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小学生高学年のころから学校の図書館にない本が充実していた市立図書館には入り浸りでした。そこで出会った 新渡戸稲造全集 全23巻+別巻2(12~16巻あたりはたしか英語の論文でしたが和訳してあったか、読んだかどうかも定かでありません)は、たしかに読んでいたはずでしたが、情けないことにそれほど熱心に読んでいなかったせいか、武士道=旧態依然とした反動的思想みたいな思い込みで、とんでもない恥ずかしい書物というイメージしか持っていませんでした。
今回たまたま偶然、書棚にあるこの本を手にとってちらっと読んでみると、愕然としてしまいました。
まったく思っていた印象とは違う内容の、恥ずべき駄本などとは金輪際 口が裂けても言えないすばらしい内容なのでした。
もちろん時代の制約というか、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」などのなかには現代からすればナンセンス極まりない内容も含まれていますが、あの時代にあって、たとえば私たちが誤解して認識させられている吉田松陰や福沢諭吉のような排外主義・侵略主義とは縁遠い、平和と博愛と友愛に満ちたその思想性に感動します。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「戦闘は攻撃的であれ防御的なものにせよ、野蛮であり不正である」
「国際間の平和を確立しようとするならば、まずもって各国人が互いに理解し合い、相互にその長所を認めて尊敬する必要がある」
「全人類が兄弟となり、戦争が人類を引き裂くことのない、未来を私は夢見る」
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この『武士道』は、1900(明治33)年の著者38歳のときの著作です。
『新渡戸稲造―世界平和につくした教育者 (学習漫画 世界の伝記) 』(集英社 1990年)という一冊も、ほかに2、3冊の伝記も読んでいたはずなのに、私の新渡戸稲造に対する読解は見事に無残な恥ずかしいものでした。多いに反省しています。
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武士は江戸時代でも少数で7%という情報がある。この極小数の階級の思想がその後、日本人の基盤となったのだろうか?この本にはそのように著され、うなずける部分もあるが、多少疑問に感じる部分もある。
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新渡戸氏が渡米後、日本は宗教がないのにどうやって道徳教育をしているのかに答えるべく英語で書いた書の邦訳。欧米の文化を正としつつ日本にもこのような価値観がありますよというような表現が目につく。氏はキリスト教徒でありまた原著が書かれた時期は1900年と明治の半ばも過ぎた頃。プロパガンダとして書かれたものが邦訳された後別のプロパガンダに利用されたということか。
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お茶を点てたこともないのに茶道を語るが如く、現代人が刀も触ったこと無いのに武士道を自分の軸に置くのはおこがましい気がする。
私は生得観念を否定しているから、武士道の精神が脈々と受け継がれてるとか言われてもよくわからん。
その上で言うが「義」は超重要な精神の中核であり、義を持たない人とともに仕事はできない。義務ではなく「義」であり、それは受け取った贈与であり、返すのではなく名も知らぬ誰かに渡すべきものである。
うーん、若者に何かを託したくなるようになったのは年老いたからか。