紙の本
笑い声と暖炉の暖かさに包まれたクリスマス。
2011/12/16 21:26
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きゃべつちょうちょ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「小さな牛追い」、「牛追いの冬」を読んで、
これらのお話の、天性のユーモアにおおいに惹かれた。
翻訳の石井桃子による力も大きいのだろうけれど、
心地のいい笑いがそこかしこに用意され、思わずクスッとしてしまう。
ノルウェーに牧場を持つランゲリュード家でのびのびと育つ4人きょうだい。
オーラとエルナールという男の子に、インゲリドとマルタという女の子。
とくに男の子たちには、いつだって危なっかしくてどきどきさせられる。
長男のオーラはいつだって自分が一番でいたいのだ。
だけど実際に一番年上だから、面倒見はいいほうなのだ。
次男のエルナールは要領がいいというか、小ずるいところもあるのだが
やはり兄貴には頭があがらないところがある。
このふたりはいつだってライバルだ。男のきょうだいってこんなふうなのかなぁ。
興味深かったのは、クリスマスのごちそうとして殺そうとしていた子牛を、
このきょうだいたちが救い出す場面だ。
オーラもエイナールも子牛を殺さないでくれと父親に嘆願するが、聞き入れてもらえない。
そこで、エイナールはある計画を立てる。
それは兄オーラと、ともだちのヤコブを巻き込まずにはいられない計画だったが、
三人は男の誓いを固く立てて、秘密裏にこの計画を実行した。
それは、ランゲリュード家からオーラがこっそりと子牛を連れ出し、
ヤコブの家の(目立たない)羊の柵のなかに子牛を押し込めておくこと。
しかもそれは、最近はやりの家畜どろぼうのしわざにするということ。
子牛は無事に生きながらえ、奇しくもミラクルと命名された・・・・・・。
三人の男の子が大笑いをこらえて成功を喜び合ったその日の夜。
弟は兄に尊敬の意さえ込めながら感謝を伝えるのだが、
兄はここで落語のような切れ味のいいオチをつけたひと言を放つのだ。
「俺がやさしいだって?こっそり子牛をよそへ持って行った俺が?
そんなこと言ってると、お前はほんとのどろぼうになるぞ!」
そう。全編にながれるユーモアは、落語に通じるものがある。
たまたま見たテレビで立川談志のことをやっていたのだが、
これは、ハムズンの「牛追い」シリーズに通じている!と納得してしまった。
というのは、談志の箴言。『落語は人間の業を肯定する』という意のもの。
人間の持つ弱さやみにくさを肯定し、笑いにするという・・・・・・。
「小さな牛追い」「牛追いの冬」には、子どもたちのありのままが描かれる。
そこには、兄を出し抜こうと策略する弟(!)の姿やその逆もあり、
女の子たちの見栄の張り合いもあり、楽をしようとする嘘もある。
すべてをひっくるめて、とんでもない悪意こそ存在しないけれど、
いつも大人の言いなりではいられない。
子どもだって本気で生きようとすればハードボイルドなのだ、
という世界でもある。
(かわいらしいものだけど)嘘とか策略をユーモアでくるみ込み、
エピソードに笑えるようなオチのせりふをつけるハムズンの物語は、
だから、大人が読んでもじゅうぶんにおもしろいのだ。
そんなにぎやかなランゲリュード家のクリスマスは、温かい。
ほかほかのオーブン料理の湯気と、子どもたちの熱気と興奮、
そして色々なものを包容(抱擁でもある)する両親のやさしい視線。
クリスマスはたくさんの準備に追われ、子どもたちもお手伝いに忙しい。
女の子たちはおかあさんのお菓子を焼く用意にいそしんでいる。
男の子たちは、薪や水汲みなどの力仕事。
そして彼らは家族に贈るプレゼントの商談もしていた。
相談ではない、商談なのだ。
オーラとエイナールは、たいていの場合オーラが、
エイナールの持ち物をうらやましく思い、手に入れようとして
自分の持っているもの、または少額の金銭と交換しようと言い出す。
エイナールは、はじめはイヤだと思うのに、
交換の行為そのものに魅力を感じるため、応じてしまうのだった。
交換が終わるとエイナールはもうプレゼントを母親に見せたくてたまらない。
お菓子焼きで、てんやわんやの現場へエイナールが声をかける。
女の子たちはそれを聞いて泣き出してしまう。
自分たちはプレゼントを用意していないし、用意するお金もないからだ。
おかあさんは、心を込めて絵を描きなさいと姉妹にアドバイスする。
こういった温かなエピソードも、もちろん盛りだくさんなのである。
ユーモアとかウィットというのは、高度な技だと思う。
味わいの深い笑いというのは、簡単には生まれない。
この本には極上の笑いが惜しげなく散りばめられているのだった。
