紙の本
ムードで読むか?理屈で読むか?ファッションで読んだ初老族の酒席では議論沸騰
2009/11/18 00:23
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
しばらく前から
「『1Q84』を読んだか?」
と60歳をこえた何人もの仲間からたずねられた。
「村上春樹って読んだことがないのだが、販売企画力がメチャメチャうまく、発売前からベストセラーだったんで買ってはあるんだ。」
でもまだ読んではいなかったからそれ以上会話は発展しなかった。
最近になってようやく読み終えた。
同じような仲間と酒を飲んでいてこの話題になった。絶賛された作品であるからだろう、だれもけなすことはなかった。
なぜ1Q84でなければならないのか?
なぜ月がふたつあるのか?
あれはオームのことなのか?
なんでセックスシーンがやたらあるんだ?
疑問符ばかりのそんな会話があった。
そのうちに酔っ払って、わけがわからなくなったとかそんなことであった。ノーベル賞候補者の小説などまるで縁がなさそうなそのなかの一人に
「どうしてこれを読む気になったのか?」と聞くと
「それはファッションだよ」
なるほど60代のファッションかと、私も同じようなことかもしれない。
実に奇妙な味わいのする小説だった。いや、奇妙な味わいに終始しただけの作品だったような気がしている。読み終えてつかみどころのない、地に足がついていない浮遊感が残る。今生きている現実もわけがわからないでしょう。だからわけがわからない『1Q84』を読むことであなたもわけのわからなくなった世界を緩やかに体感しましょう、と著者に言われて、素直にそれに乗せられて、なるほどと、それでいい作品なのかもしれない。
少女、幼児に性的虐待を加え処罰を免れている「悪人」たちをこの世から消す女の必殺仕掛け人が青豆。
青豆は「本栖湖で過激派と銃撃戦、警官三人死亡」という大事件が3年前の1981年に勃発していた「事実」を知らない自分を発見する。やがて月は二つ存在するという「事実」を知ることになる。狂いが生じているのは青豆ではなく世界なのだ。
謎めいた少女・深田絵里子が新人賞に応募してきた小説「空気さなぎ」を受賞に持ち込みベストセラーに仕立て上げる。そのために元の荒削りな原稿に手を加えるといういかがわしい行為を引き受けるのが天吾。そして受賞に至り、『1Q84』同様に爆発的に売れた。
やがて、小説「空気さなぎ」に登場するリトルピープルがこの世に姿を現し、不穏な活動が開始される。どうやら時間の流れの歪みは「空気さなぎ」の真実が公表されたために生じたようだ。宇宙を支配する巨大な意志力が二つ存在し、善も悪もないのだが、その闘争が始まるのだろうか。
古くは中国戦国時代の荘子が語った「胡蝶の夢」の世界であり、最近では映画「マトリックス」の世界でもある………と勝手に解釈する。手の込んだ入れ子構造になっている。少年時代に書かれたノートが予言の書となって世界が征服される、そんな漫画か映画もあったような気がする。夢か現実かあえてよくわからないままに読者は放置される。「奇妙な味わい」はそこにある。
なにかとんでもないことが起こり、ラストにはいろいろ提起された謎が解き明かされるに違いないと読者をひきつけるエンタメ性の味付けがあるから、来年刊行の続編では天吾が降臨するなにものかと戦う大冒険を期待できそうで、大人の読む現代のおとぎ話だともいえる。が、一方で日本を代表する文化人なのだから必ず全世界の人びとに共感される強烈なメッセージがあるはずだとの思い込みがある。
さてそのメッセージとは何なのでしょうかと問いかけられて、答えを見出せなくなる私を発見する。
そういうちょっと人を食ったところのある作品なのかもしれない。
1Q84とは何かと、酔っ払った勢いでこんなことをしゃべった。
