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何回も読み返した。どの章も印象に残る場面があった。
特に印象的だったのは、第四章。あぁそういう感じなんだよなと、わかる気がする。
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この著者の本は始めて読んだが、血の通った症例が出てきて参考になった。
平易な表現で書かれているので、一般向けなんだろうけど、自分のようにこの道を生業としている層にも十分通用する。
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複数のケースを紹介しながら,専門的な知見を分かりやすく説明しており,とても勉強になりました。専門家の考えや意見を理解する一助としてとても参考になると思います。ただ,一つ一つのケースが重いので,一気に読むには向かないかもしれません。
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冒頭に「宇宙期」という言葉が出てきたときは、一瞬、とんでも本だと思ってしまったが、最後のエピローグまで読んで、うならされた。全体的に、ここまで典型的な事例は珍しいと思うが、構成としては、すごくよくできている。本書のような良心的なカウンセリングが日本にもあったことに驚いた。
・思春期のつまずきは、親からの自立を遂げられない苦しみである。
・生きなければならない。頑張らなければならない。それは人が誰でも抱えている強い感情、怒りをも含んだ根源的な感情である。
・耳を傾けて、クライアントの発している言葉の奥底にある、その人の「存在」を聞く。
・カウンセリングとは、その人の生き方とか、悩みを聞くのではなく、「存在」感を聞く、「存在」を確認するものである。
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特に学童期までは、子供は親の影響をかなり受けるので、気をつけなければならない。
特に我慢とかは良くない模様。
いくつかのカウンセリング事例を読めるので、参考になるかも。
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カウンセリングは傾聴することこそが大切なようだ。いくつかのケースを通して、自分の気持ちのもっていきようが少しだけ分かった気がする。宇宙期の概念が分かりにくかった。
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我が身を振り返る。幼児期に埋め込まれた価値観、形成される反応、それが個性なのか? 兄弟が似ていないのは親の接し方が違ったせいなのか? 親だって人間なのだから子によって好き嫌いが分かれることもあるだろう。ほんのわずかな心の配り方で子供の人生は翻弄される。苗木についた傷は消えることがない。若木の枝が折れてしまえば樹木の形は変わる。
http://sessendo.blogspot.jp/2015/10/blog-post_76.html
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まず私は、親が「普通」の家庭で育ててくれたので、それに感謝したいなと思います。「普通」の中でも、親が頑張りすぎることもなく、親が子に野望を押し付けることもなかったと思います。そのおかげで私は不登校や引きこもり、摂食障害になることなく今のところ生きることが出来ています。私の両親は上手に私を育ててくれたのだなぁと思いました。ただ、私は4章にあったような、人生を客観視してしまうことがたまにあります。それは別に親が発達障害という訳でもないので、単なる私の性質だと思うのですが。例えば、地学の授業で宇宙のことを勉強した時、何億光年とか言われると、ああ、私たちが生きている世界は宇宙から見たらまるでちっぽけだな、私たちの悩みなんてもっとどうでもいいことじゃないかって考えたりします。ニーチェが言う能動的ニヒリズムと似ているかもしれません。この世界は無意味なんだって基本思ってます。この本が言及してることとはちょっと違うかも。宇宙期に関しては、少し難しくてちゃんと理解出来てるか自信ありませんwでもスナフキンの例は素敵だなと思いました。もともと社会に所属してて、でも挫折して、彼は今宇宙期で放浪しながら生きてる。確かスナフキンってもともと放浪する種族だったような?でもそんな宇宙期真っ只中のスナフキンという捉え方も、それはそれでスナフキンを魅力的にすると思います。
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人が成長するうえで、両親がどう影響するのかがわかった。
価値観、善悪の判断、人との関わり方においての成長である。
人間理解が進む本。
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いろいろと気付かされるところは多かったが、今回一番はっとしたのは、カウンセリング1回ではどうにもならないのだということ。
何度も繰り返すことで、心が深く掘り起こされていろんな気付きがあって、またそれをその人なりのペースで受け入れていくことによって、心の病を克服していくんだと思った。
何とかしてあげたいという心を持っていてはカウンセリングはうまくいかない。ただゆっくり共感しながら、その人の話を聴き続けることが大切なのだろう。
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・いつも自分はビクビクして、人を怖がっている。その態度が人に不快感を与えているのも分ってきた。ある時、店で店員さんと話していたら向うが感情的になってきた。怒らせてしまった。私がはっきりしないからだ。急に怖くなって、涙が出てきた。何度もあやまりながら店を出た。
ずっと感じていたことに気づいてしまった。私は存在していてはいけない人間。心細くて、毎日、自分が悪いことをしているみたいで、消えてなくなってしまいたい。
子どもの頃、童話が好きだった。人魚姫が好きで、最後は泡になって消えてしまえるといいなと思っていた。
・人は、第一レベルでは、安心を、第二レベルでは、「愛情」「お金」「賞賛」を求めて生きている。
これらのうち、第二レベルを共有しているという確信が、「社会的な存在感」を生み出す。美味しいものを食べて、「美味しいね」と確認しあえる関係が広がってできたものである。
・例えば、明日から人里離れた山に入って一人で生きていくとする。その時に、「社会を離れて、独りぼっちになる。でも、楽しく、穏やかに、生き生きと暮らす方法はありませんか?その心構えを教えてください」と聞かれたらどうであろうか。
この答えを持っている人なら、今の大川さんに何か解決方法を提示できるだろうと思う。
解決できない問題に直面した時に、人はどうするのだろうか?