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恐らくこの本は、イマドキの都会の早熟な子供たちにはつまらない本なんじゃないかと思います。 「ハイジ」に似ているところもあるんだけど、ハイジの場合は「アルプスの山の上」と「フランクフルトという大都会」を経験している分、都会暮らしの自分に引き寄せて読むことができる「とっかかり」みたいなものがあるんだけど、この物語で描かれている子供たちの世界っていうのはイマドキの都会育ちの子供たちには想像するだに難しい「遊びの世界」なんじゃないかと思うんですよね。 牛に振り落とされたり、ボタンのお金で交換したり、沼地で壊れかけた筏に乗って釣りをしていたら漂流しかかったり・・・・・・。 モノで遊んでいなかった時代の子供たちの姿が瑞々しく描かれています。
でもね、昨年の夏、Lothlórien_山小舎に親戚が泊りがけで遊びに来たんだけど、その子供たち(小学生と幼稚園児)はこんな山の中だと何をして遊んでいいのかわからないみたいだったんですよね。 で、結局、家の中で KiKi の Nintendo DS でゲーム三昧の時間を過ごしていたわけだけど、KiKi の子供時代であれば山の木が基地に見立てられたり、水の中を泳ぐ小さな虫や蛙が妖精にも悪魔にも化けたりして飽きることがなかったことを思うと、そういう経験をしたことのない子供にはこの物語に出てくる四人きょうだいの他愛もない遊びは全くと言っていいほど理解できないんじゃないかと思うんです。
で、そういう遊び(と言いつつも、彼らにとってはそれが単なる遊びの範疇を超え、現代的に言うならば夏休みのアルバイトを兼ねていて、そこには労働が伴っている)の中で彼らは彼らなりの大冒険を経験しているんだけど、昨今の物語に多いCG使いまくりのハリウッド映画的な冒険と比較するとどうしても地味な感じは否めません。 その地味さ加減が KiKi なんかの世代には懐かしくもあり羨ましくもあったりするんですけどねぇ・・・・・・・(苦笑)
この物語の凄い所は、子供が持っている愛らしさと残酷さ、優しさと冷たさが余計な装飾なしに素直に、でもちゃんと両立して描かれているところだと思います。 勉強好きで物静かでどちらかというと思索家タイプのお兄ちゃんが勉強嫌いで人当たりがよくお調子者の弟を疎ましく思う気持ち、逆にそんな弟がどうしても頭の上がらないお兄ちゃんを暴君のように思う気持ち、命を落としかねない肺炎を患い家族中の心配を一身に集め、甘やかされているうちに、それが当然と思うようになってしまった末っ子の気持ち。 そのどれもが KiKi 自身にも身に覚えがないわけじゃない感情で、読んでいてちょっぴり切なくなってみたりもして・・・・・・(笑)
(全文はブログにて)
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『小さい牛追い』の続編。前作と同じく、四人きょうだいの上ふたり・オーラとエイナールの存在感は大きいが、下のふたり・インゲリドとマルタも少し大きくなって、読んでいて存在感がましてきた感じ。
スヴァルタがうんだ子牛が、みんなの期待に反して牡牛だったとき(牝牛なら市に出して売る)、子どもたち、とりわけエイナールはこの子牛を生かしておくようおとうさんたちに嘆願した。子牛はブタといっしょにクリスマスに殺してしまうことになっていたから。
何を聞かされても、エイナールは子牛のいのちを救おうという望みを捨てず、ものすごい計略を考えついた。最後の手段として、それを実行して…
子牛はある朝、牛小屋からこつぜんと消えていた。どろぼうがぬすんだのか?その子牛がとなりの農場でほえたてているのがみつかった。ランゲリュード家の子牛がいなくなった話はほうぼうへ伝わっていたから、人びとは大いに驚いたのだった。
▼ランゲリュードの牛小屋から、どろぼうが子牛をぬすんだことは、たしかだと、みんなは思いました。けれども、子牛が、どうしてまた、どろぼうの手からにげだしてきたかということは、とけないなぞでした。(p.79)
そして、子牛はランゲリュード農場で英雄のように迎えられ、奇跡の子牛だというわけで生かしておこうということに決まった。なまえは「ミラクル(奇跡)」!その奇跡がおこったわけを知っているのはエイナールだけ。
いとこのヘンリーの話や、マルタが肺炎で死にそうになる話、シラカバ・ラルスの話など、読んでいてほんとうにおもしろかった。そして、きょうだいで一番上のオーラの言動は、この男の子が子どもから大人へとむかう年頃になってきたんやなあとほほえましく、懐かしいような気もするのだった。
新装版の巻末には、訳者の石井桃子の一文とともに、瀬名恵子(せなけいこ!)による、「なつかしいなあ~『牛追いの冬』」がおさめられている。総領だった瀬名は、やはり上の子・オーラの気持ちがよくわかるという。
