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年末に関ヶ原の戦いに関する本を読んでいたところ、本屋さんでこの本を見つけて並行して読み進めました。
徳川家康が死んだのは、私が学校で習ったのは、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後ということになっていますが、この本では、それよりも以前に死亡しているという説として3つ取り上げたうえで、著者なりの結論(関ヶ原の戦い時に死亡)を出しています。
個人的には、徳川家康がどの時点で亡くなっていようとも、彼のようなカリスマな存在がなくとも成り立つシステムを作り上げたという点は素晴らしいと思います。
また、この本で初めて知りましたが、豊臣家を滅ぼした家康は、駿府に貿易を中心とした独立国のようなものを作り上げようとしていたことを知って驚きました。家康が亡くなった後に、それは消滅してしまったことも謎ですね。
本当に家康が生きていたならば、彼が目指していたことを否定するのもおかしな話ですから。このように歴史には謎があるようで、これらについて考察した本を読むのも私の楽しみです。
以下は気になったポイントです。
・関ヶ原の戦い直前に、徳川家康は何者かによって殺され、非業の最期を遂げた(第二の説)と考えられる(p12)
・一つ目の説は、桶狭間の戦いの後、三つめの説は、大坂夏の陣の最中に後藤又兵衛の槍に疲れて命を落としたというもの(p21)
・二代続けて非業の死を遂げた三河の松平家は、今川家の保護領になり下がり、領地からあがる年貢もことごとく今川家に取り上げられる有様であった(p28)
・16世紀の日本の人口は1.5-1.8千万人であろう、当時のフランスが1.6、スペインが7百万人、イギリスは4.5百万人、アメリカの大地には百万人程度(p35)
・家康は天下統一までに5つの大きな合戦を経験している、姉川の戦い(1570)、三方ケ原の戦い(1572)、長篠の戦い(1575)、小牧長久手の戦い(1584)、関ヶ原の戦い(1600)である(p41)
・桶狭間の戦い当時に、信長が信頼をおけるのは、親衛隊といえる、馬回り衆、前田利家や佐々成政たちの近衆、小姓たちの、わずか800騎であった(p57)
・明治17年に華族令が発布されている、士分でもなかった、伊藤博文や山形有朋にも爵位が授けられた(p78)
・徳川実紀に書かれている内容で、使い番が家康に切られたのではなく、使い番に扮した忍びの者が家康を刺して、逃げようとしたところを家康の影武者が斬ったと思われる(p99)
・種子島氏は、鉄砲二挺を2000両で購入したが、その70年後には2両で買うことができるまでに大量生産できた(p123)
・徳川方に味方していた堺の街が、大坂夏の陣では大坂方によって焼き討ちされるという事件が起きている、これにより堺は壊滅し、その後、徳川家が復興に手を貸したが栄華を取り戻せなかった(p142)
・家康の側室は、訳ありの年増好きとして知られていたが、関ヶ原の戦いを境に変わり、若い女性(お万、お梅、お六、お奈津の4人)を側室としている。(p159)
・二代目家康の都は、経済的に��江戸幕府から独立していた、幕府直轄領の年貢は江戸に納めるのが決まりであったが、6か国(山城、大和、丹波、近江、美濃、伊勢)を駿府、尾張・遠江・駿河の年貢は、9男・10男に納めさせた、伏見城の金銀は駿府へ移している(p162)
・二代目家康と二代将軍秀忠は、目指した国家像が異なる。家康はさらなるイノベーションを目指して駿府王国を打ち出した、秀忠はイノベーションを否定した幕府統制経済であった(p168)
・鉄砲伝来から10年で鉄砲大量生産に成功、2百万の武士団を目のあたりにして、スペイン・ポルトガルは日本への武力侵略を断念して、キリスト布教と貿易によって巨万の富を得る方向へ舵を切った(p206)
2014年12月31日作成