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人形たちと比べれば、ゲシュタポや秘密警察といった悪の連中も、かりそめの姿であって、この歳月を彩った数々の事件――爆撃、電撃作戦、蜂起、粛清――といえども、このウッツに関するかぎり、「舞台裏の音響効果」
2015/02/02 17:20
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
「私」は編集者からルドルフ二世について書くように依頼され、プラハを訪れたことがあった。ソ連の戦車が「プラハの春」を押しつぶす一年前のことだ。専門家を知らないかと尋ねる「私」に、紹介者はウッツを薦める。
ウッツが集めていたのはマイセン磁器。アルレッキーノをはじめとする磁器の人形たちが家の二部屋を埋めつくしていた。ところが、一九七四年ウッツの死後、遺贈先の美術館長が部屋を訪れると、一切の蒐集品が姿を消していた。蒐集品はどこへ行ったのか。骨董蒐集に関するペダンティックな論議を愉しむ洒落た小説『ウッツ男爵』は、この謎を解くミステリでもある。「私」は、生前たった一日、本人に聞いた話と、その死後プラハを再訪した折に関係者を訪ねて訊き集めた情報をもとに推理する。
小説は、葬儀を締めくくるマルタの嘲笑を含む乾杯ではじまり、その最後は家を訪ねた「私」に答える「ええ、私が、ウッツ男爵夫人です」という言葉で終わっている。多くの読者が、この物語を蒐集家にありがちな数奇な人生を描いたものと受け止めているようだが、この物語は最初から最後まで、下女のマルタの物語である。初読時、読者はマルタに特別の印象を持たない。しかし、最後まで読み終わって気づくのだ。この小説の真の主人公に。
遺産を糧に蒐集を続けるウッツは恵まれた身分だ。機を見るに敏で、革命や騒乱は、貴重なコレクションが世に出る好い機会と割り切っている。政治やイデオロギーには無縁で、世の趨勢を見ては蒐集品を安全な場所に移動させては難を乗り切る、蒐集に関する限り徹底的なリアリスト。そんな男が何故大事な蒐集を消えるがままにしてしまったのか、この謎の方が蒐集の行方より気になる。
独身者は二部屋を保有してはならないという指令書のためウッツはやむなく結婚した。結婚後も女を家に連れこむ夫を書類上の妻は許していた。関係が変わるのはウッツが自分の歳に気づいてからだ。事実上の夫婦になって立場が逆転する。
ウッツは度々外国に出かけながら、結局チェコに戻らざるを得ない。人形の所有者ではなく、その囚われ人だと自嘲する。どこへ行っても、俗人たちの振る舞いに辟易し、美食にも満足を覚えることがないウッツが最も生き生きして見えるのは、蝋燭の火影の下での人形たちを動かせているときである。彼にとってはそれがほんとうの世界なのだ。
蒐集のある二部屋を守るために結婚したのがまちがいのもと。生身の女はポーセリンとは違う。いつまでも自分の手の中で踊ってはくれない。庇を貸して母屋を取られるというとおり、女の言いなりになった挙句が結婚式、初夜、それに続く頽落の日々。ウッツが背後に退くと同時に妻が前面に出てくる。そしてそれは葬儀の時間の変更で完結する。
<人形たちと比べれば、ゲシュタポや秘密警察といった悪の連中も、かりそめの姿であって、この歳月を彩った数々の事件――爆撃、電撃作戦、蜂起、粛清――といえども、このウッツに関するかぎり、「舞台裏の音響効果」といったものにすぎない>
「私」にそうまで言わせた男が、たった一人の、それも美しさゆえに愛したのでも、知性ゆえに魅かれたのでもなく、ただ憐憫の感情を抱いただけの女との結婚ですっかり変わってしまう。辛い話である。男と女という存在の一面の本質を突いているだけになおさらやりきれない。「生活?そんなものは召使に任せておけ」くらいのことは言えないと、ボヘミアン暮らしは続けられない。こんな小説を早々と書いてしまう作家は長くは生きられないに決まっている。ブルース・チャトウィンは四十八歳で死んだ。
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副題に『ある蒐集家の物語』とある通り、プラハを舞台に、ある1人のコレクターの姿を、外国人である語り手の目を通して描いた作品。
第二次大戦と共産革命後も守り抜いたコレクションは、物語の終盤、ウッツ男爵の死後に忽然と消え失せてしまう。『割られて廃棄された』という証言らしきものは提示されるが、信憑性には難があり、他の可能性も残されるが、消えたコレクションは消えたままで小説は終わる。そもそも小説自体、語り手とウッツ男爵とのたった1日の交遊が主であり、コレクションの行方自体に長いページが割かれているとは言い難い。
要するにこれは、『蒐集家』という人間を描いた小説であり、結局、あのコレクションが行方知れずで終わることがそれを証明しているように思う。
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待望の再版が出たので再読。マイセンのフィギュアの魅力にとり憑かれた男の話。舞台はプラハ。
ピアノを弾くキツネと女性歌手のフィギュアがミュンヘンの博物館にあって、あまりにもシャレがきいてるのでものすごく感心して、以来ミュンヘンに行くたびになるべく見に行くのだけど、ウッツが語り手に自慢のコレクションを見せるシーンで同じものが登場してうれしくなった~!そしてウッツも「シャレているでしょう?」と自慢するのです。
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皆様この世にブルース・チャトウィンなる方が存在したってご存知でしたか!?うわーーーーっ、やっぱり私だけ?、まったくもってなんにも知らなかったのって、私だけかーーーー!!