正確には1984年ではないのだが、その数年後のベルリンの壁崩壊をイメージしたものだ。ビッグブラザーが倒れ、それまでの価値観は覆る。過去の事実は新しい時代の担い手により書き換えられてそれが歴史となる。だから月は二つになる。その間は価値観が流動化し、それは混乱の元である。混乱をおさめるにはあらたな絶対的秩序が必要とされる。リトルピープルはそのための先兵なのだ。だが1Q84年はいつでもありうる。たとえば吸収される企業に働く人たちにとってその日が1Q84年となる。月が二つになる程度の激変があったはずだ。今年も1Q84年であることに間違いない。自民党政権は倒れ、民主党は過去の事実を自分たちの歴史観で書き換えようとしている。誰かが月が二つあったことに気づいている。しかも新秩序が未だ見当たらないものだから混乱を極めているではないか。すぐにリトルピープルが姿をあらわすのである。気をつけなさいよ。
エッ本当?その程度のことを言っているだけなのか?と詰問され、答えに窮した。
いやいやそれだけだはない。やりたい時に後腐れなくやる青豆の男漁り、女性リード型の人妻と快楽を共有する天吾。その不毛の性愛の果てに青豆と天吾の二人は宿命的な愛の絆で結ばれていることに気づくのだ。そしてその愛の実現に命をかけることにより、この不条理世界において自らの実存を確信する、というテーマも含まれているのではないか。
宗教と犯罪。古くはドストエフスキー、最近は高村薫との共通問題意識もあるぞ。
ムードで読むか、理屈で読むか。話題性に富んでおり、酒席では飛んだ議論も可能。
大人のおとぎ話にはもはやなじめない初老族としては、やはりファッションとして読むにこしたことはない。
紙の本
予定調和の物語
2009/08/10 13:13
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:街で "二郎ラーメン" - この投稿者のレビュー一覧を見る
単純化することを恐れずに言えば、1Q84は偶数の物語である。青豆と壮吾(2人の主人公)を交互に一章ずつ、12X2=24章に纏める構成。2つの月、世界。感応するレシバと、それを受け行動するレシバ。空気さなぎに寄って作られるdaughterと原型であるmother.
作品は著者によって完全に統御され、様々なエピソードを紡ぎながら、エンディングへと向かう。銃口を喉に入れ、引き金を引く青豆。24章で壮吾の面前で空気さなぎから生まれる10才の青豆。
1Q84の世界は周到な構成を取りながら、決して作品自体を裏切り、物語そのものを「異なるもの」へと変幻することをしない。唯一、1Q84と言う表題で9をQとすることによって1+8+4=13と言う奇数、それも素数を紡ぐのみである。
小単位ではそれ相応に心を揺すぶるエピソードはあるが、究極に於いて、読者は作品を「読む」という行為に於いて、「異なるもの」、「生なる感覚」を感じ取ることが出来ない。
私は先に挙げたエピローグを正確に予想することが出来た。これは読者にとってとても不幸な事である。
紙の本
怒涛のように物語が動き出すbook2への序章として
2010/02/26 15:21
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トグサ - この投稿者のレビュー一覧を見る
book1の導入部は比較的、引き込まれやすかったのですが、book1後半からbook2の前半部にかけての乱交パーティーも含めた性描写が延々と続くところは、非常に読みづらく、読書の進行も滞り気味でしたが、book2の前半を過ぎたら辺、物語が動き出すと先を知りたくて堪らず、1日で一気に読み終わりました。
読後感は、重要シーンがありありと目に浮かび、2人の主人公・青豆と天吾の恋愛体験を彼らの親しい者として、ごく近くで目撃したような僕の読書遍歴にもかつてないような読書“体験”を得ました。
どんなに感動したといっても、心は動かされるけれども、ここまで頭の中で映像がありありと現れたのは、僕にとって非常に珍しい読書経験でした。
『1Q84』に登場する2人の主人公
青豆
性的虐待を加える男達を別の世界に送り込む女性。渋滞する首都高を非常階段で降りた辺りから1Q84年の世界に降り立つ?
