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文献を当たり、丁寧に調べた結果を書籍にする。
こうした書物はやはり面白い。
久しぶりに知的好奇心を満足させてもらった。
いくつか参考文献で気になるものがあるので、図書館で探すか、購入したいと考えている(笑)
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<目次>
第1章 霊魂とは何か
第2章 怨霊の誕生
第3章 善神へと転化した菅原道真
第4章 関東で猛威をふるう平将門
第5章 日本史上最大の怨霊・崇徳院
第6章 怨霊から霊魂文化へ
<内容>
怨霊の日本史について、菅原道真・平将門・崇徳院を取り上げている。読みやすいのでスイスイと読めるが、中身が薄い気がする。道真も将門も怖さを感じないし、「最大の」名うたれた崇徳院も、怖さの微塵もない。それは著者の筆致によるものだろう。
怨霊は、政変や戦乱がきっかけと著者はいい、江戸時代はそうしたものは少なかったので、怨霊文化は衰退し、明治以降は「怨親平等」の思想が広まり、明治期まで続くという。この辺りは、納得半ばというところか。
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日本で怨霊と呼ばれた人物たちのうち、特に菅原道真・平将門、崇徳院に絞って解説が加えられている。それぞれの人物がいかなる災厄をもたらし、いかに恐れられたかが、当時の史料などから克明に再現されている。それと同時に、文学作品や芸能などで徐々に形成されていく彼らのイメージに焦点が当てられており、歴史上の人物像と怨霊としてのイメージが乖離していくさまも分かる。
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心が奪われると魂が身体から抜け出していくのと同様に、くしゃみという生理現象によっても魂が抜けだしてしまうと考えられていた。
遺体自体に霊魂が宿るとする考えもあったが、遺体が埋葬されたところに植えられた樹木に霊魂が憑依するとする考え方もあった。
古代から中世においては、天皇から庶民にいたるまで、怨霊は実在すると恐れられていた。
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山田氏の本といえば、崇徳院怨霊の研究を思い出す。
怨霊とは何なのかという部分から始まり、いわゆる「三大怨霊」=菅原道真・平将門・崇徳院についてそれぞれ当時~近代まで語られてます。
怨霊って何ぞ?と思ったら読むのに良いと思う。
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日本の怨霊という概念がいかにして生まれ、歴史や文化にどんな影響を与えたのか。
はじめ中世の死生観、死後の世界観を紐解き、怨霊という概念の位置付けを明らかにする。そして、日本の三大怨霊とともいうべき菅原道真、平将門、崇徳院のそれぞれについて、その失意の死の経緯からそれが怨霊として認識される過程、そして後世への影響をたどる。最後に三大怨霊以外の怨霊や近世・近代の怨霊観を概観する。
怨霊というキー概念を設定し、そこからみた中世史という切り口は面白いし、広範な資料を提示した力作だとは思う。ただ、あまりにも資料の羅列感が強くて、そこから何が読み取れるのかという考察が薄い。だから、例えば菅原道真らがなぜ怨霊となったのか、あるいは怨霊として人々に認識されるに至ったのかという肝心なところも、失意のうちに亡くなったからという当たり前のところ以上には深掘りされていない。政変で失脚し悲惨な最期となった人々は多くいて、それらと道真らを分かつものはなんだったのか。当時の社会情勢や人々の心性のなにが彼らを怨念にしたてあげたのか。その辺りをもっと考察してくれたなら、より面白くなったはず。
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菅原道真、平将門、崇徳院の3人の怨霊を中心に怨霊の影響や歴史的事実、どのように怨霊が形作られたかを叙述する。怨霊とそれをなだめる仏教の関係、怨親平等と禅宗、時宗の関係などは面白い。怨霊という言葉は早良親王からだが、怨みをもって死んだ霊は祟るというのはかなり遡れると思う。長屋王はもちろん、大津皇子、有間皇子、山背大兄王なども似た認識だったと思う。だとすると日本人の死生観に根差す概念が鎮魂の歌から仏教概念に裏付けされた律令制国家になると仏教による回心、贈位によるなだめなど、社会的制度的に整備されていったということではないか。