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4~5年から。『小さい牛追い』から続けて読む。クリスマスの描写は温かくて幸せで、読みながらにんまり。その他独自のボーイスカウト、マルタの肺炎と。「肺炎は人間をあまりよくしないということに意見が一致」する兄弟の面白さ。
彼らは4人兄弟だけれど、私は長子のオーラに共感を寄せてしまう。
そしてインゲルの登場で調子の狂うオーラがほほえましい。楽しいおはなしだなぁ。
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『小さい牛追い』の続編。というか『ノルウェーの農場』という一つのお話を二つの本に分けたんだって。どんどんこの4人兄弟姉妹が好きになりました。脇役のかわいいヤンや、都会っこのヘンリー、インゲルなど、全ての子供達がお母さんらしい愛情のこもった描かれ方をしていて、愛さずにはいられません。インゲル、ハッピーエンドでよかった。
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夏が終わり、山の上にある牧場からふもとの村に降りてきたランゲリュード農場の子どもたち。
秋からは新学期が始まります。
長男のオーラは11歳。
大きな子が通う学校に進みます。
次男のエイナールと長女のインゲリドは今までと同じ学校に通いますが、先生が変わります。
とても厳しくて怖いおばあさん先生。(でもとてもいい先生であることはのちにわかります)
末っ子のマルタはまだ6歳なので学校に行く必要はありませんが、ひとりで家にいてもつまらないので、頑張ってみんなと一緒に学校に通います。
こういう、成長への強い志向が時に幼い子どもに現れます。素晴らしい。
近所に住むヤコブとアンナ兄妹のところに、貧血症の転地療養のため、都会に住む従兄弟のヘンリーがやってきます。
都会を鼻にかけたいけ好かないやつだと嫌だなーと思いましたが、ヘンリーはなかなかのやんちゃ坊主で、都会風を吹かすときもありますが、たいていは田舎の生活を謳歌して、動物たちともうまくやっているので好感度は高いです。
夏の牛追いで儲けたお金で、兄二人はそれぞれ両親や妹たちへのクリスマスプレゼントを用意します。
それに気づいた妹たちは、自分たちが両親にプレゼントを買ってあげることができないことを悲しみますが、それでも自分たちにできること〈絵をかいてプレゼントすること〉で、両親を喜ばせるのです。
末っ子のマルタが病気になります。
高熱が続き、うわごとを言い、両親は家のことすべてを後回しにして彼女の看病にかかりきりになります。
死の淵をさまよった挙句、なんとか峠を越したマルタは、それでもすっかり体力が落ちてしまって、歩くこともままなりません。
彼女は賢い子ですから、家族みんなに心配をかけたことはわかっているのです。
でも、自分の要求を通すために「あたしが肺炎をしたこと、忘れなさんな」と脅したりもするのです。
このしたたかさも、子どもらしくて笑っちゃいます。
オーラの初恋の行方など、どのエピソードも、ほのぼのとしたたかにえげつなく子どもらしくて、すっかりこの家族たちのとりこになりました。
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『小さい牛追い』後編(もともとひとつの物語なのでやはり続けて読んだほうがいい)。
自分の欲しい本を一冊だけにして、お父さんとお母さんにクリスマスプレゼントを買ってしっかり隠しておくオーラ。自分が買ったものを早く見せたくて自慢してしまうエイナール。
男の子たちのふたりの性格の違いが際立ちます。
やんちゃで誰もが好きにならずにはいられないエイナールですが、長女の私としては、お兄さん風を吹かせたり、いい子でいようとしてみたり、でも下の子たちを疎ましく思ったりしてしまうオーラに共感します。
著者のマリー・ハムズンが自分の子供たちをモデルにしただけあって、子供たちのキャラクターは秀逸。そして、お母さん視点から描いていることもあって、お父さんの影が薄い。
家事も牛やヤギの世話もお母さんの仕事で、お父さんは何をしているのか。
マリー・ハムズン(マリーエ・ハムスン)の夫、クヌート・ハムスンはノーベル賞作家であり、都市文化を否定し、自ら農場生活を選んでいると帯の解説にはあるので、お父さんは小説を書いていたのかも。
さらにwiki情報によると、クヌートと知り合ったとき、マリーは若い女優だったのですが、女優をやめて彼の農場生活についていきます。ノーベル賞作家ではあるものの、現在、日本語訳で普通に読めるクヌートの作品は『ヴィクトリア』ぐらい。ナチスを支持したことで(息子はナチスの親衛隊になっています)戦後は失墜し、財産を没収、農場も荒れ果てたとあります。
