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自伝というよりも回想エッセイと表現した方が合うような気がする。
決して長いものではない。他のUブックスと比べても薄く、文章の量は少ない。事実、この厚みにするために組版をかなり変えている。
しかし読者の心を動かすのに長さはまったく関係がない。
当時の社会情勢や辛い記憶を書くのではなく、抑えた筆致で書かれるテクストは、感情的でない分、逆に読む者を揺さぶるのではないか。
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アゴタ・クリストフの小説を前にするとわたしは、この凡庸な日本に生まれ日本で何不自由なく生きてきたわたしは、とても恐ろしくなるのだ。小説が持つ、あまりの大きな力に、身体がすくむのだ。なぜなんだろう、とよく考えた。アゴタ・クリストフのなにがわたしをそんなに締め付けるのだろう、と。
しかし自伝を読んでやはりとおもった。やはりそうなのだ。人生の闇を、人が自分の力ではどうにもならない巨大なものに押しつぶされる瞬間を、その身で直に体験したのだった。アイデンティティーを捨て、言葉を捨て、国籍を捨て、家族を捨て、残ったもので必死に、ほんとうに必死に書かれた小説だったのだ。こういうものを読むときは、読む方であるわたしも、心をきちんとしなければならない。究極の表現に対峙するときには、敬意と真摯さを。
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アゴタクリストフの散文的な自伝。
母語を捨て、母国を捨てて、「文盲」とならざるえなかった彼女が見いだした救いは書くこと。
こうして「悪童日記」はうまれる。
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その言葉を使うことで己の母語が殺されるのをわかっていながら、それでも物語を紡ごうとすること。亡命作家であるアゴタ・クリストフの作品から漏れ聴こえる引き裂かれた悲鳴は歴史の慟哭であり、そうした母殺しの必然性を背負った故の声なき叫び声でもある。それでも、彼女は読むことの、書くことの喜びを捨て去らなかった。諦めなかった。だからこそそれは今も多くの人を夢中にする。簡潔な言葉で語られる半生の記録は透き通った湖に沈殿する澱のような、美しさに相反する不穏さが見え隠れしている。それは一つの悲劇であり、一筋の希望でもある。
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精神的自伝。
難民、移民の孤独がどういうものか、特に母語との関連で深く考えさせられ胸に迫る。何度も読みたい。
自分の身近な問題にどうしてもひきつけてしまう。在日一世の歩んだ道や、日本語と朝鮮語への思い。また、全体主義社会から自由主義の社会への越境という意味で、脱北者たちのことも。
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小説を漠然と読んでいるときには気づかなかったけど、ことばが鍵だったのか。
母国から逃げて、言語も含む多くを失い、残ったもので刻んだのがあの小説。
片言のことばに片言の生活。ことばは彼女の生そのものだったから、この体験を母国語で書くことはできなかったのだろうか。
ことばを刻みつける行為自体と小説を関連付けて考えることが初めての経験だったので、面白かった。
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2016.01.03
面白かったけど読んだ達成感がないので3。
悪童日記未読にして自伝から読んだのは反則?ハンガリー動乱も知らなかった。ヨーロッパの難民は今に始まったことではないんだね。難民となることは、例え生活が豊かになったとしても、人生に大きなしこりを残すということか。
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“執拗な努力”という言葉が一番インパクトがあった。母語ではない言葉で物を書き、表現する。並大抵の努力ではないのだろうけど、それを弛まぬ努力ではなく執拗と表現するところに力を感じた。
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「悪童日記」三部作の作家の自伝。三部作の源泉が自らの体験に基づいていることがよく分かる。言葉が世界を作る、という考え方があるが、ならば母国語を喪失することは世界を奪われたことになろう。殊に病的に読み、悲しみの捌け口を書くことに求めた著者にとっては。それでも立ち上がる挑戦者の姿が本書にある。根っからの悪戯好きな姿も。もし、世界が彼女の望む姿だったなら、彼女の姿はかなり性悪さが際立って映ったかもしれない(笑)
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「悪童日記」三部作を読んで、絶対に読みたいと思っていた自伝。アゴタ・クリストフの亡命の背景、母語でない言語で文章を書くことについて、かなり俯瞰して書かれているのが好感ある。
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クリストフによって語られる言葉一つ一つは、サラッとしてるけど、胸に痛切に迫ってくる。彼女が体験した苦しみ、読書と創作の楽しみ、彼女の鋭い洞察力、強い感受性などがリズム良く描き出されている。折々に、彼女の持って生まれた能力の高さ、彼女の魅力を感じさせるシーンもあり、悪童日記のもとになった要素も知ることができる。
