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霊性が出現することによってのみ、知性は個己を超越することができ、無分別の分別が働くようになる。
2020/09/09 10:17
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投稿者:三分法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「霊性」とは何なのか、また日本的霊性とは何なのか、についてのいろいろな側面からのお話である。まず、「霊性」についてですが、その一つの説明は次のようである。人間には感性(例えば、水は冷たい)、情性(水はすがすがしいと感性の世界を価値づける)、意欲(わが手に収めようとする働き)、理性(様々な働きを分ける働き)という4つの心的作用(はたらき)がある。そしてこの他に「霊性」という働きがある。この霊性の働きによってのみ、知性は意欲の桎梏から離脱することができる。霊性が出現することによってのみ、知性は個己を超越することができ、無分別の分別が働くようになる。ただし、霊性は人間に普遍的なものではあるが、目覚めなければわからないものである、またその表れ方として日本的なものがあり、日本的霊性的自覚は、法然とか親鸞とかいう個己的人格を通して表れてきた。
本書によってまた、天日と大地と霊性の関係についても教えられる。まず天と大地の関係については、次のように言われる。生命はみな天をさしている。が、根はどうしても大地に下ろさねばならぬ。宗教(救い、恩、恵み……)は上天(超越、神……)からくるともいえるが、その実質性は大地に在る。萌え出る芽は天を指すが、根は深く大地に食い込んで居る、と。つぎに大地と霊性の関係については、霊性は大地を根として生きて居る。そして「霊性」に目覚めることによって始めて宗教が分かる。天に対する宗教意識は、ただ天だけでは生まれて来ない。天が大地に下りてくるとき、人間はその手に触れることができる、と語られている。
紙の本
体験だけでなく
2020/05/31 23:10
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投稿者:ただの人間 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いわゆる矛盾としか思えない箇所が多々あるのは相変わらずだが、体験だけではなく体系も重要であると説くなど、単なる引用の羅列にとどまらない密度を感じる箇所もいくつかあったように感じる。鎌倉時代を積極的に評価するところはさておき日本の独自性を見出そうとするバイアスが強くかかっているように感じたのはある程度出版された当時の時代的背景もあってやむを得ないか。
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前回読んだ「禅とは何か」よりもずっと深く、面白かった。禅だけでなく鎌倉以降の日本仏教を、浄土系を中心に解説している。最後の章では金剛経に依って禅の思考ポイントも詳述されている。
紫式部や清少納言のみをもってきて平安時代の思考を批判するのはどうかと思うが、仏教の歴史を改めて概観する上でも役だった。
もちろん、これが鈴木大拙の個人的思想であることも忘れてはいけないだろうが。
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2013.7記。
吉本隆明や梅原猛といった仏教と日本との関係を論じるひとたちがしばしば引用するいわば基本書である「日本的霊性」。いざ手にして見ると、議論は融通無礙(←仏教用語)にあちこち飛びまくるし、内容も「往生がすんで還相があるというのではなくて、往生がすなわち還相で」といった調子でわけが分からないから、適当に割り切って読み飛ばさないと手におえなかった。それでも、難解な仏教の教義がどう日本人の心のありようと関わっているのか、という部分でははっとさせられることが見出される。
平安末期は「末法思想」が広がった、と歴史の授業で習う。著者は、貴族が弱体化し武家が勃興するこの変革期における、「何となく、『このままで、すむものではない』という気分」(P.145)を、「鋭敏な宗教的天才は、必ずこの種の焦燥不安が社会意識の上にただようて居るのを看取せずにはおかない」のだ(P.146)、という。
また、ありがちな日本人論でよく取り上げられるものとして、「日本人はオリジナルを生み出すのは苦手だが、それを取り入れて応用するのが得意である」という言い方がある。外国から伝来した仏教に対しても、そのようなイメージを持つことは容易であろう。しかし、著者はこれを「日本的霊性がたまたま仏教にぶつかって霊性は仏教の上にどんな力を示したか」(P.131)と捉える。