『ノルウェーの農場』が書かれた1933年は夫婦そろって農場生活をしながら執筆をする余裕があった幸福な時代なのでしょうか。
クヌートが子供時代に叔父から虐待を受けていたという話はインゲルにもつながります。農場の手伝いや学校の清掃をして暮らしている貧しいギュドブランド夫婦とか、みんなハッピーエンドになっているので暗い感じはしないのですが、作品のところどころに影も感じます。
岩波少年文庫にはクリスマスの名シーンが多いのですが、本作も質素ながら美しいクリスマス。みんなで仮装して歩くクリスマスというのはノルウェー風? 仮装するのが黒人の女の子と中国人の男の子というのは時代なのか。
子供のころ読んだら起伏が少なくてつまらなく感じたかもしれませんが、今はこういう地味な物語がむしろとても好きです。
以下、引用。
女の子たちは、わあわあいって、なげき、もう牛小屋へはいかないといいました。もし、あのかわいそうな子牛が死ぬのなら、もうあの子牛を見ていられないというのです。
ランゲリュード農場では、子どもたちが、そのお客さまが前を通ったら、ちらとでもそのおもかげをとらえようと、人間としてできるかぎりのことをしていました。オーラたちは、凍ったガラスに息を吹きかけ、四つの小さいのぞき穴をつくりました。
ときによると、お人形もあたらしい服か、あたらしい足か、あたらしい手をもらいました。
それから、小さい袋にはいったビーズを、ふたりのいもうとに買いました。
「女の子ってものは、いつも休みのあいだ、何か糸でつないだりするものがなくちゃならないんでね。」と、エイナールは、えらそうに笑いながらいいました。
みんながそろって、家のまえへ出ました。すると、静かな夕やみをつたわって、遠い遠いところから、教会の鐘がきこえてきました。オーラは、この空中をつたわってくる、かすかな、ほとんどきこえるかきこえないほどの音楽が、空にただよう雪のひらといっしょになり、まことのクリスマスは、静かに全世界の上にふりそそぐのだと思いました。
それというのも、おじさんが、「この子は、生きて家へ帰らなくてはいかん。」といったからなのです。そして、念には念をいれるために、おじさんは、しばらくのあいだは、どんな形のボーイ・スカウト運動もしてはならないといいました。ヘンリーが帰ったらーと、おじさんはいいましたーおまえたちは、まただれか、ほかに殺す人間をさがしてもよろしい、そのことまでは、おれはかまわないよ……。
町からきた小さいヘンリーは、このとき村の友だちにたいして、白人の探険家が黒人にたいするように、えらい気がしていたのです。
オーラとエイナールは、黒人の女の子になることにきめ、インゲリドとマルタは中国の男の子に、おとうさんは、ばら色のほおをして、赤いくちびるの、うつくしい若いご婦人になるのです。
グスタは、ぽかんと口をあけて、ギュドブランドの話をきき、おまえは気がくるったんだ、といいました。こんなむずかしい時世に、あたらしい仕事をはじめるなんて考える人間は、ばかみたいに自信の強い人間なのです。
「だけど、どんなに時世が苦しくったって、人間はコーヒーのまずにゃいられませんからね。」
「あたしが、肺炎したこと、忘れないで。」
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秋になり町に帰ってきたランゲリュード農場一家の冬のお話。
夏の間の「小さい牛追い」はこちら。
https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4001141345#comment
4人の子供の長男のオーラは11歳になり一つ上の学校に通います。本が好きで勉強も好き、毎日家族が起きる前に出かけて遠い学校まで歩きはスキーで通います。自分なりの判断で寄り道をしたり、大人への第一歩を踏み出しています。それでも弟や妹たちには長男として威張っています。
さて、オーラは夏に山の上の農場で出会った不遇の少女、インゲルのことをずっと気にしています。長く話をしたのは一度だけですが、そのときの「将来自分たちが住む家には牛をたくさん飼って花を植えよう」という話が忘れられません。
弟のエイナールはにいさんとは違って勉強は大嫌い、綴りも苦手、お風呂も嫌い、やることは無茶で突拍子もない。でも自分のものを気前よく人にプレゼントしたり、いつもいい場所に居合わせたりします。勉強は苦手だけど新しい先生のおかげで一歩一歩進んでいるし、自分や友達をバカにする相手には全力で思い知らせてやります。
妹のインゲリドはお母さんのお手伝いをよくやり、一番下の妹マルタの面倒もよく見ます。普段はおとなしいけれど、男の子たちが妹のマルタをからかったときは箒を振り回し追いかけて思い知らせてやります!
