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顔のない軍隊 みんなのレビュー
- エベリオ・ロセーロ (著), 八重樫 克彦 (訳), 八重樫 由貴子 (訳)
- 税込価格:2,420円(22pt)
- 出版社:作品社
- 発行年月:2011.2
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紙の本
市民生活を暴力でこなごなにする三つの軍隊の内戦。当事者でなければ分からない「否応なく破滅に追いやられる恐怖」を、純朴な中年男性の語りで描く。ラテン・アメリカ注目の作家作品。
2011/03/02 13:48
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
小さな村の、とある庭ののどかな景色の中で、男が「まあ、言ってみりゃこんな具合かな」と、ほっこりした調子で語り出す。正確に言うと、庭と庭の境の壁のところ。
語り手イスマエルは、オレンジをもぎつつ、お隣のブラジル人妻が全裸で日光浴するのを覗き見しているのだ。コンゴウインコが鳴いたり、ブラジル人ご亭主がギターを弾いたり、強い陽光の下、猫や金魚、木々の葉がみなゆらゆら揺らめいていたり……そういう平和な景色に始まる語りだ。
のどかな中、ブラジル人宅のお手伝いさんがナイフで指を切ったらしく、血のしずくが一滴、物語にたれる。そして、その子が、孤児になったからブラジル人宅にいるという事情をイスマエルが話し出すと、平和な景色はどうやらひとときだけのものなのか……と分かってくる。
はだかの覗き見とは何とも情けないが、実はこのイスマエル、元教師なのだ。彼の住むこじんまりした世界には神父がいて、バーの店主がいて、医師に民間療法士もいて、多くの教え子たちがいる。集まりに行ったり、通りで
出くわした知人としゃべったり、飲みに行ったり体の不具合を相談したり、女房と喧嘩したりするが日常だ。
彼が外出し、あちこちへ立ち寄ってくれるから、人のいい村人たちばかりの共同体の様子が見えてくる。が、尋常でない状況も徐々に明らかになってくる。行き会う人たちの家族が、かつて襲撃されて亡くなったとか、連れ去られて失踪したままだとか、拷問を受けて銃殺されたとか……。
そうこうするうち、陽光いっぱいの庭でのんびりしていたブラジル人妻にも、イスマエルにも、異変が生じる。ブラジル人家庭では、ご亭主も子どもたちも消え去ってしまい、イスマエルの家からは妻がいなくなる。
物語の後半は、イスマエルの妻捜しになってしまう。
イスマエルと村人たちとの会話で、市民生活の場が段階的に戦場となっていくのが分かる。「これじゃ、人として暮らしていくことなどできやしない」というのはまだ初期状態で、やがて、「明日には」「夜には」「一時間後には命はあるのか」という状態になってしまう。
『顔のない軍隊』とは、よくした邦題だ。スペイン語原題では、「軍隊」の複数形である。
コロンビアのどこにでもあるサン・ホセという小村を舞台にしたこの小説は、コロンビア人なら「軍隊」と言われて誰もが思い浮かべる「政府軍」「右派自警団のパラミリターレス」「左派ゲリラ」の三つを公平に扱う。
何が公平かというと、学んで遊んで働いて子育てをして……といった市民の日々を、暴力で蹂躙するという点において三者に違いはない。どういう信念を持った軍隊だろうと、どういう戦い方をする軍隊だろうと……。どれも皆一様に、人に不幸や悲しみをもたらす。犠牲を強いられるから有難くない存在という意味で同じなのだ。
三つの軍隊がどう対立しているか、どういう状態の国家を目指しているかといった政治的事情は心得ていなくて大丈夫。コロンビアでなくとも、紛争や戦争の犠牲となっている、どこかの場所を想定すれば読んでいける。
元より、人のいいおじさんイスマエルの語りは、小理屈がないから難解でなく、ぼくとつでユーモラスで読みやすい。
物語の展開も、パラミリターレスや左派ゲリラが分からない外国人にも分かるよう、架空の物語のように軍隊を匿名的に扱う。例えば、ある事件が起き、市民が暴力の犠牲になっても、どの軍の仕業なのかがはっきり書かれていない。それがつまり、「顔のない」という意味である。
しかし、意図的に書かれないわけでなく、どの軍の仕業なのかが市民たちにも分からない状況が現地にはあるらしい。実に恐ろしいことだ。
身内や知人が襲撃されても、連れ去られたり処刑されたりしても、本当のところ、どの軍の兵士がやったのかが定かでない。恨みに思うにも復讐しようにも、相手が特定できないということだから……。
紛争や戦争、災害に謀略。たまたまそこに居合わせて「巻き込まれていく」ことで、個人の成長や発展、前向きな気持ちが狂わされてしまう。
解説で説明されているコロンビアの政情や治安は、三つの軍による内戦だけでなく、麻薬組織抗争や米国の介入もあって国民皆が精神を病んでしまいそうな厳しいもののようだ。
自分の意思に関係なく「巻き込まれていく」――否応なく破滅に追いやられる理不尽さへの無念、恐怖感は、当事者でないと分かるものではない。それまでの自分を失う時の内面は、「恐ろしさ」という感情の「まともさ」を超えたところにある。
そういう状況から出てきた文学作品が、悲壮感たっぷりに書かれているのではなく、いつの時代にどの国の人が読んでも見当がつくように書かれる。「人に起こり得る悲劇」「物語る価値」を内包し、本の形になっている。
表紙装画のボテロの絵も同じで、太っちょの体のどこかに、ほころびを開け、リンゴを喰う虫のようなものを飛び出させていたユーモラスなかつての作風も、恐怖にさらされたコロンビアの何十年かを表現するものに変わり、こうして目の前に現れた。
村や国が滅ぼされたとしても、それを記録した文学や芸術は残っていく、受け止める者さえいれば……。だから、意識的に選び取り、読んで書くことを単なるお遊びだとは思うべきでない。読むこと、書くことは文化の継承を支える行為となり得る。
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