著者の思索を、分からないなりに追いかけることを通じて、何かをちょっとは垣間見たかな、という気分には浸れた。読み返せば理解は深まるかもしれない(が、まあその気力はないな、今のところ・・・)。
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”日本的精神ではなく、日本的霊性。
<キーフレーズ>
<きっかけ>
人間塾 2016年課題図書として。”
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元来広い意味においての意志は、宇宙生成の根源力であるため、それが自分らすなわち個々の人間の上に現れるとき、心理学的意味の意志力と解せられる。この意志力が強ければ強いだけ仕事ができるというわけあいである。
精神家というのは形式ばらぬ人のことである。杓子定規や物質万能主義などにとらえられずに、なにか1つの道義的理念を持って万事に当たらんとする人である。
なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。
今までの二元的世界が相克し、相殺しないで、互譲し、交歓し、相即相入するようになるのは人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。
精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。その意味で霊性の直覚力は精神のよりも高次元のものであると言ってよい。
精神の意志力は霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになる。
いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、すなわち自我の残滓がある。これがあるかぎり、「和をもって貴しと為す」の真義に徹しあたわぬのである。
物事の表面だけを見る人々の眼光は薄い紙の裏さえ見透すことができぬと言わなければならぬ。
明き心清き心というものが意識の表面に動かないで、そのもっと深きところに沈潜していって、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられる。
情緒で支配せられている国民にとりては、論理性を帯びた善因善果説が効果的である。
恋愛の悲劇は人間を宗教に追い込む一つの契機となるが、これには成熟した頭脳がなくてはならぬ。
人間は何かに不平・失望・苦悶などということに際会すると、宗教にまで進み得ない場合には酒にひたるものである。
男はいつも肩怒らして喧嘩腰でいなければならぬ理由はないが、知性と深さはあってほしい。深き創造はどうしても男性的であるらしい。
美しい女の子が生まれないで尊貴の身辺に近づけぬ悩み、位があがらぬので威張れぬ悩み、文芸の才なく男振りがよくないので異性にもてはやされぬ悩みーそんな悩みくらいで宗教は生まれぬ。なるほど宗教は現成世界の否定性を持っている。しかしそれは心の底から感じられるものでなくてはならない。霊性そのもののおののきでなくてらならぬ。
宗教は実に超時間性を持つ。その意味で未来はその中に含まれていると言ってよい。
仏教者の使命は時局に迎合するものであってはならぬ。日本人の世界における使命に対して十分の認識を持ち、しかも広く、高く、深く思惟するところがあってほしい。
はじめて新しいものが入ってくると、その新しいものに対して反抗するというのはむしろ人情の自然といってよい。
人間の心理または自然の人情なるものはなかなか複雑であるから、なんでも簡単に片付けると大いなる破綻がそれから出る。
実際主義・���証性はだいたい地面から離れることを好まぬ。
霊性の動きは現世の事相に対しての深い反省から始まる。この反省はついには因果の世界から離脱して永遠常住のものをつかみたいという願いに進む。業の重圧なるものを感じて、これから逃れたいとの願いにたかまる。これが自分の力でできぬということになる、何が何であっても、それに頓着なしに、自分を業縁または緊縛から話してくれる絶対の大悲者を求めることになる。
業の重圧を感じることにならねば、霊性の存在に触れられない。これを病的だという考えもあるにはあるが、それがはたしてそうであるなら、どうしてもその病にいっぺん取り憑かれて、そうして再生しないと宗教の話、霊性の消息はとんとわからない。病的だという人はひとたびもこのような経験のなかった人である。
