紙の本
錯綜した印象を与えるが、文句なしに面白い!
2019/03/11 01:47
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投稿者:休暇旅行 - この投稿者のレビュー一覧を見る
個々の文章も構成も、正直なところ錯綜した印象をうけます。傲慢な言い方をすれば、〈編集者がもう少し丁寧な仕事をしてくれれば、もっと整理された読みやすい本になったのでは……〉という(しばしばみられる誤植もこの印象を強めた)。
それでも、本書のアイデア群は文句なしに面白い。そしてさらに、錯綜はじつは後述するように、著者の探究の真摯さの反映であり、本書の魅力と不可分なのではないかと思うに到りました。
乱暴に整理すれば、本書の主張は以下のようだと思います。
1. 漫画語りは、手塚治虫を起源=基準として自閉する〈戦後漫画〉観にもとづいて行われてきた。〈戦後漫画〉観は、「前キャラクター態」としての「キャラ」、および「フレームの不確定性」、この二つを隠蔽することで〈人間を描く〉「リアリズム」を達成した少年・青年向けストーリー漫画を漫画の中心に据える。
2. 複数の「コマ」は、ストーリーを展開させる連続であると同時に、紙面上におけるレイアウト(並置)であるから、ひとつの画面として認識される範囲は、本来「コマ」~「紙面」の間をゆれうごき得る(「フレームの不確定性」)。少年・青年漫画は、画面をコマに固定しカメラ・アイを単一にすることで、漫画を「映画的な」コマの連続としてリアリズムを達成した。
他方、少女漫画は「フレームの不確定性」を活用した「多層的なコマ構成」、連動する「言葉の多層化と微分化」により、内面表現を発達させた「文学的な」リアリズムに向かった。
3. 「リアリズム」にのっとってストーリーとして作品を評価するとき、そのリアリティの基盤となる「キャラ」「フレームの不確定性」といった漫画自体の表現システムは意識されない(手法を意識するとは〈作者によるウソ〉として分析することなので)。しかし、現在(底本は2005年刊)では「リアリズム」とそれにもとづく漫画語りは失効。数々の現代漫画がキャラクターの「キャラ」(亜人間)性を前面に出している。
さて、以上のようなことを語るなら、話の順序をいれかえるなどすれば本書よりずっとスッキリするように思えます。なぜ、かくも本書は錯綜しているのか?
たとえば著者はあとがきで、〈キャラとキャラクターの分離〉と「キャラの自律化」は「それぞれ別の思考過程から生まれた」、などと恐ろしいことを書いています。ひととおり出来あがったモデルを見せられた読者からすると、両者はモデル内の論理的同値としか思えない。しかし著者は抽象的なモデルのスッキリした論理操作をとらないのです。あくまで作品の読解にもとづく探究をとる。錯綜はこの熱意の投影であり、だからこそ本書の豊かさがある。
同じことは、「フレームの不確定性」をめぐる議論の方が漫画固有の表現論として学術的にスマートに扱いやすいにもかかわらず、本書が「キャラ」論に多くの紙幅を割いていることにもうかがえます。
漫画の三要素の一つに「キャラ」を数える際、「キャラ」でなく「絵」としたほうが「形式的にマンガを分析するにはより厳密な思考が可能になる」と著者自身認めています。にもかかわらずここに「キャラ」を持ち込むのは、議論のスマートさのためにストーリーの生む快楽を捨象することが選択肢としてありえなかったからでしょう。漫画表現論からキャラ論に逸脱する危険を冒してでも、読解に寄り添うことが絶対だったのです。
なお著者はその後、2017年の論文集『マンガ視覚文化論』(水声社)に寄せた「多段階フレーム試論――目のひかりからコマへ」において、このキャラ論とフレーム論の不連続を架橋する、なんつーか変態的な達成をなしとげています。
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買ったからといって、すぐに読了できる内容&分量の本ではないので、感想はまた後日ー。一先ず買えてよかった。
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キャラーコマ構造ー言葉
作者―ジャンルー読者
キャラーキャラクター
ウサギのおばけーマンガのおばけー少女のおばけ(ガンスリンガーガール)
コマ構成ーコマ展開―コマわり―コマ構造
同一化技法
あくまで事後的に見出される起源
フレームの不確定性
手塚治虫という円環ー手塚という制度
人間とキャラクターを区別することは、知覚的にはできるが、感情的にはできない
ポップカルチャーに仮託した自分語りが跋扈する中で、大変学問的に行われた論考。
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マンガを語ることの困難についての評論。マンガを語りえない原因をキャラの隠蔽とリアリティの問題に探り当て、さらにはマンガ史に向かっていく過程はスリリング。
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「このマンガは面白い」、「最近のマンガはつまらなくなった」などの評論への疑問がこの本の念頭にあると感じました。確かに、「面白い」や「つまらない」といった言葉を頻繁に使うのですが、何が面白いかを表明することや、何がつまらなかったのかを言及されることがあったりなかったりで、曖昧なまま作品への感想を述べることがあります。その感想に至った過程にあるのはストーリーなのか、キャラクターなのか、リアリティなのか、そして、人はそれらのどんな部分に面白さやつまらなさを感じるのか。ふとした疑問をひたすら深堀りしています。
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マンガはつまらなくなったのか。マンガを構成する諸要素を分解し、マンガ史を紐解いく。
果たしてテヅカは新しかったのか、そうしてテヅカが死んだあと、果たしてマンガはつまらなくなったのか。
単行本収録時と比して変わった部分はそこまでないとのこと。判型とページの関係か、字組が詰詰であるのがやや気になる。
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やっぱり社会学的切り口と、評論というのは、苦手です。
音楽で例えるならば、『ビートルズ』は偉大で、いまある音楽の基本を作ってきたし、いまの革新的な音楽だって、元をたどればビートルズにかえってくる、という円環のなかで論じられることが多いことと、
手塚治虫は偉大であるということの円環は相似形をなす。
で、手塚治虫は本当に偉大なの?
