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著者単独の書籍は2冊目。資本主義と株式会社の
終焉を唱えて、今後の成長しない世界にどのように
経済を考えるか。グローバリズムではなく半径1キロ
以内の経済。収奪システム・貨幣経済ではなく
贈与経済にというテーマ性。
少し夢見がちなテーマかと思っていましたが。
もしかしたら本当にこういうことを目指すことに
なるかも知れないと思うこのごろです。
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14/09/22。
14/11/03読了。実家で母と一緒に寝泊まりした朝に。
家族制度と株式会社の有り様の相似という考え方には目からウロコ。グローバリズムといえども、欧米の家族制度から来ていると考えれば、これもまた、株式会社の多様性の一つの形に過ぎない。
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大量生産、大量消費社会についてはすでに多くの人が疑問をもっている。自分もそう感じている1人ではあるが、そうしたものを生み出していた。
人は欲をもっていて、それは好奇心であり、尽きることはない。
競争戦略、経済成長、集団的自衛権など、これからもそうした成長戦略のために前に突き進むのだろう。
その一方で、シェアハウスやNPOなど共生していく生活が広がりつつある。
リアリティのない成長戦略より生き延びるために。著書にはそうした若者が増えていると分析した上でこう語っている。
「やむなく始めた生き延びる戦略の中に、定常経済への萌芽的な形態が生まれるように思います。」
これからも目の前のことに疑問を持ちつつも、未来は明るいと信じて、正しい決断をしていきたい。
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20141023 定常経済という考え方には共感できた。便利をどこまで追うかなのだと思うがそろそろ必要最低限がのぞまれる時代なのではないだろうか。
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一貫してグローバリズムと新自由主義経済の問題点を暴き続ける平川克美さんの新書。そもそも資本主義とは?株式会社とは?貨幣とは?といった経済の基本に立ち戻ってその問題点を探っていくと、その歪みが現代に至って大きく現出してきたことが分かる。アベノミクスという怪しげな造語に踊る日本はいったいどこへ向かうのか。小さな路地裏経済の再生を通じて新しい資本主義のあり方を提案する。
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以前に紹介した『消費をやめる』『小商いのすすめ』と同じ著者です。内容的にはどれもほとんど同じですが、本書は資本主義とは何か?に特に特化して書かれているように思います。
昭和を生きた著者は路地裏のあった生活になじみがあります。カネがあれば何でも買える、そこには人の顔がなくても商売が成り立つような金融資本主義はなく、ただ小さなつながりの中で、でもそれぞれが顔を持ち、貧乏だけれど幸せだった時代の肌身に感じる生活感を、資本主義にスポットを当てて書かれたエッセイです。
産業革命以降、設備が大型化、複雑化したことでたくさんのお金がないと会社を建てることができなくなり、そこで株式という仕組みができました。株を買うということは、その会社が今後成長していくであろうということを見越しているので、経済成長がバックグランドになっていますが、もはや市場が成熟した今、経済成長は見込めなくなってきており、この仕組みそのものが成立しなくなってきている。
そこで発展途上国に目を向けるわけですが、ここもやがて同じように成熟すると、成長は見込めなくなる。
要はこんなことを繰り返して何がしたいのか?
と問題提起しています。
無理やり経済成長のネタを見つけてあたかも成長しているということを繕っても、それが続かないということはリーマンショックが示しています。低所得者にまで家を買わせて、回収の当てのない債権を、他のものと混ぜて分かりにくくして売らなければならないような、詐欺まがいのことまでしてしか経済成長を作り出せないこと自体がおかしいという指摘は、納得。
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家制度と経済システムの合致はとても面白かった。エマニュエル・トッドも名前は知っていても中身まではなかなか、、
1960年頃の日本はそれはそれは面白い時代だったのだろう。なぜなら現システムのまさに理想型だったのだから。あの時代を経験してきた人々が、あの輝きをもう一度!と泥沼に嵌まっているのがいるのが今なんだろう。リーダーが悪いのではなくそもそもシステムの限界なのである、ということ。
ノマド志向、高等遊民、シェアハウス
スローワーク、非正規雇用の拡大、、、これらのことからも個としての感覚と全体=国としての感覚がずれていて、そのずれが積み上がっているのが今なんだろう。
ただ、変わるには一度壊れなきゃいけない。壊れる前に変わるのは現実問題として難しい。壊れるときに少くとも自分の手の届く範囲は守れるように備えておきたい
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経済に関する本だと思うだろう普通。
冒頭はそうなんだけれど、どんどん広がっていってしまって、フリートークの感じに…。
本筋と全然関係無いけど、著者のお母さんの話が出てきて、それを読んで、亡くなった祖母の想いを垣間見た気が。
全く関係ない本で、全然関係ないことに思い至る。これも本読みの奥深さかも知れない。
それがあったから、星一ツプラス。