「解決できない」と思いきる解決、そんなものがあるだろうとは想像できるが、具体的にそれがどんな心理的な解決になるのか、分からない。
しかし、この問題をまったく逆に考えることもできる。
それは、問題は解決できる場合にだけ発生する、という判断だ。
最初から解決できない問題は、そもそも「問題」にならないはずで、何かに満足できないと感じるのは、満足の状態を明らかに知っているか、まだ知らないがどこかで感じ、予想している時だけである。大川さんは、人生の満足を知らない。とすれば、彼女が不満足を感じるということは、何か違うものを予想している、感じている…からである。
さて、心理システムのさらに深い層には、第一レベルの欲求、「安心」を求める気持ちがある。「安心」は人の、より根本的な欲求である。通常はこれは、「愛情」でつながっているから安心、「お金」があるから安心、人に必要とされているから安心、と思って、第二レベルに支えられている。つまり、私たちの日常的な「安心」は、社会的な存在感によって支えられている。
「普通の」社会的な存在感を持って生きている限り、第一レベルの「安心」そのものは意識されず、常に、第二レベルを通じて、それは満たされる。
しかし、第一レベルの「安心」は階層構造のより深いところにあるので、もし、この「安心」そのものが何かで充たされれば、第二レベルの「愛情」「お金」「賞賛」を求める切迫感は和らぎ、社会的な存在感が希薄なことを補ってあまりあるはずである。
「社会的な存在感」に支えられずに、独自に、それ自身として深いレベルで満たされる「安心」がある。
心がそこに至ると、人の心は、動かず、振り回されず、完全に安定する。それは、「社会的な存在感」として生きて「いる」を超えた、ただ「ある」だけの存在である。
・「妻と自分はどういう生き方をしてきて、どういう関係だったんだろうと考えた時に、言葉にならない感覚が出てきたんです。
二度と会えない関係、出会って、一緒に暮らして、それがもう戻ってこない。
それを考えるのはまだ辛いですけど、そういう運命だった、と思いました。以前は考えると気持ちが落ち込んだのですが、今回は、運命をふっと受け入れられるような気がして、その時に、不思議な感覚になったんです。言葉にできない瞬間です。
だから、これは後からの説明で、どうしても「たとえ話」になってしまうのですが、SFにたとえると、パラレルワールドがいくつもあって、あっちこっちに自分がいる。『この世界』には『この世界』の自分と妻がいた。そんな時間があった、自分の人生の一部だったと認める感覚です。
全方位に広がっていって、一瞬、自分はいなくなる。でも、在る…永遠に。
そこから出る時に、ほんの一瞬ですけど、走馬灯のようにすべてがよみがえりました。ぱたぱたぱたと、妻とのこと、生まれた家のこと、母親や、父親、姉たちのことがよみがえって、そのまま受け入れられる。すべてを受け入れられて、すべてはこのままでいいんだと、それは雷に打たれたように、はっきりと感じました」
・私が患者さん(クライアント)から教わったカウンセリングの本質は、二つある。一つは、「ただ聞くだけでいい」ということ、二つ目は、「理論は通用しない」ということである。
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書名は逆説的だが、本書を読むと確かに親の抑圧した心を映す鏡のように子が心の病になるという主張に肯ける。中二の子を持つ親として参考になることが多いが、思春期の事例は少なく残念。本書で紹介されているケースはカウンセリング成功例であり、同じやり方でいつも成功するとは限らないことも考慮しなくてはならないだろう。人は虚空から生まれ、虚空へ帰るという宗教的な解釈からの治療も、精神医学では「有」かも知れない。
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2018.3.3市立図書館
精神科医による著作。普通の親子に訪れる引きこもりや摂食障害、虐待を受けるこどもの心理、そして発達障害のある親のもとで育って「親」を知らない子の心理、と具体的なカウンセリングのケースを通じて、親と子の間の心理的な問題がどのように葛藤し解決に向かっていくのか知ることができる。子は親の鏡なんだなぁと改めて思う。最後は幼児期から成人期まで問題なく発達した上での「宇宙期」について、そしてカウンセリングの本質は「ただ聞くだけでいい」「理論は通用しない」の二つに尽きるということ。話をして人に聞いてもらうことの意味、悩みの「解決」だけが目的なのではなく、ただ聞いて「存在」を確認し合うのがカウンセリングの本質だというのはわかると思った。
