紙の本
犬への愛を通して人間の日常が絶妙に切り取られる
2015/08/29 10:27
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投稿者:紗螺 - この投稿者のレビュー一覧を見る
近所の犬を観察し、あわよくば散歩の途中で接触をはかり、名前を聞き…動物を飼う環境にない作者が、涙ぐましい努力をして近所の犬と交流を計る。そんな日々をつづった一冊で、とても楽しかった。
作者は、普段は見知らぬ人に声をかけるのは苦手な性格なのだが、それでも犬のために一所懸命声をかけにいくのがほほえましい。犬の飼い主や大家さんなど、人間の特徴を生き生きと描いているのもいい。特に、黒ラブのラニとその飼い主の江戸っ子調おじいさんがよかった。おじいさんは決して愛想がいいわけではないけど、何となく味のある返しをする。わざとらしくない日常がありありと透ける描き方が印象的。
もちろん、犬のかわいらしさもばっちり伝わってくる。笑ったのは、作者自身にとっての犬のかわいさ度を「カブ」という単位で表しているところ。嫌いな犬にはマイナス90カブをつけるくらいなのだが、だからといってそれは決めつけではなく、あくまで人間の持つ感情の表れとしてコミカルに描かれているところに好感が持てる。
紙の本
『昭和の犬』は何故あんなに泣けない萌えない犬モノになったのか?
2015/08/10 12:30
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投稿者:arima0831 - この投稿者のレビュー一覧を見る
同作家の『昭和の犬』という本を読んで、まず実に驚いたのが、あまりに淡々とした筆致。犬猫ものでここまで泣きも萌えも入らない話を書けるって、むしろ究極の技ではないだろうか、と。関わりあう犬たちに向ける強い愛情は感じられるのだが、どうもなんだかあまりに抑えた感じで、そこがミョーに引っかかっていた。だから本書に手が伸びた。
さて、また同著者の犬ものである。
なんでも本書は作家のリアルな「犬ライフ」を反映しているという。
なぜ『昭和の犬』は、あんな泣けない萌えない犬話になったのか?
それは、作者があまりに激しい犬狂いだったから、という真実が、ここでは臆面もなく語られる。
本書のエピソードはすべて、作家の「近所の犬ストーカー生活」なのだ。
作者は犬狂いなのだが犬が飼えない環境。だから近所を散歩する犬をこまめにチェックし、仲良くできる犬の目星を付けては飼い主とうまく仲良くなれるように努力し、場合によっては散歩のタイミングで電話をもらえるように頼み込む。ワンコと仲良くするために、スッピン・ボロ服・無香料な生活形態となる。なるほど、平素そこまで思い詰めているからこそ、逆に「犬小説」を書くと極力できる限りダダ漏れする愛情噴射を抑え込んでしまうことになるわけだ。ううむ。
だから『昭和の犬』は、あんなそっけない小説群になってしまったのだが、しかし脈々と滾り立つマグマのごとき犬愛が抑え込めない。それがエッセイ集という形で一気に逆噴射してくるのが本書、てことらしい。わかりやすい。いや、勝手な解釈にすぎないのではあるが。
とにかく圧倒的な「犬愛」を思うさま噴出し、近所の犬を追いまくる犬ストーカー生活。その姿はなんだか共感できるし面白い。
かなりベタではあるが、仲良くなった犬たちの姿は、なんとも実にかわいらしいのでもある。
萌え満載。で、泣きはなし。だから安心して読んでいい。
まずはワタシにとっては「あの本の謎解き」としてなかなか面白く読めた。
犬好き必読、かも?
