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なだいなだ氏の遺作です。氏が亡くなるまで考えていた常識についての論考。氏はオスカーワイルドの、「他人が聞いて分かるように話すことができなければ、ものごとを十分に理解しているとはいえない」、という言葉を引用され、難しいことや複雑なことを、わかりやすい日常語で説明されます。わかりやすいというのは浅いものではありません。わかりやすい言葉は、一般の人には理解しやすく、専門家には深く、という文章を書かれる方です。今回は常識です。常識という言葉は「常識がない」と言ったりで一般的には閉じられた印象のある言葉です。常識という言葉がどのようにして生まれたかから説明され、「常識は謙虚であって、日々新たにせねばならぬ」と常識の幅広さ、変化のしやすさと同時に中庸の立場を取る事でバランスをとる働きを持っている事を説明して、「常識」の大切さを説いています。氏の文章は平易でありながら、色々な意味を散りばめられていますので、一読の印象で十分に理解できていないかもしれませんが、再読をする事で違った意味を発見するかもしれません。
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著者が長い時間をかけてようやく到達した、「常識とは何か」。
特にアルコール依存症の治療過程でたどりついた哲学は、説得力を持つ。
巻末のその「常識哲学」から論考する現代の諸問題は、それぞれ的を得た的確な指摘だ。
遅きに失したが、もう少し氏の著作を紐解いてみたいと思う。
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常識とは、人間が18歳までにかき集めたうず高き偏見の山である(アインシュタイン)。フランスをはじめとした外国では定着しなかった常識という概念が、日本においては定着している。日本における常識という概念の効用や、常識の変化などについて記されている。
「他人が聞いてわかるように話すことができなければ、ものごとを十分理解しているとはいえない(オスカー・ワイルド)。」という言葉にそった、常識をわかりやすく検討している書籍である。
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常識とは人間が18歳までに作り上げた偏見のコレクションである.Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. アインシュタインの定義の由.常識について、的確な考察に非常に感銘を受けた.「老人党」のページには最近訪れていないので、これを機会にまた行ってみよう.
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83歳での母校での演題「臨床医の哲学」の公演とその原稿を収録してある。その中身は「常識哲学」。▼常識は世に連れて変わる。当たり前だが、筆者に常識の変遷を明示されると、自分が今の常識に囚われて生きていることがよく分かる。常識はグローバル化する。進化し続ける偏見であり、相対的なものである。我々はそれを絶対的なものと見てしまう。▼共通であろうとする意思が人間にはある。ヤスパースはコミュニケーションを持ちたいという気持ちが「愛」であるといいました。▼常識の排他性を、常識が形成された後から克服するためには、常識とは何かを考える哲学すなわち常識哲学が必要だ。▼哲学を学ぶことは難しい。でも、「なにをなすべきか」ということを考えるのがカントの言うように哲学であるのなら、哲学することは難しくないのではないか?▼今日やるべきことを、できることを、ゆるされていることをやってゆく。▼経験していないことは、知りえない。(ジョン・ロックの経験論)▼人間には今日しかない。明日になれば、明日は今日になる。▼「定義」は正しいか否かを問題にしがちだが、有用か否かを問題にし、有用な定義を活用するべきである。▼「常識」とは、人間が18歳までにかき集めたうず高き偏見の山である。(アインシュタイン)▼日本語の常識は、世界ではかなりユニークな考えである。▼常識は変遷してゆく。
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「常識とは何か」
なださんは「常識」という言葉の意味を、「アルコール依存は治らない」との常識を前にして考えざるをえなかった。
常識と偏見があるのではなく、
「常識」には古い常識と新しい常識があること。
古い常識が別名偏見と呼ばれているにすぎないこと。
なるほどなるほど!何度も頷き、「腑に落ちる」とはこういうことかと。なぜ、著者がそう考えるに至ったかが、順を追って丁寧に分かる仕組み。
「他人が聞いてわかるように話すことができなければ、充分に理解しているとは言えない」(オスカー・ワイルド)
