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読みたかった本が復活。Kindleにて読了。
多くの「科学者の欺瞞」についての事例紹介と後半のトーマス=クーン「科学革命の構造」を引用しながらの説明はとても説得力があったと思う(読んでないんだけど)。特に事例紹介では「えっ、あの人も…?」と驚くものも。ただ、研究という営みについてシステム化される(例えば、博士号制度のような)前と後の科学者とでは事情も違うはずなので、その点については丁寧に触れて欲しかった。
背信の科学者たちは、個人の問題とされる「腐ったリンゴ」ではないし、私にとっても他人事でもない。現在の研究をとりまく環境についてはすぐに改善できるものではないと思う。しかし、気になったことについて気に留めることはできる。「おかしいな」とか「こうしたらいいのに」ということをしっかり気に留めて、それを活かすタイミングを図りながら、これからを過ごしていきたい。
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客観性のため、ミスや捏造がすぐに発覚すると考えられている科学の世界でもかなり主観が入り込んでいてミスや捏造が看過されることがある、ということを多数の事例を紹介しながら解説している。
第4章のキナーゼ・カスケード説で起きたことを読むとSTAP細胞の事件と同じような印象を受ける。STAP細胞の有無はまだ検証されていないが、発見者にしか成功例がなく追試で再現できないこと、発見者が若いこと、など共通点が多い。
歴史の中ではプトレマイオスもガリレオもニュートンもメンデルも同時代人には疑われ、現在の検証でももしかしたら改ざんや盗用かもしれない実験結果から結論を導いている。
理論の正しさを示そうと実験して、理論から外れたデータを無視することは問題だが、たまたま理論が正しかったために上記の発見者は賞賛を得ている。
実績を出さないと研究者で居続けることができないから、不正をしてでも実績を作る。科学の発展に本当に寄与できる姿勢なのか、仕組みなのか、現在のあり方に疑問を持った。
他にも色々な問題が取り上げられている。
1988年の化学同人版は原書の全訳だが、本書は第9章といくつかの章の部分が削られている。削られた章の内容に興味がわいた。
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http://catalog.lib.kagoshima-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB15870980
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昔よく試験用のサンプルを引っ張ったり、曲げたり、剥がしたりという破壊試験をやっていたのだが、サンプルの作り方や取り付け方が悪いと異常な値が出る。で、どうするかと言うとサンプルを作り直して再測定をするわけだ。明らかに実験のミスによる異常値をデーターに含めて報告すればアホかと言われる。しかし、どこからが異常値でどこからが正常値かという明確な線引きはない。統計的な検証もスクリーニング段階では使わないしね。
「"科学における欺瞞"と言えば、多くの場合、大がかりなデータの捏造を意味すると考えられているが、これは極めてまれである。データの捏造を企てる者は、すでに得た結果を取り繕う小さなことから手をつけ成功するのである。このような一見して些細とも思えるデータ操作の例(例えば、結果をほんの少し気のきいた整ったものにしたり、"最も良い"データだけを選んで、都合の悪いデータは無視するといったこと)は、しばしば見られることであるが、データを"クッキング"することと、データを捏造することとの間には程度の差が存在するだけである。
歴史的に偉大な科学者たちもこの批判にさらされている。プトレマイオスはエジプトの夜の海岸ではなく白昼アレクサンドリアの図書館で"観測"を行った。ガリレオは真理を決定するものは実験であると言ったが誰も再現できない実験を行った。本人も言い残している。「やっていない。その必要もない。なぜなら、落下隊の運動はそうなるのであり、それ以外はありえないと断言できるからだ。」ニュートンはプリンキピアのデータを第二版以降で計算を修正し、変数を理論にあう様に改めた。メンデルの遺伝子の法則はあまりにも良くできたデータに支えられ偶然の確立を超えている。
この本を読む限り科学は本質的に誤りを修正できるようになっているとは言えない。歴史上の偉人にも見られる様に理論が正しければ細かな修正には目をつぶるという誘惑は確かに存在し、しかも研究費の配分だったり職場や終身在職権などもそれに付随する。論文のピア・レヴューも思ったほどは機能していない。引用数の多い論文のタイトルと筆者を変えてピア・レヴューに送った実験では多くの論文が価値なしとして掲載を見送られることになった。レヴュアーにより大きく評価がぶれるのだ。そもそも発表される論文の多くは誰にも影響を与えていない。1963年のフィジカルレビューの論文の80%は3年後の全ての物理学論文のなかで引用数が4回以下であり、47%が1回以下だった。