そして一番下の妹のマルタは肺炎にかかって命が危うくなってしまいます。家族全員が交代でマルタの面倒を見ます。
マルタは回復しました!しかし家族から大事に大事にされたマルタはすっかり暴君になって、思い通りにならないと「わたしは肺炎になったんだからね!」と家族を脅かすようになります。
舞台が冬なので、一家でクリスマスをお祝いしたり、クリスマスの変装部隊を組んで知り合いの家を訪ねたり、隣の家のヤコブとアンナと従兄弟で都会っ子のヘンリーと一緒にボーイスカウト活動をしようとしたり、シラカバの皮で籠を編む老人シラカバ・ラルスと友情を育んだり、全力で日々を楽しんでいます。
家畜を育てているので、自分の目の前で生まれた豚や牛たちを殺して食べることも日常です。「小さい牛飼い」でかわいいペットだった豚の”イノシシ”は、すっかりブクブクただの豚になったのでクリスマスのご馳走になりました。
でも子どもたちがその時々愛情を持つ家畜もいます。今回は生まれたばかりの雄牛で、この雄牛をすっかり気に入った男の子たちは、エイナールの計略で(オーラは”計画”、エイナールは”計略”な感じ)雄牛の命を守って一家のために働く家畜にすることに成功しました。
そんなランゲリュード農場に突然現れたお客様。それはお母さんを亡くし、奉公先でこき使われていたインゲルでした。インゲルとオーラは手紙を出し合い、インゲルの不遇を悲しんだオーラが「そんなひどいところからは逃げ出すべきだ」と書いたのです。そこでインゲルは、ランゲリュード農場に行けばきっと歓迎されると思ったのです。
学校から帰ったオーラは、インゲルが家にいるのでとても嬉しかったはずですが…、インゲルの顔さえまともに見られないし、エイナールやインゲリドやマルタがすっかり取り囲んでいまさら自分の場所がありません。
インゲルをこのあとどうするか?お父さんとお母さん、そして町の役僧さんで話し合いをして、それはとても嬉しい結果になったのでした。
===
「小さい牛追い」とそのまま続きなのに、数ヶ月でみんな随分成長しています。
長男オーラは思春期を迎えたというか、分別のある青年期とバカなことをする子供とを行ったり来たりという感じ。インゲルとの淡い恋がこれから通じるのかなー通じたらかわいいなあというところで終わっています。
町全体がお互いを助け合ったり、子供であっても労働と対価をわかっていたり、自給自足での衣食住だけでなく、生きていることすべてを子供のうちから自分で責任をもち決断をすることを自然に覚えていることが感じられます。
しかし子供同士でもうまく行かない相手がいたり、ちょっと嫌な気持ちを相手に持ったり、大事にされたら増長してしまったり…子供ながらに良い子良い子ではない複雑な心境も現れています。
そんな子供たちが名誉のために戦ったのなら先生は公平な判断を下すし、酷い環境にある子供を助け出したりします。
まさに、自分がこうなるという見本のような年長者や大人を見て育つ環境の豊かさを感じます。
あとがきは瀬名恵子さん。
本がなかった時代に一家で争うようにして本を欲していた頃が書かれます。
物語でも、瀬名恵子さんのあとがきでも、ものがない時代に本当に物を大事に、相手を大事にしていたということが感じられます。その分今の子供たちにはこの環境は他人事で、自分のものとして受け取るのは難しいのかもなあとも思うところも…。
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「小さい牛追い」の後編。
私にはこちらの方が面白かったです。
タイトル通り、冬に読むのにおすすめ。
ジェンダーや人種差別ともとらえられる場面もありますが、これがこの時代の生活であり考え方だったのだと思います。
もう一度「小さい牛追い」の方も読み返したくなりましたが、できるなら、ノルウェー語からの翻訳を読みたいところです。