<帝国>である。
それは西欧が未開人を従属させていく、過去の帝国主義とは異なる。
単一の論理で、単一の価値観により、内部統制された社会で、管理社会の中で人間は消費を促されて消費をするための労働を余儀無くされる。
脱出困難な支配構造で、ドロップアウトは社会的な死を意味する。
最近、良く思うのは、一体自分たちは誰に支配されているのだろう?
という疑問。
社会、制度、技術、システム自身が膨張し、それをコントロールできる人間がいない気がする。
それは、民主党政権を見ていても思うし、東日本大震災による原発事故でも、法律の条文を読んでいても、システムの設計所を見ていても感じる。
誰か1人がコントロールするのを避けた結果、誰もコントロールできなくなった社会、それが自分が感じる<帝国>のイメージだ。
生命線でもある経済・金融で行き詰まりを見せる<帝国>はどのように、次の体制に移行するのか。
今、生きること、自由、幸せそれら誰かに刷り込まれたものを、自分の頭で皆考え、支配から解き放たれるような変革が起きる時代に突入しつつある気がする。
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過去の遺物のような左翼が書いた本は、大きな物語であり、刺激的な議論を巻き起こし、おもしろいので、暇つぶしで読むには、ちょうど良い。
グローバリゼーションの時代にアメリカ合衆国をも含む、新たな主権的権力が出現している。国境を越えた、単一の支配論理のもとに統合された一連の超国家的な組織体。
一つめは、国連や IMFやWTOのような国際機関。
二つめは、主に多国籍企業や諸国民国家。
三つめは、国際的メディアや宗教団体やNGOなど。
そして、それに対抗するのが、賃金労働者や主婦や失業者、学生や老人、移民や障害者やセクシュアル・マイノリティなどの人々マルチチュードだ。
図書館で借りたら、寝転がって読んで、すぐに返せるので、うれしい。
こんなデカい本がいつまでも部屋にあったら困るよ。
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大著である。序に「本書の執筆は、ペルシャ湾岸での戦争がまさに終わった後に開始され、コソヴォでの戦争がまさに始まる前に完了した。」とあるように、執筆姿勢はきわめて今日的な問題意識に貫かれている。世界は、この書物の執筆期間に負けず劣らず混迷の度を深めている。国連という機関の存在を無視した米英軍によるイラク攻撃という異常事態に見舞われている今日の世界を読み解く上での示唆に満ちた書物というべきか。
著者のアントニオ・ネグリは60年代イタリアの非共産党系左派の理論的指導者として知られるが、後にテロリストの嫌疑をかけられ投獄、現在は仮釈放中の身である。マイケル・ハートは亡命中のネグリが教鞭を執ったパリ第8大学で彼に師事し、ネグリが獄中で執筆したスピノザ論『野生のアノマリー』を英訳している。二人の著者は本書の中で共産主義者であることを宣言し、プロレタリアートに未来を見出している。これは現在の社会的風潮から見てもきわめてめずらしいことと言わねばなるまい。
ソヴィエト連邦の瓦解により、冷戦時代は終焉し、世界は合衆国がヘゲモニーをとる資本主義社会に落ち着くかのように思われた。ところが、政治的には、二十世紀最後の十年間は湾岸戦争をはじめとする戦争、紛争、内戦が後を絶たず、まさに世紀末的な様相を帯びることになった。経済的には「グローバル化」という言葉が盛んに叫ばれるようになったが、「グローバル化」とは単なる「アメリカ化」のことではないかという批判に見られる如く、国民国家という政治形態はその流れに脅威を感じていた。
著者たちは、この混沌たる時代に現れた「グローバル化」の動きを、従来の「帝国主義」とは一線を画し、「〈帝国〉」と名づける。つまり、「〈帝国〉」は、かつての「帝国主義」のように、一つの国民国家の主権の拡張の論理に基づくのでなく、脱領土化、脱中心化されたネットワーク上の支配装置であると主張するのだ。ドゥールーズ/ガタリからとられたと思われるこの概念は、今までにない画期的な秩序と権力の構成を示唆する。
国家という領土を持たず、国民という臣民を持たない「〈帝国〉」は、その力を行使するために、必然的に労働力を多国間の多様な人民に頼らざるを得ない。ここに、「〈帝国〉」に対する対抗勢力として「マルチチュード」が誕生する。「マルチチュード」はスピノザに由来する概念で、一般的には「群集」「多性」と訳されたりするが、まったく新しい能動的な社会的行為体であり、働くことによって自己を特異性として生産する新しいプロレタリアートなのである。
スピノザ、マキアヴェッリ、フ-コー、ジル・ドゥールーズ、フェリックス・ガタリ、ベンヤミン、ウィトゲンシュタインそれにマルクスやローザ・ルクセンブルグを援用しながら、ローマ帝国の時代から合衆国に至るまでの権力の推移とそれに対抗するマルチチュードの布置を論じる筆さばきは鮮やかなものだが、一番の問題は、「〈帝国〉」という現実的な権力と秩序の持つリアリティに対して、対抗勢力として期待されながら、現実には分断されたままの「マルチチュード」の圧倒的な脆弱さをどうするか��いう点にある。この大事な点に来ると、著者の語り口は荒野に呼ばわる預言者のようで、今ひとつ説得力が感じられない。ひねくれ者の評者などは、著者が「ホモ・タントゥム」と呼び、一種の社会的自殺だという「労働と権威の拒否」「自発的隷従の拒否」という在り方の方に惹かれてしまったのだった。
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[ 内容 ]
グローバル化による国民国家の衰退と、生政治的な社会的現実の中から立ち現われてきた世界秩序=“帝国”とは何か?
21世紀的現実=“帝国”の解明。
[ 目次 ]
第1部 現在性の政治的構成(世界秩序;生政治的生産 ほか)
第2部 主権の移行(二つのヨーロッパ、二つの近代性;国民国家の主権 ほか)
第3部 生産の移行(帝国主義の諸限界;規律的統治性 ほか)
第4部 “帝国”の衰退と没落(潜在性;生成と腐敗 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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数年前にこれを図書館から借りて読んだが、今思い返してそこに何が書いてあったか、さっぱり思い出せない。いや、マルチチュードとかいう言葉が何とも生煮えで宙ぶらりんの形で記憶に引っかかってはいる。読み終わった時は、この理解できなさは、多分日本語の訳のせいではと思いつき、確か原書まで買った記憶がある。でも今日まで原書の読破も果たされぬまま、分厚いEmpireもどこかに埋蔵されているはずだ。ということで、「要再読」のタグは付けておこう。