霊性はいっぺんなんとかして大波に揺られないと自覚の機縁がない。
病というのは自己否定の経験である。
感覚や感情も、それから思慮分別も、もともと霊性のはたらきに根ざしているのであるが、霊性そのものに突き当らないかぎり、根無し草のようで、今日は此岸、明日は彼岸という浮動的生涯の外に出るわけにはいかない。これは個己の生活である。個己の根底にある超個の人にまだお目どおりが済んでいない。
超個の人はすでに超個であるから、個己の世界にはいない。それゆえ、人といってもそれは個己の上に動く人ではない。さればといって万象を擲って、そこに残る人でもない。こんな人はまだ個己の人である。
超個の人は個己と縁のない人だということではない。人は大いに個己と縁がある、実に離れられない縁がある。彼は個己を離れて存在し得ないといってよい。それかと言って、個己が彼だとは言われぬ。超個の人は、そんな不思議と言えば不思議な一物である。
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意識は個体の範囲で完結しているものではなく、それを生み出す根源となる部分があるという考えが東洋思想の根幹をなしている。日本人におけるそれを鈴木大拙は日本的霊性と言い、西田幾多郎は真実在と言う。これは、デカルト的自然観が強く影響している西洋ではなかなか受け入れられない。東洋において個体は意識の部分で繋がっているのに対し、西洋では主客は明らかに分離されているからである。「神の天啓」が天から限られた個人に向かって「与えられる」性質のものであることからも、神と個人、個人と個人は断絶された独立の存在ととらえられていることがわかる。
東洋では違う。著者は「なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」と言う。個は霊性の部分で繋がっているのである。霊性は誰かから誰からに「与えられる」ものではなく、気付くものであり、触れるものであり、遭遇するものである。
霊性は個を超越しており、そこが精神と違う。超個の人はすでに超個であるから個己の世界にはいない。それゆえ人といってもそれは個己の上に動く人ではない。感覚や感情、思慮分別に揺さぶられ生きる人は個己の人である。つまり、世のほ��んどの人は個己の人ということになる。だが、超己の世界に生きる人も人である以上個己を離れることはできず、また個己の世界に生きる人と離れられない縁がある。個己の人を離れることはできないが、超己の人である。このような物の捉え方は「禅」的である。人間は言葉によって世界を分節する。その分節によって対立概念が生まれる。だが、それは人間が作り出した言葉あっての対立概念である。「矛盾」は人間から見て「矛盾」なのであり、人間が言葉によって対立概念を創造しなければ「矛盾」はそもそも世界に存在しない。禅はそのような人間が言葉で作り出した世界を超越する。もっと正確に言えば、超越というのも禅の本質から少しずれるのではないだろうか。超越とは「二元論的な対立概念があってそれを乗り越える」というような意味であろう。つまり、超越と言うと対立概念が存在することを認めてしまうことになる。言葉を用いるということはなにものかを措定するということであるから、その時点で「禅」的でない。その「ありのまま」の極地で出会うのが霊性なのである。
霊性は無分別智であるが、精神は分別意識を基礎としている。つまり、精神は個の中を抜け出すことがない。したがって、個己の人は精神にのみ生きる人であり、超個の人は精神と霊性に生きる人とも言えるだろう。霊性は主体と客体、精神と物質といった対立関係を含むものを全て「超越」している。ゆえに霊性に触れた時その人の精神にあった対立相克の悶は融消する。しかし、その融消の仕方は霊性がどのような形でその人の精神に現れるかで変わる。精神に影響を与えているのはその人の育った環境であり、それはつまり民族性である。だからこそ日本的霊性なるものが話されるのである。山頂への登り方が様々あるように、霊性への触れ方も多様である。浄土真宗であれば南無阿弥陀仏と唱えることであり、曹洞宗であれば座禅を組むことなのかもしれない。
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コトバがほとんど心に入ってこなかった。ーー目の前に広がる大自然に無感情に佇む自分。大自然に囲まれて空気美味しいはず、、、心癒されるはず、、、という思い込みが頭にあるものの、身体がほとんど反応しない状態のようだ。彼の著作に直接触れる前に、彼の教えについての初級者向けコンテンツから入ろうと思った。