自己陶酔の気配が微塵も感じられず、ただ、その時代に生まれたある人間の話として淡々と語るのが、クリストフらしいと思った。
自分の中の母語をじわじわと殺していくフランス語は、自分にとって敵語。フランス語を自分で選んだのではなく、運命と成り行きが私にフランス語を課した。
この部分の記述が印象的であった。新しい言語の獲得が必ずしもよいこととは言えない、それを、はっきりと、敵語とまで言い切っているのを見て、ハッとさせられた。
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本屋に行ったら「越境」文学フェアの棚ができていて、温又柔などおなじみの本とならんで置かれていたので、そういえば読んでないと思ってつい買ってきた一冊。
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筆者のアゴタ・クリストフはハンガリー出身の女性作家。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」という有名な三部作を書いている。本書はアゴタ・クリストフの自伝。
ハンガリーの首都ブダペストには一度だけ行ったことがある。冬の一人旅で、雪も降っていて観光には不向きな時期ではあったが、それでもブダペストはきれいな街だなと思った。地下鉄を使って街を歩いたが、訪れた中でハンガリーの共産党支配時代の記録を残している博物館が非常に印象に残っている。何という博物館か忘れていたので、ネットで調べたら「恐怖の館」という名前の場所であった。
第二次大戦後、東欧の国々は実質的にソ連の支配下の中で共産主義化した。ハンガリーもそれらの国の一つであった。その体制は要するに一党独裁体制であり、当時のハンガリーはそこまでひどくはなかったかも知れないが、現在の北朝鮮と本質的には同じである。共産党支配のもと、国家がすべてをコントロールし、それに逆らうことは許されないというか、それは死を意味した時代である。私がブダペストを訪れたのは、ソ連崩壊後、すなわち、ハンガリーの共産党支配時代が終わってから随分と経ってからであり、「恐怖の館」は、共産党支配下の悪夢の時代を記録し、二度とそういうことがないようにするために建てられた博物館であると理解した。
1956年にハンガリー動乱と呼ばれる事件が起きた。ウィキの説明ではハンガリー動乱とは、「1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起を差す」とされている。ハンガリー市民数千人が亡くなり、過程で25万人の難民が国外に亡命することになった。本書にも書かれているが、アゴタ・クリストフも、ハンガリーから国境を越えてオーストリアに逃げた難民の一人である。アゴタ・クリストフ21歳の時の話。夫と生後数か月の赤ん坊での亡命であった。
この時、ヨーロッパの各国がハンガリー難民の受け入れを行い、アゴタ・クリストフは、スイスのチューリッヒ難民センターで受け入れられた後、スイス内の別の都市に家族で送られ、アパートと仕事を提供された。それは、はたから見れば、ソ連の軍事侵攻が進む危険で貧しい生活を強いられた祖国から、安全で物質的に豊かな場所への移住であったが、アガタ・クリストフは、そこでの生活を、「砂漠での生活」と記述する。味気無さ、空虚さ、ホームシック、家族や友人と会えない淋しさの中での変化のない、驚きのない、希望のない生活と記述している。
日常の生活の中で、あるいは努力をして彼女は徐々にフランス語を覚えていくが、ある日、自分が「文盲」であることに気がつく。少しは話せるが、フランス語を読めないし書けないのだ。そして26歳の時にフランス語の読み方を学ぶために大学の夏期講座で学び始める。フランス語で読書が出来るという体験は彼女にとってかけがえのないものであったが、やがて、彼女はフランス語で「書く」ことに移っていく。ものを読まざるを得なかったと同じく、何かを書かずにはいられなかったのである。最初に戯曲を書き、その後、小説を書き、1986年に「悪童日記」が出版される。ハンガリー動乱の年から30年が経過していた。
本書は100ページ程度の短い自伝であり、また、アゴタ・クリストフは、抑制の効いた文章で、ある意味淡々と自らの経験を振り返っているが、内容は衝撃を受けざるを得ないものである。
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ブルータスの村上春樹特集でのおすすめ。新宿の紀伊国屋書店で購入。母語ではない言葉で執筆するようになった(執筆せざるを得なかった)筆者の半生が、シンプルな言葉で綴られている。
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寄宿舎で読むものがなくなって自分で書いたものを読む。
読んでばかりの子ども。読むことに後ろめたさを覚える。
母語で育ち、ドイツ語、ロシア語を押しつけられ、21歳でスイスへ亡命。
フランス語の習得に励む。読むことへの挑戦。
飾らず気取らず、そのままありのまま、自分の望むことを懸命に生きた。
亡命生活、子どもをあやしてもらう。ポケットにお金を滑り込ませてくれる。
亡命の先にあるものは決して安穏とした楽なものではない。
文量は多くないけれど、とても読み応えがあった。