川奈天吾
ふかえりが書いたとされる摩訶不思議な物語『空気さなぎ』に手を加え、のっぴきならない状況へと追い込まれる。
2人の主人公を取り囲む人々
ふかえり 『空気さなぎ』の作者、『空気さなぎ』は川奈天吾に手を加えられた後、発表されベストセラーとなる
大塚環(たまき) 青豆の親友、“生まれながらの被害者”
あゆみ 青豆の友人(警官)
小松 天吾に『空気さなぎ』に手を加えさせ、天吾をのっぴきならない状況へと追いこまさせる編集者。
老婦人 性的虐待を受けた女性をかくまい、その性的虐待を加えた男性に青豆を送り込む。
つばさ 老婦人の下に逃げ込んだ大塚環(たまき)と同じく“生まれながらの被害者”?
物語に登場する集団
宗教法人 「さきがけ」、その「さきがけ」から派生した武闘派集団「あけぼの」
ビッグ・ブラザー(ジョージ・オーウェル 著『一九八四年 』に登場)⇔ リトル・ピープル(『1Q84』に登場)
物語のキーになる“ことば”
二つの月 ディスレクシア 数学 パラレル・ワールド 猫 性的暴力
『1Q84』の物語形式
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同様に、青豆の章と天吾の章が交互に書かれている。
奇数章が青豆の章で偶数章が天吾の章となっている。
book1を読み終えて
やたら<性>が前面に出てくるなあと印象を持ち、物語が進行しないので読み進めるのに難儀いたしました。
また、第1章から青豆が警察官の制服と拳銃が新しくなった事にこだわっているのが気に掛かりました。
三人称で物語るという形式を村上春樹氏は初めてとった(それまでは「僕」ないし「私」という1人称を用いていた)のですが、この物語る形式を変えただけで読んでいて本当に、この『1Q84』という物語は村上春樹が書いたの?と思えるほど、印象が変わったように思えました。
それから、青豆の親友の大塚環(たまき)が“生まれながらの被害者”として登場するのですが、何故に“村上春樹”が“文学”の世界で“生まれながらの被害者”という一面的にしか見ない見方を、読者に与えるのかが疑問に持ちつつ『1Q84』book1を閉じた。
以上が私の率直な感想です。
僕の記事より。
現在、book2のレビューを作成中です。
投稿元:
レビューを見る
この世界はさっきまであった世界なんだろうか?
「青豆」と「天吾」
2本の糸が細く伸びる。
一瞬交わったような気がして、それは全く交わっていなかったり、
何のつながりもないような2人。
でもどこかがつながっている。
今日の夜、もしかして、月は2つあるのだろうか?
淡々と進む物語。でもぐいと引きこまれる物語。
臭い言い方をすれば、ページをめくる手が止まらなかった。
Book2への序章。
たしかにこれは読む価値はあり!!
'09.06.03読始
'09.06.05読了
投稿元:
レビューを見る
1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。
天吾と青豆という2人の人物の視点から交互に物語が展開していくのだが、天吾が執筆に関わった「空気さなぎ」という1つの小説をきっかけに別々の視点で語られていた2つの物語がリンクしていく。
発想力、物語のスピード感、人物描写のどれも優れていてとても満足できた。
投稿元:
レビューを見る
まだ発売してないけど忘れぬようにメモ。
「IQ」ではなく「1Q」なのがミソ?
