投稿元:
レビューを見る
誰もが子どもの頃に一度は読んだことのある伝記を日本に置き換えて語りなおした「奇跡の人」
時代や背景が変わっても、「言葉」という概念を人が手に入れる瞬間の感動は一ミリも変わらない。
何も見えない何も聞こえない暗闇の中で生きてきた「ヒト以前の生き物」が言葉を手に入れ「人」になる、それを感動という言葉でしか語れない自分の薄さを思う。
自分の子供が、初めて意味のある言葉を発した瞬間のあの全身を貫くほどの喜びを思い出した。
投稿元:
レビューを見る
原田マハ版『ヘレン・ケラー物語』。…とはいえ、実は本物の『ヘレン・ケラー』は読んでいなくて、『ガラスの仮面』で知っているストーリーしか知らないんだけど(^_^;)
弱視のハンディを持ちながら米国に学んだ安が出会った、三重苦の少女れん。けもののように扱われ、世界を知らず生きてきたれんが、言葉を知り、人としての喜びを知るようになっていく。
舞台が日本に置き換えられた翻案と一味違うのは、れんの成長を、同じ年頃の初めての友人として導いた、やはり盲目の少女キワの存在。
経済的に恵まれた家庭に生まれた安やれんと違い、肉親もなく、三味線で身をたてる社会的弱者であるキワが、いじらしく、清らかな事!
お互いに盲目でありながら心を通わせる、ふたりの純真の美しさ!
伝説の津軽三味線奏者、人間国宝に会いに行く…という冒頭の読み始めは、てっきりキワの話かと思っていたので、ありゃ?(^_^;)
ラストの、成長したふたりの再会に、思いを伝えられる喜びに、またぐっとくる。
れんの許を去ったキワの、三味線奏者としての成長物語が読みたいです、原田さん。
投稿元:
レビューを見る
大好きな作家さんの一人ですが。
『翔ぶ少女』と同じように変な名前とおもったら
読んでいくと、ヘレンケラー・アンサリバンの奇跡の人
とほぼ同じ内容。去場安と介良れんって!!
奇跡の人が日本人であったならというシミュレーション
的な内容なのだと思いますが。少し食傷気味。
内容的には感動する話ではあるし、盲目の少女との
交流やオリジナルになない、日本の風習や習慣も
盛り込まれていますが。オリジナルとの差異に
関しても少し説明不足というか消化不良感があるきが
します。
投稿元:
レビューを見る
サリバン先生が、去場(サリバ)安(アン)
ヘレン・ケラーが、介良(ケラ)れん
これは違ってもいいんじゃないかと思ったんだけど
内容は、文句なくおもしろかったです
安先生の覚悟と勇気
れんや、れんの家族の苦悩
人の弱さと強さ
たくさんのものが凝縮された本でした
投稿元:
レビューを見る
ヘレンケラーの日本人バージョンのような内容でした。
あっという間に読んでしまいました。途中でもっと読みたいと思ったのですが、あと少ししか残っていませんでした。
もう少しれんの成長ぶりや安先生の日本国への影響などが知りたかったのですが、マハさんはこれでいいと思われて書かれたのでしょうから、マハさんの伝えたいこと
は書かれているということだと思いました。
日本では障害者に対して、ひどい態度をする人は少ないと思いますが、外国では露骨に意地悪をされるのでしょうか。安先生が留学したときにいじめを受けていたことが書かれているので、ふと疑問に思いました。
マハさんが今この本を書かれた理由があるのでしょうね。いつも深く考えさせてくださいます。
投稿元:
レビューを見る
出たー!w 去場安と介良れんって!www
よく考えますね~。でも、わざわざそんな名前にしなくてもいいのに?w
端折った感がありますけど、よかったですよ。
わかってるのに、うるっときちゃいます。
投稿元:
レビューを見る
冒頭───
その町のいっさいの色を奪って、雪が降っていた。
一両きりのディーゼルカーの箱から降り立った場所は、駅のホームに違いなかっただろう。けれど、革靴の底が踏んだのは、コンクリートではなく、経験したこともない深い雪だった。ホームはすっかり雪に覆い尽くされて、周囲には雪の壁ができている。小さな駅舎にたどり着くまでのわずか数メートルの間、柴田雅晴は、何度も転びそうになって足を踏ん張るはめになった。
「だめだなあ、柴田さん。長靴を履いてきたほうがいいって、あれほど言ったじゃないですか。格好をつけて、革靴で来るんだもの。霞が関への通勤とは、わけが違うんですよ」
慣れた足取りで一足先に金木駅舎に入った小野村寿夫は、得意そうに足踏みをし、ゴム長靴のかかとをきゅっきゅっといわせた。柴田は、参った参った、と苦笑しながら、英国製のウールのコートに降り積もった雪をはたいて落とした。
──────