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第150回直木賞受賞後第一作。
近所の犬+α9匹との触れあいを連作形式で語ります。
序章「はじめに」で、前作『昭和の犬』を「自伝的要素の強い小説」、比して本作を「私小説」と案内しています。
ライトノベルとして気軽に読めます。
僕は、あまり「私小説」と言うことにはこだわらず、「主人公の人物設定を著者のプロフィールに似せた、女性が一人称で語る小説」として読みました。語られるのはタイトルの通り、近所の犬。住宅、そのほかの事情で犬を飼うことが出来ない主人公は、近所で見かけた犬と出会うことを愉しみにしています。子供が近所の犬に餌をあげたり、勝手に名前を付けて飼っている気分に浸るようなやりかたではありません。散歩をさせている大人と、散歩している犬をじっくり観察し、礼儀正しく承諾を得てから戯れる、ごく大人のやり方で近所の犬に接します。
僕は、友人が嬉しそうに語るのを聴くように、気軽に読みました。
「へぇ、近所の犬と接するのが楽しみなんだ。」
と。
が、しかし。
読み終えると、僕は不思議な幸福感に包まれていました。主人公が、近所の犬と戯れる充実した時間を、僕も追体験しているかのような幸福感です。
僕は、とりたてて犬を好む者ではありません。とりたてて嫌うものでもありません。犬をちゃんと飼う事の効用(生活が規則正しくなるとか、精神が安定するなどの効用)は認識していますが、僕自身は、強いて飼いたいとも思いません。つまり、主人公の趣味は、僕の趣味ではありません。
だけど、主人公が犬と過ごす時間の幸福感だけは、共有したように感じました。
と、言うわけで、僕の趣味(読書感想文を書く)に移る段になって、とても困りました。
「なんと述べたら良いのやら。」
読み終えて二ヶ月以上経った、本日。ようやく思い至りました。
この小説は、幸福論になっているのではなかろうか。と。
幸福論と言えば、アラン
第四七節の「アリストテレス」で書かれている「自分から作り出した幸福」の一つの具体例として、この小説は成立している。
と思い当たりました。
「借飼」が困難な趣味であることは、想像に難くありません。その困難さは、ある意味自分で犬を飼う以上と思われます。
もちろん、犬をちゃんと飼うのも、手間暇、時間やお金もかかり大変だと思います。でも、それに輪を掛けて、借飼も大変だと思うのです。そもそも「借飼」自体本書で著者が造語する必要があるくらいですから、周囲にお手本とする人がいません。試行錯誤を繰り返しながら、自分で手法を編み出し、手腕を磨かねばなりません。飼い主に迷惑を掛けず、近所に不審者と認識されないよう気を配りながら、飼っているわけでもない犬と仲良くなり、戯れる。とても難しそうです。
犬を飼う人の気持ちを理解するために、ちゃんと犬を飼うと言うことがどんなことか、の知識も必要です。この趣味を実践している主人公は、もちろん飼育の知識も持ち合わせています。おそらく、犬を飼ったら、容易く躾ける事ができ、その気になれば芸を身に付けさせ、愉快に散歩のお伴をさせることができるだろう、と��えるほどの知識です。
もちろん、失敗もあります。作中では、一旦仲良くなった犬に忘れられる、と言うショッキングなエピソードも挟まってます。
「なにを、そこまでして。」
と思います。
でも、努力の成果が実り、飼い主の信頼を得て、散歩の方角と時間の連絡を貰えるようになったり、あるいは、見当を付けて出かけた先でもくろみどおり、お目当ての犬に出会って戯れる様子を読むと、その充実した時間を過ごす主人公が、なんとも羨ましい幸福の中の人であることと思うのです。
アランの幸福論では、「砂糖菓子は甘い。口に含んで溶けるのに任せれば、少しの間楽しめる。」と砂糖菓子を引き合いに出し、これと「幸福」が同じと勘違いをして、失敗するケースを指摘しています。
現代に置き換えて言えば、「TV番組はおもしろい。リモコンを操作して、眺めていれば、見ている間は、笑える。」と言うところでしょうか。でも、テレビの中に僕の幸せは、たぶん、ありません。
幸福は、自らの意志で取り組み、ある程度苦労を伴いながら達成したところにある、とアランは教えています。
例えば、好きな子がカードゲームのカード収集を趣味にしていたとします。彼に気に入ってもらおうと、お小遣いを貯め、レア・カードのセットを買い、プレゼントしました。でも、彼にはまったく喜んでもらえなかった。と言うような、子供の頃の失敗談を持っている人も多いのではないかと思います。
カード収集は、苦労して自分で集めるから楽しいのであって、たとえ欲しがっていたレア・カードでも、お店で買ったものをプレゼントされても、全く嬉しくないものです。