(数字タイトルだと「1973年のピンボール」を思い出す)
タイトルから内容が全然想像できないのが何とも悔しい。
解っているのは作品のポイントが『恐怖』ということ。
投稿元:
レビューを見る
【その1】文学界の大スターの5年ぶりだとかの新作が、まだ発売もされていないのに2巻合わせて48万部の予約だというので話題騒然です。
そういえば、2月15日のイスラエルでのエレサレム賞授賞式での批判的なスピーチも彼らしいと評判でしたね。文句があるなら、わざわざ出向いて行かずに、受賞なんか断ればいいのに。
一応人並みに、エッセイも含めて全ての作品を読んできていますが、一度も気にいるとか・感動するとか・琴線に触れるとか・すばらしいとか・なかなかの物語だとか・ちょっとしたフレーズが気が利いているとか、少しも思ったり感じたことのない私は、ただ唖然とするだけです。この人ほど世間の評判と乖離した興醒めな小説を書く人を他に知りません。
ノーベル賞がほしくて、様々な各国語に翻訳してもらいまくっている彼は、どうして自分より先に大江健三郎が取ったのか、悔しくて仕方ないと地団太踏んでいるのですが、2000回を祝ってもらった森光子が、若いころ思っていたことですが、といって一つ川柳でもと披露したものに、あいつより上手いはずだが何故売れぬ、というものがありましたが、上手いし売れているのに何故受賞出来ないの?というところでしょうか。
きっと、手から水が漏れっぱなしなのに気づいてないんだわ。
アラカンの村上春樹、そろそろ読み応えのある一冊を書けたかな? という三秋の思いで、一応私も予約しました。
【その2】(6月3日記入)
5月29日発売から6日が経過。ウハウハの78万部だとか、よく知らない人が2巻だけを買っていったとか、内容を告知しなかったのは何も購買意欲を刺激・脅迫・喚起するための販売戦略なんかではなく、『海辺のカフカ』の時に読者から何も知らせず発行してほしかったという声が多かったので今回はそうしたとか、今まで小説など読んだことがない人が・ましてや村上冬樹じゃなかった春樹なんか聞いたこともないという人が買っていったとか、ああ、めくるめく迷宮の彼方、すでに文学を超えた社会現象・事件の領域に突入しています。
例によって単純明快な構成・文章・起承転結なので、どんどんスラスラ読めること読めること、もう2回目を読了したのですが、感想なんか阿呆らしくて悔しくて、何も書きたくありません。またぞろSEXカルト教団とかが出てきたりして辟易してしまいました。
ベストセラーの王道でしょうが、週末の6月5日か来週初めには、大量に売れた反動でブックオフなどへは大量の読み捨て処分売却本が出回ることでしょう。
この感想へのコメント
1.anokeno (2009/05/27)
もう買った人がいるのかと驚きました。読んだらまた感想を書いてくださいね
2.薔薇★魑魅魍魎 (2009/06/03)
せっかくのご来店まことに有難うございます。
もう少し落ち着いたら、きっともっと綺麗さっぱり表わせると思いますが、今は極度の虚脱感と悔恨の念で身体が蜃気楼のような状態で、自分が自分でないようなのです。ごめんなさいね。
3.maugham (2009/06/10)
私もエルサレム賞は、ああいう批判をするくらいなら、受賞辞退の方がよほど、作家として誠実な態度ではないかと思いました。��かし、実を言うと、私は、村上春樹なる作家の作品を一度も読んだことがないのです。「積ん読棚」にはあるんですが。薔薇★魑魅魍魎さんのコメントを拝見すると、またして読む機会が遠のきそうです(笑)。
4.薔薇★魑魅魍魎 (2009/06/11)
申し訳ありません、そんなこと言わずぜひ。私のせいで村上文学の貴重な読者が一人減ったりしては面目ないですわ。読んでも得るものがないけれど読まずにいられない・何かあるはずと強迫観念に駆られて幾年月、きっと最後まで裏切られ続けるのでしょうね、幸薄い私・・・
投稿元:
レビューを見る
3回目になります。
1回目はもちろん出版された時。
2回目はBOOK3が出るということで、その前に復習のつもりで。
そして、今回が一番、ゆったりと落ち着いて読めたのは読めたけど、新たな疑問がわいてきて、ぐるぐると迷路になっている・・。(*^_^*)
初読時には、とにかく天吾のやった“不正”が露見するのでは?と怖くて、怖くて、天吾本人はそれ以上に大切なことがある、と落ち着いているようなのに私ばっかりがあたふたしていたような気がして可笑しいです。
で、今回、改めて、青豆と天吾の世界って、クロスしているのか、別物なのか、の疑問がふつふつと…。天吾の世界には月は1つしかない、ということで、青豆だけが別ワールドに行ってしまったんだ、と思ってたんだけど、「あけぼの」の銃撃戦は青豆にとって(そして私たち読者にとっても)なかった歴史なのに、天吾の住む場には確かにあったこと、ってどういうことなの??