大学では通常指導教官が学生の論文の共著者となる。しかし、多くのデータが捏造された論文に名前を連ねた大物科学者は共同研究者を信用して任せており、細かくデータを見たわけで無いと後に告白している。成果が上がれば手柄の一部を分前としてもらい、不正が発見された時にばっくれるのならば最初から論文に名前を残すべきでは無いのだが、指導なしで論文にならないケースを考えれば、共著者にするのは妥当だと言える。あとはガバナンスの問題だろう。
原著が発刊されて20年後にとったアンケートの結果はこうなっている。有効回答者3247人
トップ10の逸脱行為 (制裁を受ける可能性が高い)
1)研究データの改ざん、あるいは"クッキング" 0.3%
2)被験者の主要な必要条件(プライバシーの保護を無視) 0.3%
3)自分の研究を利用している企業との関係を適切に明示しない0.3%
4)学生、研究対象者、患者との問題ありとされかねない関係1.4%
5)他人のアイデアを無断使用(盗用)、あるいは引用の不備1.4%
6)自分の研究に関係する極秘情報を公式な許可を得ずに使用1.7%
7)自分のこれまでの研究と矛盾するデータを隠蔽6.0%
8)被験者の主要ではない必要条件を無視7.6%
9)他人の欠陥データ使用やデータの誤った解釈の見逃し12.5%
10)研究費提供先の圧力に応じ、研究計画、方法、結果を変更15.5%
その他の逸脱行為(14~16は不注意の可能性が有る)
11)多重投稿4.7%
12)論文の共著者の権利を非適切に供与10.0%
13)論文や研究計画のなかで研究方法や結果の詳細を不明示10.8%
14)不適切な研究計画を実行13.5%
15)勘に基づく不正確な分析で観測やデータを削除15.3%
16)研究プロジェクトの記録の保存が不適切27.5%
注目は9番、自分は主体的には関わっていないが12.5%の知り合いがデータを不正に取り扱ってると言ってるに等しい。で、問題は他人が見た自分がその12.5%に含まれているかどうかだ。ダニエル・カーネマンのファスト&スローにも不正に関するアンケートで自分はやってないが他人はやっていると言う結果が出ていた。人は無意識に自分のことを正当化する。ピア・レヴューをする前にこの本を読んでおいていただきたいものだ。
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p.25 その時はじめて彼らは、一度でも捏造したことのある研究者は、その他の実験においてもデータ捏造の誘惑にかられる可能性が大きいという事実を理解しはじめたのである。
p.38 評価を勝ちとり、専門分野での尊敬を得たいという願望は、ほとんどの科学者たちにとって、強力な動機となる。この認められることへの渇望は、科学の揺籃期から存在していたから、科学者たちは、一つの理論を広めるために、わずかな”改良”や事実無根のデータの捏造に至るまでの誘惑にかられてきた。
p.56 データを改良することで、他人に対して、より説得力を持たせようとした科学者たちは、自分自身に対しては、真理を広めるために行ったのだと自分自身を偽っていたのに違いない。しかし、科学研究におけるこれまでのさまざまな偽りの真の動機は、個人的な野心とその追求、およびダーウィンが指摘する”安物の名誉”の追求から生じたものがほとんどであり、真理への関心から生じたものはずっと少ないように思われる。
・論文の氾濫
p.80 科学の世界で名誉を得るための基本的な方法は、学術雑誌に論文を発表することである。発表論文名の詰まった長いリストは文献目録として、政府からの研究助成金の獲得競争や、昇進のために大いにその力を発揮するものである。管理者はもちろん、科学者にはこれらの論文を読む時間的余裕はほとんどなく、したがって、履歴書にあげられた科学論文の量がしばしばその質よりも重要になってくるのである。
p.81 文献数重視の姿勢は、必然的に雑誌や論文の氾濫を招いた。今日、医学分野だけでも少なくとも8000種の雑誌がある。しかし、雑誌急増の最大の理由は論文発表における本質的な変化、つまり、質よりも量重視の姿勢である。今日、科学者の多くは、また彼らが発表する論文のほとんどは二流以下であると言っても過言ではない。
p.84 アルサブティは自分の文献目録を二流の論文で水増しするために、盗用を行った。他の研究者たちは同じゴールに到達するのに、もっと多様な、そして、平凡な方法を使う。その一つが最小論文発表可能単位(LPU)というものだ。これはある一つの科学的研究から、できるだけ数多くの個別の論文を生み出すことを意味する婉曲的な表現である。研究を一つにまとめて、一篇の包括的な論文を発表する代わりに、四~五の短い論文を発表するのである。