自分の来し方をいろいろ思い返しながら読んだ。
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『「母と子」という病』を読んだときは、号泣したが、この著書は、後半で嘔吐してしまった。
辛い現実を受け止めたら、身体の奥底に閉じ込めていた我慢やわだかまりが外に一気に吐き出されたような、そんな嘔吐だった。
人の気持ちを理解できない軽度発達障害(アスペルガー)の母親に育てられ、私自身も母親と同じアルペルガーであり、人とのコミュニケーションが上手に取れず、ずっと生き辛さを感じて生きてきた。
幼い頃から、自分が「生きている」ことに違和感を感じていた。学校にいても、家にいても、世界のどこにいても、「自分の居場所はない」と感じて辛かったこと。
常に生きることに絶望して、「死にたい」「助けて」と思って生きてきたし、「長生きしてね」「長生きしたい」と当然のように発する人の気持ちが全く理解できなかった。
それらの原因が、母親にあって、母親と心が通じ合えなかったから「安心」を感じれず、「私はここにいていい」という「無条件の存在感(自己肯定)」が私の中で備わらなかったことが分かった。
人間は生まれた時すでに「生命システム」が備わっている。生きる基本の「食べる」「寝る」「泣く」だ。
美味しく食べて、ぐっすりと寝ることで、起きれば活動したくなる、という身体本来の機能。
そして、母親から「心理システム」を学ぶ。
人との付き合い方、人生観や、善悪を判断する倫理観など生き方の機能。そこから毎日の「生きる意欲」が湧いてくる。
お腹が空き、大声で泣くと、美味しいおっぱいがもらえる。母親に抱かれ、安心して眠りにつく。いっぱい甘えて、どれだけ迷惑かけても、母親に赦されるその「安心感」が自分の「存在価値」になり「自己肯定」へと繋がる。
この一連のやりとりが繰り返され、子どもは、親との付き合い方、人との付き合い方、社会のルール、善悪の判断、価値観を貪欲に学び、取り込んでいく。この時期に母親から学んだことは、その子の一生を方向付ける。
地球は安全なのか危険が多いのか、人は怖いのか優しいのか、「この世界」は楽しんでいいのか、それとも我慢が大切なのか、人とどうやって付き合うのか、そして、「どうやって人生を頑張り、生きていくか」これら全てを母親から教わる。
母親に認めてもらう「頑張り」が、生きるための「頑張り」になる。
母親のために抑え込んだ「我慢」が病を引き起こす。
その「頑張り」や「我慢」や「気持ち」を母親に「わかってもらいたいのに、わかってもらえない」ことが様々な問題を引き起こす。
普通の家庭では、母親に甘えて「欲求を満たすこと」で自分の存在を確認し、「存在感(安心ベース)」を獲得する。
虐待をされた家庭では、親に耐え「欲求を我慢すること」で自分の存在を確認し、「存在感(不安ベース)」を獲得する。
「お腹空いたよ」「眠いよ」「あれが欲しいな」という自己主張を母親に受け止めてもらえると「自分はここにいてもいいのだ。歓迎されている」と思える。その積み重ねの上に、この世界に生きる「実感」「存在感」を作り上げていく。人と関わること��獲得できる「存在感」。
虐待を受けて育つと、自己主張を封じ込められてしまうため、自分の存在を確認できなくなる。周りの誰も自分を認めてくれないから、自分がいるのか、いないのか、分からない。
何か問題が起きると、「私はここにいない」「私が生き続けている意味ってなに?」といきなり存在の基盤を問う「自己否定」の言葉がでる。それほど「生きている感覚」が不安定になる。
また、虐待を受けた人は、自分を抑えることで、自分の存在を確認するようになる。
自分は「我慢できているか」我慢できていれば○、「自分はいる」。我慢できていなければ×、「自分はダメ、いてはいけない、いない」となる。
わざと困難やDV男を選んで、それに耐えることが善となり、そこから逃げることが悪となる。善悪が逆転し、正しい判断ができなくなる。
我慢だけが「いる」ことの「手応え」であれば、そこに「生きる喜び」は生まれない。
喜びは自分の欲求を認めてもらい、満足させてもらって初めて感じるものだから。