・・・ただ、天吾にはかなり曖昧な記憶、ということになってるのが不穏というか、ますます、わからない、というか。(*^_^*)
私は、BOOK3まで読んでしまっているのだから、今後彼らがどうやって巡り合うのかわかっているのだけど、あれれ??私って勘違いしてた??と。
春樹さんが、謎をパズルが当てはまるようにすっくりと解明しないのはいつものことだから、物語の途中でピースをあっちにやったり、こっちに戻したりしても意味ないよね、と思いつつ、でも、こんな風に何回読んでも楽しめるところがまた、村上春樹の魅力だなぁ、と思います。
投稿元:
レビューを見る
おすすめ度が☆5つなのは、読んでもらうしかないからです。
個人的には人生の中で見逃せないキーワードがいくつか出て来て
重要な異世界に踏み込む気持で読み進めました。
投稿元:
レビューを見る
世界観は相変わらず理解できるようでできない魅力があり、純粋に引き込まれるものがあった。
個人的に、村上春樹の作品は読んでて笑ってしまうような表現や人物のセリフが好きなのだが、
今回の作品は容量の割にそういったものが少なく、どこか坦々としたものを感じてしまった。
だからこそ読みやすさという点では一級品で、すばらしく完成された作品だと思う。
投稿元:
レビューを見る
話題になっていたので、初めて村上春樹の作品を読んでみた。
スポーツインストラクターであると同時に暗殺者としての顔を持つ青豆の物語と、
予備校教師で小説家を志す天吾をの物語を交互に1章づつ描く形。
読んでいて思ったことは、何でもかんでも性に繋げるということ。
何でもない文章でもその帰結には性に関する言葉が用いられていて、正直あまり気分がよくなかった。
投稿元:
レビューを見る
読む前に想像していた感じと違い、抽象的で意味がつかみにくい小説ではなくて、かなりはっきりとした筋があって、その示唆しているところも明示的な小説だと思った。読んでいて、文章がとても気持ちよかった。
この作品については、おそらく、この先多くの研究家や有識者と呼ばれる人たちによって、解体されて無数の批評が加えられることになるのだろうけれど、そういう分析的な観点をまったく無しにしたとしても、単純に、読みやすくて面白い話しだと思う。
ジョージ・オーウェルの小説で描かれた1984年とは異なり、現実の1984年には「ビッグ・ブラザー」のようなわかりやすいアイコンは登場しなかった。しかし、それと対をなすような形で「リトル・ピープル」という存在が、はっきりとは見えにくい形で人々の間には潜んでいる。この「1Q84」というタイトルが示す本当の意味は、物語のだいぶ後になって明らかになってくる。
青豆という、女性の主人公のキャラクターは結構すごいと思った。顔をしかめると極端に人相が変わるとか、人体の筋肉への徹底的なこだわりとか。そのエキセントリックさには、何箇所か笑った。
それとは対照的に、男性の主人公には、多少風変わりなところはあったとしても、根本にはちゃんとした生活の雰囲気があるというところが、なんだかホッとする。この、まったく無関係に見える二人の人生が、少しずつ少しずつ重なっていくところがいい。
物語の中に、もう一つの物語が登場して、「文章を書く」ということが一つのテーマになっているというのは面白かった。
「人が文章を書いている時、文章を書いているのは誰なのか?」ということは、とても興味深いテーマだったし、それをさらに一般的な概念へと広げて「自分の人生を生きていると思っている時、そのように生かしているのは誰なのか?」という問題提起には、ものすごく強烈なインパクトがあった。
サイエンス・フィクションのような現実離れした場面もいろいろとあるけれど、その乖離の度合いというのは、人類の口承や神話が民族を超えて共通に持つ、無意識の領域が紡ぐ物語と同じ程度の、現実からのズレなんじゃないかと思った。
こういう普遍性を、日常生活の出来事に溶かし込むように、感覚的にスッと入りやすい形で表現出来るというのは、本当にすごいことだと思う。
彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。(p.74)
「数学というのは水の流れのようなものなんだ。水が高いところから低いところに向かって最短距離で流れるのと同じで、数字の流れもひとつしかない。じっと見ていると、その道筋は自ずから見えてくる。君はただじっと見ているだけでいいんだ。意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる。そんなに親切に僕を扱ってくれるのは、この広い世界に数学のほかにはない。」(p.89)