そんな残念な悲鳴と、出会えた喜びの声とを同時にあげずにいられません。
池内紀氏にとっては「書いたものすべてを読みたいと願っていた、ほとんど唯一の同時代人」なのだそうですが、まさにその通りで、次々と読んでみたくなります。若くして亡くなられているだけに、作品が限られているのは本当に残念です。ただでさえ、限られているのですから、どちらかの出版社さまは、『ウィダの総督』を是非復刊してください!!
スーザン・ソンダクによれば、このチャトウィン氏は一目見た瞬間、胃が飛び上がり、胸が早鐘のように打ってしまう、男女を問わず虜にしてしまう魅力を持った方だったそうなのですが、多くの作品に登場するさまざまな人との味わい深い出合いは、そんな魅力があったからこそなのでしょう。チャトウインの書く作品もまた一読で読者を虜にする魔法のような魅力にあふれています。
もとはサザビーズで有能な社員として働いていたものの、“旅への情熱をおさえきれず”辞職し、人類学や考古学を学んだり、ジャーナリストとして仕事をしたりして作家になられたそうです。
サザビーズを辞めた理由は、旅への思い以外にも、この業界への不満もあったようで、辞職するきっかけに、なんとサマセット・モームが関係していたとか。
モームは、何十年もかけて、ルノワールやドガ、モネやゴーギャンらの作品を含む印象派絵画のコレクションを作り上げてきたものの、八十代になって、それらを手放す気になり、サザビーズのオークションにかけることにしました。ところが、売り立ての直前に気が変わり、出品を取り消すと言い出します。これを聞いた当時のサザビーズ会長ピーター・ウィルソンは、モームの出品取り消しを阻止するため、ある作戦にでます。同性愛者であるモームの説得のため、自分が行くのではなく、とっても魅力的な若い男性社員に行かせることにしたのです。この時、白羽の矢がたったのが、当時印象派部門でカタログ製作を担当していた若きブルース・チャトウイン!!もちろん効果はばっちりで、無事に売立は行われました。
この出来事からまもなくサザビーズを辞職したチャトウィンは、ホントかウソかは知りませんが、「モームのあのおそろしく年老いた指が、僕の髪を梳こうとしたんだぜ!!」そんな不平をのちにもらしたそうな。
抜け目ない商売人のようなこの会長については、チャトウィンの作品内ではかなり感じ悪く描かれていて、『どうして僕はこんなところに』中の「M-侯爵」では、その態度ゆえにM-侯爵の昼食会から追い出されています。ふふふ。
サザビーズ時代の逸話は他にもいろいろあるようで、視力の衰えたジョルジュ・ブラックが自分の作品の真贋の判定をチャトウィンの判断に従ったとか、その目利きの才については並ならぬものがあったそうです。
仕事を辞めたとはいえ、美術品やコレクターに関しては、関心を持ち続けていらしたようで(むしろ美術が好きだからこそ辞めたわけですが)、最後の小説作品となったのは、チェコのマイセン磁器人形コレクターのことが書かれた『ウッツ男爵』。私がチャトウィンを知ることが出来たのは、この作品が白水Uブックス化されたからにほかならず、ほんと白水社様に感謝です。
さてこの作品、チェコの歴史やプラハの街という“実”に磁器コレクターや彼を巡る人々と言う“虚”が巧みに混ぜ合わされた作品です。チャトウィンは、虚実を織り交ぜた興味深い話を語りまくるおしゃべりな人だったそうですが、語りであれ小説であれ、事実に虚構が入り混じってしまうのは、話の面白さのツボの押さえ方が非常に上手かったからこそなのだろうと思います。
この小説には、複雑なコレクター心理や、社会主義国における個人でコレクションを持つことの困難や、ウッツ氏死亡後の磁器の行方の謎、ヨーロッパでの磁器製作と錬金術の話とか、面白要素はいろいろありますが、私が最も「うわーっ」となったのは、長年ウッツ氏の家政婦として仕えてきた女性マルタのこと。恩人に愚直に仕え続けた哀れな女性と思いながら読んでいたので、衝撃を受けてしまいました。