もっとも、フィクションの世界では、嬉しくないプレゼントをもらった男の子が、嬉しくないにもかかわらず、相手の気持ちを察して、優しく微笑みながら、さも嬉しそうに「ありがとう」と言います。これは、おそらく罠です。そんな気の効いた男の子を望んでいる限り、自分には幸福が巡って来ません。
このような幸福論を思い出すと、「近所の犬」の主人公が、あえて困難な「借飼」を趣味にしている事の意味がわかったように思います。ほとんど不可能に思える趣味を、失敗を交えながら取り組むところに幸せがあると。
そして、主人公が見事にお気に入りの犬に出会い、戯れる事ができると、読んでいる僕も嬉しくなったワケです。
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直木賞作「昭和の犬」とリンクした私小説。著者がいかに犬好きかが伝わってくるお話に癒されます。そして「ひと呼んでミツコ」や「ツ・イ・ラ・ク」の著者がこんな内容の私小説を描かれるとは何か感慨深い気持ちになったり。個人的には「リアル・シンデレラ」で直木賞を取って欲しかった。
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シャアの話がセツナイ。ワタシも、小さい頃の生活環境を書き残したくなってきた。昭和の犬から繋がる。主人公は、心身ともにどこか満たされない日々を送っているが、街で出くわす犬とのコミュニケーションで、パッと幸せな時間がやってくる。読み手のこちらも、嬉しい気分にさせられる。
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昭和の犬が面白かったから、出てすぐ読んでみた。
はじめに、でわかったのは、昭和の犬の主人公が姫野さんご自身を軸にして書いた自伝的小説ということ。
そして、この近所の犬は姫野さんの私小説。より事実要素が多い、のだそうです。
まず、そのことに驚いたわたしです。あの気を使う幼少期、変わったお父さんとお母さん、、、
踏まえての犬見(姫野さんの造語・飼える環境にない為近所の犬を愛でる)の10章です。表現が大好き。面白くて面白くて。なのに、唐突に涙ぐんでしまう。そして泣き笑い。
ラニとロボの人懐こさも良かったですが、シャア、グレースとミー、の章は特に好きです。幼少期の刻まれた記憶はいつまでも濃く蘇る。読み返し
温かな気持ちにずーっと浸っていました。
オール讀物、2014年3月臨時増刊号をなんとかしつた見たいです!
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近所で会う犬、猫の話。
動物の種類や名前が書いてあるので、動物というより近所の人々について書かれているみたい。
ペットから飼い主さんのことが垣間見えるのがおもしろい。
それにしても、犬も猫も大好きなのね。
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『昭和の犬』しかり、ただでさえ犬好きな私は
こういう作品を読むとますます犬が
可愛く思えてしょうがない。
あとネコの「シャア」との別れが切なすぎる。
姫野さんの自分に対しての
過小評価ぶりも共感できてしまうし
ずっと読んでいたい心地よさ。
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自分の飼い犬ではない散歩の途中で出会う犬との出会い、気づき、そして愛の交歓。
カオルコさんの筆のタッチ好きです。
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私は犬や猫がそれほど得意では無いけれど、作者のオルタナ感がとても好き。自己肯定感の低めの私は、作者のつぶやきがツボにはまる所、多数あり。これを読んで、人生肯定出来る人、いる。
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朝鮮の異常性が未だに気付いていない(理解出来ていない)人が読むべき、一冊である。今まで読んだ保守派の著者による書籍で一番辛口でそして、わかりやすく書いてある。朴クネ大統領の異常性は朝鮮人特有の国民性であり、彼女の発言の一つ一つが巨大なブーメランとなり、刺さっているので笑える。朝鮮人の醜態をほくそ笑みながら読むあたり、私自身もかなり歪んでいる自覚はある。日本に対する愚行の数々。ヘイトだのなんだの、喚いている朝鮮人と在日が1番ヘイト発言をしているあたりも笑える。
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読みながら、何度声を出して笑ったことか。
姫野カオルコと同年代でよかった。
