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気にするべきところは違うと思うが、作者の文章の時系列が分かりにくいうえに、第三者の解説が入ってくるので、混乱。読みにくくて辛かった。
筆者の祖母がアーモン・ゲートを庇っていたように、身内が悪いことをして庇いたくなる気持ちがよく分かる。
被害者家族だけでなく、加害者の家族も傷つく。祖母の「悪いことをしたら、周囲が悲しむ」の言葉は正しかった。
今までナチの人たちは特別だったと思っていた。特別、残忍冷酷だと。でも彼らにも家族がおり、家族を慈しみ、私たちと大差ない人生を送ってきたことが分かった。私たちもいつ流されて同じことをするようになるのか分からない。
何故、自分たちと違うものを排除しようとする気持ちが生まれてしまうんだろう…。
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アーモン・ゲートの娘の娘、ナイジェリア系ドイツ人で白人家庭の養子として育ったジェニファー・テーゲの手記。
ジェニファーの母モニカの『それでも私は父を愛さざるをえないのです』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4810200698と併せて読むと多角的に見られる。
ジェニファーは祖父がナチだったことを知らずに育った。
38歳のときにたまたま図書館でモニカの本を見つけ自己の来歴を知る。
最初に引用される「ドイツでは、ホロコーストは家族の歴史」という言葉があまりにも的確。
じゃあ日本では、戦勝国では、どのように子や孫に戦争を語っているのだろうともちらりと考えた。
冒頭、本を見つけてショックを受けたジェニファーが夫に迎えに来てくれと頼む。
『それでも~』でモニカは『シンドラーのリスト』を一緒に見てくれと夫に頼んでた。
そこから始まったから、モニカと対比しながら読んだ。
アーモンの妻、イレーネとの関係、
社会のホロコーストやナチや家族の認識の変化、
ジェニファーはイスラエルの友人にどう話せばいいか迷うけれど、そういえばモニカのインタビューに友人は出てこなかった。
2008年に気づいたジェニファーの手記を読んで、モニカのころには「ナチの子ら」の抱える問題について参考になる研究や文献はなかったのだと気づいたりもした。
モニカの本は冷静さがまるでなく感情が全面にでていた。
ジェニファーは冷静に考えることを心がけている。手伝ったジャーナリストも前に出て来ない。
だから、それでも冷静になれない部分がかえってよく見える。そもそも客観的に語ることなどできるはずのないテーマだ。
ナチの子供。第二世代、第三世代という視点はもっと知りたいと思った。
あんまり邦訳されていないみたいだけど。
『ボッシュの子』http://booklog.jp/item/1/4396650396や『誇り高い少女』http://booklog.jp/item/1/4846010511は前にちらっと見たけど小沢君江は合わないようで読めなかった。
東條由布子なんかもこういう視点で見ればよかったのかな。
『それでも私は~』も読みにくかったけど、こちらの訳は輪をかけてひどい。
訳者プロフィールに日本語の専門家とあったけどウソだろ?
親や祖父母を「祖先」と書いたり無差別テロを「暗殺」と書いたり、長く話しこんだ後に明日も会おうと約束するのを「とっさに」と書いたりする言語感覚がよくわからない。
地の文で「~しまくった」を多用するのも美しくない。
「必要のない時以外は外に出なかった」のような変な文章もある。
「閃光を放って思い出す」というのはフラッシュバックのことだろうか。
そんでまた「精神分裂症」という謎の病気が出てくる。
モニカの本と一緒に読んだから、同じ資料の引用部分の違いがよくわかる。
たとえば両方ともp15にあった言葉。
テオドール・W・アドルノ「誤った人生に正しい人生はない」(本書)
テオドル・アドルノ「偽りの人生の中には真の人生は存在しない」(『それでも~』)
アーモンからの手紙に至っては引用部で印象がかわるせいもあってまるで別物。
「ここでの食事ときたら始末に負えないよ。体重は70キロにちょっと足りないくらいになってしまった。まぁ、これくらいで十分だけど……。」(本書p64)
「ここでの食事は良いので何とかまだ七十キロ近くの体重を維持しています。それで十分です。」(『それでも~』p98)
気付かない部分でもこういう解釈の差があるんだろうけど原文と照らせないからわからない。
しかもあっちの訳もあやしげだから、どちらが意図をより正しく伝えているのか判断できない。もどかしい。
ジェニファーと妹を混同したり祖父を祖母と書いたりするあたりは原文のミスかもしれないし(だとしても直すべきだけど)、内容の重複や手紙の恣意的な省略は原著の欠点だろうけど、どうもこの本の文章は信頼性に欠ける。
ジェニファーが真摯に向き合おうとしているだけに文章と内容の落差が目立つ。
参考。
P53,ゲットーを通る電車⇒『ブリギーダの猫』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4896423445
p103、収容所の設備や備品をおろした会社が戦後も普通に営業していた。⇒『溺れるものと救われるもの』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4022630221