何であれ、目の前に自分が所有するものが溜まっていくことが彼女には苦痛だった。どこかの店で何かを買うたびに罪悪感を感じた。こんなものは本当は必要ないんだと思う。クローゼットの中の小奇麗な衣服や靴を見ると胸が痛み、息苦しくなった。そのような自由で豊かな光景は、逆説的にではあるけれど、何も与えられなかった不自由で貧しい子供時代を、青豆に思い出させた。(p.329)
「あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。」(p.330)
「メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ。」(p.344)
「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。
「待ちきれない」とどこかで誰かが言った。(p.353)
「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ。僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている。その二つは密接に絡みあっている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる。」(p.459)
爪を見ていると、自分という存在がほんの束の間の、危ういものでしかないという思いが強くなった。爪のかたちひとつとっても、自分で決めたものではない。誰かが勝手に決めて、私はそれを黙って受領したに過ぎない。好むと好まざるとにかかわらず。いったい誰が私の爪のかたちをこんな風にしようと決めたのだろう。(p.484)
人は脳の拡大によって、時間性という観念を獲得できたわけだが、同時に、それを変更調整していく方法をも身につけたのだ。人は時間を休みなく消費しながら、それと並行して、意識によって調整を受けた時間を休みなく再生産していく。並大抵の作業ではない。脳が身体の総エネルギーの40パーセントを消費すると言われるのも無理はない。(p.491)
ディッケンズのロンドンを照らす月。そこを徘徊するインセインな人々とルナティックな人々。彼らは似たような帽子をかぶり、似たような髭をはやしている。どこで違いを見分ければいいのだろう?(p.554)
投稿元:
レビューを見る
青豆と天吾の二つの物語が奏でる“シンフォニエッタ”は、村上春樹がデビューから常に小説で問いかけているテーマ―我々の居る世界に対するちょっとした違和感―を、珍しく真正面から詳らかにしようとしている。現在だけではなく過去までも書き換えて「そうではない(なかった)何か」を、恋愛とハードボイルドというオーソドックスで陳腐とも思える手法で描いている。総合小説を目指す春樹らしいといえばそれまでなのだが、やはり魅かれる。ちょっとした違和感が音叉のように現実世界と乖離していく様は、さすがとしか言いようがない。
投稿元:
レビューを見る
まだ 物語は始まったばかりで。「Q]が何を指すのか。交互に語られる物語がどういうつながりを持っていたのかが分かっただけで。いや、詳しくは書くまい。しかし驚いたのは、村上春樹氏が60歳だってこと。私の中では、J'Sバーで鼠と一緒に浮遊する絶望をすって孤独を吐き出す大学生だったり、双子の女の子と一緒に忍び込んだゴルフ場でそこかしこに落ちている暗い未来の白いボールを拾ったり、中国への井戸をもぐっていたりしている「若者」のはずなのに…
投稿元:
レビューを見る
正直なところ、序盤は置いてけぼりにされているような気分だったけれど、中盤以降からは落ち着いて読めた。発行部数とか側面的なことでよく騒がれているけれども、内容としてはそれほどムキになって否定したくなるようところもなく、早く続きを読みたい気持ちが最後まで持続した。ただ、1冊だけではなんとも言えない部分が多く、それは2冊目を読んだ後でも解消されなかった。1、2と振っていることから、続編があることが想像されるけれども、現段階でアナウンスがないので3が出るのか、出るとしたらいつか、そういったことがわからない以上、なんとなく宙ぶらりんな読後感になる可能性大。