p.85 論文発表において、少数のものから多数のものを生み出す一つの例は、共同執筆の増加に見られる。一つの研究の栄誉が多くの研究者、何十人という仲間からなる相互義務的な複雑な組織の中で分配されるのである。(略)
この傾向は、一つの研究課題における専門家の数の増加に関係しているが、大部分が格別の理由もなく経歴を飾るためや、さらにはご機嫌うかがいのため、共同執筆者を加えることによるのである。
p.95 スノーは「科学に対する外からの批判は不要である。なぜなら、本来、科学はそれ自体に批判力が備わっているからである」と主張した。そして科学が掲げる”立ち入り禁止”の標識は、科学記者のジューン・グッドフィールドによって、おそらく最も明らかな形で��摘されている。彼女はサマーリン事件の記事の中で、「あらゆる職業のうちで、科学が最も危急に瀕している。音楽、美術、文芸などでは専門の評論家がいるのに、科学にはひとりもいない。それは、科学者がこの役割を自ら演じているからである」と述べている。
p.131 「暴露された欺瞞よりもはるかに多くの欺瞞が存在する。それらは、報告にまでは至らない些細なものであったり、証明が困難なものである。しかし、より重大なことは、そうした告発には危険が伴いすぎると考えられていることである。告発した者は告発された者から誹謗されるのが常であり、そのような行為に対する一般的な態度は、『なぜことさら波風を立てるのか。そんな人物は追っ払ってしまい、何も語るな』というものである。
p131 データの信頼性をことさらに強調する傾向は、研究発表の内容を要約した「抄録」において特に顕著である。「一般に知られているよりも、もっと不明確な偽りが存在する。それは発表論文の抄録を前もって提出する際、これから得ようとする結果を先に抄録の中で予期していることである。こうした状況は由々しき事態である。それを避けるためには、データの正確さということに大きな価値が置かれるべきなのだ。それは、現代の倫理的な問題の一つでもある」とハーバード大学の前医学部長、ロバート・H・エバートは述べている。
p.135 科学における欺瞞の実際の頻度は、欺瞞が存在しているという事実よりは重要ではないが、発生率は無視し得ないものである。科学の自己規制機構の手ぬるさが、欺瞞の横行を許しているのだ。
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スタップ細胞で話題になった論文捏造事件。これは科学界では日常的に行なわれていた行為であった。筆者はガリレオやニュートンも実験結果をごまかして捏造していたと指摘する。今回問題になった理化学研究所も、2004年にデータの改造が発覚して、2005年に「科学研究上の不正行為の基本的対応方針」を制定している。このような理研の対応は、研究機関のモデルケースとして評価されていたのだが。
今回、捏造の発覚が早かったのはこうした過去の実例からの教訓が生かされていたのだろうか。
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STAP細胞事件は、最近の論文捏造事件として大きく取り上げらている。しかし、科学の歴史を振り返ってみると論文捏造はある一定の割り合いで起きている普通の事件として捉えることができる。
しかも原著は1982年に出版されているにもかかわらず、「生物学や医学は、欺瞞が人びとの幸福に直接影響を及ぼしやすい分野であり、生物学おいて欺瞞は決してまれではない」と既に述べている。
客観性は科学者だけの特権ではなく、また科学者たちは狭いコミュニティの中で生きていることを忘れてはいけない。科学は人間くさい行為の積み重ねであることを、一般の人たちはあらためて認識した方が良いと思う。
科学の中で欺瞞を生み出す人間的所業としては、出世欲、上司からの圧力、研究費獲得のプロセスなどである。これらは科学以外の会社組織などにみられる階層社会では日常茶飯事のことではないだろうか。
歴史を振り返れば科学における真理にも紆余曲折がある。情報が豊かで、また情報が伝搬しやすい現代においては、科学ジャーナリズムの果たすべき役割は重要ではないだろうか。
STAP細胞事件はある意味科学ジャーナリズムの敗北と言える。
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原著は1988年に翻訳・出版されてます。しかし、2014年のSTAP細胞論文の捏造事件を経て再出版されただけのことはあり、内容は決して古びておらず、むしろここ数年のデータ捏造や製薬企業などの改竄事件を鑑みると、この本で取り上げられているテーマはまったく変わっていないことが分かります。
本書では、人の幸福に影響を与えやすい分野である生物学と医学において、特に捏造や盗用、欺瞞が生じやすいとされています。また、歴史上有名な科学者であり成功者であるガリレオやニュートン、ダーウィン、メンデルなども何かしらの虚偽や恣意的なデータ作成を行なっていたことが明らかにされており、「科学においては少数の成功者の功績を記録し、多くの失敗を無視する傾向にある。そんな中で、成功者ですら虚偽を行なっているのだから、無名の無数の研究者の虚偽はより広範となる可能性がある」と論じています。科学の性質を考えると、さもありなんというところです。