小説は、友人一人とマルタしか参列していない寂しいウッツ氏の葬儀のシーンからはじまります。葬儀の後その二人だけが参加したお別れの朝食会において、酔ったマルタが店内にある熊の剥製に対し、「あの熊に乾杯!」とはしゃぐのですが、この乾杯の謎が解ける終盤にしてやられました。結末のシーンがまたいいです。時代と己の欲望に翻弄された小男の物語がかすんでしまうくらいの、女の勝利。
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副題にある通り、ある蒐集家の物語。かねがね北方ルネサンスに興味を抱いていた語り手の「私」は、雑誌編集者からルドルフ二世――アルチンボルドが野菜と果物で肖像画を描いた、錬金術に関する厖大な蒐集でも知られる神聖ローマ皇帝――について書くように依頼され、プラハを訪れたことがあった。一九六七年というから、ソ連軍の戦車が「プラハの春」を押しつぶす一年前のことだ。誰か専門家を知らないかと尋ねる「私」に、紹介者は即座に言った。「ウッツがいいでしょう。ウッツは現代のルドルフだ」。
ウッツ男爵も蒐集家であった。集めていたのはロココ調の優雅な磁器として知られるマイセン。爵位の方はいささかあやしいが、蒐集は質、量とも一級品だった。幼い頃祖母の家で目にして以来、蒐集し続けたアルレッキーノをはじめとする磁器の人形たちがシロカー通りにある小さな家の二部屋を埋めつくしていた。時代の動きを読むのに長け、第二次世界大戦もスターリン主義の時代も巧みに蒐集を守り通した。ところが、その蒐集が消えた。
一九七四年三月にウッツが死に、遺贈先となっていた美術館の館長が部屋を訪れたとき、残された家具類の棚からは一切の蒐集品が姿を消してしまっていたのだ。蒐集品はどこへ行ったのか。骨董蒐集に関するペダンティックな論議を愉しむ洒落た小説『ウッツ男爵』は、この謎を解くミステリという一面を持っている。探偵役の「私」は、生前のたった一日、蒐集を見ながら本人に聞いた話と、その死後何年か後にプラハを再訪した折に関係者を訪ねて訊き集めた情報をもとに推理し、行動する。
訳者をはじめ、多くの読者が、この物語をウッツ個人の、或は蒐集家と呼ばれる人々にありがちな、数奇な人生を描いたものと受け止めているようだ。けれども、それはちがうのではないだろうか。評者も一度目は、ウッツの物語として読んだ。しかし、再読して印象が変わった。この物語は最初から最後まで、下女のマルタの物語ではないのか。
小説の冒頭は、ウッツの友人で「私」とも面識のあるドクトル・オルリークの視点からウッツの葬儀の様子を描いているが、参列者が二人という侘びしげな葬儀は、マルタの嘲笑を含む乾杯で終わっている。そして、その最後はといえば、「私」が未亡人の家を訪ねる場面で終わっている。最後の言葉は「ええ、私が、ウッツ男爵夫人です」だ。初読時、謬見を持たない読者は寂しい葬儀の様子に、ウッツに同情こそ覚えるもののマルタに特別の印象を持たない。しかし、最後まで読み終わってもう一度冒頭を読み直して気づくにちがいない。この小説の真の主人公に。
祖母の遺産を糧に蒐集に血道を上げるウッツは恵まれた身分である。機を見るに敏で、革命や騒乱は、貴重なコレクションが世に出る好い機会と割り切っている。ドレスデンの爆撃で磁器が壊滅状態になると、それまでの英国贔屓を宗旨がえするなど、政治やイデオロギーには無縁で、世の趨勢を見ては蒐集品を安全な場所に移動させては難を乗り切る、蒐集に関する限り徹底的なリアリスト。そんな男が何故大事なコレクションを消え去るままに放置してしまったのか、というこちら���謎の方がコレクションの行方より気になる。
ウッツが結婚せざるを得なくなるのは、独身者は二部屋を保有してはならないという指令書のためで便宜上の結婚だった。オペレッタの女性歌手の喉仏にフェティッシュな嗜好を持つウッツは結婚後も女を家に引き連れてきてよろしくやっていた。妻は見てみぬふりをしていた。もちろんベッドは別だ。ウッツが自分の歳に気づいてから関係が変わる。事実上の夫婦になったのだ。そして、立場が逆転する。「私」が出会った頃のウッツは娼婦と会うために夜の町に出向かねばならなかった。