p155,養子の自分だけが感じる違和感。違いをなかったことにすると違う人は孤独になる。⇒『アルビノを生きる』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4309021913、『精子提供』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4104388033
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ジェノサイドはお金になることに気が付いた。つまり宝石や値打ちのあるものを提供できるユダヤ人はその場で殺害されずに強制収容所へ行くことができた。
殺人収容所ではレジャーになっていた。どういうことだ、、、恐ろしい。
ゲートもアイヒマンと同じように、上司の命令に従っただけ、と法廷で回答した。
囚人の入れ墨をしていたインクはペリカン社のものだった。学校で使っていたペリカンのインク、万年筆と同じものだった。
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「シンドラーのリスト」の悪者アーモン ゲートが自分の祖父だったという悪夢のようなノンフィクションです。小さいときに養子に出され自分のルーツを知らないまま育った著者のジェニファーはイスラエルで大学を卒業して「シンドラーのリスト」も見ていました。アフリカ系ドイツ人の自分は全く関係のない世界だと思っていたのに38歳になって図書館で自分の実の親のことが書かれた本を見つけてしまいます。
38歳まで黒人のハーフで養子という問題を抱え、それ以降はさらにアーモンゲートの孫であるというハンデを抱え込んだ女性。辛かったと思います。最後の慰霊碑への献花が感動的でした。まるで「シンドラーのリスト」のエンディングのようでした。
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未婚のドイツ人女性とナイジェリア人男性の間に生まれて孤児院に預けられた後、別のドイツ人家族に育てられた女性が偶然、祖父がナチス捕虜収容所の残虐な所長であったことを知り、自身のルーツを探るノンフィクション。
以前から抱えていた人種差別や養子縁組に起因するアイデンティティ問題に加え、家族史における戦争責任という重い十字架を背負った著者が、様々な人たちとの対話を通じ、悩み、傷つき、苦しみながらも、自分は何者なのか?、家族とは?、愛とは?、運命とは?・・・といった疑問に対する答えを追求する。
「加害者」としての祖父母世代とその子孫である実母や養父母、そして「被害者」の子孫である旧知のイスラエル人の親友たち。それぞれ世代ごとに複雑な思いがあり、著者の「真実を知りたい」という信念は時に拒絶され、動かせぬ歴史を前に人はひたすら無力なのかという絶望感に襲われた後、読者は一つの希望を見出すことになる。自虐史観云々の論議とは別の意味で、日本人としても決して他人事で済まされない真実がここにある。
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犯罪者が先祖にいる。自分が子供を作れば、犯罪者の気質を子供に受け継がせてしまう。だから不妊手術を受ける。
劣った有害な遺伝子を断絶するという発想は、結局はナチズムのそれである。
当事者でありながら、呑まれずに冷静に矛盾に気づけるのが著者のすごいところだと思う。
当事者だからこそ、言葉にできるんだろうな。
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「私はどこの家族に属しているのか、もう分からなくなってしまった。(中略)選べる立場ではない。そもそもゲート家の一員なのだから」
血縁というものをここまで意識したことがあったか。幼い頃に養親から愛情をたっぷり受けて育った著者が、ひょんなことから自分のルーツを知ってしまう。実母が著者より先に他人に打ち明けていた事実も含め、取り乱してしまうのも無理はない。
優しい養親、思い出の少ない実母・祖母の後ろに極悪非道な祖父が突如として現れた。当然切っても切れない関係にあって自分ではどうすることもできない。
著者が自身の人生を取り戻すまでの道の上で、共著のゼルマイヤー氏(ジャーナリスト)の解説がエコーする。
映画『シンドラーのリスト』は何年か前に鑑賞しており、ゲートのこともよく覚えている。だから尚更、あまりに色々な事(残虐性の継承、他の加害者遺族の話etc.)を知りたくなるのも当然だろう。
著者や専門家による映画の捉え方も興味深い。(あの邸宅が現存しているのが衝撃だった…)
著者の実母が大変不憫な立場にある。あの邸宅で全てを目撃しているはずなのに夫を慕い続ける母親から嘘を教えられていた。ここまで苦しめられなきゃいけないのか。その苦悩が、著者の"母"になりきれずにいた要因を作っていると自分には感じられてやり切れなかった。
筆者自身の生い立ちにも波がある。(生い立ちについては何度も語られているが、あとがきが綺麗にまとめてくれている) ’14年初版だが、実母とは再会できているのだろうか。今度はお母さんと手を携えて「過去ではなく、将来を向いて」いると信じている。
「すべてがとても悲しいことだらけだったりしたら、どんな人でもそれぞれよいところがあるんだと信じて、その信仰を守っていきなさい」
自分はよその国の人間だから、他国の歴史や一族に対して一方的に意見することはできない。しかしドイツ史の中でも恐らく重要な、一つの家族史の目撃者となった今は、著者の祖母や戦後多くの国民が口にしたと言う「知らない/知らなかった」を通すこともできない。
読み終える頃には分かっているはずだ。このまま本当に押し黙ってしまうのが、実は一番恐ろしい事なのだと。