本当に。
面白くてためになりました。
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常識というのは変わるということ。その時は常識だったことも、時が経てば昔の常識となる。なるほど、人は常識というものに振り回されていることが多々ある。またその常識ということば、それ自体に縛られていたことも。なだ氏のわかりやすくユーモラスな、語り口にも癒されながら読めた。
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83歳になられたなださんが、母校での講演の際に話し足りなかった草稿をもとに書かれたもの。哲学者カントの”何をなすべきか”という命題を引用しながらなださん自身の哲学を考察し、アルコーリズムという病気に臨床で向き合い続けてきた経験をもとに、”常識”というものを再考している。
”今を生きるものが持つに至る哲学の中に生きてこそ、古典の哲学も生きるというものだ”
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問題を感じたら、常識を疑ってみると、思わぬ展開があると思いました。普段から考えて、哲学しないと発見がないかも。私も今日からやってみたい。
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なだいなだ先生の最後のことばとなつてしまつた。
おそらく、この常識といふものに対して、まだまだなだいなだ自身、自分のことばとしてかみしめてゐた途中であつたのだらう。彼が識を使はずになんとこのことばを表現するか。これは生きてゐる精神のバトンだ。池田某なら、これをあたりまえといつただらうか。
狐憑きがなくなり、うつ病や発達障害が途端に増えていつたやうに、常識もまた、時代の中で作られ、また移らふ。偏見の塊とはそれはそのひとの他ならない経験だ。そして、脳みそはさうした経験を情報としてシステム化する。余計な二度見をしないやうに情報としてパターン化する。精神の病は、さうした常識のはざまで生じるのではないだらうか。
著しい同一化は排他と選別を要求する。そして、変化を認めない。変化に一層弱くなる。排除に排除を重ねれば、やがて何も住めなくなる。本来人間の共通理解として良識と呼ばれたものが、ただの情報に成り下がる。おそらく、小林秀雄となだいなだの常識への差異はここら辺の違ひがあるのだと思ふ。良識さへも情報としてとつて付けた取り交せるものとなつてしまつてゐるのだ。
精神の病とはある意味でさうした常識への再考を促すものではなからうか。常識や経験、偏見は確かにそれを獲得する以前に戻ることはできない。一度獲得した以上不可逆的なものだ。しかし、それを変へられないといふわけではない。別の経験、常識を再び取り入れられないといふわけではない。今日から始めれば、明日は少し変はるかもしれない。
精神の病に向かふ時、この常識への変化を支へ続けることに必ずぶつかる。治せなくても、看護は、手当てはできる。
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2021.6.13市立図書館
アルコール依存症の治療過程で著者が最後にたどりついた、もっともつたえたかった哲学。筑摩書房で本にするつもりで準備を始めるも未完になっていたものに、補完する晩年の講演やブログ記事をあわせた一冊。
わかったつもり、思考停止状態で多用されている「常識」とは何なのかをときほぐし、考え抜き、改めて「常識」の有用さに気が付いた、というのが「常識破り」に生きてきたと自他共に認めるなださんの最後のメッセージとして言葉を尽くして語られている。
依存症の治療の現場で、禁酒や禁煙を継続しつづける困難を乗り越えるためには、意志薄弱と責めるようなことは逆効果でしかなく、やる気をひきだす声掛け、励まし合う仲間などもっと必要なものがある、という結論にたどりついたことから、「常識」と呼ばれるものの不確かさ、「偏見」との異同に気づくくだりが興味深い。ヨーロッパの近代哲学の宗教権威との闘い、神からの解放・独立のあたりは、安野光雅や森毅の著作も思い出す。男女差別とヒステリー、グローバル化に伴う精神病のグローバル化など、なるほど一理あるなだ仮説はおもしろく、「〜教」「〜主義」「〜中毒」と訳し分けられる「イズム」をすべて「〜中毒/依存」で統一してはどうか、という主張もなかなかいい線をいっていると思う。
多文化共生、他人と少しでも分かり合うために、自分の世間の「常識」「当たり前」を疑うことの大切さ、ものごとの相対性に気がつく必要が身にしみる昨今、ふと気がつけば「常識のアップデート」はもう当たり前のような言い回しになっている。いや、そう思っているのはまだ一部の少数派だけで、まだまだ自分の常識を振り回すマチズモに支配されているのが現実か。