特に、現代の科学者はかつてのそれと違い、研究成果が直接、報奨や評価、立身出世へとつながります。そういった状況において、虚偽をなくす、減らすという考え方自体に無理があるのだろうと思います。
著者は様々な虚偽の実態を明らかにするとともに、それを少しでも防ぐための手段として第三者によるレビューや追試を行うほか、同僚やインターネットによるチェックも有効になりえるとしています。そのうえで、科学を唯一でも絶対のものでもなく、「希望、プライド、欲望や美徳に支配される人間的な過程である」と断じています。一般的には、科学は唯一無二の真実であるかのように考えられていますが、それを行う科学者が人間である以上、あまり過度に信用しないほうが好いのかもしれません。
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自分の名誉欲にしろ、研究費にしろ、パワハラにしろ、何らかの圧力で詐欺師になってしまうのはやっぱり科学者として論外だと思う。
難しいなと思ったのは、美しい結果を求める心理が、目の前の現実をゆがめて感受してしまったタイプのもの。ダ・ヴィンチの解剖図のように。
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「科学とはどのようなものであるかについて充分な理解を得るためには、哲学者、社会学者、歴史学者による厳密な抽象化は、型にはまった観念のような全体像としてではなく、多面的な物体のある一面として認識されねばならない。科学はまず第一に社会的なものだ。…第二に、科学は歴史的なものであり、時間と共に前進する文明と歴史の構成要素である。…第三に、科学は人間の合理的思考の文化的な一つの表現と言えるのである。
科学のこの第三の側面は非常に多くの誤解を生んできた、つまり、科学における強い合理性の存在は科学的思考の唯一の重要な要素であると受け取られてきたのである。しかし、想像や直感、忍耐、その他多くの非合理的な要素もまた、科学の過程の基本的な部分であり、さほど重要ではないと考えられている人間の希望やねたみ、欺瞞などもまた、ある一つの役割を演じているのだ。欺瞞はデータを偽る個人と、それを受け入れる社会の双方において、非合理的な要因が作用していることの証なのである」p.296-297
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STAP細胞の事件が起こって、ばれるのに何故ミスコンダクトを行うのかが、気になっていたので読むことにした。
「追試は科学の進歩の原動力とはならないため、滅多に実施されることはない」とあって驚いた。
それなのに、科学者たちは「科学の自己修正機構」があると信じていることに矛盾を感じた。
ミスコンダクトを行う人たちは、大なり小なりミスコンダクトをずっと行ってきていて、今まで通りにすれば上手く逃れられると思ったのかも…と思った。
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研究不正の例を並べるだけでなく、科学の構造的問題を指摘。それのみならず、根本的な認識問題まで踏み込む。
すなわち、betrayer of the truth とは現実とかけはなれた幻想の科学・科学者観を持つすべての人を指している。科学・科学者に対する認識がそもそも事実と違う。このことにより、科学内部の欺瞞が真理追究を妨げることを許してしまうし、有効な対策が取れない。
著者はいくつかの処方箋を提示する。雑誌の数を減らして(ひいては研究者の数を減らして)論文の質を高めること、場合によっては教育と研究を分離すること、論文をオーサーシップを明確にすること、など。しかし何より、科学は科学者という普通の人間による所業なのだという認識を持つことが先決であるとも。
この本の視座からすると、ミスコンダクト防止教育(それ自体は大切だが)のプログラムは皮相的だと思った。
原著が書かれたのが1982年なので、今なら再現性を担保する技術的基盤の話があってもいいのかも。
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11月4日新着図書:【一部の科学者が冒してしまう、自らの名誉と職を失いかねない繰り返される不正行為に手を染める事例を通じ科学の本質に迫る問題作。】
タイトル:背信の科学者たち : 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?
請求記号:402.8:Br
URL:https://mylibrary.toho-u.ac.jp/webopac/BB00275106