自分が獲得できなかった「安心ベースの存在感」と「喜び」の感覚は、自分が親となり自分の子供を通じて、「甘えること」をやり直すことで、手に入れることが可能。
では、私のように、子どもにも恵まれなかった場合、どうしたら、「安心ベースの存在感」を手に入れられるのだろう。
人が人生に求めているもの、それは心理システムの土台を作っているものであり、生きることの源にあるもの。
第一レベルは、「安心」
第二レベルは、「愛情(家族・恋人)」
「お金(欲求を満たす)」
「賞賛(人の役に立つ)」
この4つを求めて人生を楽しみ、得られて満足し、失って落胆し、手に取れずに苦しみ、手に入れて喜び、失って悲しみ。もう一度頑張ろうと思い、もうダメだと断念し、やっぱり満足して安堵し、しかし、期待と違ってがっかりして、人は生きていく。
母親と繋がりをもてなかった人は、それらを普通に求める気持ちが希薄であり、常に人と違う「孤立感」を味わう。
「美味しいね」「楽しいね」「嬉しいね」「悲しいね」「苦しいね」という気持ちの共有が母親と確認し合えなかったため、自分のそれが「美味しい」のか「楽しい」のか「悲しい」のか確信が持てないまま大人になる。
私は、今でも、母親に分かってもらいたいし、いつかは分かり合える日がくるのではないかと、期待してしまっているけれど、間違いなく、母は「軽度発達障害」で、私の気持ちを理解してもらうことは一生不可能。
他人が何を考えているかを推測できないので、子どもの気持ちが見えない。だから親の立場に立てない。子どもと一緒に共感したり、喜んだり、落ち込んだりができない。残念ながら、永久に諦めるしか方法はない。
人と関わることで得られる「社会的な存在感」を得られなかった人でも、自分だけで感じる究極の「存在感(喜び)」を得ることはできる。
独自に、それ自身として深いレベルで満たされる「安心」。心がそこに到ると、人の心は、動かず、振り回されず、安全に安定する。それは「社会的な存在」として生きて「いる」を超えた、ただ���ある」だけの存在。
ただ「ある」だけの存在は、社会を超えて、人々とも、物事とも、自然とも、宇宙レベルの全てと繋がって調和が取れている。
自分の存在が「いる」から、ただの「ある」に変わるレベル、これを「宇宙期」としている。
心理発達レベルの四段階「乳幼児期、学童期、反抗期、成人期」の更に先にある「宇宙期」は、成人期では見えない世界がある。
「生死」や「善悪」などの二極にとらわれない、自由な世界。「頑張ってもいいし、頑張らなくてもいい」生も死も善も悪も、全てがオーケーと思える世界。
虚空は見えないが「有」が見え、虚空が推測できる。
読んでいて、ヨガでいう瞑想の上にあるサマーディー「悟り」の世界だなぁって思った。
ヨガは、自分の身一つだけで存在感と「ある」を感じ、宇宙の調和と生きている喜びを感じる。
ヨガを通じて自身の存在感や「ある」を確認している私は、図らずしもすでに宇宙期に踏み入れているようだ。
身一つでもポカポカとした安定した穏やかさと幸せを感じることができるし、「ここにいていいんだ」と思える。
でも、やはり母親に満たされなかった寂しさも、ずっと心にある。
高橋和巳先生のカウンセリングを、私も受けたい。
人に聞いてもらえることで、我慢は消化・浄化できる。
助言や理論は必要ない。
ただ聞いてもらうだけで、心は緩んでいく。
何を口にしても否定されない安心感を得る。
勿論、苦しみや不幸や心の傷は一生消えない。
消えないけれど、聞いてもらうことで癒される。
きっと、小さい頃から、母親がその「聞いてくれる」役割を果たしてくれていたら、人生に起きた些細なことも大きなことも上手に消化・浄化していけたのだと思う。
私は、自分が「母親と子ども」一人二役になって、今までのことを自分に語り、それに耳を傾けて、消化・浄化していこうと思う。
話を聞いてもらうこと、妄想でもなんでもいいからちゃんと耳を傾けること。
それだけで、人は大きく救われる。
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子は親を救うために「心の病」になる。高橋和己先生の著書。子供は心の病や精神疾患にかかるのは自分の身を守るためではなく親を救うため。非常識な親、愛情不足な親、過干渉な毒親に苦労して悩んでいる子供たちは少なくないと思います。すべての子供たちが幸せに前向きに生きられるような社会であってほしい。