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現代人は平素は意識していないが、実は根底にある死生観等を再認識出来た。
資料の列記ということはあるが、中世の意識が良く分かって、とても興味深い。
菅原道真・平将門・崇徳院が三大怨霊と言われて、鎮魂がなされてきたが、何故、恐怖に陥れたのかについても、深掘りしていれば、もっと面白いものになったのでは?と感じた。
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菅原道真・平将門・崇徳院を日本三大怨霊として解説した本なんだけど…。
編年体と紀伝体が入り混じっていて読みにくいし、断定的な結論をバンバン出してくるわりには、理由として提示している資料が少なかったり偏見に満ちていたりして説得力がない。
特に宗教に関することばの定義があいまいで、本のなかで整合性が取れていないように思える記述も多々ありました。
つっこみどころ満載で、大学の教授が書いた本とは思えない。
崇徳院さんについては多少読むべきところがあったけれど、それ以外についてはかなりヒドイ。
新書の書き方に慣れていないのかもしれませんが、あえて読むなら崇徳院さんのところだけで十分だと思います。
興味深いタイトルだったのに、かなり残念な1冊でした。
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副題のうちの前二者は怨霊の認識があったが、崇徳院を怨霊というイメージは無かった。『「超常現象」を本気で科学する』読了後に本書を手にとったのは、その所見を基に本書を読んだら面白かろうという意図による。道真と将門は生年が重なる部分があり、道真の怨霊による災異を知っていたのではないかと思うと興味深い。古代皇族の権力争いから悲運の天皇となった崇徳院は、祟り神にさせられた感がある。『本気で科学する』に書かれたユング提唱のシンクロニシティ=意味ある偶然の一致が、怨霊による怪異を理解するうえで参考になるのではないか。
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確かに怨霊ネタって、学校では習わないなあ…。しかし、将門首塚跡地って、逓信省やら大蔵省やらが事故死だ落雷だにビビって逃げ出したの、江戸や明治時代の話じゃないのね。昭和年間になってからなんだってよ。でもって、神田明神の氏子の皆さん、今でも将門調伏を担った成田山新勝寺には参拝してはいけないとされてるとか。ちょっとビックリよ。
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三大怨霊の菅原道真、平将門、崇徳院の話題を期待して読み始めたが、なんとなくぼんやりとした印象しか残らなかった。
第一章の霊魂とは何か、第二章の怨霊の誕生の部分が面白かった。
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菅原道真・平将門・崇徳院のそれぞれがいかに怨霊と人々に認識されるようになったか、怨霊としての在り方の変化がわかる。そして時代が下るにつれて人を神として奉る方式が変化し、怨霊から一般への幽霊へ、怨親平等という概念が出来るに至る。
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歴史学者 山田雄司氏による日本三大怨霊として有名な菅原道真、平将門、崇徳院を通して「怨霊」として恐れられ、「鎮魂」され、神となるまでの過程を通して日本人の霊魂に対する考え方を概観した新書。「戦闘でなくなった後には敵も味方もなく成仏するよう祈願する」、日本独自の「怨親平等」という考え方は、これからの時代を生きていく上で重要かもしれないと感じました。「怨霊システム」の形成により、一方の考え方へ傾かないように注意をするためのバランサーとしての役目も担っていたというのは面白い。