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社会に関心が出始めたころにはもうこんなふうな社会になっていた。でも、平川さんみたいに、一貫していまの社会が進んでいる方向に「やさしく」疑問を呈してくれるひとがいるのは、ほんとうに心強い。過激じゃないところも、また好きやねんな。
字が小さくて中身はたっぷりあるように見えるけど、それでも読むのがぜんぜん苦ではない。
「自分が何を断念できたのか」、これはいつも心にとどめておきたい、まさに箴言でした。
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貨幣への憧れ、という話が面白い。
価値をまず、利用価値と交換価値で二分すると、人間は利用価値の極、交換価値はない。一方、貨幣は交換価値の極であり、利用価値はない。このように、価値という点で全く逆の機能を持つ貨幣に人間はどうしても魅せられてしまう。というもの。
あとは、エマニュエル・トッドの家族と制度の相関も面白かった。
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貨幣には視聴価値はありません。ただ交換価値の担い手として、印刷所を経由して登場してきた商品というわけです。別の言い方をするなら、労働を媒介としない商品が貨幣なのです。
自分が何を得たかということよりは、自分が何を断念できたかということの中に自分へのリスペクトは生まれます。
マルセル・モースの贈与論
何かを贈られた当事者は、相手に返礼するのではなく、それを第三者にパスしなければならない。
贈られたものを退蔵すれば、災忌があり、場合によっては死がもたらされる。
貨幣は商品の交換を、場所や時間の制約から解放し、交換の量を一気に促進させるために存在しているのです。人間が発明したもののうち、最も劇的に人間の生活を変えた道具である貨幣は、同時に人間の欲望を喚起し、人間を狂わせたり、闘争の原因をつくったりもしてきました。
そもそも、日教組の運動が教室での教師の質を低下させたとか、あるいはゆとり教育が子供達から競争力を奪ってきたという考え方には妥当性があるのでしょうか。
生きるということは、時間の中に自分を投ずることです。そして、わたくしは、それは将来の自分というものに対して、自分を投棄し続けてるということ、言い換えるなら、絶えず何かを贈与し続けるということではないか。
投棄=贈与している何かとは、若さそのものです。
浦島伝説からひとつの教訓
時間を忘れたものは時間によって報復されるという、時の摂理である
エマニュエル・トッドの世界の多様性
日本の伝統的な家族形態は、権威主義的直系家族
世界で観察される家族形態は、親子関係(自由か権威主義的か)、兄弟関係(平等か不平等か)の二軸によるマトリクスでおおまかに4通りに分類することができます。
イデオロギーはひとつのフィクションです。しかし、そのフィクションに基づいて作り上げられたと信じられていた現実の社会形態は、家族形態が社会化したものに過ぎなかったということ。
家族システムの歴史は人類史と同じだけ古い「生物学的」な生存戦略であったかもしれない。
もしグローバリズムがこのままのスピードで進展していけば、やがて国家という枠組み自体が存続できなくなります。
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自分が幹だと思っているものは、実は枝でしかないのかもしれない。
エマニュエル・トッドの著作は是非読んでみたいと思う。
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途中で断念していたのだが、あらためて挑戦し読了。
今の資本主義社会は終焉を迎えている。
資本主義の象徴である「株式会社」が右肩上がりの成長を前提とした仕組みだが、成熟したリアルな社会ではそれはもう成し得ない。
したがって、主にバーチャルな世界で金を増殖していく(金で金を増やす)ことで、見せかけの成長を作り出そうとしている。
そんな破綻寸前(実際に以前に破綻しかけたが)で大量生産、大量廃棄を前提としたモデルではなく、身の丈にあった経済モデル(経済の定常状態)を個人個人で見出す。
「あなたたちは、どこへ行こうとしているのですか」
この文言は胸に刺さりました。
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人間の欲望というものは、強弱や濃淡はあっても、誰にでも同じように潜んでいるものです。人間が社会生活を、営むことができるのは、この欲望を騙し騙し使うということを覚えたからではないでしょうか。規矩とは、己の内部の正義や倫理の名前ではなく、己の欲望に対して自らその使用を禁じるということに他なりません。
なぜ、それを禁じるのか。おそらくは、自分で自分をリスペクトしたいという、次元の異なる欲望があるからです。自分が何を得たかということよりは、自分が何を断念できたかということの中に自分へのリスペクトは生まれます。断念によってしか獲得できない境地、というものがあるということです。
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<目次>
はじめに
第1章 資本主義のまぼろし
第2章 路地裏の資本主義
第3章 国見国家の終わりと、株式会社の終わり
第4章 ”猫町”から見た資本主義
第5章 銭湯は日本経済を癒せるか
<内容>
著者の言っていることは一貫している。資本主義は終わりを迎えている。それは、金を増やすことに特化して生まれた株式会社が、地球のなかではもはや限界を迎えているからだ。それは、国民国家の終わりでもある。今後は身の回りでカツカツでいいので、「小商い」をしていくことだ。地域のなかで、人もカネも変わっていくような形が、成長の終わった「成熟社会」に必要なことなのだ。
横須賀市立図書館