映画的手法をふんだんに取り入れたとか言われてるけど、じつはそれって戦前からあるし、革新的といわれても、その根拠はなんなのかが示されていないよね、という疑問から、
そもそも漫画が面白くなくなったとかざっくりいわれているけれど、なにをもってそんなことが言われ始めたのか?
をたどっていくような、内容。
モダンというものは、作り上げたひとが自らのその規範を壊してしまいたくなる。自分は革新的なものをつくりたくてやってるのに、定番化されるとつらい。その内面外面両側からの戦いをいろんな角度から眺めてみた、漫画におけるポストモダン模索論だとおもいます。
難しかったです。
あと、新書なのに文章がギチギチで、端っこの文章が読みにくい。
ぼのぼの というなんにも起きない漫画をしつこく取り上げて論じているのとか、途中で飽きてしまいそうになりましたが、総じて面白くてアツイ漫画論が読めました。夏目氏の書籍もきになる。
あと、動物化するポストモダンは必読かと。難しすぎてもうお腹いっぱいですけどね。
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とりあえず、途中までまとめ。
今までマンガが一つの確立された表現方法として研究されたことはなかったそうなので、この本は革新的な本だったのだろう。
タイトルがテヅカ・イズ・デッドである点からもわかるように、いかに手塚治虫が日本の戦後マンガに影響を与えたかということが明らかになった。
彼は登場人物に、普通ならば共存し得ないキャラクター性とキャラ性、どちらも持たせた。キャラクターとは「人格」を持った「身体」の表象である。つまり人間らしいということだ。よって、キャラクターを立てるという言葉は読者である私たちと同様に「身体(永遠ではない、傷つく心と死にゆく体を持っている)を持った人間」が、「物語空間の背後にも」「永続して存在する」ことを想像させることを意味する。そして、現実の出来事のようなもっともらしさを読者に与える。一方で、キャラとはキャラクターに先立って何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものとかんがえられる。こちらは作品世界そのものがあたかもあるかのような錯覚に陥らせる現前性をもつ。キャラクターが立つ、とは違い、キャラが立つとはテクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」をもつことを指す。ちなみに、キャラの強度が萌えを支えている。つまり、可愛らしいなあという強い愛着によってキャラが強くなるのだ。
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15年前の本ですがためになった。昔と比べてサブカルチャー批評に対する風当たりが和らぎ、作品自体を分析する人が増えた一方で、「自分語り」の延長と「作家論」も未だ根強い。どっちでも良いけど。
むしろ批評的視点はクリエイター側が意識的または感覚的に持っている…し、持っているべきだろうなと思う。そこを編集者ら識者がうまくコントロールできると良い。
『新宝島』の本当にすごいところは散文的なコマ運びと描線。映画的手法は戦前に他の漫画家が既に試みており、手塚の技法はその上に成立したものだという。すると戦前戦中戦後の分断の中に語るべき作品が色々あるはずなので、とても気になる。
『地底国の怪人』ではデ◯ズニーキャラみたいな外見の耳男君に傷付く心と死にゆく身体が与えられることで尊さが爆発した。きっと作者も耳男君が好きだったんだろうな。
いがらしみきおの漫画もいくつか参照したが、作品を変えるごとに色々革新的なことをやっていたと知った。『ぼのぼの』は日常系のハシリらしい。
ガンスリンガーガールの評論を読んでいると「萌え」って結構参加型の能動的な欲望だったんだなと思う。性癖をぶつけたもの勝ちというか。最近はもう少し静かに感動を反芻する感じ。
悲劇と死を用いた物語が手っ取り早く感情移入できるのはいつも変わらない。
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15年ぶりの再読。
マンガ表現を「キャラとキャラクター」「コマ割り」「フレーム」の概念で紐解く。
ここ10年、熱心なマンガ読者ではないので、現在のマンガの表現手法がどのように変遷してきてるのかは分からない。でも「コマ割り」「フレーム」については、より新しい工夫がなされているのでしょうね。何せスマホで読む読者’が増えているわけだから。