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2014/11/24読了。
偉大な数学者らしいがほとんど存在を知らなかった。この本で語られている内容は「情緒」をキーワードとした著者の考えである。今時「今の教育はダメだ」系の文章がストレートに読めるのは新鮮だった。少し「何様だ」と思うような文章が無いでもなかったが。
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2014/12/16図書館から借りてきた。
人の中心は情緒である。と岡潔は言うが、どういう意味であるのか。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
新明解国語辞典によると、
情緒とは、その・もの(場)に接した時に受ける、特有の情趣。
情趣とは、そのものに接した人に感じさせる、ほのぼのとした・よさ(味わい)。
情操とは、美しいもの、純粋なもの、崇高なものを見たり聞いたりしてすなおに感動する、豊かな心(の働き)。
これらを踏まえて、岡潔の情操、情緒という言葉を眺めて見たい。
購入。
何回も読まないと分からないだろうなぁ。何回も読みたい内容だなぁ。
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「情緒」が失われているという。情緒とはどのようなものか、きちんと説明されないが本文のいたるところに出てくるので何となくイメージがつかめる。
目先の刺激が強いものを受け取り過ぎて、細かなニュアンスが分からなくなっていると言われると我が身を省みてしまう。そして一度失われた情緒は回復しないというのも分かる気がする。周りからも失われていたら自分だけでは回復させられないし、緩やかにしか育てられないものだと思うから。
解説にあるように自然から色々と受け取れるよう経路を確保しておきたい。
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キーワードは“情緒”。
→https://ameblo.jp/sunnyday-tomorrow/entry-12142356616.html
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昔から数学が苦手だったので、数学者の随筆をいつか読んでみたいと思っていたところ、見つけたのがこの本でした。
おそらく自分の理解のおよばぬ考えを持っているのだろうと思いながらいざ本を開いてみると、”数学とは「自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つ」である”という驚くべき宣言が目に入る。数学は表現手段であり、芸術なのだ。これを覚えろ、答えを出せと言われ続けてきたわたしの数学は、まさに「わかったかわからないかもはっきりわからないのに、たずねられたらうなずく」教育だった。
数学というと無味乾燥した小難しい計算だと思ってしまうけれど、この筆者の考えていることはとてもシンプルなことだとわたしは思う。つまり、当たり前の物事を当たり前だと見通す純粋な目を養うということ。これに尽きる。純粋な目を養うということは、見えるものをそのまま受け入れる心をもつということだから、これは情緒の問題にほかならない。
こう考えたうえで昭和44年に著されたこの本を読んでみると、筆者の危機感はまったく色褪せないどころか、ますます重みを増しているように思える。わたし自身が今もっとも共感を覚えるのは、この一文である。「ただ、選ばれるべき優れた人というのは、少なくとも日本のくにでは、情緒のきれいな人という意味である。邪智の世界の鬼才と混同してはいけない」。物事を否定し相手を黙らせる人が優れているのではない。本当の物事を本当だと見通し、相手の悲しみがわかるということ、そういう純粋な目を持った人間を選ぶということ。それには、選ぶほうもそういう心を養わないといけない。動物性が入り込み、人の情緒が崩れれば、社会も文化もあっという間に悪くなってゆく。
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表題作の春宵十話には、数学者・岡潔の人生が語られている。そこには一般的なイメージでしか数学を知らない私には驚くようなことがたくさん書いてあった。
なによりもまず、人の中心には情緒がある、数学を成立させているのもこの情緒である、というのが岡さんの主張である。「芸術の目標は美の中における調和、数学の目標は真の中における調和」といった表現もあった。私個人の言い方になってしまうが、数学というのが人間の生の営みからすればごく限定された自意識の中でやるものと思っていたけれど、この本を読むと、それは人間の知られざる領域までを駆使した肉体的・総合的な営みであり、どこか自然の中に投げ出されているようですらあった。そこには風が吹き、すべてのものとつながるような清々しさがあった。
後半のエッセイには、最近の世の中や人の心はどんどん悪くなっていて、それが心配である、ということがたくさん書かれている。その心情を汲むことには努めたいが、あれもこれも悪くなっている、という見方をすることには賛成できなかった。孔子さまの時代から続くこの観察には、必ずしも客観的とは言えない観察者の視点の問題も含まれていると思うからだ。
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冒頭、人の中心は情緒である。その言葉に衝撃を受ける。数学者の言葉であること、普段あまり考えていなかったことだからだ。岡潔は思想家でもあったことを知る。教育について多くを語る。自分自身が受けた戦後間もない頃の教育を考える機会となった。数学者は百姓、物理学者は指物師という。なるほどだ。便利だけど落ち着かない現代社会。今、現代にこそ読まれるべき本だ。
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何故かわからないが岡潔さんがTVドラマになったので著書を借りてみた。
数学者として凄い人だったとのことであるが,エッセイも素晴らしい。全面的に合意できる訳ではないが,21世紀の今でも当てはまるというか,今になっても解決されないというか,悪くなっていることの方が多いか?
