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放蕩の末に最後の日々を過ごす老人と、その孫娘の静かな同居生活を描いた表題作をはじめ、奇妙な美しさを放つ庭の情景が男女4人の視点から鮮明に浮かび上がる「楽器」など、全3編を収録した作品集。『新潮』掲載を単行本化。
と抄録にはあるけれど、こんな話だったっけ?と思う。
もう一つの「わたしの小春日和」が一番わかりやすかった。
全て誰が主人公で誰で話が終わるのか予想しにくかった。
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つかみどころがない中篇が3本.表題作は祖父・竹春と暮らし始めたなつめの話しで始まるが、竹春の若い時代の遍歴が語られる.最後の場面で全世代の皆が集い宴会が始まるが、よく意味がつかめない.題目は竹春となつめの寐る時の姿勢がよく似ていることから取ったようだ.「わたしの小春日和」は職を失った南行夫が実家に帰って、同級生らと付き合う話しだが、安西加代子が中心となっている.息子の洋平が奇妙な行動をする場面があり、元教師の坂口と加代子が劇団を立ち上げる所で話が終わるが、これもよく分からない内容だ.さらに「楽器」では私、谷島、塔子、きよ子が池探しをするが見つからず、山羊の公園や赤い東屋、廃車の森に出くわす.久米老人を中心にした宴会が始まる.
作者は何を書きたかったのだろう???
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虹みたいに、最初黄色と思ってたものがいつのまにかピンクになり、なったと思うとブルーになってる。みたいな印象。そんで最初の色には戻らずに、変化したまま終わる。
書いてること・・自分が今読んでるものを疑いながら読んでた。
最初の話の終わりかたはまるで
エヴァのラストシーンみたいでもあるし、
ぐりとぐらが焼いたカステラをみんなで食べるシーンみたいでもあって、微笑ましい&ちょっと狂気でした。
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表題の寝相は、いろいろかみ合わない人間たちの、でも確実につながっているんだ、という部分(寝相が同じ)があって、ノスタルジック。
3話目の『楽器』は、混とんとし過ぎていて、全く解らなかった。
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http://tacbook.hatenablog.com/entry/2016/01/25/201926
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「寝相」
眠る祖父、引き取った孫。その周囲。
祖父の夢の中では今までの人が集まり、関係性も崩れ、幸せな混沌に。
新人賞受賞作を軽々と凌駕して書名にするに値する傑作。
「わたしの小春日和」
職を辞し妻と別れ実家に戻った男が、色々と観察する。
荒唐無稽さは抑え目。
「楽器」
新潮新人賞受賞作。にして、すでに堂々たる人称の移動が。
宴会の家を取り巻くようにして庭に現れた死人たち、を、死人たちの眼からも描いている?
とにかくこの人みたいな小説を書きたいんだ。再認識。
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妻と別居生活を送ることになり実家へ身を寄せる「私」。
近所に住む同級生の今、その子供との関わりを書いた『わたしの小春日和』は、
「間」が感じられ、ゆっくり進む日常が心地よかった。
『楽器』は、頭で考えず何かを感じ取る物語なのかな。難しかった。
表題作『寝相』大病を患い、孫娘・なつめの家に身を寄せることになった竹春。
二人の何気ない日常が書かれている。
色々なことがわからなくなってきた祖父の背中を流すなつめは
〈竹春の忘れてしまった色や音は、すべて背中に残っているように思われた〉
気持ちがあたたかくなる優しい話だった。
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三編とも好きなんだけど、「わたしの小春日和」のおもしろさ。まじめなのがおもしろくて、にこにこへらへら読んでたら急にすごく本当のこと言うから、ずっとそればかり考えるはめになった。「嘘のない答えなどないとあなたは思っている。そして、だから問うまい、考えまいとする」って小説の中だけじゃなくて、滝口さん本人がそう思ってるくせに。
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図書館で借りた。「寝相」と「楽器」が印象に残っている。「楽器」は登場人物が秋津の住宅街にあるとある庭を通じて共鳴しているような話で、前半部分で目的なく散歩する事を推奨しているように、この小説もどこにたどり着くか全くわからず、読了後すぐに読み直したが、目まいのするような気持ち悪さがある。クライマックスに向けて畳み掛けるように小さなエピソードが並ぶ事で妙な高揚感がでてくるが、読み終わってふと思うと「なんじゃ、こりゃ」と思ってしまう。総合すると面白かったといえるんだけど、どう処理してよいかわからない。
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感情の揺さぶられがない、不思議な世界。
好きな人は好きだろう。
たんたんと流れて行く時間、不思議な出来事。
背負うもの、過去、全部向き合う前に流れていく
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道を歩いてたら、目的地から斜めに外れてしまって、とんちんかんな所に出てしまうような感覚。
地続きであっちこっちに行ける。
でも、置いていかれたりしない。きちんと前には進んでいる。
そんな不思議な文章が心地よい時もある。
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「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」の時も思ったが滝口悠生の小説は時間の感覚が分からなくなる。
ここでいう時間というのは、ウヴォーギンがノストラードファミリーに拉致されて眠らされて目覚めた時に腹の減り具合からだいたいの経過時間を推したような、読書をする際の身体感覚として「この程度の頁数読んだということはこのくらいの時間が経っているだろう」とボンヤリ解るときのあの時間のことだ。
「ジミヘン」と異なるのは、「ジミヘン」が小説の中でフィードバックを起こされたことで過去と現在の反響によって時間の流れる速度が反復され、結果遅延されたということなんだろうが、「寝相」に収録される三編においては時間感覚の狂いとそれによる遅延という結果は同じでも、なんというか感じが違う。
「音楽」がもっとも内容と結びついているのだが、道に迷うという感覚なのだ。道に迷ってしまったがゆえに到着するまでに時間がかかってしまっている。もしくは、道に迷ってしまったことによる身体の動揺で時間感覚が狂っている。
どこかを目指している、それは読書であれば一応結末となるのだろうが、そのどこかを目指していた中で今いる此処が何処か分からなくなる。
ストーリー至上という考えの読者は、迷うことを嫌うだろう。しかし読書とは何かという問いにおいて「読書は読書をする時間そのもののことだ」と猫好きのおじさんが言ってたことに感銘を受けた私としては、それら心地良い不安に変容してくれた。ラッキーである。本を読む喜びが、いびつなれど、たしかにある。気持ち良い。