ヘレン・ケラーの伝記は、おそらく日本中の多くの子供が読んだことのある物語だろう。
僕も子供の頃、間違いなく読んだはずだ。
だけれど、それほど深くは内容を覚えていない。
眼が見えず、耳が聞こえず、口がきけない三重苦の少女をサリバン先生がどんな方法で立ち直らせたのか、その細かなところの記憶がない。
読み終えた後は感動したような気もするが、それも定かではない。
この作品は、それを日本風に置き換えて、小説として完成させたものだ。
少女の家庭教師としてやって来たアメリカ帰りの去場安(サリバン)。
三重苦を背負った少女、介良れん(ヘレン・ケラー)。
この二人の闘いの物語だ。
これを読んで、あらためて“奇跡の人”の素晴らしさを思い起こすことができた。
けものの子として扱われていた少女を、必死の思いでまともな未来のある人間に育てようとする安先生。
そこには、幾度も挫折しそうになりながらも決してくじけることのない安の断固とした固い決意と意志があった。
“彼女だって人間なのだから”という信念のもとに。
安の固い信念が、れんに人間らしい心を植え付け、変化をもたらしていく。
人としての習慣を身に付け、表現する方法を覚え、言葉という概念を理解し、一歩ずつ成長していくれん。
苦難の壁に何度も跳ね返されながら、そこに至るまでひたすら立ち向かう安とれんの姿に、読みながら、何度も何度も涙が零れた。
そんなれんに初めての友だちができる。
盲目の旅芸人一団で三味線を弾く少女キワ。
その唯一の友だちとの出会い、そして別れ。
出会えたときはどれほどうれしく、別れるときはどんなに切なかったことだろう。
ここでも涙があふれ出た。
最後の最後まで、一文字たりとも疎かに読むのを許されないような、そんな緊張感にあふれた感動作。
原田マハさんの素晴らしさをあらためて感じることのできる傑作です。
かつて「ヘレン・ケラー物語」を読んだことのある人も、読んでいない人も、人間であるならこの作品は心に響いてくるはず。
今年一番のお薦め作品です。
それにしても、時���も環境も劇的に変わってしまい難しいのだろうが、今この時代にサリバン先生のような本当の情熱を持った教師がたくさんいれば、世の中も良い方向に変わっていくのだろうな、とふと思った。
投稿元:
レビューを見る
ヘレン・ケラーとアン・サリバンを明治時代の日本に置き換えた物語。安先生の“授業”が始まってからは、読む手が止まりませんでした。古河太四郎が京都盲唖院を設立したのが1878年(本文でもp282で少し触れられています)、安とれんの出会いが1887年。ひらがな対応の指文字が考案されるのはまだ先のことなので、どうなることかと思っていたら、安先生のアメリカ帰りという設定を活かしてみごとにクリアされていました。もう少し先まで授業の様子が見たかったー。
投稿元:
レビューを見る
原田マハさんのツイッターに「ヘレン・ケラーと彼女の教師、アン・サリバンが、もしも日本人だったら・・・というアイデアから、この物語が始まりました」とあった。
大好きなマハさんだけど、反発を受けること覚悟で、私見。
誰もが知っているであろうヘレン・ケラーのお話を、日本人に仕立て、名前まで似せたフィクション。介良れんがヘレン・ケラーの二番煎じにしか映らないし、あまり好みじゃない。
「ノンフィクション・伝記など、史実に基づいたものは出来るだけ確かなことを知りたいし、フィクションは想像力を広げて楽しみたい」と思う私にとって、何か釈然としないし、もの足りない。
投稿元:
レビューを見る
原田マハ版「ヘレン=ケラー」。
目が見えず、耳が聞こえず、口がきけない、三重苦の少女と、教育係としてやってきた先生との交流と云うかむしろ、闘いの日々を描いています。
名前がもう、去場安(さりば あん)に、介良(けら)れん、ですから。
安が、当時ではとても珍しい帰国子女ということ、女子教育が全く理解されない日本社会での困惑と失望、彼女自身も弱視ということ。
同じく盲目の旅芸人「ボサマ」で、天才的な三味線を弾く少女。
れんの家族や女中の関係性。
などなど、物語には日本ならではの奥行きがあります。
東北の遅い春の風景が、行ったことないけど感じられるようでした。
子ども相手に日々イライラしてしまう自分を顧みて、もっと人としての可能性を信じて諦めず向き合わないとね...と思った次第であります。
投稿元:
レビューを見る
時は明治。北海道を舞台にした、原田マハ版・ヘレンケラーの物語。
登場人物は著者らしい遊び心を感じる名前。去場安(さりばあん=サリバン先生)、介良れん(けられん=ヘレンケラー)。