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日本三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳院である。このうちの道真と崇徳院の二人が讃岐国の林田と縁がある。道真は讃岐守になり、林田湊で庶民の生活を見て漢詩を作った。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に流されて林田郷で生活した。平将門は林田と無縁であるが、将門と同時期に反乱を起こした藤原純友が讃岐国府を攻撃した。讃岐国府の海の入口が林田湊であり、林田湊が先ず攻撃された。
道真や将門と比べると崇徳院の怨霊は皇国史観に利用された要素が強い。保元の乱から武士の世になり、天皇の政治的実権が失われた理由を崇徳院の怨霊とする説が明治時代に出た。
むしろ同時代人には承久の乱に敗北して隠岐島に流された後鳥羽院の怨霊の方が印象深い。三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊の祟りとする説が出た。逆に言えば後鳥羽院の怨霊イメージが崇徳院の怨霊イメージに転化した面がある。
それならば皇国史観の立場ならば鎌倉幕府と戦って敗れた後鳥羽院の無念こそ怨霊として重視しそうなものである。しかし、北畠親房『神皇正統記』など朝廷側の歴史観でも承久の乱を後鳥羽院の挙兵自体が失敗と見ており、評価が低い。
後鳥羽院は自身への権力集中を目指しており、公家の多くも後鳥羽院に冷ややかであった。逆に言えば鎌倉幕府が承久の乱に完全勝利したのに朝廷解体とならなかった理由は朝廷側が一丸となって幕府追討を目指した訳ではなかったためである。平家滅亡時は寺社勢力も平家に反発していた。これに対して後鳥羽上皇は寺社の権益も抑制しており、承久の乱の寺社勢力は後鳥羽院と距離を置いていた。
日本の怨霊信仰は虐めた側が自分達の保身のために虐めた相手を怨霊として勝手に祀るものである。鎌倉武士達が後鳥羽院の怨霊の祟りを恐れることは正しい。しかし、公家達にとっては自分達も後鳥羽院の専制の被害者意識を持っており、怨霊として恐れる理由はない。この点は崇徳院とは異なる。
また、後鳥羽院は敗北時の振る舞いが無責任であった。上皇方の武士の山田重忠らが最後の一戦をしようと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて「武士達が勝手に挙兵し、自分の責任ではない」と言い放った。保身第一の無能公務員体質丸出しである。山田重忠は「大臆病の君に騙られた」と激怒した。
この無責任さは後白河法皇と重なる。後白河法皇は源義経に源頼朝追討の院宣を出しながら、義経が敗北すると取り消した。頼朝は後白河法皇の無責任さに対して日本一の大天狗とは誰のことかと憤慨した。後白河法皇の場合は腹黒さ、老獪さを評価することもできるが、後鳥羽院の場合はただただ無責任である。
後白河法皇は、まだ頼朝と政治的駆け引きが成立していた。頼朝は「日本一の大天狗」と激怒したが、逆に言えば後白河法皇を実力で排除できず、罵ることしかできなかった。義経は頼朝への謀反に失敗し、そのまま奥州平泉に落ち延びたと描かれることが多いが、すぐに平泉に行った訳ではなく、しばらく畿内に潜伏していた。
義経の謀反は文治元年(一一八五年)であり、平泉に身を寄せたことが確認できるのは文治三年(一一八七年)である。���の間、義経が畿内に潜伏できた背景には反頼朝の公家や寺社勢力の援助があった。その背後に後白河法皇がいたことは容易に想像できることであり、頼朝も強く疑っていた。この後白河法皇に比べると後鳥羽院は自分の権力基盤になる武士達を切り捨てており、保身第一の無能公務員体質が濃厚である。
怨霊として祀る目的は最終的には神として味方にするという現世の人に都合の良い考えがある。とはいえ後鳥羽院は神としてあがめたいとも思わない。このような事情から皇国史観では後鳥羽院よりも崇徳院が怨霊として利用された。
承久の乱では後鳥羽院ら三人の上皇が流罪になった。厳密には土御門上皇は自主的な配流である。これは前代未聞のことである。そもそも天皇の地位にあった人物を流罪にすることがタブーである。保元の乱では、そのタブーを破って四百年ぶりに崇徳院を讃岐国に流罪にした。崇徳院の先例があるから、承久の乱も上皇の流罪になった。崇徳院の祟りを想起したくなり、この点でも崇徳院が怨霊として重視される。