自由に過ごせる外国に度々出かけながら、蒐集を守るために結局チェコに戻らざるを得ないウッツは、人形の所有者ではなく、その囚われ人だと「私」に自嘲していた。どうだろうか、ウッツはどこへ行っても、俗人たちの振る舞いに辟易し、美食にも満足を覚えることがない。ウッツが最も生き生きして見えるのは、蝋燭の火影の下でコンメディア・デッラルテの人形たちを動かせているときである。彼にとってはそれがほんとうの世界なのだ。
蒐集と暮らすための二部屋を守るためにした結婚がまちがいのもとだった。生身の女はポーセリンとは違う。いつまでも自分の手の中で踊ってはくれない。庇を貸して母屋を取られるのことわざどおり、ずるずると女の言いなりになった挙句が結婚式、初夜、それに続く頽落の日々。ウッツが背後に退くと同時に妻が前面に出てくる。もともと暮らし向きの差配はすべてこの女がやっていた。そしてそれは葬儀の時間の些細な変更で完結する。
<小さな人形たちの世界が彼にとって、ほんとうの世界であった。この人形たちと比べれば、ゲシュタポや秘密警察といった悪の連中も、かりそめの姿であって、この歳月を彩った数々の事件――爆撃、電撃作戦、蜂起、粛清――といえども、このウッツに関するかぎり、「舞台裏の音響効果」といったものにすぎない>
「私」にそうまで言わせた男が、たった一人の、それも美しさゆえに愛したのでも、知性ゆえに魅かれたのでもなく、ただ憐憫の感情を抱いただけの女との結婚ですっかり変わってしまう。辛い話である。男と女という存在の一面の本質を突いているだけになおさらやりきれない。「生活?そんなものは召使に任せておけ」くらいのことは言えないと、ボヘミアン暮らしは続けられない。こんな小説を早々と書いてしまう作家は長くは生きられないに決まっている。ブルース・チャトウィンは四十八歳で死んだ。
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コレクションの行方もさることながらチェコ史を背景にひとりの蒐集家としての人生自体もミステリアスだった。
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早逝した作家、
ブルース“どうして僕はこんなところに”チャトウィンの
幻想的な小説を、ドイツ文学者・池内紀先生が翻訳。
作者の分身のような語り手「私」が出会った、
マイセン磁器の蒐集家ウッツ男爵の
静かでありながら鬼気迫る情熱について。
作家になる前、サザビーズで働いていたという作者は多分、
その手の人種を数多目撃していたはずで、
ウッツ男爵はそうした人々のイメージの
キメラのようなキャラクターなのかもしれない。
冷戦下の社会主義体制側が舞台になっているため、
超合理的かつ殺伐とした、
コレクション=個人の私有財産=「悪」と見なされる世の中で
いかに宝物を保持するかに腐心する様は、
シリアスを通り越して滑稽なほどだが、笑ってはいけない。
ウッツは(所有の)自由を守るため、
勇気を持って、あの手この手で戦った。
しかし――身近な例を見回してわかるように――
強力な蒐集癖を持つ男性はパートナーを求めないか、
あるいは自身の趣味に極めて寛容な人と生活を共にするだろう、
そして「集める系」オタク野郎は、
そんな器の大きい相手の掌で遊ばされているに違いないのだ……。
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マイセン磁器の魅力(魔力?)にとりつかれた男の物語。磁器だけでなく収集癖やこだわりのある人にとって共感できる話が詰まっている。しかし、最後はやがて悲しき収集癖かな、となり、自分の人生を振り返ってしまい、磁器はどうなってしまうのか。
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[関連リンク]
ウッツ男爵: ある蒐集家の物語 - アブソリュート・エゴ・レビュー: http://blog.goo.ne.jp/ego_dance/e/0f5b44f39986dadc29d37ad8f65a439e