タミーちゃん持ってたし。
犬好きで柴犬を飼っている私としては、シバが70カブというのが何よりうれしい。
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「はじめに」で著者は、「自伝的要素の強い小説」と「私小説」の違いを、事実の占める度合いとカメラ(視点)の位置によるものと述べている。
▼「私小説」のほうが、事実度が大きく、カメラ位置も語り手の目に固定されている。よって読み手にすれば、「私小説」は随筆[エッセイ]を読むスタンスでページを進めてゆける。(p.9)
この『近所の犬』は、こう書いている「はじめに」も含めて「私小説」である、という。この小説は、著者の借飼[しゃくし]、つまりは自分では飼うことのできない犬や猫を見て、飼い主の了解を得て触わって…という話をあれこれ書いたようなものだった。エッセイのようだと言えばそうも言える。
私はところどころで、ぐっはっはと笑いながら読んだ。とくに、直木賞をとったあとの話はおもしろかった。
章の扉には、その章で主に語られる犬(もしくは猫)と同種の犬のイラストが入っていて、その犬(もしくは猫)の名が書かれている。黒ラブラドール・レトリバーが描かれた章は、「うニ」
「う」がひらがなで、「ニ」がカタカナとは、変わった名の犬よのう~と思ったら、それは「ラニ」だった。(同居人に扉を示して、どう読めるか尋ねてみたら、私と同じく「うニ」と言うのだった。)
▼…小さいころに本人が望まぬレッスンや教育をほどこされた、という人が時々いる。私の場合は、小さいころに、「自分を嫌いなさい」というレッスンをほどこされた。
両親は大正生まれであった。大正時代は、自分を嫌うこと、自分の欠点だけを見つめることがマナーだったのだろうか。両親には両親の信念があったのだろうが、このレッスンがプラスに働いているようには、どうも私には思われない。(p.235)
この箇所は、自伝的要素の強い小説である『昭和の犬』をちょっと思い出すものがあった。※
「私」は、犬をよくよく見て、できることなら触りたいために、飼い主に声をかけ、まず犬の名を尋ね、触ってよいかと訊いて了解が得られた場合になでなでとする。「私」に話しかけられる側の飼い主の心情を慮る場面で、著者はこんなことを書いたりもする。
▼若くない女は商品価値がない。これが世の中の事実だ。しかし言っておく。金のない男は商品価値がない。これも事実だ。で、かかる世の海を漕ぎゆくうち、「商品価値」と「己にとっての価値」とのちがいがわかることが、大人になる楽しさである。(pp.216-217、【】は本文では傍点)
最新号の『考える人』(特集:家族ってなんだ?)に載っていた平松洋子の連載で「栃尾のあぶらげ」がとりあげられていて、そのウマそうな写真を堪能したあとだったので、著者が「本棚は栃尾のあぶらあげの色のような色をしている」(p.99)と色の喩えに使っているところが印象に残るのだった。
犬の毛色の喩えも、凝ってるなーと思った。
(1/12了)
※『昭和の犬』のことは、「乱読大魔王日記」のラスト1つ前、We187号で書いた。
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久々に読んだ姫野カオルコ。変わってなかった。誤魔化しのない性格が好きだ。
犬だって、中型犬以上が好きで、キャンキャン鳴く小型犬は好きじゃないとはっきり書く。でも仲良くなればOKというあたり、同意。「犬」というタイトルは、『昭和の犬』の作家というイメージで売るために、出版社側の意向があったと思うが、猫も2匹入っているのが嬉しい。(また、その猫が、とてもいい猫なんだ。特にシャア。泣けるほど。)
それにしても、おしゃれというものを頑なに拒否し(わかっていないわけではないから、したくないのだと思う)、エステはおろか化粧すらしていない(だろう)姫野さんは、年齢の割にとても肌が美しく、きれいだと思うのは私だけだろうか?
彼女の本を読んでいると、幼いころから自己を否定され続けたので、そういうこと(自分を美しく見せようと努力すること)から離れたのだろうと察するけれども、案外あんまり手をかけずにいても、きれいでいられるのだなと思う。人間50を過ぎれば、その人の精神性というものが顔に現れるからかもしれない。
そんな美しい精神を持った姫野さんがよくわかる、爽やかな本だった。(もちろん、文章がとてもいいからです。)
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犬を飼えない著者が、近所の犬たちとの交流を綴る。たまに猫も。
わかる。
近所の動物に片思いする気持ちが私にもよくわかる。
激しくうなずいたり、膝をたたいたりしながら読んだ。