何も聞こえない無音の闇の中に、閉じ込められるようにして育ったれん。その彼女の固く閉ざされた扉を開けた、安。
自分を信じ、何より一人の少女の可能性を信じ、そこに希望を見出した。
めげそうになっても根気強くれんと向き合い、彼女の魂に寄り添おうとする。
そんな安に尊敬の念を抱かずにはいられない。
聡明で機転が利いて(ウグイス作戦はさすがの一言)、信念を曲げる事のない、安の強さに感服。
三重苦を持って生まれた当の本人の苦労は計り知れないけど、その彼女を「けものの子」から「人間」へと引っ張りあげる為に血のにじむような努力を重ねた安は、どんなに大変だったか。
へレンケラーの物語といえば、彼女自身ばかりクローズアップされるけど、彼女が一人の女性として自立し生きていく事が出来たのは、サリバン先生の尽力があってこそ。
ただ二人の半生を語るにはページ数が少ないし、キワの存在が物語の軸をぶれさせてる気がするのが少し残念。
遠い昔にヘレンケラーの物語を読んだきりで、実際の二人にどれだけ忠実なのかはわからないけど(とはいえ期待していた「water」の名場面もちゃんと再現)。
本当に凄い人達だと思う。安やれんをはじめ、サリバン先生とへレンケラーにも敬意。
「ひとつひとつに、名前がある。
それらのものを、かたちづくりたもうたのは、神だ。そして、名前を与えたのは、人間なのだ。
私は、そんなあたりまえのことを―あたりまえの奇跡を、教えたい。
れん。あなたに。」
投稿元:
レビューを見る
ヘレン・ケラーのリメイクですが、さすがマハさん、心情や背景描写がうまく、感動場面が多々ありました。明治時代の津軽という舞台設定もおもしろい。社会的な側面も、いろいろと頭をよぎりました。そして、れんの自立を献身的に支える安。教育者として一本芯の通った安の考え方、熱い思いには感心させられました。単に小説としておもしろいだけでなく、ビジネスマンとして考えさせられる、そんな一冊です。
投稿元:
レビューを見る
帯のあらすじを読んで
同名の名作をモチーフに描いたのかと思ったら
ほぼそのまま、舞台を明治日本に置き換えただけ。
そうと知ってて読めばもっと面白がれただろうけど
知らずに読んだのでとまどった。
サリバアンがサリバン、レン・カイラがヘレン・ケラーってもじりに気付くのが遅かったのが敗因か。
勿論同じ盲目の少女との友情など違ったエピソードもいくつかあり
やはりそこが一番胸に沁みたし
もっとそこを読みたかったし
晩年も描いてほしかった。
なぜそこまで再会できなかったのかが気になる。
【図書館・初読・12/4読了】
投稿元:
レビューを見る
冒頭、人間国宝にきたか、がまずひとつ。そしてこの女性(キワさん)が主人公というわけではなさそうなこと、がもう一段期待を上げた。
ただ、その後すぐに嫌な予感。奇跡の人ときて、去場安(さりば・あん)と介良れん(けら・れん)。「旅屋おかえり」か「まぐだら屋のマリア」のレビューにも書いた気がするけど、どうしてこれをやるんだろう?単に著者の好み?編集者の意見?それとも実はもっと深い意味があってのことなのか...いろいろ想像してしまうくらい理由を知りたい。なぜなら、少なくとも私にとってはこの名前のこじつけはとても滑稽で、一気に気持ちが萎えてしまうから。特に本作は、最近たまたま岩倉使節団の女子留学生について読んだか見たかしたこともあり、興味を引かれたもののこれで躓いた。そしてずっと躓いたままだった。奇跡の人という大きな作品をモチーフ(と言っていい範疇なのかはわからないけど)にするのはいい。でも名前までは...結局読んでいる間中その違和感が離れないのがとても残念。内容的にも、もっと深いものが書けそうなのに、もっと深い描写で、もっと...と、不完全燃焼気味。
投稿元:
レビューを見る
ヘレン・ケラーのリメイクを、こんなふうにやってのけるのか、とあえて☆5つ。この人のネーミングは今に始まった事じゃないので、そこで☆を減らしてもしょうがないから(笑)私は楽しんでいます。
時代はヘレン・ケラーの時代に設定。明治時代の、しかも青森という封建的な制度が色濃く残る場所、中央政府への進出を謀る名家を舞台に選びました。
そこからの描写は、マハさんのオリジナルといっていいと思います。そして、なにより素晴らしいのはキワとれんとの友情です。お互いが高め合っていく描写はぐいぐい引きこまれて読みました。キワのその後がもっと知りたかったです。
「奇跡の人」というのは、三重苦を克服したヘレン・ケラーと勘違いされる事が多いけれど、じつは教育したアン・サリバン先生のことを言っているのですね。そのことが冒頭でわかるようになっているのも細かい心配りだと思いました。