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50年前の教育論。岡潔自身が自分の成り立ちを正当化しているようで、些か鼻に付く感じがしないでもないが、情緒を育む義務教育の在り方は、氏が主張する通りである。
個人的には岡潔が同じ場所を眺めていたと知って感激。
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ダイヤモンドは磨かなければ光を発しない。松村記者の筆記・編集という行為が研磨作業となったのだ。いい仕事である。タイトルは「しゅんしょうじゅうわ」と読む。
https://sessendo.blogspot.com/2018/08/blog-post_90.html
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約50年前に書かれた書物であるが、内容は今でも全く色あせていない。
「人の心には情緒がある」
著者は、日本文化の特性がこの情緒を土台に組み立てられていることや、それがいかに美しい情緒を生み出してきたかを、様々な側面から論じている。
また、戦後の新教育制度の中で、いかにこの情緒的中心が教育の現場から排除されてしまっているか、それによっていかいに子どもたちの創造性が阻害されたかを示して、警笛を鳴らした。
P200
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優しい手触りに見えるが、きりり、とした厳しさも感じられる。宗教にも傾倒した著者であり、観想というものがベースになっているようにも思う。
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数学者岡潔が毎日新聞紙上で連載し人気を博していたエッセイ集。「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」全然次元は違うが勝手に勇気をもらっている。「すべて成熟は早すぎるより遅すぎる方がよい。」糸井さんも同じような趣旨のことを言ってた、じっくりと農業のように対象に取り組め。「緻密さが欠けるのは一切のものが欠けることにほかならない。」神は細部に宿ると同じ意味か?「本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切」合間合間の時間こそがひらめきを生む。
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娘が学芸大学に行っているので教育学を学んでいる学生たちのことを聞いてみたが、ひどいものだと思った。「何々教育学」というものがそこら中いちめんにあり、必ず出席をとるだけでなく試験をする。おもしろくもないのを覚えなければならない。ゼミナールだ、講義だといって自分の勉強はちっともしていない。こうして本来のものからはずれたものになり、理性が理性として働かず、鉛のさびをかぶせたようになってしまう。
こういう人たちが先生になり、その調子で教える。義務教育の子に遊ぶひまもないくらいいろんなことを教え込む。その結果、子供たちは、わかってもわかっていなくてもぼうっとしていることになり、いろいろなセンスが欠けて正義心、廉恥心も働かなくなるのだ。
近ごろは集団として考え、また行動するようしつけているらしいが、これこそ頭をだめにしてしまう近道だと思う。人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人が持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。学生たちに最初から集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。
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シブい(随筆)
かかった時間 不明
数学者(かなりすごいらしい)岡潔の随筆。新聞に連載されたもの? プラスアルファ?
内容の半分くらいは、非常に前時代的で、頭の固いおじいさんの説教。曰く、日本から情緖が失われている、だとか、女性の顔がキツくなっている、だとか、今の教育は間違っている、だとか。
残りの半分くらいには、数学者(かなりすごいらしい)としての自分を作っているのは何か、数学とはどのような学問か、自分の場合に学問的ひらめきはどのように訪れたか、が綴られており、個人的にはこの部分がめちゃくちゃおもしろい。特にこの人の場合? 他の人も? 数学的インスピレーションが文学や芸術に支えられているようで、文学論や芸術論なんかにも筆が進んでいる。
そして、頭の固いおじいさんパート(顔はともかく、情緒と教育)も、数学者パートと併せて受けとれば、前時代的ではあるけれど、説得力がある。
たしかにな、と思う。
いずれにしろ、数学者パート(生い立ち、ひらめきかた、芸術を含む)がおそらく唯一無二でとてもよい。